第3話
『空白の証言』を読み終えたのは、翌日の午前中だった。
最後のページを読んで、香織はしばらく原稿を閉じなかった。
黄ばんだ表紙を見つめながら、二十九年前の水無月透のことを思った。二十代か三十代の、まだ若い水無月が、この原稿を書いた。怒りを持って書いた。しかし怒りだけではなく、言葉への信頼を持って書いた。
この原稿は、世に出なかった。
倉田——桐嶋義雄の意向で、握り潰された。馬渕という人間を通して。
しかし今、香織の手の中にある。
二十九年間、地下の暗い書庫で、段ボール箱の中に眠っていた。誰にも読まれず、しかし確かに存在し続けた。言葉というのは、読まれなくても消えない。書かれた瞬間から、それは存在する。
香織はゆっくりと原稿を閉じた。
今日、馬渕に話す。
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午前十時半、香織は内線を入れた。
馬渕は在席していた。
「少し時間をいただけますか。会議室で」
今度は香織から呼んだ。
会議室に入ると、馬渕が先に来て座っていた。香織は向かいに座り、テーブルの上に『空白の証言』の原稿を置いた。
馬渕の目が、原稿に向いた。
その目が、わずかに揺れた。
「どこで見つけた」
「地下の書庫です。一九九七年の資料が入った段ボール箱の中に」
馬渕は原稿から目を離さなかった。
「読んだか」
「はい。全部」
沈黙。
馬渕の手が、テーブルの上でわずかに動いた。原稿に触れようとして、止まった。
「沢木は、藤堂ですね」香織は静かに言った。「橋本は、あなたです」
馬渕は答えなかった。
「倉田は、桐嶋義雄です」
また、沈黙。
「馬渕さん、第四章の場面について、聞かせてください」
馬渕がようやく顔を上げた。
「沢木が倉田に証拠を示す場面で、倉田は言います。橋本から聞いた、お前が動いていると、と。橋本が倉田に、沢木の動きを告げていた」
香織は馬渕の目を見た。
「これは事実ですか」
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会議室に、長い沈黙が落ちた。
廊下を誰かが歩く音がした。遠くでコピー機が動く音がした。それらが止むと、また静かになった。
馬渕はテーブルの上に視線を落としたまま、動かなかった。
香織は待った。
この沈黙を、急かしてはいけない。三十年間、誰にも言えなかった言葉が出てくるまでには、時間がかかる。時間をかける権利が、馬渕にはある。
二分ほどして、馬渕が口を開いた。
「……事実だ」
その三文字が、会議室の空気を変えた。
「藤堂が動き始めたとき、俺は桐嶋に報告した。九七年のことだ。藤堂が不正を調べようとしている、と。水無月がそれを取材していることも、伝えた」
「なぜ」
「桐嶋への借りがあったからだ。それだけではなく——恐かった。藤堂が動けば、俺の関与も明らかになる可能性があった。俺は九七年の時点で、桐嶋の仕組みを一部知っていた。知っていながら黙っていた。それが露見することを、恐れた」
馬渕の声は平坦だった。感情を抑えているのではなく、もう感情が出てこない場所まで来ているように聞こえた。
「桐嶋は俺の報告を受けて、どう動いたか——詳しくは知らない。ただ、水無月の原稿が否決され、藤堂が動きを止めた。結果として、そうなった」
「水無月先生は、橋本——あなたが倉田に告げたことを、知っていたんですね」
「知っていたんだろう」馬渕は少し目を閉じた。「取材力のある人間だった。藤堂から聞いたか、あるいは他のルートで——どちらにせよ、知っていた。だからこの原稿に書いた」
香織は『空白の証言』の表紙を見た。
水無月は、橋本の裏切りを知りながら、橋本を悪人として書かなかった。
沢木は言った。「橋本はそういう男だと、最初から分かっていた」と。
怒りではなく、了解として。
水無月の言葉の成熟は、二十九年前から始まっていた。
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「もう一つ、聞かせてください」
馬渕は顔を上げた。
「この原稿が没になった後、水無月先生に何と言いましたか」
「編集会議で否決された、と言った。理由は時期が悪い、と」
「それだけですか」
馬渕は少し間を置いた。
「謝らなかった。本当のことも言わなかった。ただ、否決された、と」
「先生はどう言いましたか」
「……何も言わなかった。電話の向こうで、少し間があって。それから、分かりました、とだけ言った」
分かりました。
その二文字の中に、何が入っていたのか。
諦めか。怒りか。それとも——何かを決意するための、静かな間か。
「先生はその後、また書き続けた。二十九年間」
「ああ」
「馬渕さん、それを知っていましたか」
「知らなかった。書いていることは、電話で話すたびに少し触れることはあった。しかし、これほど書き続けていたとは——」
馬渕の言葉が、途切れた。
『硝子の証人』が届いたとき、馬渕は何を感じたか。二十九年間書き続けた人間の、最後の原稿を手にして。
香織は聞かなかった。
聞かなくても、分かる気がした。
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少しの沈黙の後、香織は言った。
「馬渕さん、この原稿のことを、『硝子の証人』と一緒に考えてほしいんです」
「どういう意味だ」
「二つの原稿は、一本の線でつながっています。二十九年を挟んで、同じ作家が書いた、同じ問いへの答えです。若い水無月先生の怒りと、晩年の水無月先生の成熟が——対になっている」
馬渕は香織を見た。
「それを、読者に届けることができるかどうか、私には判断できません。編集の仕事は、あなたのものだから。しかし、校閲者として言えることがあります」
「何だ」
「この二つの原稿は、どちらも本物です。言葉の骨格が、揺るぎない。二十九年という時間が、言葉を腐らせていない。それだけは、確かです」
馬渕はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと原稿に手を伸ばした。
今度は止めなかった。
表紙に触れて、指先でなぞるように文字を確認した。
『空白の証言』 水無月透。
「俺が、この原稿を握り潰した」
馬渕はそう言いながら、しかし原稿から手を離さなかった。
「二十九年前に、この言葉を闇に葬った。それは変わらない事実だ」
「はい」
「変えられない」
「はい」
「しかし」馬渕は原稿を、ゆっくりと自分の方に引き寄せた。「今、ここにある」
その言葉は、独り言のように低かった。
しかし香織には、聞こえた。
今、ここにある。
二十九年間、暗い書庫に眠っていた言葉が、今、馬渕の手の中にある。
それが何を意味するのか、まだ形になっていない。しかし、動き始めている。
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会議室を出た後、廊下で馬渕が言った。
「村上さん、少し待ってくれ」
「はい」
「もう少しだけ、待ってくれ。俺の中で、整理しなくてはならないことがある」
香織は頷いた。
「待ちます」
馬渕は頷いて、管理職ゾーンへ戻っていった。
その背中を見送りながら、香織は思った。
馬渕は今、三十年分の重さを一人で持ち直そうとしている。
それには時間がかかる。
しかし今度は、持ち直した先に、どこへ行くかが見えている。そういう背中だった。
香織は校閲部に戻り、デスクに座った。
『硝子の証人』の原稿と、『空白の証言』の原稿を、並べて置いた。
二つの原稿が、並んでいる。
二十九年という時間を挟んで、同じ作家が書いた、二つの言葉。
赤ペンを手に取った。
まだ、やるべき仕事がある。




