第1話
四月になっても、香織の朝は変わらなかった。
七時十五分に出社。階段を六階まで上がる。コートを脱いでハンガーにかける。デスクに座り、パソコンを立ち上げる。赤いボールペンをペンケースから出す。
変わらないことが、仕事の基盤だ。
三十年間、そう思ってきた。変わらない習慣が、変わらない品質を生む。校閲という仕事は、感情や体調に左右されてはいけない。今日は気分が良いから丁寧に読む、昨日は疲れていたから見落とした——そういうことが、あってはならない。
しかし今月から、一つだけ変わったことがあった。
デスクの隅に置いたカレンダーの数字を、毎朝確認するのをやめた。
定年まであと何日、という数字を、今月から記録していない。
やめた理由は、自分でもはっきりとは分からない。ただ、ある朝ふと、確認しなかった。そのまま仕事を始めた。翌朝も、確認しなかった。三日経って、意図せずやめていたことに気づいた。
気づいてから、やめることにした。
カウントダウンとして見ていた数字を、もう必要としていないということだと思った。
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四月の最初の週は、新しい案件の引き継ぎで忙しかった。
三枝が言っていた大手著者の新作は、原稿用紙換算で六百枚を超える大作だった。ジャンルは歴史小説で、時代考証の確認が多く必要になる案件だ。参考文献のリストを受け取りながら、香織は頭の中で作業の段取りを組んだ。
水無月の原稿とは、全く性質の違う仕事だ。
しかしそれで構わない。校閲の仕事は、どんな原稿にも同じ姿勢で向かう。感情移入した原稿も、そうでない原稿も、言葉の骨を見つけようとすることだけは変わらない。
それが校閲者の掟だ、と香織は思っていた。
誰の言葉でもなく、三十年間かけて自分の中に作ってきた掟。
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水曜日の午後、馬渕から短いメールが来た。
*装丁の打ち合わせが始まりました。デザイナーとの最初の顔合わせで、方向性を話し合いました。村上さんにも、後で共有します。*
香織は返信した。
*ありがとうございます。よろしくお願いします。*
それだけのやり取りだったが、刊行の準備が着実に動いていることが伝わった。
装丁のデザイナーが動いている。馬渕が担当として動いている。里緒が了承している。
水無月透の言葉が、本という形に近づいている。
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木曜日の朝、香織が出社すると、デスクの上に封筒が置かれていた。
社内の封筒だ。宛名に「村上香織様」と書かれている。差出人の欄は空白だった。
香織は封筒を手に取った。
厚みがある。便箋が数枚入っているような重さだ。
開けると、中から便箋が三枚出てきた。
書き出しを読んで、香織は手を止めた。
*村上香織様。*
*突然のお手紙をお許しください。私は桐嶋義雄と申します。かつてこの会社の第一編集局長を務めておりました。*
香織は封筒の宛名を、もう一度見た。
差出人の欄が空白だったのは、桐嶋が名前を書かなかったからではなく——本文で名乗るつもりだったからだ。
香織はデスクに座り、便箋を広げた。
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*村上香織様。*
*突然のお手紙をお許しください。私は桐嶋義雄と申します。かつてこの会社の第一編集局長を務めておりました。定年退職後は、業界の周辺で細々と仕事を続けてまいりました。*
*今回筆を取りましたのは、水無月透氏の遺稿刊行について、お伝えしたいことがあったからです。馬渕には直接話をしましたが、あなたには別途お伝えすべきことがあると思いました。*
*単刀直入に申します。あの原稿の刊行を、再考していただけないでしょうか。*
*理由を申し上げます。水無月氏の原稿には、私の行為を暗示する記述が含まれています。名前こそ変えてありますが、私を知る業界関係者には、誰のことか分かります。その記述は、事実の一部を基にしていますが、全てが正確ではありません。誇張や誤解が含まれています。*
*私はもう七十を過ぎた老人です。残りの人生で、公に糾弾されることを望んでいません。家族もおります。孫もおります。彼らの目に、祖父がどう映るかを考えると——あなたにも、想像していただけるのではないかと思います。*
*校閲者というのは、言葉を正しく扱う仕事だと聞きます。正しく扱うということは、誰かを傷つける言葉を、無用に広めることではないはずです。*
*水無月氏は故人です。この原稿が出ても、氏が喜ぶことはありません。しかし傷つく者は、確かにいます。*
*どうか、再考をお願い申し上げます。*
*桐嶋義雄*
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三枚の便箋を読み終えて、香織はしばらく動かなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
四月の朝の光が、斜めに差し込んでいた。
桐嶋義雄が、香織に直接手紙を書いた。
馬渕への脅しが通じなかった。桐嶋が頼みにしていた著者との関係が使えなくなった。だから今度は、別のルートで来た。校閲者である香織に。
なぜ香織か。
校閲者は、刊行の判断者ではない。言葉を正す仕事であって、出す出さないを決める立場にはない。桐嶋はそれを知っているはずだ。三十五年、この業界にいた人間が、知らないはずがない。
それでも香織に手紙を書いた。
なぜか。
香織は便箋を、もう一度読んだ。
二度目に読むと、最初とは違うものが見えた。
この手紙は、脅しではない。
懇願だ。
七十を過ぎた老人の、家族への配慮を盾にした懇願だ。孫への影響を持ち出した懇願だ。
その懇願が、本物かどうか。
香織には分からない。
しかし一つだけ、分かることがある。
桐嶋はこの手紙で、香織の良心に訴えようとしている。
校閲者は言葉を正しく扱う仕事だ、という言葉で。誰かを傷つける言葉を広めることは、正しくないはずだ、という論理で。
その論理は、間違っていない。
しかし、その論理を今の状況に当てはめることが、正しいかどうかは別の話だ。
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三枝が出社してきた。
香織はすぐには話さなかった。コーヒーを入れながら、自分の中で整理した。
午前の業務を一時間ほどこなしてから、三枝に声をかけた。
「少し相談してもいいですか」
三枝は驚いた顔をした。香織から相談してくることは、珍しかったからだ。
「もちろんです」
香織は桐嶋の手紙を、三枝に見せた。
三枝は黙って読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「村上さん、これ、馬渕さんに見せますか」
「見せます。ただ、その前に——三枝さん、この手紙を読んで、どう思いましたか」
三枝は少し考えた。
「正直に言っていいですか」
「はい」
「巧妙だと思いました」三枝はゆっくりと言った。「村上さんの良心に訴えている。校閲者としての誠実さを、逆手に取っている。でも——」
「でも」
「水無月さんの誠実さを、三十年間踏みにじってきた人間の言葉です。誠実さを訴える資格が、この人にあるかどうか」
香織は三枝を見た。
二十八歳の判断は、鋭かった。
「ありがとう」
「馬渕さんに、すぐ見せてください」三枝は言った。「一人で抱えることじゃないです、これは」
香織は頷いた。
そうだ、と思った。
一人で抱えることではない。
しかしその前に、香織自身の中で、答えを出さなくてはならないことがあった。
桐嶋の問いは、間違っていない。
言葉は、誰かを傷つけることがある。それを知りながら、出すことが正しいのかどうか。
その問いに、校閲者として答えを持たなくてはならない。
馬渕に見せるのは、その後だ。




