第7話
桐嶋が対処する、という言葉を香織は反芻し続けた。
翌日も、その翌日も、馬渕からの連絡はなかった。
桐嶋への対処が何を意味するのか、どういう形で動いているのか、香織には分からない。聞くべきではないとも思った。馬渕が自分で決めたことだ。香織が急かしたり、確認したりする性質の話ではない。
待つことは、得意だ。
三十年間、言葉が来るのを待ってきた。著者が原稿を書き終えるのを待ち、ゲラが届くのを待ち、事実確認の返答が来るのを待った。待つことは、校閲者の基本的な仕事のひとつだ。
香織は『硝子の証人』の第五章を、丁寧に読み進めた。
最後の章は、読めば読むほど重かった。
岸田律子が、すべてを知った上で選択をする場面。どう告発するか、ではなく、どう記録するか。言葉として何を残すか。それを律子が一人で考え抜く過程が、水無月の抑制された文体で描かれていた。
香織は赤を入れながら、何度も立ち止まった。
立ち止まるたびに、水無月透という人間のことを思った。
六十七年の人生の最後の一年を、この原稿に注いだ人間。体が弱っていく中で、毎日書き続けた人間。誰かに届くかどうかも分からないまま、それでも書いた人間。
---
木曜日の午後、三枝が声をかけてきた。
「村上さん、今日の夕方、少し時間ありますか」
「何ですか」
「大石が、直接話したいことがあると言って。桐嶋さんのことで、もう一つ分かったことがあるらしくて」
香織は少し考えた。
「何時ですか」
「六時半に、会社の近くの喫茶店で。大石も、あまり大っぴらにしたくないみたいで」
「分かりました。行きます」
三枝は少し安心したような顔をした。
「村上さん、最近ちゃんと食べてますか」
「食べています」
「ちゃんと、ですか」
「……だいたい」
「だいたいじゃないです」三枝は呆れながらも、心配そうに言った。「今日、一緒に行きましょう。大石との話の前に、どこかで夕食を」
香織は断ろうとしたが、三枝の目を見てやめた。
心配されることに、慣れていない。しかし今は、素直に受け取った方がいい気がした。
「分かりました。ごちそうになります」
---
六時に会社を出て、二人で近くの定食屋に入った。
三枝は迷わず日替わり定食を頼み、香織は同じものを頼んだ。献立を考える余裕が、今の香織にはなかった。
「村上さん、この仕事が終わったら、どうするつもりですか」
三枝が味噌汁を飲みながら聞いた。
「この仕事、というのは」
「水無月さんの原稿の校閲が終わって、刊行が決まったとして——その後、ということです」
「定年まで、残り一年ちょっとですから。今まで通り仕事をします」
「それだけですか」
香織は三枝を見た。
「他に何がありますか」
「なんか、村上さんって、この仕事をきっかけに何か変わりそうな気がして」三枝は少し照れたように言った。「うまく言えないんですけど。今まで見たことがない顔をしてるから、村上さんが」
「どんな顔ですか」
「怒ってる、とは違うんですけど——燃えてる感じ、というか。校閲の仕事に、こんなに入り込んでる村上さんを、私は今まで見たことがなくて」
香織はしばらく考えた。
「今まで入り込んでいなかったわけではないです」
「そうなんですか」
「ただ、今回は違う種類の入り込み方をしている、とは思います」
「どう違うんですか」
香織は言葉を探した。
「今まで三十年間の校閲は、言葉を正すことでした。誤字を直して、事実を確認して、骨格を整える。それは今回も同じです。しかし今回は——正すだけではなく、守ることが加わった気がします」
「守る?」
「水無月先生の言葉を、もう一度闇に葬らせないこと。それが、この仕事の意味になっている」
三枝は少しの間、香織の顔を見ていた。
「そのために、馬渕さんとも話したし、総務にも行ったし、里緒さんとも会った」
「そうですね」
「村上さんって、すごいと思います」
香織は少し困った。褒められることにも、慣れていない。
「三枝さんが書庫で調べてくれたから、分かったことがたくさんあります。私一人ではここまで来られなかった」
三枝はぱっと顔を輝かせた。それからすぐに、少し照れたように視線を逸らした。二十八歳の反応だ、と香織は思った。そしてその反応を、微笑ましいと思った。
---
六時半に喫茶店に入ると、大石はすでに来ていた。
三十前後の、細面の男性だった。三枝と並ぶと、雰囲気が似ていた。同期というのは、どこか似てくるものらしい。
「大石です。突然すみません」
「村上です。わざわざありがとう」
コーヒーを頼みながら、大石は少し緊張した様子で話し始めた。
「桐嶋さんのことなんですが、一個だけ、自分で調べたことがあって」
「どんなことですか」
「桐嶋さん、二〇一五年以降、ほぼ業界から退いていると言いましたよね」
「ええ」
「実はそうでもなくて」大石は声をさらに落とした。「今も複数の案件に、間接的に関わっているらしいんです。特定の著者の版権管理に、コンサルタントとして入っていて。しかもその著者というのが——」
大石は少し間を置いた。
「うちの会社と長年付き合いのある、大手の著者です。売上規模で言えば、うちの年間刊行点数の一割近くを占めるくらいの」
香織は、その意味を静かに計算した。
売上の一割。中堅出版社にとって、それは無視できない数字だ。
桐嶋はその著者の版権管理に関わっている。つまり、その著者との取引を通じて、うちの会社に圧力をかけることができる。
「桐嶋さんが、その版権を引き上げると言えば」
「会社としては、かなり困る話になります」大石は頷いた。「直接の脅しではなくても、関係が悪化するだけで、取引に影響が出る可能性がある」
馬渕への連絡は、脅しに近かった、と馬渕は言った。
その脅しの実態が、今見えた。桐嶋は具体的な手段を持っている。言葉だけではなく、実際に動かせる駒がある。
「大石さん、これをどこで調べたんですか」
「業界紙の記事を調べていたら、版権代理に関する記述がいくつか出てきて。点と点をつないだら、桐嶋さんの名前に行き着いた感じです」
三枝が大石を見た。
「それ、大丈夫なの。あなたが調べてたって、ばれたら」
「大丈夫じゃないかもしれない」大石は苦笑した。「でも、なんか——放っておけなくて」
香織は大石を見た。
「なぜ、そこまでしてくれるんですか」
大石は少し考えてから、言った。
「三枝から、話を聞いていたので。水無月さんって作家の遺稿が、出るかどうか分からない状態にあるって。で、三枝がすごく心配してたから」
三枝が、また照れたように視線を逸らした。
「その作家のこと、調べてみたんです。『夜の棚卸し』、古本で買って読みました。良かったです。こういう作家が、なんで一作しか出していないんだろうって、読みながら思って」
大石の言葉は、素直だった。
計算がない。ただ、良いと思ったものが理不尽な扱いを受けていることへの、真っ直ぐな怒りがあった。
藤堂誠一も、こういう人間だったのかもしれない、と香織は思った。
正しいことを正しいと言うことしかできなかった、と水無月は書いていた。
---
喫茶店を出た後、三枝と並んで駅に向かった。
夜の空気は冷たかったが、昨日より少しだけ柔らかかった。春が近づいている。
「大石、良い人でしょう」三枝が言った。
「そうですね」
「村上さん、この情報、馬渕さんに伝えますか」
香織は歩きながら考えた。
「伝えます。桐嶋の手段が具体的に見えた以上、馬渕さんが対処するための情報として、伝えるべきだと思う」
「でも、それで馬渕さんが萎縮したら」
「萎縮するための情報ではなく、備えるための情報として伝えます。その受け取り方は、馬渕さんが決めることです」
三枝は少し考えてから、頷いた。
「村上さんって、言葉の使い方が正確ですよね。同じことでも、意味が変わる」
「それが校閲の基本です」
三枝は少し笑った。
「好きです、そういうところ」
香織は答えなかった。
しかし、悪い気はしなかった。
駅の改札で三枝と別れ、香織はホームで電車を待ちながら、バッグの中の黒いノートを思った。
日記は七月二十日で終わっている。
しかしまだ、読んでいないページがある。
八月以降、水無月は何も書かなかったのか。それとも——別のノートがあるのか。
里緒に、聞いてみる必要があった。




