第6話
翌日、香織は馬渕に水無月の手紙の内容を伝えた。
会議室ではなく、管理職ゾーンの馬渕のデスクで、立ったまま話した。長い話ではなかった。便箋二枚分の内容を、香織は正確に、しかし過不足なく伝えた。
恨んでいる、という部分も、伝えた。
伝えない理由がなかった。馬渕は恨まれるべきことをした。その事実を香織が選別して渡すことは、正確ではない。
馬渕は香織の話を、一度も遮らなかった。
話が終わると、しばらく黙っていた。
「お前は今も、藤堂のことを覚えているか——か」
馬渕は手紙の言葉を、そのまま繰り返した。
「水無月らしい問いかけだ」
「どういう意味ですか」
「あいつは、答えを求めていない。ただ、問いたかった。その問いに向き合えるかどうかを、試していた」
香織は頷いた。
「信じて死ぬことにする、と書いていました」
「知っている」馬渕は静かに言った。「知っているから、動けた気がする」
それ以上は言わなかった。
香織も、それ以上は聞かなかった。
---
その週の後半、香織は『空白の証言』の校閲を本格的に始めた。
二十九年前の手書き原稿を、現代の基準で整える作業だ。
表記の問題が多くあった。当時と現在では、送り仮名の基準が少し変わっている部分がある。外来語のカタカナ表記も、定着した表現が変化しているものがある。それらを一つ一つ確認しながら、赤を入れた。
しかし、文章そのものには、ほとんど手を入れなかった。
水無月の文章は、二十九年前のものだとしても、今読んで古びていなかった。言葉の選び方が、時代に依存していない。流行の言い回しを使わず、普遍的な言葉で書かれていた。その選択が、結果として言葉の寿命を延ばしていた。
良い文章は、時間に耐える。
三十年間、香織が見てきた事実だ。
---
木曜日の午後、三枝が『空白の証言』を読み終えて、香織のデスクに原稿を返しに来た。
その顔が、少し赤かった。
「読みました」
「どうでしたか」
三枝はしばらく言葉を探した。
「怒りました」
「何に対して」
「全部に対して」三枝は言った。「藤堂さんが不当に扱われたことに。水無月さんの原稿が潰されたことに。それが二十九年間、誰にも知られなかったことに」
香織は三枝を見た。
「それで良いと思います」
「え?」
「怒りを感じることが、正しい読み方だと思います。水無月先生は、読んだ人間を怒らせるために書いた。その怒りが、言葉の力です」
三枝は少し考えてから、頷いた。
「村上さん、これ、絶対に出してください」
「出ます」
「絶対に、ですよ」
「出ます」香織は繰り返した。「馬渕さんが動いています。里緒さんの了承も取れています。出ます」
三枝は少し息を吐いた。
「よかった」
それから、思い出したように言った。
「あ、大石に報告しておいていいですか。大石も、すごく気にしていたから」
「構いません」
三枝はすぐにスマートフォンを取り出した。
二十八歳の素早さで、メッセージを打ち始めた。
香織はその様子を見ながら、思った。
この物語に関わった人間が、少しずつ増えた。三枝、大石、里緒、馬渕、そして川島。みんな、それぞれの場所で、それぞれの形で関わった。
言葉が動くとき、人が動く。
人が動くとき、また言葉が動く。
---
金曜日の夕方、馬渕から短いメールが来た。
*出版社内の稟議を通します。来週初めに動けると思います。村上さんの校閲が終わり次第、刊行の準備を本格化させます。*
香織はメールを読んで、返信した。
*承知しました。『硝子の証人』は来週中に校閲を終えます。『空白の証言』はもう少しかかりますが、急ぎます。*
送信してから、もう一行付け加えればよかったと思った。
しかし何を付け加えるべきか、言葉が見つからなかった。
だから、そのままにした。
言葉が見つからないときは、言わない方がいい。余分な言葉を足すより、足りないくらいの方が、言葉の骨格は保たれる。
三十年間の経験が、そう教えていた。
---
その夜、香織は自宅で水無月の二冊のノートを並べて置いた。
読み返すためではなく、ただ並べた。
一冊目は一月から七月。原稿を書きながら、過去を整理しながら、馬渕への問いを抱えながら書かれたノート。二冊目は八月から十一月。娘への手紙として、後悔を言葉にしながら書かれたノート。
二冊合わせて、水無月透の最後の一年が入っている。
香織はソファに座って、お茶を飲みながら、二冊のノートを眺めた。
読まなくていい。もう全部読んだ。
ただ、そこにあることを確認したかった。
水無月は書いた。発表できない時間が長くても、書き続けた。それだけは正直にやれた、と最後のページに書いた。
正直にやれた仕事。
香織は自分の三十年間を、その言葉で測ってみた。
正直にやれたか。
全部が正直だったとは言えない。怠けたこともある。見落としたこともある。楽をしようとしたこともある。三つの傷跡が、それを示している。
しかし、言葉に対してだけは、正直だったと思う。
言葉の骨を見つけようとすることだけは、三十年間やめなかった。それが誰かに気づかれなくても、評価されなくても、やめなかった。
それだけは、正直にやれた。
水無月の言葉が、今夜は自分のことのように聞こえた。
---
週が明けた月曜日、香織は出社してすぐに『硝子の証人』の最終確認を始めた。
全体を通して、最後の一読をする。これが香織の校閲の最終工程だ。赤を入れ終えた後に、もう一度だけ全部を読む。赤を入れる目ではなく、読者の目で読む。
言葉が正しく立っているかどうかを確認する。
骨格が揺るぎないかどうかを確かめる。
第一章から読み始めた。
岸田律子が、朝の法律事務所で仕事を始める場面。静かで、丁寧で、しかし最初の一行から何かが始まる予感がある。
読み進めながら、香織はこの原稿と過ごした時間を思い返した。
最初に表紙を見たとき、水無月透という名前をどこかで知っている気がした。地下書庫で『空白の証言』を見つけたとき、二十九年分の沈黙が手のひらに伝わった。里緒から二冊のノートを受け取り、言葉の意図が少しずつ見えてきた。馬渕との会議室での対話が、何度も重なって。
この一ヶ月あまりで、多くのことが動いた。
しかしその全部が、この原稿から始まっていた。
水無月透の言葉から、始まっていた。
---
第三章を読んでいる途中で、香織は一つの段落で手を止めた。
岸田律子が、藤堂をモデルにした人物の記録を読む場面だ。以前、青ふせんを貼ったところだ。
*この人は、本当のことを書いていた。律子は思った。誰かに見せるためではなく、ただ本当のことを書いていた。それだけで、十分だったのかもしれない。*
この一節を、最初に読んだときと今とでは、受け取り方が変わっていた。
最初は、藤堂についての描写として読んだ。
今は、水無月自身についての言葉として読めた。
水無月透は、誰かに見せるためではなく、ただ本当のことを書き続けた。三十年間、それだけを続けた。それだけで、十分だったのかもしれない——と、水無月自身が思っていたのかもしれない。
そして、そうではなかった。
十分ではなかった。
本当のことを書いた言葉は、読まれることで完成する。
水無月の言葉は今、読まれようとしている。
十分になろうとしている。
香織は青ふせんをそっと剥がした。
もう、保留ではない。
この一節の意味は、今の香織には分かる。




