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最後の校閲  作者: ジェミラン
第四章「校閲者の掟」
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第2話

 桐嶋の手紙を、香織はもう一度だけ読んだ。


 三度目になる。


 一度目は驚きの中で読んだ。二度目は分析しながら読んだ。三度目は、自分の感情を確認しながら読んだ。


 自分は今、この手紙に対して何を感じているか。


 怒りか。同情か。困惑か。


 どれでもある、と思った。しかしどれが一番大きいかと問われれば——困惑だった。


 桐嶋の論理が、完全に間違っているとは言えないからだ。


 言葉は人を傷つけることがある。その事実から目を背けることは、言葉を扱う者としての誠実さに反する。三十年間、香織がそう思ってきたことだ。


 しかし同時に、言葉は真実を伝えるためにある。


 真実が誰かを傷つけるとき、その言葉を封じることが正しいのか。


 それが、今日香織が一人で向き合わなくてはならない問いだった。


---


 昼休みに、香織は珈琲館ふじに一人で入った。


 誰かと話すためではなく、考えるために。


 窓際の席に座り、コーヒーを頼んだ。


 桐嶋の手紙を、バッグの中に入れてきた。もう読む必要はない。しかし手元に置いておきたかった。重さを確認するために。


 考えを、順番に整理した。


 桐嶋は言った。水無月の原稿には、事実の誇張や誤解が含まれている、と。


 しかし、それは本当か。


 香織は『硝子の証人』と『空白の証言』を、両方読んでいる。どちらも、事実を基にしながら、しかしフィクションとして書かれていた。登場人物の名前は変えられている。倉田という人物が桐嶋だと、作中で明示されているわけではない。


 読む人間によって、解釈が変わる。


 桐嶋を知る業界関係者には、分かるかもしれない。しかし一般の読者には、倉田は倉田であって、桐嶋ではない。


 それは誹謗か、それとも表現か。


 その判断は、校閲者の領域ではない。法的な判断は弁護士が、編集的な判断は編集者が行う。香織の仕事は、言葉が正確かどうかを確認することだ。


 しかし桐嶋は、校閲者である香織に手紙を書いた。


 なぜ編集者の馬渕ではなく、校閲者の香織に。


 馬渕には通じなかったからだ。馬渕は既に動いている。退かないと言った。桐嶋はそれを知っている。


 だから、別のルートを探した。


 校閲者は、刊行に同意しなければ、仕事を断ることができる。それは職業的な権利だ。


 桐嶋は、香織にその権利を行使させようとしている。


---


 コーヒーを半分飲んだ頃、香織は水無月の言葉を思い出した。


 日記の中の一節だ。


*書くことをやめた方が楽だと何度思ったか。やめた方が誰かを傷つけずに済むと思ったこともある。しかし書かずにいることが、別の誰かを傷つけていた。沈黙もまた、暴力になる。*


 沈黙もまた、暴力になる。


 水無月は、書き続けることを選んだ。誰かを傷つけるかもしれないと知りながら、書き続けた。なぜなら、書かないことが、別の誰かを傷つけるからだ。


 今、この原稿が出なければ、誰が傷つくか。


 水無月の言葉が届かない。藤堂誠一の名前が、また闇に沈む。里緒は父の言葉が世に出ることを待っている。藤堂寛二は、弟の名前が刻まれた言葉を読もうとしている。


 出さないことで傷つく人間が、確かにいる。


 桐嶋は「傷つく者がいる」と書いた。それは本当だ。しかし、出さないことで傷つく者のことを、桐嶋は書かなかった。


 その非対称が、この手紙の欺瞞だ。


---


 昼休みが終わりに近づいた頃、香織は自分の答えが出ていることに気づいた。


 考え続けていたが、答えはすでに最初からあった気がした。


 手紙を読んだ瞬間から、答えは決まっていた。ただ、それを確認する時間が必要だっただけだ。


 校閲者の仕事は、言葉を正しく扱うことだ。


 正しく扱うということは、言葉が持つ力を、正確に届けることだ。


 水無月透の言葉には、三十年分の真実が込められている。その真実を、正確に届けることが、香織の仕事だ。


 桐嶋が傷つくかもしれない。しかしそれは、桐嶋が三十年前に行ったことの結果だ。結果から目を背けるために、言葉を封じることは——言葉に対する誠実さではない。


 香織はコーヒーを飲み干した。


 会計を済ませて、店を出た。


 四月の昼の風が、柔らかかった。


---


 午後、香織は馬渕のデスクに向かった。


 桐嶋の手紙を、封筒ごと渡した。


「桐嶋からです。今朝、私のデスクに置かれていました」


 馬渕は封筒を見て、表情を変えなかった。


「読んでもいいか」


「どうぞ」


 馬渕は便箋を広げた。


 三枚を、黙って読んだ。


 読み終えて、便箋を封筒に戻した。


「村上さんに来た、ということは——俺への直接の働きかけが通じなかったから、ルートを変えた、ということだな」


「そう思います」


「どう思った、読んで」


 馬渕が聞いた。判断を聞いているのではなく、感想を聞いている。その区別が、今の馬渕にはある。


「巧妙だと思いました。私の良心に訴える形で書いてある。しかし——」


「しかし」


「答えは変わりません」


 馬渕は香織を見た。


「校閲を、続けます。この原稿は、正しく世に出るべきだと思っています」


 馬渕はしばらく香織を見ていた。


 それから、静かに言った。


「ありがとう」


「いえ」


「いや——ありがとうと言わせてくれ」


 馬渕の声に、珍しく感情があった。抑えきれない部分が、わずかに表に出ていた。


「俺が退かないと言っても、校閲者が仕事を断れば、刊行は難しくなる。桐嶋はそれを知っていて、村上さんに手紙を書いた。村上さんが断らなかったことは——俺一人の判断より、重い意味がある」


 香織はその言葉を、静かに受け取った。


「桐嶋への返答は、どうしますか」


「俺が対応する。村上さんは関係ない」


「手紙を返していいですか、封筒ごと」


「返す必要はない。受け取った事実を、村上さんが持っていればいい」


 香織は頷いた。


 封筒をバッグにしまいながら、思った。


 桐嶋の手紙は、香織にとって一つの試験だったかもしれない。


 校閲者の掟と、良心の間で、どちらを選ぶかという試験。


 しかし今の香織には、それは二者択一ではなかった。


 校閲者の掟そのものが、良心だった。


 言葉を正しく扱うことが、良心だった。


 その二つは、この場合、同じ方向を向いていた。


---


 管理職ゾーンを出てから、香織は廊下で少し立ち止まった。


 窓から、四月の空が見えた。


 薄い青に、白い雲が浮かんでいた。


 三十年間、この会社の窓から空を見てきた。春も夏も秋も冬も、同じ場所から空を見てきた。空は変わって、自分も変わって、しかし空を見るという動作だけは変わらなかった。


 定年まで、あと一年。


 その数字を、今日は意識した。


 カレンダーで確認することをやめても、体はまだ覚えている。一年という時間が、体の中にある。


 一年で、できることをする。


 言葉の骨を見つける仕事を、一年続ける。


 それが、香織の答えだった。


---


 校閲部に戻ると、三枝がすぐに顔を上げた。


「どうでしたか」


「馬渕さんに渡しました。対応は馬渕さんがします」


「村上さんは」


「校閲を続けます」


 三枝は、ほっとしたような顔をした。


「よかった」


「なぜですか」


「村上さんが迷っていたら、どうしようかと思っていて。何か言うべきか、言わない方がいいか、ずっと考えてました」


「迷いましたよ」


 三枝が少し驚いた顔をした。


「迷わなかったわけではありません。桐嶋の論理の一部は、間違っていないから」


「でも、答えを出した」


「出しました」


 三枝はしばらく香織を見てから、言った。


「どうやって出したんですか」


 香織は少し考えた。


「水無月先生の言葉に、助けてもらいました」


「どの言葉ですか」


「沈黙もまた、暴力になる、という言葉です」


 三枝はその言葉を、口の中で繰り返すように黙っていた。


 それから、静かに頷いた。


 香織は赤ペンを手に取った。


 今日の仕事の続きが、デスクの上にある。


 歴史小説の、六百枚の原稿。


 水無月の原稿とは関係のない、通常の仕事。


 しかしどんな仕事も、同じ姿勢で向かう。


 それが、校閲者の掟だ。

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