第4話
馬渕から連絡が来たのは、三日後だった。
内線ではなく、メールだった。
件名は「水無月氏原稿について」。本文は短かった。
*今週金曜日、時間を取りたい。会議室で。三十分ほどいただけますか。*
香織は即座に返信した。
*承知しました。何時でも構いません。*
金曜日まで、あと二日ある。
その二日間、馬渕は何を考えているのか。香織には分からない。しかし、メールを送ってきたという事実が、何かを示していた。沈黙を選んでいない。動こうとしている。
その判断を、香織は待つことにした。
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金曜日までの二日間、香織は『空白の証言』を丁寧に読み直した。
今度は、校閲者の目で読んだ。
最初に読んだときは、内容の把握に集中していた。誰が誰で、何が起きているのかを理解することに、意識のほとんどを使っていた。しかし二度目は違う。言葉そのものを、一文ずつ確認した。
二十九年前の原稿だ。
誤字脱字がある。表記のぶれがある。事実確認が必要な箇所もある。しかし文章の構造は、揺るぎない。若い水無月の文体は、『硝子の証人』より荒削りだが、その荒削りさが力になっている。削れていない部分に、感情の密度がある。
香織は赤ペンを走らせた。
誰に頼まれたわけでもない。この原稿の校閲は、正式な業務ではない。しかし、やらずにはいられなかった。
言葉の骨が、見える。
その骨を正しく立たせることが、校閲者の仕事だ。三十年間変わらない、香織の仕事の定義だ。
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木曜日の夕方、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、『空白の証言』、読み終わりましたか」
「二度目を読んでいます」
「あの、お願いがあるんですが」
「何ですか」
三枝は少し躊躇ってから言った。
「私にも、読ませてもらえませんか。内部資料として、業務の参考に」
香織は三枝を見た。
「業務の参考に、というのは」
「はい。私も水無月さんの作品を担当している部署にいます。『夜の棚卸し』も読みました。『硝子の証人』の原稿も、横で見ています。その作家の別の作品を読むことは、業務上の理解を深めるために必要だと思います」
理屈は通っている。しかし三枝が本当に読みたい理由は、そこだけではないと香織は思った。
この物語全体に、三枝は関わっている。書庫で資料を調べ、大石に協力を頼み、香織の食事を心配した。その三枝が、この原稿を読みたいと思うことは、自然だった。
「明日の会議が終わってから、貸します」
三枝の目が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「ただし、社外には持ち出さないこと」
「はい、もちろんです」
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金曜日の午後三時、香織は会議室に入った。
馬渕はすでに来ていた。
テーブルの上に、二冊の原稿が置かれていた。
一冊は『硝子の証人』。香織が校閲中のものだ。もう一冊は『空白の証言』。どちらも、馬渕の手元に揃っていた。
「座ってください」
馬渕の声は、先週より落ち着いていた。三日間で、何かが整理されたのだと香織は感じた。
「結論から言います」
馬渕は二冊の原稿を手で示しながら言った。
「この二つの原稿を、両方刊行したいと思っています」
香織は表情を変えなかったが、胸の中で何かが動いた。
「『硝子の証人』を単独で刊行するのではなく、『空白の証言』と合わせて、一つの作品集として出す。二十九年を挟んだ、同じ作家の二つの作品として」
「それは、編集部として正式に動けますか」
「動けます。水無月の遺族——里緒さんの了解を取ることが必要ですが、編集の判断としては、動かせます」
「桐嶋の件は」
「対処できます」馬渕は静かに言った。「先日話した通り、あの著者との関係は俺が直接持っている。桐嶋がその著者を盾に使うことは、難しくなっています。それ以外のルートで何か動いてきたとしても——今回は、退かない」
今回は退かない。
その言葉の重さを、香織は静かに受け取った。
「ただ」馬渕は続けた。「一つ、あなたに頼みたいことがあります」
「何ですか」
「里緒さんに、会ってほしい。『空白の証言』の存在を伝えて、刊行の意向を確認してほしい。俺が直接行くより、あなたが行く方がいいと思っています」
香織は少し考えた。
「なぜ私が」
「里緒さんは、あなたを信頼しています。二冊のノートを渡したことが、それを示しています。俺が行けば——俺は里緒さんにとって、父親の言葉を二度潰した人間です。まず信頼を得るところから始めなくてはならない」
それは正直な自己評価だった。
「私からも、里緒さんに会うつもりでした。校閲が終わることを伝えなくてはならないから」
「校閲は、終わりに近いですか」
「『硝子の証人』は、今週中に終わります。『空白の証言』を正式に担当するかどうかは、まだ決まっていませんが——」
「担当してほしい」
馬渕は香織を正面から見て言った。
「この二つの原稿を、あなたに校閲してほしい。最後まで」
香織はしばらく馬渕を見た。
三十年間、校閲の仕事をしてきた。担当編集者から、直接そう言われたことは何度もある。しかし今日の馬渕の言葉は、それらとは質が違った。
お願いではなく、信頼の言葉として届いた。
「分かりました」
香織は短く答えた。
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会議が終わり、廊下に出た。
馬渕が歩き出す前に、香織は言った。
「馬渕さん、一つだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「三日間、何を考えていましたか」
馬渕は少し間を置いた。
「藤堂のことを考えていた」
「どんなことを」
「あいつに、謝る方法を考えていた」
謝る方法。
藤堂誠一は死んでいる。言葉で謝ることは、もうできない。
「方法は、見つかりましたか」
馬渕は少し目を細めた。
「一つだけある、と思った」
「それが、刊行ですか」
「そうだ」馬渕は静かに言った。「水無月が書き続けた。藤堂のことを、言葉の中に残し続けた。その言葉を、正しく世に出すことが——俺にできる、唯一の謝り方だと思った」
唯一の謝り方。
香織は、その言葉を繰り返した。
藤堂誠一は死んでいる。しかし言葉は残っている。言葉が残っているかぎり、謝ることは遅すぎない。
「一つ、お伝えしていいですか」
「何だ」
「水無月先生は、日記にこう書いていました。馬渕を憎んでいるかと問われれば、正直に答えられない、と。しかし——馬渕なら分かるはずだと、信じていた、とも書いていました」
馬渕は香織を見た。
「先生は、あなたを信じていました。三十年間、怒りながらも、信じていた」
沈黙。
馬渕の目が、かすかに揺れた。
それ以上は何も言わなかった。
廊下を、馬渕は静かに歩いていった。
その背中は、先週より少しだけ、軽くなった気がした。
重さが消えたのではない。重さを、正しく持ち直した背中だった。
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校閲部に戻ると、三枝が「どうでしたか」と聞いた。
「刊行の方向で動くことになりました」
三枝の目が、大きく開いた。
「本当ですか」
「はい。『硝子の証人』と『空白の証言』、両方合わせて」
「すごい」三枝は小さく、しかし確かな声で言った。「よかった」
その一言が、香織には十分だった。
デスクに座り、赤ペンを手に取った。
やるべき仕事がある。
校閲は、まだ終わっていない。




