第5話
五月になった。
街路樹の葉が、四月より濃くなっていた。青々とした緑が、朝の光を受けて輝いている。校閲部の窓から見える景色が、先月とは違う色になっていた。
香織は出社してすぐ、新しい案件の原稿に向かった。
歴史小説の校閲は、まだ続いている。六百枚の原稿を、丁寧に読み進めている。時代考証の確認が多く、参考文献と照らし合わせる作業に時間がかかった。しかし、仕事の性質としては、香織の得意な領域だ。
事実を一つずつ確認する。それだけだ。
水無月の原稿を担当していた頃の、あの緊張とは違う種類の集中だった。あの緊張が悪かったわけではない。しかし通常の仕事の中に戻ると、その違いが分かる。
水無月の案件は、特別だった。
三十年に一度あるかどうかの、特別な仕事だった。
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五月の第一週の終わりに、馬渕から連絡が来た。
今度は、メールではなく電話だった。
「少し話せるか」
「はい」
「今夜、時間はあるか。会社の近くで食事でも」
馬渕に食事に誘われたのは、初めてだった。三十年近く同じ会社にいて、一度もなかった。
香織は一瞬迷ったが、「はい」と答えた。
「七時に、南口の前で。俺が店を決めておく」
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七時に南口に行くと、馬渕がすでに来ていた。
普段のスーツではなく、カジュアルなジャケットを着ていた。それだけで、少し違う人間に見えた。
「お待たせしました」
「いや、俺も今来たところだ」
馬渕が案内したのは、駅から三分ほどの小さな和食の店だった。カウンターが中心で、奥に個室が二つある。静かな店だった。
個室に通された。
向かい合って座り、料理を頼んでから、馬渕が言った。
「改まった話があるわけではない。ただ——一度、こういう場で話しておきたかった」
「どういう意味ですか」
「社内で話すことと、社外で話すことは、違う。会議室で話すことと、こういう場で話すことも、違う」
それは確かだった。場所が変われば、言葉の種類が変わる。
「何を話したいんですか」
馬渕はビールを一口飲んでから、言った。
「礼を言いたかった」
「礼は、もう何度か言っていただいています」
「それとは別の礼だ」
香織は黙って続きを待った。
「俺は三十年間、藤堂のことを忘れなかった。それだけは本当だ。しかし忘れないことと、何かをすることは、全く別の話だ。俺は忘れなかったが、何もしなかった。それが三十年続いた」
「はい」
「あなたが来なければ、そのまま終わっていた。水無月の遺稿が届いても、俺は刊行を躊躇い続けて、最終的に出さなかったかもしれない。桐嶋からの連絡があれば、なおさら」
馬渕は香織を見た。
「あなたが、動かした」
「私は校閲者として、仕事をしただけです」
「そう言うだろうと思っていた」馬渕は少し口元を動かした。「しかしそれは、謙遜でも否定でもなく、本当のことだろう」
「はい」
「校閲者が仕事をした結果、俺は動いた。藤堂の兄が来た。里緒さんが父の言葉の刊行を喜んだ。桐嶋を退けることができた。その全部が、校閲者の仕事から始まった」
馬渕は再びビールを飲んだ。
「言葉を正しく読むことが、これだけのことを動かす。俺は三十五年この業界にいて、今更そのことを、改めて教わった気がしている」
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料理が来た。
二人で黙って食べた。
会話のない時間が、不快ではなかった。三十年近く同じ会社にいた人間と、初めて食事をしているのに、沈黙が苦にならなかった。
それは、この一ヶ月で積み重ねた時間のせいかもしれない、と香織は思った。
会議室で、廊下で、短いメールで——何度も言葉を交わした。その積み重ねが、沈黙を許容するものにしていた。
食事が半分ほど進んだ頃、馬渕が言った。
「村上さん、定年後はどうするつもりだ」
「まだ考えていません」
「本当に考えていないのか、それとも考えたくないのか」
馬渕の問いは、直接的だった。
香織は少し考えた。
「正直に言えば、考えることを避けていたかもしれません」
「なぜだ」
「定年という言葉が、カウントダウンに聞こえていたから。終わりに近づく時間として、見ていたから」
「今も、そう見えているか」
「いいえ。今は違います」
「何が変わった」
香織はしばらく考えた。
「残り時間として見るようになりました。カウントダウンではなく、やれることがある時間として」
馬渕は頷いた。
「定年後も、校閲の仕事を続けることはできる。フリーランスとして受ける方法がある。あるいは、後進を育てる仕事もある」
「馬渕さんは、私に続けてほしいんですか」
「続けてほしいと思っている。ただ、それを言う権利が俺にあるかどうか、分からない」
「なぜですか」
「俺が三十年間、あなたの仕事を正当に評価してきたか、自信がないからだ」
その言葉は、意外だった。
香織は馬渕を見た。
「校閲部は、この会社では目立たない部署だ。編集部が主役で、校閲は縁の下だ。それが当然だと思ってきた。しかし今回の件で——校閲者が何をしているか、俺は改めて知った気がする」
「それは、水無月先生の原稿が特別だったからです」
「そうかもしれない。しかし、特別でない原稿にも、同じ目を向けているはずだ。三十年間、全部の原稿に」
香織は答えなかった。
しかし否定もしなかった。
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食事が終わり、お茶を飲みながら、馬渕が言った。
「あとがきを書きながら、気づいたことがある」
「何ですか」
「書くことは、認めることだ」
香織は馬渕を見た。
「あとがきに自分の判断の誤りを書きながら、書くことで初めて、それが確定する感覚があった。思っていることと、書いたことは、違う。書いた瞬間に、それは現実になる」
「そうですね」
「水無月はそれを知っていた。だから書き続けた。書くことで、現実にした。藤堂のことを、現実として刻み続けた」
「はい」
「俺は三十年間、認めることを避けてきた。心の中では認めていたが、書かなかった。だから確定しなかった。しかしあとがきを書いた瞬間に、全部が確定した」
馬渕の声は、穏やかだった。
解放された人間の声だ、と香織は思った。
重さを持ち続けることをやめた人間の声ではなく、重さを正しい場所に置いた人間の声だった。
「村上さん、一つだけ聞いていいか」
「はい」
「この仕事を、楽しかったと思っているか」
香織は少し驚いた。
楽しかったか。
その問いを、自分に向けたことがなかった。
「楽しい、という言葉が正確かどうか分かりません」
「では、何という言葉が正確か」
香織はしばらく考えた。
「意味があった、という言葉の方が近いかもしれません。楽しいというより、意味があった。やるべきことをやれた、という感覚が——今回の仕事には、ありました」
「それは、楽しかったということではないか」
馬渕の言い方は、押しつけがましくなかった。
ただ、問いとして投げてきた。
香織はその問いを、しばらく持っていた。
楽しかった。
その言葉を、自分に許可することを、香織はこれまでしてこなかった気がした。仕事に楽しみを求めることは、職業人として何か余分なことのように思っていた。
しかし今夜は、少し違う気がした。
「そうかもしれません」
香織は静かに言った。
「楽しかった、という部分が、あったかもしれません」
馬渕は頷いた。
それ以上は言わなかった。
その沈黙が、香織には心地よかった。
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店を出ると、五月の夜風が柔らかかった。
駅まで少し歩いた。馬渕と並んで、同じ方向に。
途中で馬渕が言った。
「水無月の本、秋に出る」
「はい」
「出たら、一冊送る。里緒さんにも、藤堂さんの兄にも」
「はい」
「あとは、誰に送るか——」馬渕は少し間を置いた。「桐嶋にも、送ろうと思っている」
香織は少し驚いた。
「なぜですか」
「読んでほしいから。逃げてほしくないから。読んで、向き合ってほしいから」
それは制裁ではない、と香織は思った。
罰として送るのではなく、読んでほしいという意思として。
水無月が馬渕に原稿を送ったのと、同じ意図で。
「そうですね」香織は言った。「読んでもらえるといい」
駅の改札で、二人は別れた。
馬渕が「また」と言った。
香織は頷いた。
ホームで電車を待ちながら、香織は思った。
楽しかった、という言葉を、今夜初めて自分に許可した。
三十年間の仕事の中で、今回だけに使える言葉ではないかもしれない。しかし今夜、この言葉が自分の中に入った。
それで十分だった。




