第2話
桐嶋の手紙を、香織はもう一度だけ読んだ。
三度目になる。
一度目は驚きの中で読んだ。二度目は分析しながら読んだ。三度目は、自分の感情を確認しながら読んだ。
自分は今、この手紙に対して何を感じているか。
怒りか。同情か。困惑か。
どれでもある、と思った。しかしどれが一番大きいかと問われれば——困惑だった。
桐嶋の論理が、完全に間違っているとは言えないからだ。
言葉は人を傷つけることがある。その事実から目を背けることは、言葉を扱う者としての誠実さに反する。三十年間、香織がそう思ってきたことだ。
しかし同時に、言葉は真実を伝えるためにある。
真実が誰かを傷つけるとき、その言葉を封じることが正しいのか。
それが、今日香織が一人で向き合わなくてはならない問いだった。
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昼休みに、香織は珈琲館ふじに一人で入った。
誰かと話すためではなく、考えるために。
窓際の席に座り、コーヒーを頼んだ。
桐嶋の手紙を、バッグの中に入れてきた。もう読む必要はない。しかし手元に置いておきたかった。重さを確認するために。
考えを、順番に整理した。
桐嶋は言った。水無月の原稿には、事実の誇張や誤解が含まれている、と。
しかし、それは本当か。
香織は『硝子の証人』と『空白の証言』を、両方読んでいる。どちらも、事実を基にしながら、しかしフィクションとして書かれていた。登場人物の名前は変えられている。倉田という人物が桐嶋だと、作中で明示されているわけではない。
読む人間によって、解釈が変わる。
桐嶋を知る業界関係者には、分かるかもしれない。しかし一般の読者には、倉田は倉田であって、桐嶋ではない。
それは誹謗か、それとも表現か。
その判断は、校閲者の領域ではない。法的な判断は弁護士が、編集的な判断は編集者が行う。香織の仕事は、言葉が正確かどうかを確認することだ。
しかし桐嶋は、校閲者である香織に手紙を書いた。
なぜ編集者の馬渕ではなく、校閲者の香織に。
馬渕には通じなかったからだ。馬渕は既に動いている。退かないと言った。桐嶋はそれを知っている。
だから、別のルートを探した。
校閲者は、刊行に同意しなければ、仕事を断ることができる。それは職業的な権利だ。
桐嶋は、香織にその権利を行使させようとしている。
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コーヒーを半分飲んだ頃、香織は水無月の言葉を思い出した。
日記の中の一節だ。
*書くことをやめた方が楽だと何度思ったか。やめた方が誰かを傷つけずに済むと思ったこともある。しかし書かずにいることが、別の誰かを傷つけていた。沈黙もまた、暴力になる。*
沈黙もまた、暴力になる。
水無月は、書き続けることを選んだ。誰かを傷つけるかもしれないと知りながら、書き続けた。なぜなら、書かないことが、別の誰かを傷つけるからだ。
今、この原稿が出なければ、誰が傷つくか。
水無月の言葉が届かない。藤堂誠一の名前が、また闇に沈む。里緒は父の言葉が世に出ることを待っている。藤堂寛二は、弟の名前が刻まれた言葉を読もうとしている。
出さないことで傷つく人間が、確かにいる。
桐嶋は「傷つく者がいる」と書いた。それは本当だ。しかし、出さないことで傷つく者のことを、桐嶋は書かなかった。
その非対称が、この手紙の欺瞞だ。
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昼休みが終わりに近づいた頃、香織は自分の答えが出ていることに気づいた。
考え続けていたが、答えはすでに最初からあった気がした。
手紙を読んだ瞬間から、答えは決まっていた。ただ、それを確認する時間が必要だっただけだ。
校閲者の仕事は、言葉を正しく扱うことだ。
正しく扱うということは、言葉が持つ力を、正確に届けることだ。
水無月透の言葉には、三十年分の真実が込められている。その真実を、正確に届けることが、香織の仕事だ。
桐嶋が傷つくかもしれない。しかしそれは、桐嶋が三十年前に行ったことの結果だ。結果から目を背けるために、言葉を封じることは——言葉に対する誠実さではない。
香織はコーヒーを飲み干した。
会計を済ませて、店を出た。
四月の昼の風が、柔らかかった。
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午後、香織は馬渕のデスクに向かった。
桐嶋の手紙を、封筒ごと渡した。
「桐嶋からです。今朝、私のデスクに置かれていました」
馬渕は封筒を見て、表情を変えなかった。
「読んでもいいか」
「どうぞ」
馬渕は便箋を広げた。
三枚を、黙って読んだ。
読み終えて、便箋を封筒に戻した。
「村上さんに来た、ということは——俺への直接の働きかけが通じなかったから、ルートを変えた、ということだな」
「そう思います」
「どう思った、読んで」
馬渕が聞いた。判断を聞いているのではなく、感想を聞いている。その区別が、今の馬渕にはある。
「巧妙だと思いました。私の良心に訴える形で書いてある。しかし——」
「しかし」
「答えは変わりません」
馬渕は香織を見た。
「校閲を、続けます。この原稿は、正しく世に出るべきだと思っています」
馬渕はしばらく香織を見ていた。
それから、静かに言った。
「ありがとう」
「いえ」
「いや——ありがとうと言わせてくれ」
馬渕の声に、珍しく感情があった。抑えきれない部分が、わずかに表に出ていた。
「俺が退かないと言っても、校閲者が仕事を断れば、刊行は難しくなる。桐嶋はそれを知っていて、村上さんに手紙を書いた。村上さんが断らなかったことは——俺一人の判断より、重い意味がある」
香織はその言葉を、静かに受け取った。
「桐嶋への返答は、どうしますか」
「俺が対応する。村上さんは関係ない」
「手紙を返していいですか、封筒ごと」
「返す必要はない。受け取った事実を、村上さんが持っていればいい」
香織は頷いた。
封筒をバッグにしまいながら、思った。
桐嶋の手紙は、香織にとって一つの試験だったかもしれない。
校閲者の掟と、良心の間で、どちらを選ぶかという試験。
しかし今の香織には、それは二者択一ではなかった。
校閲者の掟そのものが、良心だった。
言葉を正しく扱うことが、良心だった。
その二つは、この場合、同じ方向を向いていた。
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管理職ゾーンを出てから、香織は廊下で少し立ち止まった。
窓から、四月の空が見えた。
薄い青に、白い雲が浮かんでいた。
三十年間、この会社の窓から空を見てきた。春も夏も秋も冬も、同じ場所から空を見てきた。空は変わって、自分も変わって、しかし空を見るという動作だけは変わらなかった。
定年まで、あと一年。
その数字を、今日は意識した。
カレンダーで確認することをやめても、体はまだ覚えている。一年という時間が、体の中にある。
一年で、できることをする。
言葉の骨を見つける仕事を、一年続ける。
それが、香織の答えだった。
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校閲部に戻ると、三枝がすぐに顔を上げた。
「どうでしたか」
「馬渕さんに渡しました。対応は馬渕さんがします」
「村上さんは」
「校閲を続けます」
三枝は、ほっとしたような顔をした。
「よかった」
「なぜですか」
「村上さんが迷っていたら、どうしようかと思っていて。何か言うべきか、言わない方がいいか、ずっと考えてました」
「迷いましたよ」
三枝が少し驚いた顔をした。
「迷わなかったわけではありません。桐嶋の論理の一部は、間違っていないから」
「でも、答えを出した」
「出しました」
三枝はしばらく香織を見てから、言った。
「どうやって出したんですか」
香織は少し考えた。
「水無月先生の言葉に、助けてもらいました」
「どの言葉ですか」
「沈黙もまた、暴力になる、という言葉です」
三枝はその言葉を、口の中で繰り返すように黙っていた。
それから、静かに頷いた。
香織は赤ペンを手に取った。
今日の仕事の続きが、デスクの上にある。
歴史小説の、六百枚の原稿。
水無月の原稿とは関係のない、通常の仕事。
しかしどんな仕事も、同じ姿勢で向かう。
それが、校閲者の掟だ。




