第9話
藤堂寛二が帰った翌日、香織は馬渕に報告した。
管理職ゾーンのデスクで、馬渕は香織の話を黙って聞いた。
藤堂誠一に兄がいたこと。その兄が、水無月の原稿に弟の名前が登場すると聞いて、会いに来たこと。刊行前に読んでもらえないかと伝えたこと。
話が終わると、馬渕はしばらく動かなかった。
それから、静かに言った。
「会いたい」
「藤堂さんのお兄さんに、ですか」
「ああ」
馬渕の声は、穏やかだった。しかし穏やかさの底に、決意がある。
「直接、謝りたい」
香織は馬渕を見た。
謝ることは、何かを解決しない。藤堂誠一は戻らない。失われた時間は戻らない。しかし、謝ることは——謝った人間の中で、何かを変える。
「連絡先を、伺っていますか」
「はい」
「仲介していただけますか」
「します」
馬渕は頷いた。
それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。
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三月の最終週になった。
カレンダーをめくると、定年まであと一年と十六日という計算になった。
その数字を確認しながら、香織は思った。
先月まで、この数字はカウントダウンだった。減っていく時間の記録だった。しかし今は、違う。
残り時間として見ている。
やれることが、まだある。その前提で、数字を見ている。
同じ数字が、見る者の状態によって、意味を変える。
言葉と同じだ、と思った。
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その週、馬渕と藤堂寛二の面会が実現した。
場所は、会社の近くの喫茶店だ。珈琲館ふじではなく、馬渕が指定した別の店だった。
香織は同席を求められたが、断った。
「あれは、馬渕さんと藤堂さんの間のことです。私が入る話ではありません」
馬渕は少し迷ったが、最終的に頷いた。
「そうだな」
「ただ、終わったら、教えてください。うまくいったかどうかではなく——行ってきた、ということだけでいいので」
「分かった」
馬渕が出かけたのは、水曜日の昼だった。
香織は校閲部で、通常の業務をこなしながら待った。
三枝が「馬渕さん、行きましたね」と言った。
「ええ」
「うまくいくといいですね」
「うまくいく、うまくいかないの話ではないと思います」
三枝は少し考えてから、「そうですね」と言った。
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馬渕が戻ったのは、二時間後だった。
管理職ゾーンに入る前に、廊下で香織とすれ違った。
馬渕は立ち止まって、短く言った。
「行ってきた」
「はい」
「……長い話になった」
それだけだった。
しかし、馬渕の顔が、出かける前より少しだけ違った。
重さが増したようにも見えた。しかし、それは悪い重さではなかった。ちゃんと持つべき重さを、正しく持ち直したときの顔だった。
香織は頷いて、校閲部に戻った。
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三月が終わろうとしていた。
最終日の夕方、香織はデスクの上を片付けながら、この一ヶ月を振り返った。
二月の末に届いた一冊の遺稿が、これだけのことを動かした。
馬渕が三十年分の沈黙を破った。水無月の言葉が里緒に届いた。藤堂寛二が弟の名前を見つけた。桐嶋の脅しに、退かない人間が現れた。
そのすべての起点は、一人の作家が書いた言葉だった。
水無月透が、体が弱っていく中で、最後の一年をかけて書いた言葉。
言葉は、書かれた瞬間から存在する。読まれるたびに、新しく生きる。
その言葉が今、正しく立っている。
香織は赤ペンをペンケースにしまった。
明日から四月だ。
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四月の初めの週、香織は里緒に電話した。
刊行の準備が正式に動き出したことを伝えた。馬渕が直接担当すること、装丁の打ち合わせが来週始まること、秋の刊行を目指していること。
里緒は静かに聞いていた。
「村上さん、一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「父の本を、最初に読んでくれた人として——村上さんは、どう思いますか、この本のことを」
香織は少し考えた。
どう思うか。校閲者として、ではなく、最初に読んだ人間として。
「良い本だと思います」
「それだけですか」
「良い本というのは、読んだ後で世界の見え方が少し変わる本のことを言います。私にとって、お父さんの本は、そういう本でした」
「どう変わりましたか」
香織はしばらく考えた。
「言葉に対する仕事を、三十年間してきました。しかし今回ほど、言葉が生きていると感じたことは、なかったかもしれません。書かれた言葉が、時間を越えて、人を動かす。その事実を、頭ではなく体で感じました」
「体で」
「はい。理屈ではなく、体の奥で。それが、お父さんの言葉が持っている力だと思います」
里緒はしばらく黙っていた。
「ありがとうございます」
その言葉は、短かったが、十分だった。
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電話を切った後、香織はデスクに残っている仕事を片付けた。
今日の業務は、別の原稿の校閲だ。来月刊行予定のエッセイ集。水無月の原稿とは関係のない、通常の仕事だ。
赤ペンを走らせながら、香織は考えた。
この仕事を、あと一年続ける。
定年まで一年。その間に、水無月の本が世に出る。校閲者の名前が奥付に残る。言葉の骨を見つける仕事が、その本の中に刻まれる。
それで十分だ。
十分、という言葉を、今の香織は別の意味で使える気がした。
諦めの十分ではなく、充足の十分として。
やるべきことをやった、という意味の十分として。
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その日の夕方、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、来週から新しい案件が入るらしくて。大手の著者さんの新作で、かなりの文字数があるって編集部から聞きました」
「そうですか」
「大変そうですね」三枝は言いながら、少し笑った。「でも村上さんなら大丈夫ですね」
「大丈夫かどうかは、やってみないと分かりません」
「でも、大丈夫ですよ。絶対に」
三枝の確信は、根拠があるようで根拠がない。しかし、そういう確信に支えられることが、三十年間の仕事を続けてきた香織にも、今日は悪くなかった。
「やってみます」
「はい。一緒にやりましょう」
三枝は、自分のデスクに戻りながら、思い出したように振り返った。
「村上さん、水無月さんの本、秋に出ますよね」
「出ます」
「私、発売日に買います」
「私も買います」
「馬渕さんも買うと思います」三枝はにやりとして言った。「買うというか、献本があると思いますけど」
香織は少し笑った。
三枝が驚いたような顔をした。
「村上さん、笑った」
「笑いますよ」
「いや、でも、こんなにはっきり笑ったの、初めて見た気がします」
香織は答えなかった。
しかし、否定もしなかった。
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その夜、帰り際に香織は窓の外を見た。
四月の空は、まだ少し明るかった。
街路樹の梢に、薄緑色の葉が出始めていた。
先週まで芽だったものが、一週間で葉になった。
言葉も、そうやって育つのかもしれない、と香織は思った。
長い時間をかけて芽吹いて、誰かに読まれるたびに葉を広げて、やがて木になる。
水無月透の言葉は、三十年かけて芽吹いた。
これから、葉を広げる。
香織はコートを羽織って、会社を出た。
四月の夜風が、顔に当たった。
冷たくなかった。
冷たくなかった、というより——春の温度だった。
冬が終わった。
香織は駅へ向かって、歩いた。




