第7話
『硝子の証人』の最終確認が終わったのは、火曜日の夕方だった。
最後のページを読み終えて、香織は原稿をデスクの上に置いた。
表紙を見た。
『硝子の証人』 水無月透。
手書きの文字が、蛍光灯の下で静かに光っていた。
校閲完了、と心の中で言った。声には出さなかった。三十年間、校閲が終わっても声には出さなかった。それは香織の流儀だった。言葉の仕事は、言葉を使わずに完了させる。
しかし今日は、もう少しだけ時間をかけた。
表紙を眺めながら、この原稿のことを思った。
水無月透が最後の一年をかけて書いた言葉。藤堂誠一の名前を刻んだ言葉。馬渕に届けるために書いた言葉。そして、校閲者を待っていた言葉。
その言葉が、今、正しく立っている。
骨格が揺るぎない。誤字はない。事実の誤りはない。言葉の意図が、正確に保たれている。
それで十分だ。
香織は表紙をそっと閉じた。
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翌朝、馬渕のデスクに原稿を届けた。
「校閲、終わりました」とだけ言った。
馬渕は原稿を受け取り、表紙を見て、頷いた。
それだけだった。
余分な言葉はなかった。しかしその沈黙に、三十年分の重さと、これからへの意志が、同時に込められている気がした。
香織は管理職ゾーンを後にした。
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『空白の証言』の校閲は、その週いっぱいかかった。
二十九年前の原稿を現代の基準に整える作業は、思っていたより時間がかかった。表記の問題だけではなく、当時の社会状況を反映した表現が、今の読者に正確に伝わるかどうかを一つ一つ確認しなくてはならなかった。
たとえば、劇中で登場する「ワープロ」という言葉。今の若い読者には、注釈が必要かもしれない。しかしこれは著者の意図を変える問題ではなく、編集の判断に委ねるべきことだ。香織は付箋に「編集部確認」と書いて、該当箇所に貼った。
校閲者の仕事と編集者の仕事の境界線を、香織は三十年間守ってきた。
言葉を正すことと、言葉を変えることは、違う。
正すことは校閲の仕事だ。変えることは、著者と編集者の間で決めることだ。その境界を越えない。それが、言葉に対する正直さだと香織は思っていた。
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金曜日の午後、『空白の証言』の校閲も終わった。
二つの原稿が、並んでデスクの上にある。
『硝子の証人』と『空白の証言』。
二十九年を挟んで書かれた、同じ作家の二つの作品。若い怒りと、成熟した悲しみ。失われた言葉と、届けられた言葉。
香織はしばらく、その二冊を眺めた。
それから立ち上がり、馬渕のデスクに向かった。
「『空白の証言』も、終わりました」
馬渕は受け取りながら言った。
「ありがとう」
シンプルな言葉だった。しかし馬渕から「ありがとう」を言われたのは、この一ヶ月あまりで初めてだった。
香織は頷いて、戻ろうとした。
「村上さん」
馬渕が呼び止めた。
「稟議が通りました。来月から、正式に刊行準備に入ります」
「そうですか」
「タイトルは、水無月の娘さんと相談して決めます。装丁も、これから。ただ——」馬渕は少し間を置いた。「一つだけ、決めたことがあります」
「何ですか」
「奥付に、校閲者の名前を入れます」
香織は馬渕を見た。
「里緒さんから、そうしてほしいという話があったから、ということもある。ただ俺も、そうすべきだと思っています」
「なぜですか」
馬渕はしばらく考えてから言った。
「この本は、言葉を正しく扱うことについての本です。その本の校閲を誰がしたか、残すことは——意味があると思った」
香織は何も言わなかった。
言葉が見つからなかった。
見つからないから、言わなかった。
それで十分だった。
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その夜、香織は久しぶりに早く帰宅した。
図書館にも寄らず、まっすぐ家に帰った。
夕食を作った。普段は惣菜で済ませることが多いが、今日は簡単なものを自分で作った。冷蔵庫にあった野菜で、味噌汁と炒め物。たいしたものではないが、作る過程が、今日は必要だった。
食べながら、窓の外を見た。
三月の夜は、まだ冷たい。しかし窓ガラスに映る室内の灯りが、いつもより温かく見えた。外が冷たいほど、内側の灯りは温かく見える。
食べ終えてから、香織は本棚の前に立った。
『夜の棚卸し』を探した。
一九九七年の棚から取り出した、水無月透のデビュー作。日焼けして薄い黄色になった表紙のそれを、香織は今夜初めて最初から読んだ。
これまで、表紙と奥付しか確認していなかった。内容は、記憶の中に薄くある程度だった。
読み始めると、すぐに引き込まれた。
深夜の書店に勤める青年が、閉店後の棚の整理をしながら、本の「声」を聞く話。書かれた言葉の向こうに潜む著者の後悔と、読まれることのなかった物語を巡る話。
水無月透は、最初の作品からこの問いを持っていた。
読まれることのなかった言葉は、どこへ行くのか。
その問いを、三十年間持ち続けて、最後の作品を書いた。
『夜の棚卸し』から『空白の証言』へ、そして『硝子の証人』へ。
一本の線が、三十年を貫いていた。
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読み終えたのは、夜十一時を過ぎた頃だった。
香織は本を閉じて、膝の上に置いた。
読まれることのなかった言葉は、どこへ行くのか。
水無月が最初に立てた問いへの答えが、今の香織には見えた。
読まれることのなかった言葉は、消えない。
暗い書庫に眠っていても、段ボール箱の中に積まれていても、発表されないまま引き出しの奥にあっても——書かれた言葉は消えない。
そして、いつか誰かが読む。
読まれたとき、言葉は再び生きる。
それが、水無月透が三十年間信じ続けたことだと、香織は思った。
証明するのに、三十年かかった。
しかし証明された。
香織は『夜の棚卸し』を、本棚に戻した。
一九九七年の棚に戻すのではなく、今手の届きやすい場所に置いた。
これからも、手に取れる場所に。
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翌朝、出社すると三枝が来ていた。
珍しく、香織より早かった。
「どうしたんですか、早いですね」
「なんか、目が覚めちゃって」三枝はコーヒーを飲みながら言った。「昨日から、ずっと考えていたことがあって」
「何ですか」
「大石と話していたんですけど」三枝は少し照れたように言った。「水無月さんの本が出たら、二人で買おうって」
香織は三枝を見た。
「二人で」
「はい。別々に買って、でも同じ本を持っていようって。なんか——この本が出ることに、二人とも少し関わったから。それを形にしておきたくて」
香織はしばらく三枝の顔を見た。
二十八歳の、真剣な顔をしていた。
「良いと思います」
「村上さんも、買いますよね」
「買います」
「じゃあ三人で」三枝は少し笑った。「それから里緒さんも買うって言ってたし——この本、結構な人に読まれる本になるといいですね」
結構な人に読まれる本。
香織は窓の外を見た。
三月の朝の光が、街路樹の梢を照らしていた。枝の先端の芽が、一週間前よりも膨らんでいた。
もうすぐ、葉が出る。
言葉も、そうだと思った。
長い冬を越えて、ようやく、芽吹こうとしている。




