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最後の校閲  作者: ジェミラン
第二章「赤の記憶」
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第3話

 翌朝、香織は六時四十五分に出社した。


 いつもより三十分早い。階段を上りながら、昨夜の日記の内容を反芻した。三十年間、同じ根から同じ木が育っていた。一九九七年の不正と、二〇一四年の不正はつながっている。水無月透はそう書いた。


 しかし、つながりの具体的な中身は、日記には書かれていなかった。


 少なくとも、昨夜読んだ範囲では。


 続きを読めば出てくるかもしれない。あるいは、日記以外の場所から探さなくてはならないかもしれない。どちらにせよ、手を動かすしかない。


 誰もいない校閲部のドアを開け、蛍光灯を点けた。


 白い光が室内に満ちる。


 香織はコートを脱ぎ、席に座った。パソコンを立ち上げながら、今日やるべきことを頭の中で順番に並べた。


 一つ目、一九九七年前後の社内の不正経理に関する記録を探す。総務や経理の書庫に、当時の財務記録が残っている可能性がある。ただし、それに直接アクセスする方法が香織にあるかどうか、分からない。


 二つ目、水無月の日記の続きを読む。四月以降のページに、不正の具体的な内容が書かれている可能性がある。


 三つ目——馬渕の過去を、別のルートから確認する。


 三つ目が、最も難しい。


---


 七時を過ぎた頃、香織は社内のデータベースを開いた。


 今度は人名ではなく、部署名で検索した。「第一編集局 一九九五年〜一九九八年」。


 出てきたのは、刊行記録と担当者名の一覧だ。その中に、馬渕の名前はない。馬渕は第三編集局の所属で、第一編集局とは別部署だ。


 しかし水無月の日記には、「出版社内部の不正」と書かれていた。第一編集局で起きていた、と。


 二〇一四年に藤堂が発見した不正経理も、第一編集局の話だった。馬渕が昨日語っていた。


 第一編集局。


 香織はその部署名を、メモに書いた。


 一九九七年と二〇一四年、両方に第一編集局が絡んでいる。


 当時の第一編集局の責任者は誰か。


 データベースで「第一編集局 局長 一九九七年」を検索すると、一件ヒットした。


 局長:桐嶋義雄。在籍期間:一九九二年〜二〇〇三年。


 香織はその名前をメモした。桐嶋義雄。知らない名前だ。自分が入社した頃にはすでにいた人物だが、第一編集局とは接点がなかった。


 次に「桐嶋義雄 二〇一四年」で検索する。


 データベースには出てこない。二〇〇三年に退職しているから、当然だ。


 しかし、と香織は思った。


 二〇〇三年に退職した人間が起こした不正が、二〇一四年まで継続していたとすれば——その間、誰かが引き継いでいた。


---


 八時半になり、同僚たちが出社し始めた。


 三枝が来たのは八時五十分だった。コートを脱ぎながら、「今日も早いですね」と言った。


「少し調べたいことがあって」


「昨日、ちゃんと帰りましたか」


「帰りました。図書館に寄ってから」


 三枝は呆れたような、しかし納得したような顔をした。


「三枝さん、一つ聞いていいですか」


「はい」


「第一編集局に、知り合いはいますか」


 三枝は少し考えた。


「同期が一人います。大石って言うんですけど」


「仲がいい?」


「まあ、飲みに行く程度には。どうかしましたか」


「少し、話を聞いてほしいことがあって。非公式に。一九九〇年代の第一編集局のことを、古い人に聞いてもらえないか」


 三枝は香織をしばらく見た。


「どんなことを知りたいんですか」


「当時の局長、桐嶋義雄という人物のことです。どういう人物で、なぜ二〇〇三年に退職したのか」


「それ、直接聞くのは難しいですよね」


「難しいと思う。だから遠回りに、古い人の話として聞いてほしい。昔こんな人がいたらしいけど知ってる、という感じで」


 三枝は頷いた。


「分かりました。大石に連絡してみます。ただ——」


「ただ?」


「村上さん、これ、どこまで行くつもりですか」


 真正面からの問いだった。


 香織は答えを考えた。どこまで行くつもりか。自分でも、まだ分からない。ただ、引き返す気はない。それだけははっきりしていた。


「言葉の骨を見つけるまで」


 三枝は少しの間、香織の顔を見ていた。それから、「分かりました」と言った。


---


 午前の業務を片付けながら、香織は昼休みに日記の続きを読んだ。


 今日は外に出ず、デスクで読むことにした。人目があるが、業務資料として広げている分には問題ない。


 四月の後半から、日記の密度が上がっていた。


*四月二十八日*


*第四章を書き終えた。馬渕が藤堂に何をしたか、小説の中でようやく書けた。直接書いてはいない。しかし読む人間には伝わるはずだ。言葉というのは、書かれていないことも伝える。余白が、時に文字より多くを語る。*


*馬渕は悪人ではない。しかし弱い人間だった。組織の論理に従った。それは人間として理解できる。しかし理解できることと、許せることは別だ。藤堂は馬渕を信じていた。同期だったから。その信頼が、藤堂にとって最後の誤算だった。*


 香織は読み返した。


 馬渕が藤堂に何をしたか。


 退職勧奨に関わった、ということか。あるいは、それ以上の何かか。


 続きを読む。


*五月十日*


*今日、桐嶋のことを書いた。名前は変えた。しかし書いた。*


*あの男が、全部の根だった。一九九七年も、二〇一四年も、根は同じ場所にある。桐嶋が第一編集局にいた十年間で作った仕組みが、あいつが退職した後も生き続けた。著者への支払いを操作する仕組みが。誰かに都合の悪い原稿を握り潰す仕組みが。*


*馬渕はその仕組みの中にいた。全部知っていたわけではないと思う。しかし知っていた部分もあった。九七年に私の原稿を否決したとき、馬渕は桐嶋の判断に従った。自分の判断ではなく。それが馬渕の罪だ。大きな罪ではないかもしれない。しかし小さな罪でもない。*


 香織はメモを取った。


 桐嶋義雄。第一編集局局長。著者への支払いを操作する仕組みを作った人間。一九九七年の水無月の原稿否決にも、その仕組みが関わっていた。


 馬渕は桐嶋の判断に従った。


 水無月の二作目を否決したのは、馬渕の判断ではなく桐嶋の意向だった。


 では、水無月の原稿の何が、桐嶋にとって都合が悪かったのか。


 一九九七年の第二作『空白の証言』は、「出版社内部の不正を、分かる人間には分かる書き方で書いた」小説だった。


 その不正が、桐嶋の作った仕組みのことだとすれば——桐嶋は自分への告発になりうる原稿を、握り潰した。馬渕を使って。


---


 昼休みが終わりに近づいた頃、三枝が戻ってきた。


 外で大石と昼食を取ってきたらしく、コートに冷たい空気をまとっていた。


「聞けました」三枝は声を落として、香織のデスクに近づいた。「桐嶋さんのこと」


「どうでしたか」


「大石の部署に、入社三十五年のベテランがいて、その人が知っていました。桐嶋さん、二〇〇三年に依願退職しているんですが——直前に、内部監査が入っていたらしいんです」


 香織は顔を上げた。


「内部監査」


「はい。詳細は分からないけど、何かの不正を指摘された、という話が当時あったらしくて。ただ表向きは円満退職で処理されて、公式には何も記録が残っていないと」


 円満退職。


 藤堂の退職が「自己都合ではない」ものだったのとは対照的だ。桐嶋は不正を指摘されながら、円満退職として処理された。


 力のある人間と、力のない人間では、退職の形が違う。


「もう一つ」三枝が続けた。「桐嶋さん、退職後も業界に顔が利いていたらしくて。二〇一四年まで、複数の出版社でコンサルタントをしていたって」


 二〇一四年まで。


 藤堂が内部告発をした年だ。


 香織は静かに息を吸った。


 桐嶋は退職後もこの業界にいた。そして二〇一四年、藤堂の告発によって何かが露見し——桐嶋の影響力も、そこで終わった。


 三十年間、同じ根から同じ木が育っていた、という水無月の言葉が、形を持ち始めた。


 根は桐嶋義雄だ。


 馬渕はその根から伸びた、一本の枝だった。

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