第2話
『空白の証言』を、香織は昼休みも使って読んだ。
今日は外に出なかった。コンビニで買ってきたサンドイッチを、原稿の脇に置いたまま忘れた。三枝が「また食べてない」と呆れたが、香織は気づかなかった。
読み始めて三十分で、この原稿が何であるかを理解した。
『空白の証言』は、一九九七年当時の出版社を舞台にした小説だった。
主人公は、中堅出版社に勤める若い編集者の男性、「沢木」。二十代後半、仕事に誠実で、著者との関係を大切にしている。同期に、「橋本」という男がいる。橋本は沢木より要領が良く、上の人間への気の遣い方が上手い。二人は同期として仲が良いが、仕事への向き合い方は少しずつ違う。
そして、二人の上司として「倉田」という局長が登場する。
香織はその三人の名前を読んだとき、すぐに対応関係を理解した。
沢木は藤堂誠一だ。橋本は馬渕健二だ。倉田は桐嶋義雄だ。
名前は変えてあるが、水無月は三十年前から、この三人のことを書いていた。
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物語は、沢木が倉田の不正に気づくところから始まる。
著者への印税支払いの処理が、帳簿上の数字と実際の振込額に、微妙なずれがある。沢木は経理担当者と話しているうちに、そのずれが偶発的なものではないことに気づく。一定のパターンがある。特定の著者への支払いだけが、わずかに少ない。
沢木は橋本に相談する。
橋本はしばらく考えてから言う。「見なかったことにしろ」と。
沢木は従えない。
しかし橋本の言葉には、続きがある。「俺も知っている。ずっと前から知っている。でも、あの人には逆らえない。あの人に恩がある」
沢木は橋本を見て、言う。「恩があるから、著者を騙すのか」
橋本は答えない。
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香織は読みながら、手を止めた。
橋本は沢木に「見なかったことにしろ」と言った。
しかし馬渕は、会議室で香織にこう言った。「藤堂のことを知っていたが、聞かなかった振りをした」と。
小説の橋本と、現実の馬渕は、ほぼ一致している。
水無月透は一九九七年に、この場面を書いた。藤堂から話を聞いて、取材して、正確に書いた。
つまり、この小説に書かれていることは、フィクションではあるが、事実を基にしている。
馬渕は若い頃から、藤堂が不正を疑っていることを知っていた。そして沈黙を選んだ。「見なかったことにしろ」と言った。
それが九七年の話だ。
二〇一四年に藤堂が正式に告発しようとしたとき、馬渕はまた沈黙した。藤堂の退職勧奨を止めなかった。
二十年近い時間を挟んで、馬渕は同じ選択を繰り返した。
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第二章に入ると、物語の焦点が沢木から倉田に移る。
倉田という人物の造形が、緻密だった。
表向きは豪快で面倒見が良く、部下から慕われている。業界内での顔が広く、著者との関係も良好だ。しかしその裏で、長年かけて小さな不正を積み重ねてきた。一回一回の金額は小さい。しかし積み重なると、相当な額になる。
倉田は、その仕組みを一人では作れなかった。信頼できる部下を何人か引き込んでいた。弱みを握った者、借りを作った者、気づかないまま関わってしまった者。
香織は桐嶋の顔を思い浮かべた。
会ったことはない。顔も知らない。しかし水無月の描く倉田を通して、桐嶋という人間の輪郭が見えてきた気がした。
第三章で、沢木は単独で動き始める。
橋本に見放された後、沢木は一人で証拠を集めようとする。経理の書類を調べ、複数の著者に、それとなく話を聞く。著者たちは、振込額が少ないことに気づいていたが、出版社との関係を壊したくなくて黙っていた、と語る。
沢木は怒りを感じる。
著者への怒りではない。黙らせていた組織への怒りだ。書くという行為を生業にしている人間が、書いた対価を正当に受け取れていない。その事実への怒りが、沢木を動かしていた。
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第四章で、小説は急展開を迎えた。
沢木が倉田に直接、証拠を示す場面だ。
倉田は怒らなかった。
静かに、沢木の言葉を聞いた。
それから言った。「橋本から聞いた。お前が動いていると」
橋本が、倉田に告げていた。
沢木は裏切られたとは思わなかった、と小説の中で書かれている。橋本はそういう男だと、最初から分かっていた、と。
倉田は続けて言う。「お前を責めない。しかし、これ以上動くなら、お前の居場所はこの会社にはなくなる」
沢木は答えない。
しかし、動くことをやめない。
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香織はそこまで読んで、窓の外を見た。
午後の日差しが、斜めに差し込んでいた。三月の光だ。二月より少しだけ角度が浅い。
橋本が、倉田に告げた。
現実の馬渕が、現実の桐嶋に、藤堂の動きを報告していたとすれば。
水無月は、それを知っていたということになる。
しかし馬渕は会議室で、そのことを話さなかった。藤堂の退職勧奨を止めなかったことは認めた。しかし、桐嶋に藤堂の動きを報告したとは言わなかった。
言わなかった、というのは——言えなかったのか。あるいは、事実ではないのか。
小説と現実は、一致しない部分もある。
水無月は取材を基に書いたが、水無月が知り得なかった事実もある。フィクションとして、補完した部分もあるはずだ。
橋本が倉田に告げたという場面が、事実なのか、水無月の想像なのか、今の時点では判断できない。
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第五章を読み始めた頃、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、サンドイッチ、もう食べられないですよ」
香織は手元を見た。包みがぬるくなっていた。
「ありがとう」
「どうでしたか、原稿」
香織は少し考えてから言った。
「三十年前の水無月先生が、ここにいる感じがします」
「どういう意味ですか」
「若い水無月先生が。怒っている。言葉で、真っ直ぐに怒っている」
三枝はしばらく香織の顔を見た。
「それって、良い原稿ってことですよね」
「良い原稿です。荒削りだけど、力がある。三十年後の『硝子の証人』より、怒りの温度が高い。三十年でその怒りが冷めたのではなく——成熟した、という感じがします」
「成熟した怒りと、若い怒り」
「どちらも、本物だけど、形が違う」
三枝は頷いた。
「読み終わったら、私にも貸してください」
「内部資料だから、外には出せないけど——読むだけなら」
「ありがとうございます」三枝は嬉しそうに言った。「楽しみにしてます」
香織はサンドイッチの包みを開けた。
冷たくなっていたが、食べた。
言葉を読む仕事をしている人間が、食事を忘れていてはいけない、と思った。
水無月透は病院のベッドでも書き続けた。香織にできることは、せめて食事をしながら読むことだ。
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第五章の中盤に、香織が止まる一節があった。
沢木が夜、一人でデスクに向かっている場面だ。会社の誰もいない時間に、一人で書類を広げている。その場面の地の文に、こう書かれていた。
*沢木は、なぜ自分がこれほど怒っているのか、分からなかった。損をしているのは自分ではない。不当に扱われているのは著者たちであって、沢木ではない。それでも怒りが収まらないのは——言葉を商品として扱う場所で、言葉を書いた人間が正当に扱われていないという事実が、何か根本的なものを傷つけるからかもしれなかった。*
*言葉は、正直に扱われなくてはならない。*
*それが、沢木の、動かしようのない信念だった。*
香織は、その一節に赤ではなく青ふせんを貼った。
言葉は、正直に扱われなくてはならない。
藤堂誠一という人間の核が、ここにある、と思った。
そしてそれは、自分が三十年間守ろうとしてきたものと、同じ形をしていた。




