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最後の校閲  作者: ジェミラン
第三章「没原稿の声」
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第5話

 週が明けた月曜日、香織は里緒に連絡を取った。


 今度はメッセージではなく、電話で。用件が複数あり、文字では伝えにくいと思ったからだ。


 里緒はすぐに出た。


「村上さん、ちょうど連絡しようと思っていました」


「そうでしたか。何かありましたか」


「父の書斎を整理していたら、また出てきたものがあって」


 香織は少し身を固くした。


「どんなものですか」


「手紙です。封筒に入っていて、宛名が書いてありました。馬渕様、と」


 馬渕宛ての手紙。


 遺稿と一緒に送られてきたものではない、別の手紙が、書斎に残っていた。


「封は、開いていましたか」


「いいえ、閉じたままです。父が書いて、でも送らなかったもの、だと思います。消印がないから」


 送らなかった手紙。


 書いたが、送ることを選ばなかった。あるいは、送る前に体が動かなくなった。


「里緒さん、近いうちにまたお会いできますか。お伝えしたいことがあって」


「今日でも大丈夫です。午後から時間があります」


「では、いつもの喫茶店で。昼過ぎにお伺いします」


---


 昼休みに珈琲館ふじに入ると、里緒はすでに窓際の席にいた。


 今日は明るいベージュのコートを着ていた。会うたびに、少しずつ色が明るくなっている、と香織は思った。喪の色が、少しずつ薄れていく。それは悲しみが薄れることではなく、日常に戻っていくことだ。


「村上さん、お伝えしたいことというのは」


 席に着くと、里緒が先に聞いた。


 香織はコーヒーを頼んでから、二つのことを順番に話した。


 一つ目、馬渕が『硝子の証人』と『空白の証言』を合わせて刊行したいという意向を持っていること。二つ目、地下書庫で『空白の証言』の原稿を発見したこと。


 里緒は静かに聞いていた。


 香織が話し終えると、里緒は少し間を置いてから言った。


「『空白の証言』が、あったんですね」


「はい。二十九年間、地下の書庫に保管されていました」


「父は、それを知っていたと思いますか」


 香織は考えた。


「おそらく、知っていたと思います。当時の担当編集者として、馬渕さんが保管していた可能性がある。ただ、確認は取れていません」


 里緒はしばらく窓の外を見た。


「父が生涯かけて言おうとしたことが、二つの原稿になって残っているということですね」


「そう思っています」


「それが、一緒に世に出る」


「馬渕さんの判断が、そうです。里緒さんの了承が必要ですが」


 里緒はゆっくりと頷いた。


「出してください」


 迷いのない言葉だった。


「父が三十年間書き続けた理由が、それなら——出さないことは、できません」


「ありがとうございます」


「お礼を言うのは、私の方です」里緒は香織を見た。「村上さんが、ここまで来てくださったから」


 香織はその言葉を、素直に受け取ることにした。


---


 コーヒーが来てから、里緒が封筒を取り出した。


 白い、普通の封筒だ。宛名の欄に、「馬渕様」と書かれていた。消印はない。切手も貼られていない。


「これが、書斎で見つかったものです」


 香織は封筒を受け取った。


 水無月の筆跡で書かれた「馬渕様」という文字を、しばらく見た。


「中身を確認することは、できますか」


「はい。私が開けていいかどうか迷ったんですが——村上さんに判断してほしくて、まだ開けていません」


「里緒さんが開けることを、お父さんは望んでいたと思います。宛名は馬渕さんですが、送られていない以上、これはお父さんの意思の中にある言葉です。里緒さんが読む権利があります」


 里緒は少し考えてから、封筒を開けた。


 中から、二枚の便箋が出てきた。


 里緒が広げて、読んだ。


 香織は待った。


 里緒が読み終えるまで、一分ほどかかった。


 読み終えた里緒の目が、かすかに潤んでいた。


「村上さんも、読んでいただけますか」


 香織は便箋を受け取った。


---


 水無月透の手書きの文字が、二枚の便箋を埋めていた。


 日付は、十月二十日。亡くなる一ヶ月ほど前だ。


*馬渕へ。*


*この手紙を送るかどうか、まだ決めていない。送らないかもしれない。しかし書かなければ、死ねない気がして、書いている。*


*お前に言いたいことが、三つある。*


*一つ目。九七年のことを、俺は恨んでいる。今でも、恨んでいる。正直に言う。あの原稿を潰されたとき、俺の中の何かが折れた。書き続けることへの信頼が、一度、完全に折れた。折れたものが戻るまでに、十年かかった。その十年間のことを、お前は知らない。俺がどれだけ書くことをやめようとしたか。やめた方が楽だと何度思ったか。それを言っておきたかった。*


*二つ目。それでも俺は書いた。書き続けた。それはお前のせいではない。書かずにはいられない性分だったということだ。人間というのは、自分の性分からは逃げられない。俺の性分は、書くことだった。それはお前が潰せるものではなかった。ある意味で、お前は失敗した。*


*三つ目。これが一番、言いたいことだ。*


*お前は今も、藤堂のことを覚えているか。*


*覚えているなら、それで十分だ。俺は謝罪を求めていない。罰を与えたいわけでもない。ただ、覚えているかどうかを知りたい。忘れた人間と、忘れられなかった人間とでは、その後の生き方が違う。お前がどちらであるかを、俺は知りたかった。*


*この原稿を送るかどうかは分からない。しかし、遺稿は送る。お前に読んでほしい。読んで、覚えているなら——何かをしてくれ。何をするかは、お前が決めろ。俺はもうそれを確認できないが、お前がどう動くかを、俺は信じて死ぬことにする。*


*水無月透*


---


 香織は読み終えて、便箋をゆっくりと折った。


 里緒に返しながら、言った。


「馬渕さんに、見せてもいいですか」


 里緒は少し考えた。


「はい。見せてください」


「手紙を渡すのではなく、内容を伝える形でも構いませんか。これはお父さんの言葉ですから、原本はあなたの手元にあるべきだと思います」


「内容を伝えていただくので十分です」


 香織は頷いた。


 水無月透は、馬渕に覚えているかを問いたかった。


 答えは、もう分かっている。


 馬渕は覚えていた。忘れたことは一度もなかった、と言った。


 その答えを、水無月は生きているうちに聞けなかった。


 しかし水無月は、信じて死ぬことにする、と書いた。


 問いの答えを確認できなくても、信じることを選んだ。


 香織はコーヒーを一口飲んだ。


 冷めていたが、苦みが口の中に広がった。その苦みが、今は悪くなかった。


---


 喫茶店を出る前に、里緒が言った。


「村上さん、父の本が出たら、買います」


「ぜひ」


「校閲者の名前って、本に載りますか」


 香織は少し驚いた。


「奥付に載ることもありますし、載らないこともあります。担当編集者の判断によります」


「載せてもらえるように、お願いできますか」


「なぜですか」


 里緒は少し微笑んだ。


「父の本を読む人に、知っていてほしいんです。この本の言葉を、最後まで正確に読んだ人間がいたということを。名前があれば、その人が確かにいた証になるから」


 名前があれば、その人が確かにいた証になる。


 香織は里緒の言葉を、胸の中に収めた。


 それは水無月が藤堂の名前を原稿に刻んだことと、同じ意味を持っていた。


 言葉の中に名前を残すことで、その人間が確かに存在したことを示す。


 水無月透がしてきたことを、里緒は自然な言葉で言い直した。


「伝えます」


 香織は短く答えて、喫茶店のドアを開けた。


 三月の風が、顔に当たった。


 冷たかったが、その中に春の気配が混じっていた。確かに、混じっていた。

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