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最後の校閲  作者: ジェミラン
第二章「赤の記憶」
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第6話

 馬渕との会話から三日が経った。


 その間、馬渕は校閲部に来なかった。廊下ですれ違うこともなかった。意図的に距離を置いているのか、それとも単に多忙なのか、香織には判断できなかった。


 しかし、何かが変わった気がした。


 目に見える変化ではない。空気の変化だ。あの会議室で馬渕が話したことが、二人の間にあった透明な壁を、少しだけ薄くした。そういう感覚がある。


 香織は通常の業務をこなしながら、『硝子の証人』の校閲を進めた。


 第四章まで読み終えて、今は第五章に入っていた。最後の章。水無月透が「書き終えた」と日記に記した、六月三日から七月二十日のあいだに書かれた部分。


 読みながら、香織はいくつかのことに気づいた。


 第五章の筆致は、それまでの章と明らかに違う。


 第一章から第四章は、抑制されていた。感情を意図的に押さえ、事実を積み重ねる書き方をしていた。しかし第五章は、その抑制が少しだけ緩んでいる。文章が、呼吸している。


 作家が、自分の終わりを知って書いた文章は、こういう形になるのかもしれない、と香織は思った。


---


 第五章の中盤に、香織が青ふせんを貼りたくなる一節があった。


 岸田律子が、藤堂をモデルにした人物の残した手帳を読む場面だ。


*手帳には、日付と短い言葉だけが書いてあった。メモとも日記とも言えない、断片的な記録。しかし律子は、その断片の中に、一人の人間の輪郭を見た。正確に言えば、輪郭ではなく——骨格を。言葉の奥にある、動かしようのない核を。*


*この人は、本当のことを書いていた。律子は思った。誰かに見せるためではなく、ただ本当のことを書いていた。それだけで、十分だったのかもしれない。*


 香織は赤ペンを止めた。


 言葉の奥にある、動かしようのない核。


 それは、香織が三十年間探し続けてきたものだ。校閲という仕事の中で、言葉の骨と呼んできたものだ。


 水無月透は、校閲者の仕事を知っていた。


 それはこの原稿を書きながら、より深く知ろうとしたのかもしれない。主人公の律子に、校閲者と同じ目を持たせることで。


 香織は青ふせんを貼った。


 今度も、自分のために。


---


 昼過ぎ、三枝が外出から戻ってきた。


 いつもより少し上気した顔をしていた。


「村上さん、大石からまた連絡がありました」


 香織は顔を上げた。


「桐嶋さんのことで、もう少し分かったことがあって」


「話せますか」


「はい」三枝は声を落として、香織のデスクに近づいた。「桐嶋さん、今も業界の人間と付き合いがあるらしくて。特定の出版社の顧問みたいな立場で、今も関わっているって」


「どこの出版社ですか」


「うちじゃないです。別の中堅どころの版元で。ただ——」三枝は少し躊躇った。「その出版社、うちと取引があります。共同企画を進めている案件が、今年いくつかあって」


 香織は黙って聞いた。


「桐嶋さんが今の立場から、うちの動きに影響を与えることは——できなくはないかもしれない、って大石は言ってました」


 できなくはない。


 それが具体的に何を意味するのか、今の時点では分からない。しかし、桐嶋はまだ完全に引退したわけではない。業界に顔が利く立場にいる。


 水無月の小説が刊行されれば、桐嶋はそれを知る。


「三枝さん、桐嶋さんは馬渕さんと今も連絡を取っていると思いますか」


「さあ……どうでしょう。大石は分からないと言ってました」


 香織は考えた。


 馬渕が刊行を躊躇っていた理由が、自己保身だけではない可能性がある。桐嶋からの、何らかの圧力があるかもしれない。


 あるいは、桐嶋に対する義理が、まだ残っているかもしれない。


 どちらにせよ、馬渕だけが問題ではない。


---


 午後三時過ぎ、香織のデスクに内線が入った。


 馬渕からだった。


「今、少し話せますか。私の席に来てもらえますか」


 珍しい。これまでは馬渕が校閲部に来ていた。馬渕の席に呼ばれるのは、初めてだった。


 香織は「はい」と答えて、立ち上がった。


 管理職ゾーンに向かいながら、どんな話が来るのかを考えた。刊行の判断が出たのか。それとも、別の何かか。


 馬渕は椅子に座っていた。デスクの上がいつもより片付いていた。


「座ってください」


 香織は向かいの椅子を引いて座った。


 馬渕はしばらく黙ってから、言った。


「桐嶋から、連絡があった」


 やはり、と香織は思った。


「いつですか」


「昨日の夜。私の携帯に。直接かかってきた」


「どんな内容でしたか」


「水無月の原稿のことを聞いてきた。刊行するつもりかどうか。どういう経路で知ったのか分からない。ただ、知っていた」


 桐嶋は知っている。


 遺稿が届いて、校閲が始まっていることを。どこかから情報が入った。出版社という場所は、思ったより情報が漏れる。


「桐嶋は何と言いましたか」


「刊行はやめた方がいい、と言った。理由は言わなかった。ただ、やめた方がいい、とだけ」


「それは忠告ですか。それとも」


「脅しに近かった」馬渕は静かに言った。「言葉は丁寧だったが、意味は脅しだった。三十五年、この業界にいれば、言葉の裏は読める」


 香織は馬渕を見た。


「それで、どうするつもりですか」


 馬渕は少し間を置いた。


「正直に言えば、迷っている。桐嶋は今も業界に顔が利く。本気で動けば、会社に影響を与えることができる人間だ。そのリスクを、会社全体に負わせることが正しいかどうか」


「水無月先生の原稿を潰すことが、正しいかどうかという問いは、しないんですか」


 馬渕は香織を見た。


「している。ずっとしている」


「それで、答えは出ていますか」


 沈黙。


 馬渕は視線をデスクの上に落とした。


「九七年に、俺は水無月の原稿を潰した。桐嶋に言われたから。自分を守るために。その結果、水無月は三十年間発表できなかった。藤堂はいなくなった。俺は——それを知りながら、ここにいる」


 馬渕の声は、平坦だった。感情を排した声だ。しかしその平坦さが、逆に深さを示していた。


「同じことを、もう一度するのかどうか」


 香織は言葉を選んだ。


「馬渕さん、一つだけ聞かせてください」


「何だ」


「水無月先生の原稿を、あなたはどう読みましたか。校閲者としてではなく、編集者として」


 馬渕は少し目を細めた。


「良い原稿だと思った」


「それだけですか」


 長い沈黙。


「……読んでいる途中で、何度か止まった。自分のことが書かれているから、ではない。藤堂のことが、正確に書かれていたから。あいつの不器用さが、あいつの真っ直ぐさが——水無月はあいつのことを、本当によく見ていた」


「止まったとき、何を思いましたか」


「藤堂に、謝りたいと思った」馬渕は静かに言った。「今更、謝っても何も変わらないが。それでも、思った」


 香織は頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 馬渕が自分で辿り着く必要がある場所に、香織が先回りすることはできない。


「校閲を、続けます」


 香織は立ち上がりながら言った。


「原稿を正確に読むことが、私の仕事です。それは変わりません」


 馬渕は何も言わなかった。


 しかし、香織が管理職ゾーンを出るとき、後ろから小さな声が聞こえた。


「村上さん」


 振り返ると、馬渕が手元の書類を見たまま言った。


「桐嶋の件は、俺が対処する」


 それだけだった。


 香織は頷いて、廊下を歩いた。


 桐嶋の件は、俺が対処する。


 その言葉が何を意味するのか、今はまだ分からない。しかし馬渕の声に、三日前とは違う何かがあった。


 決意、と呼ぶにはまだ弱い。しかし諦め、とは明確に違う。


 その中間にある、名前のない何かが、馬渕の声の中にあった。

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