帆式人工翼ー①
「今日で、五十二日目」
目覚めたエラは呟いた。クラヴァットが、「何のことだ?」と首をひねる。
「この旅が始まってから」
「そんなの、いちいち数えてるのか」
ベッドから降りると床板がきしんだ。安さで選んだ宿だが、エラにとっては雨風しのげればそれでいい。しかし風呂場もないのは失敗だった。
「お、その置物。帆式人工翼じゃないか?」
身体のニオイを嗅いでいたエラは、クラヴァットの一言で顔を上げる。
イニェンと行った道具屋で、一目惚れして買った翼の模型だ。
「帆式人工翼?」
「おう。知らずに買ったのか?」
「見た目がよかったから」
床に両手をつき、日課の鍛錬を始める。逆立ちしたまま両足を縦に百八十度開き、ゆっくりと息を吐いた。
「この国に、帆式を知っている人間がいるとはな。人間が空を飛ぶための道具だ」
「人間が?」
「驚きだろう? 人は翼を背負って風の魔法を使うことで、空を飛ぶことができるんだ」
「空を飛ぶ魔法なんてないよ」
「これだから、今どきの若いのは……」
クラヴァットは、エラが朝食にと用意していた林檎をついばむ。
「鳥は魔法で飛んでるわけじゃないだろう。人間だって、翼と風があれば飛べるんだ」
「私にもできる?」
「風の魔法が使えるならな」
トン、とつま先をついて立ち上がったエラは、少し間を置いて、クラヴァットに迫る。
本当に。
私が、空を飛べるのか。
それが事実なら、馬に乗れないことなど些細な問題だ。歩いては行けないような山も海も飛び越えて、どこへでも好きな時に好きなだけ飛んでいけるのか。
「山は寒いからやめとけ~。海も危ないぞ」
「その帆式という道具はどこで買える?」
「言ったら行くのか?」
「真っ先にね」
クラヴァットは小さく笑う。
昨日はあれほど、王女やワルキューレの謎がどうこう言っていたのに、彼女は本当に欲望に忠実だ。
「すぐには行けないさ。皇国バレイという国だ」
「……シロッカ山脈の先にある国?」
「よく知ってるな」
「授業で習った。遠いな……」
エラは林檎を手に取り、クラヴァットがついばんだ部分をナイフで切り落とした。
一口かじり、ベッドに腰を下ろす。
「この模型は帆式人工翼で間違いない?」
「ソックリだよ」
「買った店に行ってみる」
「そうかい。何か分かるといいな」
クラヴァットは切り落とされた欠片を平らげ、窓辺に立った。
「じゃ、俺は王国に帰るとしよう。あんまり戻りが遅いと、ギルバートが心配する」
「……そっか。お父様とお母様に、私が光の魔法を使った、ということを伝えておいて」
「他には?」
エラは「それだけでいい」と答え、林檎のヘタと種も噛み砕いて飲み込んだ。
その日のエラは早々に仕事を切り上げ、暗くならぬうちにと、雪化粧の街に繰り出した。ポーチから取り出した翼の置き物を満足そうに眺めながら、白い地面を慎重に、だけど早足に南西通りへと向かう。
開けた十字路を右に曲がり花屋の階段を上がると、目印の青い看板は雪をかぶっている。目的の店の前でエラは「そうだった」と途方に暮れた。固く閉じられた入口から見える店内は薄暗く、今日が定休日の木曜だったことを思い出す。
諦めを白い息とともに吐き出し、向きを変えた時だった。脇道から女のすすり泣く声と、ガチャガチャと物のぶつかる音がする。
そっと覗くとそこには、この寒いのに上着も羽織らずガラクタの山をかき分ける女がいた。
はっきりと思い出せないが、どこかで見たことがある気がする。
もう宿に戻ろうと一歩踏み出した時、何か破片のような物を踏んだ足元が、パキッと音を立て、振り向いた女と目が合った。エラはすぐに目をそらして立ち去ろうとするが、女はどういうわけか血相を変えて走り寄ってくる。
後ずさって杖に手を伸ばすエラに、女はしきりに胸の前で手を振る。悪意はない、と言いたげだ。
「何?」
女はある一点を指さし、餌を求める魚のようにパクパクと口を動かす。
「もしかして聞こえない? 話せないの?」
エラは察するが、それを伝える手段を知らない。
「これ?」
そうこうしている間にも、女はすぐ手が届く距離まで近づき、エラが左手に持つ翼の置き物を、擦り傷まみれの両手で包んだ。
女はすぐに手を放し、地面の雪に指をすべらせ文字を書く。
《私はカーランティ。これを作りました》
驚いたエラは、自分もそれを真似た。
《私はエラ》
カーランティはその下に文字を続ける。
《なぜそれを持っているんですか?》
エラは、右手の指で木の実をつまむようなしぐさをし、親指と人差し指を軽くこすり合わせた。買った、というジェスチャーだ。
カーランティはエラの手を引き、道具屋『ウィンプル・ウィザリー』の隣にある掘っ立て小屋のようなアパートへ向かう。身体はガタガタと震えていた。エラは自身の外套を彼女に着せ、指先を温めるように握り返す。
カーランティは、ウィンプル・ウィザリーの技師であり、模型を作った張本人だった。
彼女の家は狭く小さく、積み上げられたガラクタのせいで余計に身動きがとれない。腐って剥がれかけた壁の隙間は、ボロ布を詰めて塞がれているものの、隙間風は我が物顔で通り抜ける。
二人は冷たい床に腰を下ろす。
中央の囲炉裏にマッチで火をつけたカーランティは、ガラクタの中から板を取り出し文字を書いた。書く、というより削る、に近い。
《捨てたと言われました。まさか売られていたとは。それが何かわかりますか?》
エラは首を横に振った。相手から答えを出すまで、何かは知らないフリをした。
カーランティは、手元の板をヤスリで擦る。粉雪のような鉄くずが、彼女の膝を汚した。この金属の板に傷をつけ、書き直すときは全部を削ってまっさらにすることで、紙の代わりにしていたのだった。
《それは、帆式人工翼の模型です》
やはり。
クラヴァットの言ったことは本当だった。
エラは彼女からペン代わりの釘を受け取って、要件だけを淡々と伝えた。
自分は旅人だ。帆式人工翼という、人間が空を飛ぶための道具が本当に存在するのであれば、それが欲しい。材料、値段、飛ぶための技術も何も知らないから、よければ教えてほしい。それらすべてを、できれば一か月以内に。
文字を綴る手をじっと見つめるカーランティは、《すべて分かります》とその下に書く。
では、私のためにそれを作ってもらえないか。
いくら必要か。どのくらい時間がかかるか。
カーランティはその質問に答える前に、確認しておきたいことがあった。
《あなたが、帆式を操れる魔力を持っているか、確かめる方法はありますか?》
唇を固く結び、無表情でエラを見る。
金でも時間でもない。真っすぐな瞳はそう語る。
エラは意を決し、選択肢の一つではあったができれば使いたくなかった、とある魔法を唱えた。
「《目は口ほどに》」
カーランティは瞳孔を震わせ、一度大きく咳き込む。
「はっ……っ!?」
「喋れるようになる魔法」
あ、う、と言葉に詰まりながら、カーランティは何が起きたかをすぐに理解し、ボロボロと涙を落とした。
良いことをした、とは思わない。
エラは、さめざめと泣く彼女をしばらく見守った。《目は口ほどに》。尋問や拷問のショックで発声できなくなった人間を、強制的に治癒するために生み出された魔法だ。王室にいた頃、”治癒魔法の得意な魔導士”から教えてもらったものである。
「魔力の証明ってことで。どう……?」
カーランティはまだ、「あ、わぁ……」と唇を震わせる。
少しやり過ぎたか。しかし今のエラには、悠長に交渉している余裕などない。「一か月でお願い」とたたみかけると、カーランティは小さく「わかり、ました……」と頷いた。
まるで脅迫だと、エラは心の中で苦笑する。




