第4話
その夜も、香織は図書館に寄った。
閲覧室の同じ席に座り、黒いノートを開く。昨日の続き、五月のページから。外では雨がまだ降っていた。傘は今日持ってきた。昨夜濡れて帰ったことを、三枝に話したら呆れられた。
五月の日記は、四月より文字が小さくなっていた。
体力が落ちてきたのか、あるいはページが足りなくなることを恐れたのか。どちらともとれる。しかし文字の密度は上がっていた。書くべきことが増えていた、という印象を受けた。
*五月二日*
*今日、原稿の第五章を書き始めた。これが最後の章になる。どう終わらせるか、ずっと考えていた。告発で終わらせることも考えた。しかし、それは私の書きたいことではない。告発は結果であって、目的ではない。私が書きたいのは、言葉が残ることの意味だ。誰かが言葉を残したという事実が、時間を超えて何かを変えうるということだ。*
*そのために、校閲者が必要だと思った。*
香織は読み返した。
そのために、校閲者が必要だと思った。
水無月は、最後の章を書き始めた時点で、すでに校閲者の存在を意識していた。物語の中の話ではなく、現実の校閲者を。
自分のことを、想定していたのか。
そんなはずはない。水無月は香織のことを知らなかったはずだ。しかし水無月は、この原稿を担当する校閲者が、ただ言葉を処理するだけの人間ではないことを、どこかで期待していた。
だから娘に言った。原稿を担当する人間が来たら、日記を渡せ、と。
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*五月十五日*
*馬渕から電話があった。原稿の進捗を確認したいと言っていたが、本当はそうではないと思う。あいつは私が何を書いているか、気になっているのだ。*
*私は正直に言った。桐嶋のことを書いている、と。名前は変えている、しかし書いている、と。*
*馬渕は長い沈黙の後、「やめてくれ」と言った。初めて聞く声だった。懇願に近い声だった。三十年近い付き合いで、馬渕がああいう声を出したのは初めてだった。*
*私は答えなかった。答える必要がないと思った。書くかやめるかは、私が決めることだ。*
*電話を切った後、少しだけ馬渕のことを気の毒に思った。あいつは今も、あの仕組みの中にいる。退職した桐嶋はもういないが、あの仕組みが作った習慣の中に、馬渕はまだ縛られている。自分では気づいていないかもしれない。*
香織はページをめくった。
馬渕は水無月に、書くのをやめてくれと言った。
それは自分を守るためか。会社を守るためか。あるいは、桐嶋を守るためか。
桐嶋は今、どこにいるのか。
香織はメモを取りながら、続きを読んだ。
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*六月三日*
*体がきつい。今日は二時間しか書けなかった。しかし第五章の核心部分は書けた。岸田律子が、すべてを知った上で選択をする場面。律子は告発しない。その代わり、記録する。言葉として、正確に、残す。それが律子の答えだ。そして、私の答えでもある。*
*告発は、私にはできない。証拠がない。三十年前のことを、今から証明する手段がない。藤堂が残した記録も、あいつの死後に遺族が処分してしまったと聞いた。何も残っていない。*
*だから小説として書く。事実を基にしながら、しかし小説として。それが私にできる唯一のことだ。*
*ただ一つだけ、実名を残す。藤堂誠一という名前だけは、消さない。あいつが確かにいたということを、言葉の中に刻む。それが私の、せめてもの仕事だ。*
香織は目を閉じた。
ただ一つだけ、実名を残す。
修正テープの下に隠れていた痕跡が、今、完全に意味を持った。水無月は最初、別の名前で書いた。おそらく架空の名前で。しかし書き終えてから、一箇所だけ戻って書き直した。藤堂誠一という実名に。
それは告発ではなく、追悼だった。
墓碑に名前を刻むように。
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*七月二十日*
*原稿を書き終えた。*
*三行だけ書いて、今日はやめる。書き終えた日に長々と書くことは、何か違う気がする。*
*ただ一つだけ記録しておく。書き終えて、最初に思ったのは、藤堂のことではなかった。馬渕のことだった。*
*あいつに届くといい、と思った。届いて、あいつが何かを感じてくれるといい、と。憎しみからではない。本当に、そう思った。*
七月二十日。
水無月透が原稿を書き終えた日。
その半年後に、水無月は死んだ。
香織はノートを閉じた。
閲覧室の蛍光灯が、低くかすかに鳴っていた。図書館の中に人はまばらで、静かだった。
頭の中を、いくつかの言葉が行き来した。
告発ではなく、記録。届けることが目的。馬渕に何かを感じてほしかった。
水無月透は、この原稿を武器として書いたのではない。
しかし、武器になりうる内容が含まれている。
桐嶋義雄という人物の行為が、小説の形で、しかし「分かる人間には分かる書き方で」書かれている。
それを世に出すことは、今も存命であれば桐嶋にとって都合が悪い。
桐嶋は今、どこにいるのか。
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翌朝、香織は出社してすぐに検索した。
「桐嶋義雄」で一般の検索エンジンにかける。
いくつかヒットした。出版業界の人名録への掲載、講演会の登壇記録、業界紙のインタビュー。最新のものは三年前だった。
住所は分からない。しかし、まだ存命だということは分かった。
七十代のはずだ。
業界を引退した後も、名前は残っている。そういう人間は、名誉を重視する。名前が傷つくことを恐れる。
水無月の小説が刊行されれば、桐嶋の行為は——名前こそ変わっているが——読む人間には伝わる形で残る。
馬渕が刊行を躊躇っているのは、桐嶋への配慮か。それとも自分自身への配慮か。
どちらでもある、と香織は思った。
その両方が、馬渕を縛っている。
しかし、と香織は思い直した。
水無月は、それを知った上で馬渕に原稿を送った。
馬渕が躊躇することも、馬渕が苦しむことも、水無月は想定していたはずだ。
それでも馬渕に送ったのは——馬渕以外に、この原稿を届けられる人間がいなかったからではないか。
馬渕だけが、すべてを知っている。
馬渕だけが、この原稿の重さを正確に測れる。
だから馬渕に送った。届けることと、苦しめることを、同時に意図して。
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午前十時。
馬渕が校閲部に現れた。
今日は椅子を引かなかった。香織のデスクの前に立ち、低い声で言った。
「少し話せますか。会議室で」
三枝が背筋を伸ばすのが、視界の端に見えた。
香織は赤ペンを置いた。
「はい」
立ち上がりながら、日記のことを頭の中で整理した。
馬渕は今日、何を話しに来たのか。
水無月の原稿を刊行しないと告げに来たのか。あるいは——何か別のことを。
会議室に向かう廊下で、馬渕は一度だけ振り返った。
「村上さん、水無月の娘と会ったね」
監視されていた、とは思わなかった。この会社は狭い。誰かが見ていて、誰かに伝わる。それだけのことだ。
「はい。お会いしました」
「何を話した」
「原稿のことを、少し」
馬渕はそれ以上聞かなかった。
会議室のドアを開けて、中に入る。馬渕が先に座り、香織が向かいに座った。
テーブルを挟んで、二人だけの空間。
馬渕は両手をテーブルの上に置いた。昨日と同じ姿勢だ。しかし今日は、顔の表情が違った。昨日より疲れていた。一晩、眠れなかった顔だ。
「水無月から、何か預かったか」
香織は一秒だけ考えた。
嘘をつくことは、しない。
「日記を預かりました。昨年一年分の」
馬渕は目を閉じた。
長い沈黙があった。
それから、絞り出すような声で言った。
「どこまで、読んだ」
「七月二十日まで」
馬渕は目を開けた。その目に、香織が初めて見る色があった。
後悔でも、警戒でも、怒りでもない。
観念、に近い色だった。
「そうか」
馬渕はそれだけ言って、また黙った。
窓の外で、風が鳴った。
香織は待った。
この沈黙を、自分から破る必要はない。馬渕が何かを言おうとしている。その言葉が出てくるまで、待つことが今の自分の仕事だ。
三十年間、言葉を待ち続けてきた。
もう少しだけ、待てる。




