第5話
週が明けた月曜日、香織は里緒に連絡を取った。
今度はメッセージではなく、電話で。用件が複数あり、文字では伝えにくいと思ったからだ。
里緒はすぐに出た。
「村上さん、ちょうど連絡しようと思っていました」
「そうでしたか。何かありましたか」
「父の書斎を整理していたら、また出てきたものがあって」
香織は少し身を固くした。
「どんなものですか」
「手紙です。封筒に入っていて、宛名が書いてありました。馬渕様、と」
馬渕宛ての手紙。
遺稿と一緒に送られてきたものではない、別の手紙が、書斎に残っていた。
「封は、開いていましたか」
「いいえ、閉じたままです。父が書いて、でも送らなかったもの、だと思います。消印がないから」
送らなかった手紙。
書いたが、送ることを選ばなかった。あるいは、送る前に体が動かなくなった。
「里緒さん、近いうちにまたお会いできますか。お伝えしたいことがあって」
「今日でも大丈夫です。午後から時間があります」
「では、いつもの喫茶店で。昼過ぎにお伺いします」
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昼休みに珈琲館ふじに入ると、里緒はすでに窓際の席にいた。
今日は明るいベージュのコートを着ていた。会うたびに、少しずつ色が明るくなっている、と香織は思った。喪の色が、少しずつ薄れていく。それは悲しみが薄れることではなく、日常に戻っていくことだ。
「村上さん、お伝えしたいことというのは」
席に着くと、里緒が先に聞いた。
香織はコーヒーを頼んでから、二つのことを順番に話した。
一つ目、馬渕が『硝子の証人』と『空白の証言』を合わせて刊行したいという意向を持っていること。二つ目、地下書庫で『空白の証言』の原稿を発見したこと。
里緒は静かに聞いていた。
香織が話し終えると、里緒は少し間を置いてから言った。
「『空白の証言』が、あったんですね」
「はい。二十九年間、地下の書庫に保管されていました」
「父は、それを知っていたと思いますか」
香織は考えた。
「おそらく、知っていたと思います。当時の担当編集者として、馬渕さんが保管していた可能性がある。ただ、確認は取れていません」
里緒はしばらく窓の外を見た。
「父が生涯かけて言おうとしたことが、二つの原稿になって残っているということですね」
「そう思っています」
「それが、一緒に世に出る」
「馬渕さんの判断が、そうです。里緒さんの了承が必要ですが」
里緒はゆっくりと頷いた。
「出してください」
迷いのない言葉だった。
「父が三十年間書き続けた理由が、それなら——出さないことは、できません」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは、私の方です」里緒は香織を見た。「村上さんが、ここまで来てくださったから」
香織はその言葉を、素直に受け取ることにした。
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コーヒーが来てから、里緒が封筒を取り出した。
白い、普通の封筒だ。宛名の欄に、「馬渕様」と書かれていた。消印はない。切手も貼られていない。
「これが、書斎で見つかったものです」
香織は封筒を受け取った。
水無月の筆跡で書かれた「馬渕様」という文字を、しばらく見た。
「中身を確認することは、できますか」
「はい。私が開けていいかどうか迷ったんですが——村上さんに判断してほしくて、まだ開けていません」
「里緒さんが開けることを、お父さんは望んでいたと思います。宛名は馬渕さんですが、送られていない以上、これはお父さんの意思の中にある言葉です。里緒さんが読む権利があります」
里緒は少し考えてから、封筒を開けた。
中から、二枚の便箋が出てきた。
里緒が広げて、読んだ。
香織は待った。
里緒が読み終えるまで、一分ほどかかった。
読み終えた里緒の目が、かすかに潤んでいた。
「村上さんも、読んでいただけますか」
香織は便箋を受け取った。
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水無月透の手書きの文字が、二枚の便箋を埋めていた。
日付は、十月二十日。亡くなる一ヶ月ほど前だ。
*馬渕へ。*
*この手紙を送るかどうか、まだ決めていない。送らないかもしれない。しかし書かなければ、死ねない気がして、書いている。*
*お前に言いたいことが、三つある。*
*一つ目。九七年のことを、俺は恨んでいる。今でも、恨んでいる。正直に言う。あの原稿を潰されたとき、俺の中の何かが折れた。書き続けることへの信頼が、一度、完全に折れた。折れたものが戻るまでに、十年かかった。その十年間のことを、お前は知らない。俺がどれだけ書くことをやめようとしたか。やめた方が楽だと何度思ったか。それを言っておきたかった。*
*二つ目。それでも俺は書いた。書き続けた。それはお前のせいではない。書かずにはいられない性分だったということだ。人間というのは、自分の性分からは逃げられない。俺の性分は、書くことだった。それはお前が潰せるものではなかった。ある意味で、お前は失敗した。*
*三つ目。これが一番、言いたいことだ。*
*お前は今も、藤堂のことを覚えているか。*
*覚えているなら、それで十分だ。俺は謝罪を求めていない。罰を与えたいわけでもない。ただ、覚えているかどうかを知りたい。忘れた人間と、忘れられなかった人間とでは、その後の生き方が違う。お前がどちらであるかを、俺は知りたかった。*
*この原稿を送るかどうかは分からない。しかし、遺稿は送る。お前に読んでほしい。読んで、覚えているなら——何かをしてくれ。何をするかは、お前が決めろ。俺はもうそれを確認できないが、お前がどう動くかを、俺は信じて死ぬことにする。*
*水無月透*
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香織は読み終えて、便箋をゆっくりと折った。
里緒に返しながら、言った。
「馬渕さんに、見せてもいいですか」
里緒は少し考えた。
「はい。見せてください」
「手紙を渡すのではなく、内容を伝える形でも構いませんか。これはお父さんの言葉ですから、原本はあなたの手元にあるべきだと思います」
「内容を伝えていただくので十分です」
香織は頷いた。
水無月透は、馬渕に覚えているかを問いたかった。
答えは、もう分かっている。
馬渕は覚えていた。忘れたことは一度もなかった、と言った。
その答えを、水無月は生きているうちに聞けなかった。
しかし水無月は、信じて死ぬことにする、と書いた。
問いの答えを確認できなくても、信じることを選んだ。
香織はコーヒーを一口飲んだ。
冷めていたが、苦みが口の中に広がった。その苦みが、今は悪くなかった。
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喫茶店を出る前に、里緒が言った。
「村上さん、父の本が出たら、買います」
「ぜひ」
「校閲者の名前って、本に載りますか」
香織は少し驚いた。
「奥付に載ることもありますし、載らないこともあります。担当編集者の判断によります」
「載せてもらえるように、お願いできますか」
「なぜですか」
里緒は少し微笑んだ。
「父の本を読む人に、知っていてほしいんです。この本の言葉を、最後まで正確に読んだ人間がいたということを。名前があれば、その人が確かにいた証になるから」
名前があれば、その人が確かにいた証になる。
香織は里緒の言葉を、胸の中に収めた。
それは水無月が藤堂の名前を原稿に刻んだことと、同じ意味を持っていた。
言葉の中に名前を残すことで、その人間が確かに存在したことを示す。
水無月透がしてきたことを、里緒は自然な言葉で言い直した。
「伝えます」
香織は短く答えて、喫茶店のドアを開けた。
三月の風が、顔に当たった。
冷たかったが、その中に春の気配が混じっていた。確かに、混じっていた。




