第6話
五月の第二週、三枝が休んだ。
珍しいことだった。三枝は入社五年間、病欠をしたことがほとんどない。連絡は朝のうちにメールで来た。体調不良で申し訳ありません、明日には出社します、と。
香織はその日、校閲部で一人で仕事をした。
いつもより静かだった。三枝がいるときと、いないときでは、部屋の空気が違う。人間一人の存在が、空間に与える影響は、思ったより大きい。
三十年間、この部屋でいろんな人間と仕事をしてきた。先輩が定年になり、同僚が異動になり、後輩が入ってきて、また異動になった。その中で、香織だけがずっとここにいた。
三枝は、この五年間で最も長く一緒にいた後輩だ。
それを、改めて思った。
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昼過ぎ、三枝からメッセージが来た。
*すみません、熱が下がらなくて。明日も休むかもしれません。*
香織は返信した。
*無理しないでください。仕事は大丈夫です。*
送信してから、もう少し言葉を足すべきだったかと思った。
しかし何を足すべきか、すぐには分からなかった。
しばらく考えてから、もう一度メッセージを送った。
*大石さんに、心配しないよう伝えておいてください。*
三枝から、すぐに返信が来た。
*なんで大石が出てくるんですか笑 でもありがとうございます。*
スマートフォンを置きながら、香織は少し笑った。
笑うことが、自然になっていた。
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翌日、三枝は出社してきた。
顔色がまだ完全ではなかったが、「大丈夫です」と言って席に座った。
「無理しなくていいですよ」
「いえ、家にいると逆に考えすぎてしまって」
「何を考えすぎるんですか」
三枝は少し躊躇ってから言った。
「水無月さんの本のこととか、村上さんのこととか」
「私のこと?」
「村上さん、定年まであと何ヶ月ですか」
香織は少し考えた。
「一年を切りました。十ヶ月くらいです」
「十ヶ月」三枝は繰り返した。「そんなに近いんですね」
「そうですね」
「村上さんが定年になったら、この部署、どうなるんだろうって——熱があって頭がぼうっとしてる中で、なんかそれが気になって」
香織は三枝を見た。
「どうなると思いますか」
「私が一番古株になります。四月に新人が入ってきたから、その子に教えながら——でも村上さんほどの経験は、私にはまだないし」
「十分にあります」
「そんなことないです」
「三枝さんは、言葉に対して誠実です。それが一番大事なことです。技術は、積み重ねれば身につく」
三枝はしばらく香織を見ていた。
「村上さん、定年後はどうするつもりですか」
馬渕にも聞かれた問いだった。
「まだ決めていません。ただ——何かしらの形で、続けると思います」
「校閲を、ですか」
「おそらく」
三枝は少し安心したような顔をした。
「それなら、困ったとき相談してもいいですか」
「いつでも」
「約束ですよ」
「約束します」
三枝は頷いて、自分の仕事に向かった。
その横顔を見ながら、香織は思った。
この子は、良い校閲者になる。
言葉に対して誠実な人間は、時間をかけて確実に育つ。
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その週の後半、馬渕から連絡が来た。
内容は、版元の担当者との顔合わせに、香織も来てほしい、というものだった。
*今回の本は、弊社単独の刊行ではなく、外部の版元と共同で進める予定です。その版元の編集長が、校閲を担当した方に直接会いたいと言っています。*
共同刊行。
香織は少し驚いた。
馬渕が外部の版元を巻き込んだということは、この本をより広く届けるための判断だ。自社だけで刊行するより、流通が広がる。書店に並ぶ数が増える。
桐嶋への対策でもある、と香織は思った。
単独の出版社より、複数の会社が関わった方が、外部からの圧力に対して強い。桐嶋一人が動いても、複数の会社の判断を覆すことは難しい。
馬渕は、慎重に動いていた。
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顔合わせは、翌週の月曜日に設定された。
会場は、外部の版元の会議室だ。会社から徒歩十分ほどの場所にある、中堅の文芸専門出版社だった。
香織は馬渕と一緒に向かった。
道すがら、馬渕が言った。
「先方の編集長、桑田という人物です。六十近い、ベテランだ。水無月の名前を知っていた。『夜の棚卸し』を読んでいた」
「そうですか」
「今回の企画を持ちかけたとき、二つ返事で了承してくれた。あの作家の二作目と遺稿が出るなら、関わりたいと言ってくれた」
「水無月先生を、評価していたんですね」
「業界の中には、ちゃんと覚えていた人間がいた。俺が知らなかっただけで」
馬渕の声に、苦みがあった。
しかしそれは、自責ではなく、事実の確認として聞こえた。
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版元の会議室に入ると、桑田という編集長が待っていた。
六十前後、白髪交じりの頭髪を後ろに撫でつけた、背の高い男性だ。眼鏡をかけていて、目が鋭い。しかし口元は穏やかだった。
「村上さんですか。お話は馬渕さんから伺っています」
「初めまして。村上香織です」
「この本の校閲を担当されたと。どんな原稿でしたか、一言で」
デザイナーにも同じことを聞かれた、と香織は思った。
しかし今回は、違う一言が浮かんだ。
「三十年間待っていた言葉が、ようやく届こうとしている原稿です」
桑田は少し目を細めた。
「良い表現ですね」
「原稿から教わりました」
「原稿から教わる校閲者」桑田は馬渕を見た。「珍しい」
「珍しくないと思います」香織は静かに言った。「言葉を正しく読もうとすれば、言葉から何かを受け取ることは、自然なことです」
桑田はしばらく香織を見てから、「なるほど」と言った。
「今回の件、全体的な経緯を馬渕さんから伺いました。正直に言うと、こういう本が出ることは、業界にとっても意義があると思っています」
「どういう意味ですか」
「著者の言葉が、出版社の事情で二十九年間出なかった。それが、こういう形で明らかになることは——出版という仕事の透明性について、業界全体で考えるきっかけになる」
馬渕は静かに聞いていた。
「あとがきに、馬渕さんが経緯を書かれると聞いています。それを読んで、業界の人間も、一般の読者も、何かを考えるはずです。それが、文芸出版の意義だと私は思っています」
桑田の言葉は、明快だった。
理想論ではなく、仕事人としての確信から来ている言葉だと、香織は感じた。
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打ち合わせは二時間ほど続いた。
刊行時期、印刷部数、書店への展開方法。それぞれについて、馬渕と桑田が話し合った。香織は途中から、ほとんど聞く側に回った。
しかし最後に、桑田が香織に向かって言った。
「一つだけお聞きしてもいいですか」
「はい」
「この本の校閲を引き受けて、後悔はありましたか」
後悔。
香織は少し考えた。
「ありませんでした」
「困難はありましたか」
「ありました。いくつか」
「それでも、後悔はなかった」
「はい」
「なぜですか」
香織はしばらく考えた。
「言葉の骨を見つける仕事をしてきました。三十年間。今回は、その骨が、三十年分の時間を越えて、まだそこにありました。腐っていなかった。そのことが——この仕事をしてきた意味を、改めて教えてくれた気がします」
桑田は黙って聞いていた。
「後悔するより、確認できたことの方が大きかったです」
「確認できたこと」
「言葉は、時間に耐える。本物の言葉は、腐らない。それを、体で確認できた」
桑田は少し間を置いてから言った。
「その言葉を、どこかに書き留めておいてください」
「どこかに、というのは」
「いつかあなたが後進に伝えるとき、その言葉が必要になる気がします」
香織は桑田を見た。
初めて会った人間に言われた言葉だったが、的外れには聞こえなかった。
「考えてみます」
桑田は頷いた。
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帰り道、馬渕と並んで歩きながら、香織は桑田の言葉を反芻した。
いつかあなたが後進に伝えるとき。
後進に伝える。
定年後の自分が、何をするかを、まだ決めていない。しかし今日、一つの方向が見えた気がした。
フリーランスとして校閲を続けることかもしれない。あるいは、誰かに教えることかもしれない。
どちらにせよ、言葉に関わることを続ける。
それだけは、決まった気がした。
「桑田さん、良い人ですね」
香織が言うと、馬渕が少し驚いたように見た。
「村上さんが人の評価をするのは、珍しい」
「そうですか」
「普段は、言わない」
「今日は言いたかったから、言いました」
馬渕は少し口元を動かした。
「変わりましたね、村上さん」
「変わりましたか」
「少し。良い方向に」
香織は答えなかった。
しかし否定もしなかった。
五月の風が、二人の間を通り抜けた。
温かかった。




