第8話
翌朝、香織は里緒に連絡を取った。
メッセージアプリで短く、日記のことで確認したいことがある、と送った。返信は昼前に来た。今日の夕方、電話できます、と。
それまでの時間、香織は業務をこなしながら、馬渕への情報伝達をどうするかを考えた。
桐嶋が持つ具体的な手段——特定著者の版権管理への関与、それを通じた会社への影響力。その情報を馬渕に伝えることは、備えになるか、それとも萎縮を招くか。
昨夜、三枝に言った言葉を反芻した。
備えるための情報として伝える。その受け取り方は馬渕が決める。
それは本当だ。しかし、伝え方には慎重にならなくてはならない。桐嶋の手段を具体的に示すことで、馬渕が「やはり刊行は難しい」という結論に傾く可能性もある。
情報には、受け取る人間の状態によって、異なる作用をする性質がある。
同じ事実が、ある人間には勇気を与え、別の人間には恐れを与える。
馬渕は今、どちらに近い状態にあるのか。
桐嶋の件は俺が対処する、と言った。その言葉を信じるなら、馬渕はすでに何らかの決意の方向に向いている。そこに情報を加えることで、方向が変わるかもしれない。
しかし、情報を伏せることも、誠実ではない。
香織は午前の業務を終えた頃、管理職ゾーンに向かった。
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馬渕は在席していた。
パソコンの画面を見ながら何かを打っていたが、香織が近づくと顔を上げた。
「少しよろしいですか」
「ここで、いいか」
「はい」
香織は声を落として、大石から得た情報を伝えた。桐嶋が特定著者の版権管理に関わっていること。その著者がうちの会社にとって無視できない規模の取引先であること。桐嶋が本気で動けば、取引関係に影響を与えられる立場にあること。
馬渕は黙って聞いた。
話が終わると、しばらく沈黙してから言った。
「知っていた」
「ご存知でしたか」
「大筋は。桐嶋が電話してきたとき、あいつが何を持っているか、だいたい分かった。だから脅しに近いと感じた」
「それで、対処する、とおっしゃった」
「ああ」馬渕は少し間を置いた。「その著者に、直接連絡を取った」
香織は驚いたが、顔には出さなかった。
「どういう意味ですか」
「その著者と俺は、長い付き合いだ。桐嶋の版権代理が始まる前からの付き合いだ。直接話して、桐嶋の動きを伝えた。あの著者は、自分の名前が誰かの脅しに使われることを、好まない人間だ」
「著者の方は、何と」
「桐嶋との契約を、来年の更新で打ち切ることを検討する、と言ってくれた。まだ確定ではない。しかし、桐嶋がその著者を盾に使うことは、難しくなった」
香織はしばらく馬渕を見た。
三日間、馬渕は動いていた。沈黙していたのではなく、静かに動いていた。
「馬渕さん、それは——」
「遅すぎる話だ」馬渕は遮った。「九七年にするべきことを、今更やっている。それは分かっている」
香織は何も言わなかった。
遅すぎる、という馬渕の言葉は本当だ。しかし遅すぎることと、意味がないことは、別の話だ。それを今言うべきかどうか、香織は迷って、やめた。
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夕方六時、里緒から電話があった。
香織は会社を出てから、駅のホームベンチで電話に出た。夕方のホームは人が多く、通話には向かない場所だったが、構わなかった。
「日記のことで聞きたいことがあると、メッセージに」
「はい。ノートの最後のページが七月二十日で終わっていました。八月以降は書かれていないのでしょうか」
里緒は少し間を置いた。
「もう一冊あります」
香織の手が、スマートフォンをわずかに強く握った。
「八月以降のものですか」
「はい。ただ——こちらは少し、性質が違います。日記というより、父が私に宛てて書いたものです。手紙に近い」
「私に渡すよう言われていましたか」
「それは言われていませんでした」里緒は少し考えるように間を置いた。「ただ、読んでほしい人が来たら最初のノートを渡せ、と父は言いました。渡した後のことは、父は何も言わなかった。つまり、私が判断していいということだと思っています」
「里緒さんは、どう判断されますか」
「読んでいただきたいと思っています。村上さんに」里緒の声は静かだった。「村上さんは、父の原稿を本当に読んでくださっている。私はそれが分かります。だから」
香織は少し目を閉じた。
ホームに電車が滑り込んでくる音がした。
「ありがとうございます。いつ、受け取れますか」
「明日、会えますか。昨日と同じ喫茶店で」
「はい。昼休みに伺います」
電話を切って、香織は電車に乗った。
混んでいたから、座れなかった。つり革を持ちながら、里緒の言葉を反芻した。
手紙に近いもの。里緒宛ての。
水無月透が、娘に宛てて書いた言葉。
それを読むことが、原稿の校閲に関係するかどうか、分からない。しかし水無月が最後の時期に書いたものであれば、原稿の意図を理解する手がかりになるかもしれない。
あるいは——原稿とは関係のない、父親の言葉かもしれない。
どちらであっても、読む価値はある、と香織は思った。
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翌日の昼、珈琲館ふじで里緒と会った。
里緒は昨日より少し顔色が良かった。黒いコートではなく、濃紺のコートを着ていた。
テーブルに着くと、里緒はバッグから二冊目のノートを取り出した。
最初のノートより薄かった。表紙の色は同じ黒だが、背表紙には何も書かれていない。
「八月から十一月まで、父が亡くなる直前まで書いています」
「お父さんが亡くなったのは、何月でしたか」
「十一月の終わりです。二十八日」
七月に原稿を書き終えて、十一月に亡くなった。その四ヶ月間に書かれたノート。
「読んでいただいて大丈夫です。ただ——」里緒は少し躊躇った。「父のことが、よく分かるノートです。良い意味でも、そうでない意味でも。父は晩年、後悔について、たくさん書いていました」
「後悔について」
「はい。馬渕さんのこと、藤堂さんのこと、私のこと——いろんなことへの後悔が書いてあります。読んでいて、つらい部分もありました」里緒は少し目を伏せた。「でも、父が最後に何を思っていたか、知れて良かったとも思っています」
香織はノートを受け取った。
薄いノートの重さが、手のひらに伝わった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「お父さんのこと、今はどう思っていますか」
里緒はしばらく考えた。
「複雑です」率直な答えだった。「父は、私にあまり多くを話してくれない人でした。書くことに向けているエネルギーを、家庭に向けることが苦手な人だった。母が苦労したと思います。私も、父のことをよく知らないまま大人になった気がしていました」
「このノートを読んで、変わりましたか」
「少し」里緒は静かに言った。「父が何を大切にしていたか、分かりました。人間として何を恥じていたか、何を誇りにしていたか。それが分かって——怒りが消えたわけではないけど、少し、近くなった気がしました。父に」
香織は頷いた。
言葉が、人を近くする。
生きているあいだには言えなかった言葉が、書かれた言葉として残ることで、死後に届く。
それが言葉の、最も静かな力だと、香織は思った。
「原稿のこと、進展はありますか」
里緒が聞いた。
「動いています。まだ確定ではありませんが、刊行に向けて、関わっている人間が動き始めています」
「そうですか」里緒の目が、わずかに和らいだ。「村上さん、ありがとうございます」
「私はただ、言葉を読んでいるだけです」
「それが、一番大切なことだと思います」
コーヒーが冷める前に、香織は一口飲んだ。
窓の外の通りに、コートを脱いで歩く人が一人いた。
二月が終わりに近づいている。
春の気配が、街の底にゆっくりと満ちていた。




