第9話
二冊目のノートを、香織はその夜に読んだ。
図書館ではなく、自宅で読んだ。
香織のアパートは、駅から徒歩十二分の場所にある。1LDKの間取りで、三十年近く一人で住んでいる。本棚が三つあり、壁の半分以上を占めている。辞書と事典だけで一棚を使っている。殺風景だと言われたことがあるが、自分ではそう思わない。必要なものが、必要な場所にある部屋だと思っている。
台所でお茶を入れてから、ソファに座ってノートを開いた。
八月一日から始まっていた。
*八月一日*
*原稿を書き終えてから、十日が経つ。体が少し楽になった気がする。書いている間は、気力だけで体を動かしていたから、終わったら一気に崩れると思っていた。しかしそうでもなかった。むしろ、静かな気持ちでいる。やるべきことをやった、という感覚がある。それだけで十分だと思っている。*
*里緒へ。*
*このノートは、お前に読んでほしくて書く。伝えたいことが、いくつかある。*
香織は読む手を止めた。
里緒へ、という書き出しが、八月一日のページから始まっていた。
つまりこのノート全体が、娘への手紙として書かれている。
それを里緒は自分で読み、香織に渡した。
香織は少し考えてから、読み続けた。
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*八月一日(続き)*
*最初に謝らなくてはならない。お前が子供の頃、父親としての時間を、十分に作れなかった。書くことに向けるべきエネルギーを、家庭から奪っていた。お前の母親が、どれだけ一人で担っていたか。今になって、ようやく分かる。今になって分かることの、なんと多いことか。*
*お前は私に似ている。物事を自分の中で抱え込む癖がある。人に頼ることが苦手だ。それは私から受け継いだものだと思う。だとすれば、申し訳ない。それは、楽な生き方ではないから。*
香織はページをめくった。
*八月十五日*
*今日は終戦記念日だ。毎年この日に、藤堂のことを考える。あいつが死んだのは十一月だったが、なぜか毎年八月十五日に思い出す。*
*里緒、藤堂誠一という人間のことを書く。お前には一度も話したことがない。しかし、私の人生で最も後悔していることに、藤堂は関係している。*
*藤堂は私の取材に、最後まで応じてくれた人間だった。二〇一四年に告発しようとしていたとき、私はあいつに会いに行った。何度も会った。あいつが経理の書類を見せてくれたから、私は桐嶋のやり方を具体的に理解することができた。*
*しかし私は、そのときに何もできなかった。取材した。書こうとした。しかし馬渕に断られた。それ以上の手段が、私にはなかった。*
*藤堂が退職させられると聞いたとき、私は電話一本しなかった。すべきだった。何か言うべきだった。しかし電話機を前にして、何も言えなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。*
*それが、私の罪だ。*
香織はそこで一度、ノートを閉じた。
お茶を一口飲んだ。冷めていた。
水無月透は、藤堂を悼んでいただけではなかった。自分自身の罪を、抱えていた。
告発されようとした者に寄り添いながら、最後の瞬間に電話一本できなかった。その罪を、十年間持ち続けた。
そして小説に、藤堂の名前を刻んだ。
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ノートを再び開いた。
*九月三日*
*体の調子が悪い。医者には、もって年内だろうと言われた。自分では、それより早いかもしれないと思っている。体というのは、正直だから。言葉より正確に、現在地を教えてくれる。*
*里緒、お前に一つだけ頼みがある。*
*私が死んだ後、最初のノートを、原稿の担当者に渡してほしい。誰が担当するかは分からない。しかし、本当に原稿を読んだ人間なら、分かる。読んでいない人間には渡さなくていい。それだけは守ってほしい。*
*なぜそんなことを頼むのか。*
*私は、原稿が正しく読まれることを願っている。誤字脱字を直されるだけでなく、言葉の意図まで読んでもらえることを。校閲者というのは、そういう仕事だと思っている。言葉の表面だけでなく、言葉の骨まで読む仕事だ。*
*そういう人間がいれば、この原稿は正しく世に出られる。そうでなければ、出なくていい。*
香織は読みながら、目の奥が熱くなる感覚があった。
泣くことは、しなかった。しかし、熱かった。
水無月透は、校閲者を信頼していた。
名前も顔も知らない、まだ会ったことのない校閲者を。言葉の骨まで読む人間を。
その信頼が、香織のところに届いた。
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*十月十一日*
*馬渕から電話があった。原稿の進捗を確認したいと言っていたが、私には分かった。あいつは気にしているのだ。私が何を書いたか。*
*私は、馬渕のことをこのノートに正直に書く。里緒、お前に知っておいてほしいことがある。*
*馬渕は悪人ではない。しかし、弱い人間だった。弱さから人を傷つけることがある。それは強さから人を傷つけることと、どちらが罪深いか、私には分からない。*
*ただ一つ言えることがある。馬渕は、藤堂のことを忘れていない。私はそれを知っている。あいつの声の奥に、ずっとそれがある。忘れられる人間は、ああいう声にはならない。*
*だから私は、原稿を馬渕に送る。告発のためではない。あいつに、覚えているということを、形として示してほしいから。それが馬渕にできる、最後の仕事だと思うから。*
香織はページをめくった。
*十一月二日*
*もう長くないと思う。体が、そう言っている。*
*里緒へ。*
*お前に謝りたいことが、まだたくさんある。しかし時間が足りなくなった。謝りたいことのすべてを書き切れない。だから一つだけ書く。*
*お前が子供の頃、書くことと、お前のどちらが大切か、と聞いたことがある。お前は覚えているかどうか分からない。私は覚えている。あのとき、私は答えなかった。お前は泣いた。そのまま部屋に行ってしまった。*
*答えるべきだった。どちらが大切か、ではなく——お前がいるから、私は書けたのだと。お前という人間が世界にいることで、書くべき何かが私にはあると思えた。それを言うべきだった。*
*言葉を生業にしてきた人間が、一番大切な言葉を言えなかった。それが、私の最大の後悔だ。*
香織はそこで、ノートを閉じた。
今度は、しばらく開かなかった。
部屋の中に、静かな時間があった。
時計の音だけが聞こえた。
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十分ほどして、香織は再びノートを開いた。
最後のページは、十一月二十日だった。亡くなる八日前だ。
*十一月二十日*
*今日は、よく眠れた。*
*里緒、お前が毎日来てくれている。ありがとう。言えているかどうか分からないが、言っている。声が出にくくなっているから、伝わっているかどうか。*
*最後に、一つだけ。*
*私は書くことをやめなかった。発表できない時間が長かった。しかし書くことはやめなかった。それだけは、誇りにしていい気がしている。誇りというより——それだけは、正直にやれた、という感覚かもしれない。*
*言葉は残る。書かれた言葉は、書いた人間がいなくなっても残る。それだけで、十分だと今は思っている。*
*里緒、元気でいなさい。*
そこで、日記は終わっていた。
香織はノートを静かに閉じた。
表紙を手のひらで、一度だけ撫でた。
部屋の外で、風が鳴った。
二月の夜の風だ。しかし昨日より、確かに柔らかかった。
香織は立ち上がり、台所で新しいお茶を入れた。
熱いお茶を持って、ソファに戻った。
明日、会社に行ったら、馬渕に話す。二冊目のノートを読んだこと、水無月が馬渕に何を求めていたかを。
それが、自分にできることだ。
言葉の骨まで読んだ校閲者として。
水無月透が信頼した、名前も知らない誰かとして。
お茶を一口飲んだ。今度は、熱すぎなかった。
ちょうど良かった。




