第1話
三月になった。
カレンダーをめくりながら、香織はデスクの隅の数字を確認した。定年まで、あと一年と四十四日。
数字は変わらず、そこにある。しかし今月は、その数字の見え方が少し違った。カウントダウンではなく、残り時間として見ている自分が、先月よりはっきりしていた。
やれることがある。
その感覚が、数字の意味を変えていた。
窓の外では、まだ冬の色をした空の下に、街路樹の梢が揺れていた。葉はまだ出ていないが、枝の先端がわずかに膨らんでいる。芽吹きの前の、準備の形だ。
香織はコートを脱ぎ、席に座った。
今日からは、三章の仕事が始まる。
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前夜、馬渕に二冊目のノートの内容を伝えた。
正確には、伝えるべき部分を選んで伝えた。水無月が馬渕への怒りではなく、覚えていることへの期待を書いていたこと。馬渕が忘れていないことを、水無月はすでに知っていたこと。そして、原稿を馬渕に送ったのは、告発ではなく、形として示してほしかったからだということ。
馬渕は電話の向こうで、長い間黙っていた。
それから一言だけ言った。
「分かった」
その一言の中に、何が入っていたのか。香織には分からない。しかし、何かが入っていた。空の器ではない、確かな重さのある一言だった。
電話を切った後、香織はしばらくソファに座っていた。
水無月透が書いた言葉は、三十年間封じられていた。しかし今、少しずつ動き始めている。馬渕という人間を動かし、里緒という人間に届き、香織という人間の仕事の意味を変えた。
言葉は、書かれた瞬間だけに生きるのではない。
読まれるたびに、新しく生きる。
その事実を、香織はこの一ヶ月で、改めて体の奥に刻んだ。
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午前十時を回った頃、香織は席を立った。
向かう先は、地下の書庫だ。
この会社のビルには、地下に二層の倉庫がある。地下一階は現在進行中の在庫と資材。地下二階は過去の資料と、刊行済みの見本誌、そして——没になった原稿の一部が保管されている。
没原稿がすべて保管されているわけではない。デジタル化される以前の紙原稿は、編集者の判断で処分されることもある。しかし慎重な編集者は、たとえ没にした原稿でも、一定期間は保管しておく。著者から返還を求められることがあるからだ。
馬渕は慎重な編集者だ、と香織は思っていた。
だとすれば、一九九七年に没にされた『空白の証言』が、地下に眠っている可能性がある。
二十九年という時間は長い。処分されている可能性の方が高い。
しかし、探さなくてはならない。
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地下二階への階段は、ビルの裏手にある。
普段ほとんど使われない通路を通り、香織は階段を下りた。地下特有の冷たい空気が、足首のあたりから上がってきた。湿った紙の匂いがした。
地下二階のドアを開けると、広い空間に段ボール箱と書棚が並んでいた。
蛍光灯が一本、端でちらついていた。
香織はスマートフォンのライトを点けた。
書棚には年代別にラベルが貼られていた。しかし古いものはラベルが剥がれかけていて、読みにくい。香織は棚を端から順番に確認しながら、一九九七年前後のものを探した。
一九九九年。一九九八年。
その隣の棚に、一九九七年のラベルが見えた。
段ボール箱が三つ、積み上げられていた。一番上の箱を下ろして、フタを開けた。
中に入っていたのは、束になった紙原稿とフロッピーディスクだった。フロッピーディスクは、今となっては読み取る機械がない。しかし紙原稿は、読める。
香織は一枚一枚、表紙を確認した。
著者名と題名が書かれたものもある。何も書かれていないものもある。
一つ目の箱には、それらしいものはなかった。
二つ目の箱を開けた。
古い紙の匂いが、強くなった。フタを開けた瞬間、細かい埃が舞い上がった。
香織は手で埃を払いながら、中を確認した。
十数束の原稿が、縦に並べて入っていた。
一束ずつ、表紙を確認する。
六束目だった。
表紙には、手書きで題名が書かれていた。
『空白の証言』。
著者名の欄には、水無月透。
香織は原稿を手に取った。
束の厚みは、百五十枚ほどだ。『硝子の証人』の半分以下。中編の長さだ。
表紙の紙は、二十九年の時間で黄ばんでいた。しかし文字は、はっきりと読めた。
万年筆の筆跡。『硝子の証人』と同じ、あの筆跡だ。
二十九年前の水無月透が、ここに手を置いて書いた。
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原稿を両手で抱えて、地下から上がった。
校閲部に戻り、デスクに置いた。
三枝が「それ、何ですか」と聞いた。
「水無月透の二作目」
三枝の目が丸くなった。
「あったんですか、地下に」
「あった」
「すごい」三枝はしばらく原稿を見てから、「読んでいいですか」と聞いた。
「今は待って。まず私が読む」
「はい、すみません」
三枝はすぐに引いた。その素直さが、香織は好きだった。
香織は椅子を引いて座り、表紙をめくった。
最初の一文を、目で追った。
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*私は、消された言葉について書く。*
*消した者の名前を書くことは、今はできない。しかしいつか書く。書ける日が来ると信じて、今日はここまでにしておく。*
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冒頭の二文を読んで、香織は動かなかった。
消した者の名前を書くことは、今はできない。しかしいつか書く。
水無月は一九九七年に、そう書いた。
そして三十年後、『硝子の証人』の中に、藤堂誠一という名前を刻んだ。
いつか書く、という約束を——水無月は守った。
三十年かかったが、守った。
香織は深く息を吸い、続きを読み始めた。
黄ばんだ紙の上に並ぶ文字が、二十九年分の沈黙を破って、ゆっくりと声を上げた。




