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最後の校閲  作者: ジェミラン
第三章「没原稿の声」
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第6話

 翌日、香織は馬渕に水無月の手紙の内容を伝えた。


 会議室ではなく、管理職ゾーンの馬渕のデスクで、立ったまま話した。長い話ではなかった。便箋二枚分の内容を、香織は正確に、しかし過不足なく伝えた。


 恨んでいる、という部分も、伝えた。


 伝えない理由がなかった。馬渕は恨まれるべきことをした。その事実を香織が選別して渡すことは、正確ではない。


 馬渕は香織の話を、一度も遮らなかった。


 話が終わると、しばらく黙っていた。


「お前は今も、藤堂のことを覚えているか——か」


 馬渕は手紙の言葉を、そのまま繰り返した。


「水無月らしい問いかけだ」


「どういう意味ですか」


「あいつは、答えを求めていない。ただ、問いたかった。その問いに向き合えるかどうかを、試していた」


 香織は頷いた。


「信じて死ぬことにする、と書いていました」


「知っている」馬渕は静かに言った。「知っているから、動けた気がする」


 それ以上は言わなかった。


 香織も、それ以上は聞かなかった。


---


 その週の後半、香織は『空白の証言』の校閲を本格的に始めた。


 二十九年前の手書き原稿を、現代の基準で整える作業だ。


 表記の問題が多くあった。当時と現在では、送り仮名の基準が少し変わっている部分がある。外来語のカタカナ表記も、定着した表現が変化しているものがある。それらを一つ一つ確認しながら、赤を入れた。


 しかし、文章そのものには、ほとんど手を入れなかった。


 水無月の文章は、二十九年前のものだとしても、今読んで古びていなかった。言葉の選び方が、時代に依存していない。流行の言い回しを使わず、普遍的な言葉で書かれていた。その選択が、結果として言葉の寿命を延ばしていた。


 良い文章は、時間に耐える。


 三十年間、香織が見てきた事実だ。


---


 木曜日の午後、三枝が『空白の証言』を読み終えて、香織のデスクに原稿を返しに来た。


 その顔が、少し赤かった。


「読みました」


「どうでしたか」


 三枝はしばらく言葉を探した。


「怒りました」


「何に対して」


「全部に対して」三枝は言った。「藤堂さんが不当に扱われたことに。水無月さんの原稿が潰されたことに。それが二十九年間、誰にも知られなかったことに」


 香織は三枝を見た。


「それで良いと思います」


「え?」


「怒りを感じることが、正しい読み方だと思います。水無月先生は、読んだ人間を怒らせるために書いた。その怒りが、言葉の力です」


 三枝は少し考えてから、頷いた。


「村上さん、これ、絶対に出してください」


「出ます」


「絶対に、ですよ」


「出ます」香織は繰り返した。「馬渕さんが動いています。里緒さんの了承も取れています。出ます」


 三枝は少し息を吐いた。


「よかった」


 それから、思い出したように言った。


「あ、大石に報告しておいていいですか。大石も、すごく気にしていたから」


「構いません」


 三枝はすぐにスマートフォンを取り出した。


 二十八歳の素早さで、メッセージを打ち始めた。


 香織はその様子を見ながら、思った。


 この物語に関わった人間が、少しずつ増えた。三枝、大石、里緒、馬渕、そして川島。みんな、それぞれの場所で、それぞれの形で関わった。


 言葉が動くとき、人が動く。


 人が動くとき、また言葉が動く。


---


 金曜日の夕方、馬渕から短いメールが来た。


*出版社内の稟議を通します。来週初めに動けると思います。村上さんの校閲が終わり次第、刊行の準備を本格化させます。*


 香織はメールを読んで、返信した。


*承知しました。『硝子の証人』は来週中に校閲を終えます。『空白の証言』はもう少しかかりますが、急ぎます。*


 送信してから、もう一行付け加えればよかったと思った。


 しかし何を付け加えるべきか、言葉が見つからなかった。


 だから、そのままにした。


 言葉が見つからないときは、言わない方がいい。余分な言葉を足すより、足りないくらいの方が、言葉の骨格は保たれる。


 三十年間の経験が、そう教えていた。


---


 その夜、香織は自宅で水無月の二冊のノートを並べて置いた。


 読み返すためではなく、ただ並べた。


 一冊目は一月から七月。原稿を書きながら、過去を整理しながら、馬渕への問いを抱えながら書かれたノート。二冊目は八月から十一月。娘への手紙として、後悔を言葉にしながら書かれたノート。


 二冊合わせて、水無月透の最後の一年が入っている。


 香織はソファに座って、お茶を飲みながら、二冊のノートを眺めた。


 読まなくていい。もう全部読んだ。


 ただ、そこにあることを確認したかった。


 水無月は書いた。発表できない時間が長くても、書き続けた。それだけは正直にやれた、と最後のページに書いた。


 正直にやれた仕事。


 香織は自分の三十年間を、その言葉で測ってみた。


 正直にやれたか。


 全部が正直だったとは言えない。怠けたこともある。見落としたこともある。楽をしようとしたこともある。三つの傷跡が、それを示している。


 しかし、言葉に対してだけは、正直だったと思う。


 言葉の骨を見つけようとすることだけは、三十年間やめなかった。それが誰かに気づかれなくても、評価されなくても、やめなかった。


 それだけは、正直にやれた。


 水無月の言葉が、今夜は自分のことのように聞こえた。


---


 週が明けた月曜日、香織は出社してすぐに『硝子の証人』の最終確認を始めた。


 全体を通して、最後の一読をする。これが香織の校閲の最終工程だ。赤を入れ終えた後に、もう一度だけ全部を読む。赤を入れる目ではなく、読者の目で読む。


 言葉が正しく立っているかどうかを確認する。


 骨格が揺るぎないかどうかを確かめる。


 第一章から読み始めた。


 岸田律子が、朝の法律事務所で仕事を始める場面。静かで、丁寧で、しかし最初の一行から何かが始まる予感がある。


 読み進めながら、香織はこの原稿と過ごした時間を思い返した。


 最初に表紙を見たとき、水無月透という名前をどこかで知っている気がした。地下書庫で『空白の証言』を見つけたとき、二十九年分の沈黙が手のひらに伝わった。里緒から二冊のノートを受け取り、言葉の意図が少しずつ見えてきた。馬渕との会議室での対話が、何度も重なって。


 この一ヶ月あまりで、多くのことが動いた。


 しかしその全部が、この原稿から始まっていた。


 水無月透の言葉から、始まっていた。


---


 第三章を読んでいる途中で、香織は一つの段落で手を止めた。


 岸田律子が、藤堂をモデルにした人物の記録を読む場面だ。以前、青ふせんを貼ったところだ。


*この人は、本当のことを書いていた。律子は思った。誰かに見せるためではなく、ただ本当のことを書いていた。それだけで、十分だったのかもしれない。*


 この一節を、最初に読んだときと今とでは、受け取り方が変わっていた。


 最初は、藤堂についての描写として読んだ。


 今は、水無月自身についての言葉として読めた。


 水無月透は、誰かに見せるためではなく、ただ本当のことを書き続けた。三十年間、それだけを続けた。それだけで、十分だったのかもしれない——と、水無月自身が思っていたのかもしれない。


 そして、そうではなかった。


 十分ではなかった。


 本当のことを書いた言葉は、読まれることで完成する。


 水無月の言葉は今、読まれようとしている。


 十分になろうとしている。


 香織は青ふせんをそっと剥がした。


 もう、保留ではない。


 この一節の意味は、今の香織には分かる。

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