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最後の校閲  作者: ジェミラン
第四章「校閲者の掟」
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第4話

 四月の第三週に入り、馬渕からあとがきの草稿が届いた。


 メールに添付されたWordファイルを開いて、香織は読んだ。


 三千字ほどの文章だった。


 馬渕らしい文体だった。簡潔で、装飾がない。感情を押さえながら、事実を積み重ねる書き方。編集者として三十五年書き続けてきた人間の、骨格の見える文章だ。


 内容は、正直だった。


 一九九七年に水無月透の第二作を受け取ったこと。その原稿が、当時の上長の意向により刊行されなかったこと。その判断に、自分が従ったこと。従った理由に、個人的な事情があったこと。


 個人的な事情、という表現で、桐嶋への借りのことを書いていた。具体的な名前は出していない。しかし、読めば上長への忖度があったことは伝わる。


 さらに、二〇一四年の件についても触れていた。


 社内の不正を告発しようとした元同僚が、結果として退職を余儀なくされたこと。その過程に、自分が関与しなかったことで、間接的に加担したこと。


 元同僚という表現で、藤堂誠一のことを書いていた。


 最後の段落は、こう締められていた。


*水無月透氏は、三十年間書き続けた。発表できない時間が長く続いても、書くことをやめなかった。この遺稿は、その三十年の証明だ。遅すぎた刊行であることを、担当編集者として認める。しかし遅すぎることと、意味がないことは、別の話だと信じている。水無月氏の言葉が、今日届くことに、意味がある。*


 香織は読み終えて、しばらく動かなかった。


---


 馬渕のあとがきは、良い文章だった。


 良い、というのは、上手い、という意味ではない。正直な文章だ、という意味だ。


 書くべきことが書かれていた。書きにくいことが、それでも書かれていた。自分を守るための言葉が、できる限り排除されていた。


 しかし、一点だけ気になる箇所があった。


 香織はメールに返信した。


*拝読しました。全体として、正直な文章だと思います。一点だけ、確認させてください。藤堂誠一さんのお名前を、本文に入れることはお考えですか。現状では「元同僚」という表現になっています。*


 送信してから、返信を待った。


 二十分ほどして、馬渕から返信が来た。


*迷っていました。名前を出すべきか、出さないべきか。あなたはどう思いますか。*


 香織は少し考えてから返信した。


*水無月先生は、本文中に藤堂誠一という名前を刻みました。それが先生の意図です。あとがきで「元同僚」という表現を使うことは、先生の意図と、少し方向が違う気がします。ただ、これは私の意見です。最終判断は馬渕さんが行うべきことです。*


 しばらくして、また返信が来た。


*名前を入れます。藤堂誠一という名前を、あとがきに書きます。ありがとう。*


---


 翌日、修正されたあとがきが届いた。


 「元同僚」という表現が、「藤堂誠一」という名前に変わっていた。


 それ以外は、ほぼ変わっていなかった。


 名前が一つ入っただけで、文章の重みが変わった。


 抽象的な「元同僚」ではなく、藤堂誠一という固有名詞になることで、その人間が確かに存在したという事実が、文章の中に刻まれた。


 里緒が言っていた言葉を、香織は思い出した。


 名前があれば、その人が確かにいた証になるから。


 水無月が本文に刻み、馬渕があとがきに刻む。


 二つの場所に、藤堂誠一という名前が残る。


 香織はあとがきの校閲を始めた。


 赤ペンで、誤字を確認した。表記のぶれを直した。文章の流れを確認した。


 一時間ほどで終わった。


 修正箇所は、三カ所だけだった。馬渕の文章は、丁寧に書かれていた。


---


 その日の午後、里緒から電話があった。


「装丁のデザイン案を見せてもらいました。馬渕さんから送ってもらって」


「どうでしたか」


「良かったです」里緒の声は、穏やかだった。「父が好きそうな感じで。派手じゃなくて、でも手に取りたくなる」


「デザイナーの方が、丁寧に考えてくれていました」


「あとがきも、読みました」


「はい」


「馬渕さんが、藤堂さんの名前を入れてくれていて」里緒は少し間を置いた。「村上さんが、言ってくれたんですか」


「私の意見を伝えただけです。判断は馬渕さんがされました」


「ありがとうございます」


 里緒の声が、少し揺れた。


「父のことを、ここまで考えてくれる人がいて——父は幸運だったと思います。死んだ後に、こういう人たちに囲まれて」


「水無月先生の言葉が、人を動かしたんです」


「そうかもしれない。でも、動いてくれる人がいなければ、言葉だけでは届かない」


 香織はその言葉を、胸の中に収めた。


 言葉と、言葉を届ける人間。


 どちらも、必要だ。


---


 電話を切った後、三枝が「里緒さんでしたか」と聞いた。


「はい」


「どうでしたか」


「装丁を気に入ってくれたようです。あとがきも」


「よかった」三枝は少し笑った。「あとは、本が出るだけですね」


「まだ、やることはあります」


「何かあります?」


 香織は少し考えた。


「馬渕さんのあとがきに、一つだけ付け加えてほしいことがあって」


「何ですか」


「まだ相談していないから、今は言えないけど」


 三枝は不満そうな顔をしたが、「分かりました」と言って引いた。


---


 夕方、香織は馬渕にメールを送った。


*あとがきについて、もう一点だけお願いがあります。直接お話しできますか。*


 すぐに返信が来た。


*今から来てください。*


 香織は管理職ゾーンに向かった。


 馬渕はパソコンの前にいた。


「何だ」


「あとがきの最後に、一文だけ付け加えていただけますか」


「どんな一文だ」


 香織は手元のメモを見た。


 昨夜、自宅で考えながら書いた一文だ。


「こう書いてほしいんです。『この原稿を最後まで正確に読んでくれた校閲者に、感謝する』と」


 馬渕は少し目を細めた。


「それは——自分で言ってもらうよう頼んでいるということか」


「はい」


「普通、校閲者はそういうことを言わない」


「言いません。ただ」


「ただ」


「水無月先生は、言葉を正しく読む人間を待っていました。読んだ人間への感謝が、あとがきに残ることは——先生の意図とも、合っていると思います」


 馬渕はしばらく香織を見ていた。


「本当は、自分の名前を残したいわけではない」


「違います」


「では、何のためだ」


 香織は少し間を置いた。


「次の校閲者のためです」


「次の校閲者」


「この本を読んだ若い編集者や、校閲者志望の人間が、校閲という仕事に意味を見出してくれるかもしれない。あとがきに『校閲者への感謝』という一文があれば、校閲という仕事が何をしているか、少しだけ伝わる気がします」


 馬渕は長い沈黙の後、言った。


「分かった。書く」


「ありがとうございます」


「ただし」馬渕は少し口元を動かした。「村上香織、とフルネームで書く。校閲者、とだけは書かない」


 香織は少し驚いた。


「それは——」


「奥付に名前が入るのは決まっている。あとがきにも入れる。それが正しいと、俺は思う」


 香織は答えなかった。


 しかし、断らなかった。


 名前があれば、その人が確かにいた証になる。


 里緒の言葉が、また戻ってきた。


 自分の名前が、この本に残る。


 それは、校閲者が確かにいたという証になる。


 三十年間、誰にも気づかれないところで言葉を正してきた人間が、この一冊に限っては、名前を持って残る。


 それを、香織は受け取ることにした。


---


 管理職ゾーンを出た後、廊下で香織は少し立ち止まった。


 窓の外の街路樹を見た。


 四月の葉が、青々としていた。


 先月、芽だったものが、今は葉になって、風に揺れている。


 言葉も、人も、こうやって育つのかもしれない。


 時間をかけて、少しずつ。


 香織は校閲部に向かって歩いた。


 明日も、仕事がある。

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