第3話
桐嶋からの手紙に対して、馬渕がどう動いたか、香織は詳しくは聞かなかった。
聞く必要がないと思った。馬渕が対処する、と言った。その言葉を信じた。信じることと、確認することは、違う。信じるということは、確認しないことを含んでいる。
三日後、馬渕から短いメールが来た。
*桐嶋への対応、完了しました。今後、あちらからの接触はないと思います。詳細は省きますが、弁護士を通じて、正式な手続きを取りました。*
弁護士を通じた正式な手続き。
馬渕は、今回は法的な手段を使った。脅しでも懇願でもなく、正式なルートで。それが何を意味するか、香織には分かった。
桐嶋が法的手段を取れば、逆に自分の行為が明るみに出る可能性がある。馬渕はそれを盾に使った。弁護士を通して、明確に伝えた。
それで、決着した。
香織は返信した。
*承知しました。ありがとうございます。*
送信してから、窓の外を見た。
四月の空は、今日も薄い青だった。
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その週の後半、装丁デザイナーとの打ち合わせに、香織も呼ばれた。
馬渕からのメールには、一行だけ付け加えてあった。
*校閲者にも、装丁の方向性を共有したい。可能であれば来てほしい。*
珍しい呼ばれ方だった。装丁の打ち合わせに校閲者が呼ばれることは、通常はない。しかし今回は、馬渕が意図的にそうした。
香織は「参加します」と返信した。
打ち合わせは、第三編集局の小会議室で行われた。
馬渕と若い編集担当、そしてフリーランスのデザイナーが来ていた。デザイナーは三十代半ばの女性で、落ち着いた目をしていた。
馬渕が香織を紹介した。
「校閲を担当してくれた、村上さんです。この本の成立に、深く関わっていただきました」
深く関わった、という言葉を、馬渕は選んだ。
デザイナーが香織に言った。
「原稿を読まれているんですね。どんな雰囲気の本ですか、一言で言うと」
一言で。
香織はしばらく考えた。
「静かな怒りのある本です。表面は穏やかで、しかし奥に、動かしようのない何かがある」
デザイナーは頷きながら、メモを取った。
「静かな怒り。それは、装丁に反映できると思います。派手さではなく、密度で見せる、という方向で考えていました。方向性が合っていますね」
打ち合わせは一時間ほど続いた。
色の話、フォントの話、紙の質感の話。香織が普段関わらない領域の話が続いた。しかし、それぞれの判断の根拠が、常に原稿の内容に引き戻されていた。
この本の言葉に、何が似合うか。
その問いを全員が共有していた。
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打ち合わせが終わり、デザイナーが帰った後、馬渕が香織に言った。
「一つ、確認したいことがあって」
「何ですか」
「奥付の校閲者名を、どう書くか。村上香織、フルネームでいいか」
「はい、それで構いません」
「他に、奥付に入れるべきことはあるか。校閲者の立場から見て」
香織は少し考えた。
「一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「『空白の証言』の初稿が一九九七年であること、没になった経緯を、あとがきに書いてほしいんです。著者の言葉として残すのが理想ですが、それができないなら——編集者の言葉として」
馬渕は少し目を細めた。
「俺が書く、ということか」
「はい。なぜ二十九年間、この原稿が世に出なかったか。その経緯を、正直に書いてほしい。読者は、それを知る権利があります」
沈黙。
馬渕は視線をテーブルに落とした。
「自分の判断の誤りを、公に書く、ということだ」
「はい」
「それは——」馬渕は言葉を探した。「簡単ではない」
「簡単ではありません」香織は返した。「しかし、必要だと思います。水無月先生が書いた言葉の意味を、読者が正確に受け取るためには、この原稿が持つ歴史的な文脈が必要です。それを伝えることが、編集者の仕事だと思います」
馬渕はしばらく動かなかった。
香織も動かなかった。
この沈黙は、待つべき沈黙だ。馬渕の中で、何かが整理されるのを待つ。
一分ほどして、馬渕が言った。
「書く」
「はい」
「正直に書く。どこまで書けるか、書きながら探す。しかし——書く」
香織は頷いた。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではない」馬渕は静かに言った。「するべきことをする、というだけだ」
その言葉は、三十年分の重さを持っていた。
するべきことをする。
遅すぎた、という事実は変わらない。しかし、今するということは、しないよりはるかに良い。
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会議室を出た後、香織は廊下で少し立ち止まった。
馬渕があとがきを書く。
それは、この本にとって重要な意味を持つ。読者は、二十九年前に没になった原稿が、なぜ今出るのかを知る。その経緯を知ることで、言葉の重みが変わる。
しかしそれは同時に、馬渕自身の行為を公にすることだ。
名前を出して、判断の誤りを認める。それを、本という形で残す。
馬渕は、それを引き受けた。
水無月が藤堂の名前を原稿に刻んだように、馬渕は自分の責任を活字に刻む。
言葉は残る。
書かれたものは、消えない。
その事実を、馬渕は今回、自分自身に対して受け入れた。
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校閲部に戻ると、三枝が「どうでしたか」と聞いた。
今月に入って、三枝はよくそう聞くようになった。香織が馬渕と話すたびに、どうでしたか、と。
「馬渕さんが、あとがきを書くことになりました」
「あとがき、ですか」
「二十九年間、原稿が出なかった経緯を、正直に書く、と」
三枝は少し黙った。
「馬渕さんが、自分で」
「はい」
「それは——すごいことですね」
「そうですね」
「村上さんが、お願いしたんですか」
「はい」
三枝はしばらく香織を見ていた。
「村上さんって、やっぱりすごいと思います」
「何がすごいんですか」
「言うべきことを、ちゃんと言う。言いにくいことでも、必要なことなら言う。それって、簡単じゃないですよ」
香織は三枝の言葉を、素直に受け取ることにした。
「三枝さんも、この一ヶ月、言うべきことを言ってくれました」
「私が?」
「気をつけてください、と言ってくれた。ちゃんと食べてください、と言ってくれた。一人で抱えることじゃないと言ってくれた」
三枝は少し照れた顔をした。
「それくらい、誰でも言います」
「言わない人間の方が多いですよ」
三枝はしばらく、言葉を探していた。
それから、言った。
「村上さんと仕事できて、よかったです。この案件、一緒に関われて」
香織は答えなかった。
しかし、その言葉が温かかった。
温かいものを受け取ることが、以前より自然になっていた。
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その夜、香織は帰宅してから、ノートを一冊取り出した。
仕事用のノートではない。私用のノートだ。日記をつけるわけではないが、思ったことを書き留めることがある。三十年間、断続的に続けてきた習慣だ。
ペンを取って、今日考えたことを書いた。
校閲者の掟とは何か。
言葉を正確に読むこと。言葉の骨を見つけること。著者の意図を正確に届けること。それだけが、校閲者の仕事だと思ってきた。
しかし今回、一つ加わった気がした。
言葉が正しく世に出ることを、守ること。
守ることは、正すこととは違う。正すことは受動的な仕事だ。原稿が来て、読んで、直す。しかし守ることは、能動的だ。出そうとする言葉に対して、出るべきだと判断して、その判断を支える。
今回、香織は守ることをした。
桐嶋の手紙に対して、断らなかった。それは守ることだった。
ノートを閉じて、香織はペンを置いた。
窓の外で、風が鳴った。
四月の夜の風は、もう冷たくなかった。
完全に春になっていた。




