第8話
三月の第三週に入り、馬渕から全体会議の招集がかかった。
対象は第三編集局の全員だ。校閲部も含む、という通知が来たとき、三枝が「珍しいですね」と言った。確かに珍しかった。編集部と校閲部が合同で会議を開くことは、年に一度あるかどうかだ。
会議室は、いつもより人が多かった。
編集部の面々が席を埋め、香織と三枝は後ろの列に座った。馬渕が前に立った。
「水無月透氏の遺稿について、報告があります」
馬渕の声は、落ち着いていた。
会議室に、静かな緊張が走った。水無月透という名前を知っている者は、この場に多くはないだろう。しかし、馬渕が全員を集めて話す案件という重みは、全員が感じたはずだ。
「水無月氏は、一九九七年にデビューされた作家です。一作のみを発表された後、表舞台から退かれましたが、執筆は続けておられました。先月、遺稿として原稿が届き、本局で刊行の準備を進めることになりました」
馬渕は一呼吸置いた。
「今回の刊行は、通常の案件とは少し異なります。一九九七年に没になった作品と、今回届いた遺稿の、二作品を合わせた作品集として刊行します」
会議室に、小さなざわめきが起きた。
没になった作品を、二十九年後に出す。それが何を意味するか、編集者たちにはすぐに分かっただろう。
「没になった経緯については、私に責任があります」
馬渕は続けた。
ざわめきが、止まった。
「当時の判断として、刊行すべきでない理由があると思っていました。しかしそれは、正しい判断ではありませんでした。著者の言葉を、正当な理由なく世に出さなかった。その責任を、今回の刊行をもって果たしたいと思っています」
会議室が、静かになった。
誰も、何も言わなかった。
馬渕の言葉の重さを、全員が受け取っていた。
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馬渕は続けた。
「刊行に向けた準備を、来月から本格化させます。担当編集は私が直接持ちます。校閲は、引き続き村上さんにお願いします」
香織の名前が出たとき、何人かがこちらを振り返った。
香織は表情を変えなかった。
馬渕は最後に言った。
「この案件に関わる全員に、お願いがあります。丁寧に、正確に、仕事をしてください。著者が三十年間書き続けた言葉を、正しく届けることが、私たちの仕事です」
会議は十五分ほどで終わった。
解散後、編集部の若い社員が何人か馬渕のもとに集まっていた。質問があるのだろう。馬渕は一人一人に、丁寧に答えていた。
三枝が小声で言った。
「馬渕さん、変わりましたね」
「そうですか」
「なんか、すごく真っ直ぐになった感じがします。前はもっと、どこか斜めに構えてるところがあったから」
斜めに構えていた。
三十年間、何かを抱えながら仕事をしていた人間の姿勢が、その重さを降ろしたとき、真っ直ぐになる。
そういうことかもしれない、と香織は思った。
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会議の翌日、桐嶋から馬渕に連絡があった。
馬渕から後で聞いた話だ。
桐嶋は刊行の話を聞いて、電話をかけてきた。今度は脅しではなかった。穏やかな、しかし明確な懸念を示す口調だったという。
*あの原稿を出すことが、業界にとって良いことかどうか、もう一度考えてほしい。*
馬渕の答えは短かったと聞いた。
「良いことかどうかは、読者が判断することです。私の仕事は、著者の言葉を正しく届けることです」
桐嶋はそれ以上、何も言わなかったという。
電話が切れた後、馬渕はしばらく受話器を持ったまま動かなかったと、後で馬渕自身が話してくれた。
「緊張した、と正直に言えば、した。しかし——今回は退かなかった」
今回は退かなかった。
その言葉を、香織は胸の中に収めた。
三十年前に退いた人間が、三十年後に退かなかった。
遅すぎることは、確かだ。しかし、しなかったことよりは、した方がいい。それは、どんな場合でも言えることだと香織は思った。
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その週の後半、思いがけない訪問者があった。
午後三時頃、校閲部のドアが開いて、見知らぬ老人が入ってきた。
七十代とおぼしき、背の低い男性だ。白髪で、杖をついている。黒い地味なコートを着ていた。誰かの顔を知っているかのように、部屋を見回した。
三枝が「どのようなご用件ですか」と立ち上がった。
老人は三枝を見て、それから香織を見た。
「村上さん、という方はおられますか」
香織は立ち上がった。
「私ですが」
老人は香織のところまで、ゆっくりと近づいてきた。
杖の音が、静かな部屋に響いた。
「突然お邪魔して、申し訳ありません。私、藤堂誠一の兄でございます。藤堂寛二と申します」
香織は動かなかった。
三枝が小さく息を呑む音がした。
藤堂誠一の兄。
藤堂誠一に、兄がいた。その人間が、今、目の前に立っている。
「どうぞ、お座りください」
香織は椅子を引いた。老人は「ありがとうございます」と言って、ゆっくりと座った。
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藤堂寛二は、弟が死んで十年以上経ってから、この会社に来た理由を話し始めた。
声は穏やかだった。しかし、穏やかさの下に、長い時間をかけて整理された感情がある、と香織は感じた。
「弟が死んだとき、私は何が起きたのか、よく分かりませんでした。会社を辞めて、体を壊して、亡くなった。それだけは知っていました。しかし、詳しい事情は聞いていなかった。弟は、家族にはあまり話さない性格でしたから」
「そうでしたか」
「ところが先日、知人から連絡がありまして。水無月透という作家の遺稿が、この会社から刊行されると。その原稿に、弟の名前が登場すると」
香織は少し驚いた。
「どこでその情報を」
「業界の端の方に、知人がおりまして。それほど詳しくはないのですが、弟の名前が出るということだけは伝わってきました」
業界の情報は、どこかから漏れる。それは先日も感じたことだ。しかし今回の情報の伝わり方は、悪意のある漏れではなく、自然な伝達だったと思う。
「弟のことを、その原稿に書いた方は、どういう方なのでしょうか」
香織は藤堂寛二の目を見た。
七十代の、白髪の老人。弟の死から十年以上経って、弟の名前が書かれた原稿があると聞いて、ここまで来た。
「水無月透という作家は、お弟さんのことを深く知っていた方です。お弟さんの誠実さと、正直さと、そのために払った代償を——言葉の中に、正確に刻んだ方です」
藤堂寛二は、しばらく香織の言葉を聞いていた。
「弟のことを、正確に」
「はい。読んで、そう感じました。校閲者として、言葉の骨格を読む立場として——水無月先生の言葉の中に、お弟さんが確かにいます」
老人の目が、かすかに動いた。
「読むことは、できますか」
「刊行前ですが——馬渕という担当編集者と相談します。刊行前にご遺族に読んでいただくことは、著者の意図にも沿うと思います」
「ありがとうございます」
藤堂寛二は立ち上がりながら、言った。
「弟は、正しいことをしようとした。しかし正しいことが、いつも正しく扱われるわけではない。その理不尽の中で、弟は折れました。しかし——折れた弟のことを、書いてくださった方がいたということを、今日知りました」
老人の声は、最後まで穏やかだった。
しかし穏やかさの中に、何十年分もの感情が静かに沈んでいた。
「それだけで、私は十分です」
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藤堂寛二が去った後、校閲部に沈黙が落ちた。
三枝が、しばらくして言った。
「来たんですね」
「来た」
「言葉って、本当に届くんですね」
香織は窓の外を見た。
三月の午後の光が、街路樹を照らしていた。
先週より、確かに芽が膨らんでいた。
「届きます」
香織は短く言った。
それだけで、十分だった。




