第5話
馬渕が口を開いたのは、沈黙が二分ほど続いた後だった。
香織は数えていたわけではない。しかし体感として、二分はあった。会議室の時計の秒針が、壁の向こうで小さく音を立てていた。
「九七年の話をする」
馬渕はテーブルの上に置いた両手を見ながら言った。香織の顔を見なかった。それが話しやすいのであれば、構わないと香織は思った。
「あの年、水無月から二作目の原稿を受け取った。『空白の証言』。読んだ。面白かった。デビュー作より、ずっと良かった。力があった。しかし——読み終えて、最初に思ったのは面白い、ではなかった」
「何を思ったんですか」
「まずい、と思った」
馬渕は少し間を置いた。
「原稿の中に、桐嶋が出てきた。名前は変えてあった。しかし俺には分かった。書かれていた人物の行動、口癖、物事の決め方——全部、桐嶋だった。水無月は桐嶋のことを、正確に書いていた。実際に取材して書いたとしか思えない精度で」
「取材していたんでしょうか」
「後から分かったことだが——していた。桐嶋の行為について、社内の複数の人間にそれとなく話を聞いていたらしい。作家というのは、そういうことをするものだと、後で知った」
馬渕はようやく顔を上げた。
「俺は桐嶋に見せた。原稿を。本来なら、するべきではない行為だ。著者の原稿を、無断で第三者に見せることは。しかし当時の俺には、他の判断ができなかった」
「なぜですか」
「桐嶋は局長だった。俺の上司だった。そして——俺は桐嶋に、借りがあった」
借り、という言葉が、会議室の空気の中に沈んだ。
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「どんな借りですか」
馬渕は少し目を細めた。
「入社して数年の頃、俺は仕事上のミスをした。金銭的な処理の誤りだ。意図的ではなかった。しかし結果として、会社に損害を与えた。桐嶋がそれを揉み消した。公式の記録に残らない形で処理してくれた」
「それが、借りになった」
「そうだ。桐嶋はその後も、折に触れてそのことを匂わせた。直接言葉にしたことは一度もない。しかし俺には分かった。あの借りは、必要なときに返せ、という意味で匂わせていた」
香織は黙って聞いた。
「九七年が、そのときだった。桐嶋は原稿を読んで、一言だけ言った。『この原稿は出せない』。理由を聞いたら、『著者のためにも、出さない方がいい』と言った。俺は従った。編集会議に諮る前に、桐嶋の判断で否決という形にした」
「でも、議事録には編集会議で否決されたと記録されていました」
馬渕の目が、わずかに動いた。
「三枝さんが書庫で見つけました。ただし否決の理由が書かれているページが、切り取られていましたが」
「……そうか」馬渕は小さく息を吐いた。「記録は残したくなかった。俺が切り取った。二〇一四年に、藤堂の件が起きたときに。あのとき、九七年の記録も処分しようと思った」
「なぜ二〇一四年に」
「藤堂が告発したとき、調査が入る可能性があった。九七年の件が掘り起こされるかもしれないと思った。桐嶋はすでに退職していたが、俺はまだいた。記録が残っていれば、俺の関与が明らかになる」
自分を守るために、記録を消した。
香織はその事実を、感情なしに受け取った。責める気持ちはなかった。しかし、記録することがいかに重要かを、改めて思った。誰かが記録を消そうとするから、誰かが記録しなくてはならない。
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「藤堂のことを、聞かせてください」
馬渕は少し体を強張らせた。
「九七年の時点で、藤堂は何か知っていたんですか。桐嶋のことを」
「……知っていた。一部は」
「一部、というのは」
「桐嶋が著者への支払いを操作していることは、知っていた。しかし証拠がなかった。数字の上では辻褄が合うように処理されていたから。藤堂は俺に話してきたことがある。桐嶋のやり方がおかしいと思う、と。俺は聞かなかった振りをした」
聞かなかった振りをした。
その一言が、会議室に静かに残った。
「九七年に水無月の原稿が否決されたことと、藤堂は関係がありますか」
馬渕は長い沈黙の後、言った。
「水無月の原稿には、著者への支払い操作のことが書かれていた。桐嶋の行為として。それが出版されれば、藤堂が疑っていたことが、社会的に裏付けられる形になった可能性がある。桐嶋はそれを恐れた」
「つまり、水無月の原稿を潰すことは、同時に藤堂の告発の芽も摘むことになった」
「結果として、そうなった」
「意図して、ですか」
馬渕は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
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香織は一度、深く息を吸った。
頭の中で、三十年分の構造が組み上がっていく感覚があった。
桐嶋義雄は、著者への支払いを操作する仕組みを作った。それを知ろうとした者を、様々な方法で封じてきた。一九九七年には、水無月の原稿を潰すことで、告発の文書になりうる言葉を消した。馬渕という人間の弱みを握り、道具として使って。
藤堂は長年それを疑い続け、二〇一四年に証拠を掴んで告発しようとした。しかし組織は藤堂を守らなかった。桐嶋はすでに退職していたが、その仕組みは生きていた。仕組みを守ろうとした者たちが、藤堂を追い出した。
馬渕は、その過程のどこかに関わっていた。
「二〇一四年の藤堂の件で、あなたはどう関わりましたか」
馬渕はテーブルの上の手を、ゆっくりと握った。
「退職勧奨の話が出たとき、俺は止めなかった」
「止められる立場でしたか」
「立場はあった。局次長だったから。人事の判断に意見を言える立場だった。しかし言わなかった」
「なぜですか」
「藤堂の告発が深掘りされると、九七年の件まで遡る可能性があった。桐嶋への支払い操作の話が、水無月の原稿の否決と結びつく可能性が。そうなれば、俺の関与も明らかになる」
自分を守るために、藤堂を見捨てた。
馬渕は初めて、そのことを言葉にした。会議室で、香織の前で。
「藤堂は俺のことを、最後まで信じていたと思う。同期だから。何か言ってくれると思っていたと思う」
馬渕の声が、わずかに変わった。
「何も言わなかった。見ていただけだった。退職の日、廊下で藤堂と会った。あいつは俺に頷いてみせた。怒りでも、恨みでもない顔で。ただ、頷いた」
沈黙。
「その顔が、忘れられない」
香織は馬渕を見た。
五十八歳の男の顔に、三十年分の重さが見えた。桐嶋に使われ、藤堂を見捨て、水無月の言葉を二度潰そうとした男の。しかし今この瞬間、その重さを初めて誰かの前に降ろした男の顔が。
「馬渕さん」
香織は静かに言った。
「水無月先生は、あなたを憎んでいなかった」
馬渕は顔を上げた。
「日記に書いてありました。馬渕を憎んでいるかと問われれば、正直に答えられない、と。あなたに届くといい、と書いていた。憎しみからではなく、本当にそう思っていた、と」
馬渕は何も言わなかった。
しかしその目が、かすかに揺れた。
香織は続けた。
「先生が原稿をあなたに送ったのは、告発のためではなかった。覚えていてほしかったから。忘れないでいてほしかったから」
馬渕は視線をテーブルに落とした。
長い沈黙があった。
それから、絞り出すような声で、言った。
「忘れたことは、一度もなかった」
その言葉が本当かどうか、香織には確かめる方法がない。
しかし本当だと思った。
忘れられない人間だから、三十年間苦しんでいた。忘れられる人間なら、もっと楽に生きていられた。
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会議室を出たのは、一時間近く経った後だった。
廊下で馬渕が言った。
「原稿の刊行について、もう少し時間をくれ」
「はい」
「ただ——」馬渕は少し間を置いた。「校閲を、続けてくれ」
それだけ言って、馬渕は歩いていった。
香織はその背中を見送りながら、思った。
続けてくれ、という言葉は、やめさせないという意味だけではない。
信頼する、という意味でもある。
香織は校閲部に戻り、デスクに座った。
赤ペンを手に取った。
『硝子の証人』の原稿を、静かに開いた。




