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最後の校閲  作者: ジェミラン
第三章「没原稿の声」
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第9話

 藤堂寛二が帰った翌日、香織は馬渕に報告した。


 管理職ゾーンのデスクで、馬渕は香織の話を黙って聞いた。


 藤堂誠一に兄がいたこと。その兄が、水無月の原稿に弟の名前が登場すると聞いて、会いに来たこと。刊行前に読んでもらえないかと伝えたこと。


 話が終わると、馬渕はしばらく動かなかった。


 それから、静かに言った。


「会いたい」


「藤堂さんのお兄さんに、ですか」


「ああ」


 馬渕の声は、穏やかだった。しかし穏やかさの底に、決意がある。


「直接、謝りたい」


 香織は馬渕を見た。


 謝ることは、何かを解決しない。藤堂誠一は戻らない。失われた時間は戻らない。しかし、謝ることは——謝った人間の中で、何かを変える。


「連絡先を、伺っていますか」


「はい」


「仲介していただけますか」


「します」


 馬渕は頷いた。


 それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。


---


 三月の最終週になった。


 カレンダーをめくると、定年まであと一年と十六日という計算になった。


 その数字を確認しながら、香織は思った。


 先月まで、この数字はカウントダウンだった。減っていく時間の記録だった。しかし今は、違う。


 残り時間として見ている。


 やれることが、まだある。その前提で、数字を見ている。


 同じ数字が、見る者の状態によって、意味を変える。


 言葉と同じだ、と思った。


---


 その週、馬渕と藤堂寛二の面会が実現した。


 場所は、会社の近くの喫茶店だ。珈琲館ふじではなく、馬渕が指定した別の店だった。


 香織は同席を求められたが、断った。


「あれは、馬渕さんと藤堂さんの間のことです。私が入る話ではありません」


 馬渕は少し迷ったが、最終的に頷いた。


「そうだな」


「ただ、終わったら、教えてください。うまくいったかどうかではなく——行ってきた、ということだけでいいので」


「分かった」


 馬渕が出かけたのは、水曜日の昼だった。


 香織は校閲部で、通常の業務をこなしながら待った。


 三枝が「馬渕さん、行きましたね」と言った。


「ええ」


「うまくいくといいですね」


「うまくいく、うまくいかないの話ではないと思います」


 三枝は少し考えてから、「そうですね」と言った。


---


 馬渕が戻ったのは、二時間後だった。


 管理職ゾーンに入る前に、廊下で香織とすれ違った。


 馬渕は立ち止まって、短く言った。


「行ってきた」


「はい」


「……長い話になった」


 それだけだった。


 しかし、馬渕の顔が、出かける前より少しだけ違った。


 重さが増したようにも見えた。しかし、それは悪い重さではなかった。ちゃんと持つべき重さを、正しく持ち直したときの顔だった。


 香織は頷いて、校閲部に戻った。


---


 三月が終わろうとしていた。


 最終日の夕方、香織はデスクの上を片付けながら、この一ヶ月を振り返った。


 二月の末に届いた一冊の遺稿が、これだけのことを動かした。


 馬渕が三十年分の沈黙を破った。水無月の言葉が里緒に届いた。藤堂寛二が弟の名前を見つけた。桐嶋の脅しに、退かない人間が現れた。


 そのすべての起点は、一人の作家が書いた言葉だった。


 水無月透が、体が弱っていく中で、最後の一年をかけて書いた言葉。


 言葉は、書かれた瞬間から存在する。読まれるたびに、新しく生きる。


 その言葉が今、正しく立っている。


 香織は赤ペンをペンケースにしまった。


 明日から四月だ。


---


 四月の初めの週、香織は里緒に電話した。


 刊行の準備が正式に動き出したことを伝えた。馬渕が直接担当すること、装丁の打ち合わせが来週始まること、秋の刊行を目指していること。


 里緒は静かに聞いていた。


「村上さん、一つだけ聞いていいですか」


「はい」


「父の本を、最初に読んでくれた人として——村上さんは、どう思いますか、この本のことを」


 香織は少し考えた。


 どう思うか。校閲者として、ではなく、最初に読んだ人間として。


「良い本だと思います」


「それだけですか」


「良い本というのは、読んだ後で世界の見え方が少し変わる本のことを言います。私にとって、お父さんの本は、そういう本でした」


「どう変わりましたか」


 香織はしばらく考えた。


「言葉に対する仕事を、三十年間してきました。しかし今回ほど、言葉が生きていると感じたことは、なかったかもしれません。書かれた言葉が、時間を越えて、人を動かす。その事実を、頭ではなく体で感じました」


「体で」


「はい。理屈ではなく、体の奥で。それが、お父さんの言葉が持っている力だと思います」


 里緒はしばらく黙っていた。


「ありがとうございます」


 その言葉は、短かったが、十分だった。


---


 電話を切った後、香織はデスクに残っている仕事を片付けた。


 今日の業務は、別の原稿の校閲だ。来月刊行予定のエッセイ集。水無月の原稿とは関係のない、通常の仕事だ。


 赤ペンを走らせながら、香織は考えた。


 この仕事を、あと一年続ける。


 定年まで一年。その間に、水無月の本が世に出る。校閲者の名前が奥付に残る。言葉の骨を見つける仕事が、その本の中に刻まれる。


 それで十分だ。


 十分、という言葉を、今の香織は別の意味で使える気がした。


 諦めの十分ではなく、充足の十分として。


 やるべきことをやった、という意味の十分として。


---


 その日の夕方、三枝が声をかけてきた。


「村上さん、来週から新しい案件が入るらしくて。大手の著者さんの新作で、かなりの文字数があるって編集部から聞きました」


「そうですか」


「大変そうですね」三枝は言いながら、少し笑った。「でも村上さんなら大丈夫ですね」


「大丈夫かどうかは、やってみないと分かりません」


「でも、大丈夫ですよ。絶対に」


 三枝の確信は、根拠があるようで根拠がない。しかし、そういう確信に支えられることが、三十年間の仕事を続けてきた香織にも、今日は悪くなかった。


「やってみます」


「はい。一緒にやりましょう」


 三枝は、自分のデスクに戻りながら、思い出したように振り返った。


「村上さん、水無月さんの本、秋に出ますよね」


「出ます」


「私、発売日に買います」


「私も買います」


「馬渕さんも買うと思います」三枝はにやりとして言った。「買うというか、献本があると思いますけど」


 香織は少し笑った。


 三枝が驚いたような顔をした。


「村上さん、笑った」


「笑いますよ」


「いや、でも、こんなにはっきり笑ったの、初めて見た気がします」


 香織は答えなかった。


 しかし、否定もしなかった。


---


 その夜、帰り際に香織は窓の外を見た。


 四月の空は、まだ少し明るかった。


 街路樹の梢に、薄緑色の葉が出始めていた。


 先週まで芽だったものが、一週間で葉になった。


 言葉も、そうやって育つのかもしれない、と香織は思った。


 長い時間をかけて芽吹いて、誰かに読まれるたびに葉を広げて、やがて木になる。


 水無月透の言葉は、三十年かけて芽吹いた。


 これから、葉を広げる。


 香織はコートを羽織って、会社を出た。


 四月の夜風が、顔に当たった。


 冷たくなかった。


 冷たくなかった、というより——春の温度だった。


 冬が終わった。


 香織は駅へ向かって、歩いた。

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