第32話 「石に刻まれた二柱」
足音が石に響く。
一歩踏み出すたびに、足の裏から古い遺跡の重さが伝わってくる。表面に苔が張りついた石の床は、見た目よりも固く締まっていた。数百年、あるいはそれ以上の時間をかけて、この場所は少しずつ静かになっていったのだろう。
「……思ったより、広い」
悠斗は前を向いたまま呟いた。
入口の門をくぐってすぐ、短い前廊のような通路があった。天井は低く、左右の壁が両腕を広げれば届くほどの距離にある。この世界の住民の体格から考えれば、非常に広い通路だ。しかし、元の世界の身体感覚がまだどこかに残っている悠斗には、少し圧迫感がある。
それでも足を止めなかった。
通路を十メートルほど進んだところで、視界が開けた。
「――」
悠斗は思わず息をのんだ。
ルーナも足を止めた。
前方に広がっていたのは、大きな回廊だった。
天井が高い。前廊の倍以上はある。弓形に湾曲した天井の頂点から、今どこに光源があるのかわからない淡い青白い輝きが、じんわりと染み出すように空間を満たしていた。蛍のような光ではなく、もっと均一で、柔らかい。壁に張りついた何かが発光しているように見えるが、近づいてみると、それは苔でも菌でもなかった。
石の壁そのものが、わずかに光っていた。
「石英の一種かもしれないな」
悠斗は壁に近づいて、指先で触れた。
冷たい。しかし凍てついた岩の冷たさとは違う。もっと穏やかな、湧き水に手を入れた時のような冷たさだ。
「違う」
ルーナが静かに言った。
「月の力が染み込んでいるの。長い時間をかけて、この石に月の魔力が浸透した。だから光っている」
「月の力が、石に」
「この世界では、月に近い場所ほど、石や水が月の力を帯びることがある。神殿の近くにある泉が、夜に光ることもある。ここは……その中でも、古いものね」
ルーナは壁に手を当てた。
銀色の髪が、壁の光を反射してわずかに輝く。
「この光は……怖くないよ」
ルーナは小さく言った。
「そうか」
「昔のもの、だと感じる。悪意がない。ただ、長い間ここにあった何かの残滓」
悠斗は回廊を眺めた。
左右の壁に、浮き彫りが連なっていた。
細かい線で彫られた紋様が、回廊全体に続いている。近くで見ると、それが単純な装飾ではないことがわかった。
人の形をした存在が描かれていた。
二人。
向かい合って立つ二人の姿。一人は白い衣を纏い、手のひらに光を持っている。もう一人は黒い衣を纏い、手のひらに闇を持っている。二人の間には、球形の何かがあって、それが二人の手のひらから伸びる光と闇に包まれていた。
「創造の神話」
ルーナが静かに言った。
「この世界が生まれた時の、記録?」
「……おそらく」
ルーナは浮き彫りをゆっくりと目でなぞった。
「白い存在が生命を与え、黒い存在が古いものを取り除く。二つが揃って、世界は循環する」
「ルーナとエクリシアの話か」
「……そう思う」
ルーナの声が、わずかに変わった。
悠斗は少し振り返った。
「大丈夫か」
「大丈夫。見るのが……少し、懐かしくて」
懐かしい。
その言葉を、悠斗はしばらく頭の中に置いた。
ルーナにとって、この浮き彫りは記録ではなく、記憶に近いものなのかもしれない。
「先に進もう」
「うん」
二人は回廊を歩き始めた。
足音が、左右の石壁に反響して、少し前後にずれて聞こえる。自分たちの足音が増えたようで、少し不思議な感覚があった。
「なあ、ルーナ」
歩きながら、悠斗は聞いた。
「何?」
「この遺跡に入る時、外でセレスティアが言ってた言葉、覚えてるか」
「あなたがあなただから、大丈夫って言ってたやつ?」
「それだ」
「……覚えてる」
「あれ、セレスティアらしいな」
「そうね。あの子は、いつもそういう言い方をする」
ルーナは少し口元を動かした。
「月の女神だから、じゃなくて。ルーナだから、っていう言い方を、あの子はする」
「好きか、そういう言い方」
ルーナはしばらく黙った。
「……好き」
「そうか」
「あなたも、そういう言い方をするわ」
「俺が?」
「うん。ルーナだから、ではなくて。お前だから、みたいな。いつも」
悠斗は少し考えた。
「意識してないけど」
「わかってる。だから、いいのよ」
ルーナは前を向いたまま言った。
その横顔が、石の光に照らされて、少し柔らかく見えた。
「……お前」
悠斗は言った。
「なに」
「耳が赤いぞ」
「ここは寒いから」
「そうか」
「そうよ」
「そうだな」
ルーナは少し早足になった。
悠斗は苦笑しながら後を追った。
回廊を抜けると、石段があった。
下りだった。
段差は低く、一段一段がこの世界の住民向けに作られている。ゆっくり降りれば問題ない。しかし段数は多く、踊り場もなく、ただ真っ直ぐに下へ続いていた。
「深いな」
悠斗は石段の先を見た。
青白い光が、下から漏れている。
「降りると、さらに月の力が強くなる」
ルーナが言った。
「平気か」
「平気。というより……引き寄せられるみたいな感覚がある。不快じゃない」
「月の神殿を回ってた時も、こういう感覚があったか?」
「もっと軽かった。ここはずっと重い。でも……嫌じゃない」
「わかった。行こう」
石段を降り始めた。
左右の壁が、また近くなる。上の回廊より通路が狭く、少し閉塞感がある。しかし天井は高く、圧迫感はさほどではなかった。
壁の浮き彫りが、石段にも続いていた。
しかし、内容が変わっていた。
上の回廊に描かれていた二人の存在が、ここでは片方だけになっていた。
黒い衣を纏った存在が、一人で立っている。
その周囲には、光がない。闇だけがある。
しかし不思議なことに、その存在の顔は、苦しそうではなかった。ただ静かに、目を閉じて、立っていた。
「……」
ルーナは浮き彫りを見て、足を止めた。
「ルーナ?」
「……行こう」
ルーナは先に足を踏み出した。
何かを言いかけて、止めたような間があった。
悠斗は聞かなかった。
今は、聞かない方がいい。
石段を降り切ると、また通路になった。
今度は広かった。しかし、上と違うのは、ここには浮き彫りがなかった。
ただの石の壁と、石の床と、石の天井。
そして、どこからか水の音がした。
「水?」
「地下に流れてるんだ、川が」
エレナが以前、この遺跡を調査した時のことを話していた。地下に水の流れがある可能性に触れていたことを、悠斗は思い出した。
「川の音が聞こえるということは、地下に空洞があるってことか」
「この遺跡の下に、地下水脈があるのかもしれない。あるいは、建造物そのものが、水を通す構造になっているのか」
ルーナは壁の下部を確認した。
「水は来ていない。ただ、遠くで流れている音が届いてるだけね」
「じゃあ床は問題ないな」
「今のところは」
二人は通路を進んだ。
光が少し変わった。青白い光から、もう少し暖色が混じった、琥珀色に近い何かが加わっている。壁の素材が変わったのか、通路の奥に何か別の光源があるのかは判断できなかった。
「少し、暖かくなった気がする」
「そうね」
ルーナも頷いた。
「外が寒すぎたから、体が錯覚してるだけかもしれないけど……でも、確かに何かが変わってる。この先に、月の力の中心に近いものがある」
「中心に近いもの。つまり、水晶か」
「……そう思う」
ルーナの歩みが、少しだけ遅くなった。
悠斗は気づいたが、何も言わずに歩幅を合わせた。
「大丈夫か、怖いのか?」
「少しだけ」
珍しく、ルーナが素直に言った。
「怖い方向は?」
「前に進む怖さと、引き戻される怖さ、どちらもある」
「引き戻されるとは」
「手を伸ばしたら、全部わかってしまうかもしれない。それが……少し、怖い」
「全部わかることが怖いのか」
「わかること自体じゃない」
ルーナは少し考えてから言った。
「わかった後に、自分がどうなるかが怖い。記憶を取り戻すたびに、私は変わってきた。また変わるとしたら……今のあなたと同じ私のままでいられるかどうか、わからない」
「変わっても、お前はお前だ」
「そう言える?」
「言える」
悠斗は迷わずに言った。
「俺は、フィギュアのルーナから本物のルーナに会って、旅をして、今もお前と一緒にいる。何度か変わったろ。でも毎回、お前だとわかった。一回もわからなくなったことはない」
ルーナは止まった。
悠斗も止まった。
「……なんでそういうことを、こういう場所で言うの」
「場所は関係ない」
「関係あるわよ。こういう古くて薄暗い場所で、そういうことを言われたら、答え方に困る」
悠斗は少し首を傾けた。
「答えなくていい」
「でも、答えたくなるじゃない」
ルーナは真っ直ぐ悠斗を見た。
石の光の中で、銀色の瞳が静かに輝いている。
「……変わっても、そばにいてくれるか」
「いる」
「絶対に?」
「絶対に」
ルーナは少し間を置いた。
それから、悠斗の袖を、指先でつまんだ。
「……行こう」
「ああ」
「早く進まないと、エレナに一時間で入ってこられる」
「それは困る」
「でしょう」
ルーナは先に歩き出した。
悠斗はその後ろを、少しだけ笑いながら追った。
外では、三人が待っていた。
岩陰に近い、風の少ない場所。セレスティアとエレナは岩に腰を下ろし、ウルリックは少し離れた場所に立って周囲に目を配っていた。
遺跡の入口から、もう足音は聞こえない。
「静かですね」
セレスティアが言った。
「静かだな」
エレナが短く答えた。
「中では、今どういう状況なんでしょう」
「わからない。でも、悠斗があそこまで入って、すぐに戻ってくるとは思わない」
「そうですね」
セレスティアは両手を膝の上に置いて、空を見上げた。白い月が、昼の空に薄く浮かんでいる。
「エレナさん」
「何だ」
「あの二人を、どう思いますか」
エレナは少し間を置いた。
「どう、とは」
「悠斗様とルーナ様のことです」
「強い、と思っている」
「強さの話ですか?」
「違う」
エレナは少し考えた。
「あの二人がいると、周りの人間が引き寄せられる。そういう強さを感じる。ユリィもそうだった。グレムもそうだった。私も……否定できない」
「ふふ」
「笑うな」
「笑ってないです。嬉しいなと思って」
「嬉しい?」
「エレナさんが素直に認めてくれると、嬉しいです」
エレナはそっぽを向いた。
セレスティアは小さく笑いながら、空を見続けた。
「エレナさんは、自分のことをどう思っていますか」
「何が」
「この旅に加わって。悠斗様たちと一緒に動いていることを」
エレナはしばらく黙った。
「……考えていなかった」
「今考えてみたら?」
「……やかましい」
「素直に、でいいですよ」
エレナは遠くを見た。
山の斜面が白い。遠くに稜線が見える。空は青く晴れていた。
「・・・悪くない」
エレナはそれだけ言った。
セレスティアは頷いた。
それ以上は聞かなかった。
「うまそうな匂いだな」
岩陰から少し離れた場所で、ウルリックが言った。
「え?」
「干し肉でも焼いているのか?」
セレスティアは荷物を確認した。
「……あ。そうです、ちょっと待ってください」
セレスティアは荷物から小さな袋を取り出した。ミハイルの一家から分けてもらった香草塩漬け肉の残りと、硬いパン。
「外で食べるとなんでも美味しいですから」
「それは同意だ」
ウルリックが戻ってきた。
エレナも、無言で手を伸ばした。
「意外と素直に受け取ってくれますね」
「腹が減った時に遠慮するのは無駄だ」
「そういうところ、悠斗様に似てます」
「……それは、褒め言葉と受け取っておく」
三人は、岩陰で干し肉をかじりながら待った。
遺跡の入口は、変わらず静かだった。
「ウルリック」
エレナが言った。
「何だ」
「お前は、長く案内の仕事をしてきた。こういう場所に、今まで立ったことはあるか」
「何度かある。古い神殿の案内をしたことも。廃城の中を通ったこともある」
「こういう場所で、中に入った者が戻ってこなかったことは」
ウルリックは少し間を置いた。
「ある」
「どういう場所だった」
「地下に水脈がある古い要塞だった。床が腐っていた。踏み抜いた」
「……体は見つかったか」
「見つかった。怪我はしていたが、生きていた。声が届いて引き上げた」
エレナは少し頷いた。
「悠斗は落ちても平気だ」
「そうらしい」
「だから、その心配はない」
「別の心配の話をしていたのか」
「……していなかった」
セレスティアが二人を交互に見た。
「エレナさんは心配してるんですよ」
「してない」
「顔に出てます」
「そんな顔はしていない」
「眉間が少し寄ってます。普段はもっと平らです」
エレナは指で眉間を触った。
ウルリックが、珍しく口の端を動かした。
「笑うな」
「笑っていない」
「笑っている顔だ」
「老いると、こういう顔になる」
「それは言い訳だ」
セレスティアがくすりと笑った。
風が吹いた。山の冷たい風が、三人の間を通り過ぎていった。
遺跡の入口は、変わらず静かだった。
一方、同じ日の昼頃。
エルディア王国、王都。
城下の広場に面した宿の一室で、窓の外を見ていた人物がいた。
「……やはり、多いな」
低い声が言った。
「ここ数日で、また増えている」
黒いローブを纏った男性が、椅子に腰掛けて窓の外を眺めていた。旅の埃が残った服装だが、その眼差しは鋭い。左手には、黒い霧のように揺れる影の痕跡がある。
バルトロメウスだった。
「グラキエス、お前も見ているか」
「ええ」
窓際に立っていた女性が答えた。
薄い青の外套を羽織り、淡い金色の髪をまとめている。その瞳は、冷徹でありながら、どこか穏やかさを帯びていた。
グラキエスは窓の外の広場を見ていた。
「市場で、話を聞いた。先月から、王都の周辺に出る魔物の数が例年の倍以上になっていると。農村から避難してきた家族もいる」
「農村からの避難……それはどの方角だ」
「北と、西。二方向から来ている」
「北か」
バルトロメウスは眉をひそめた。
「悠斗たちが向かっている方向と、重なる」
「そうね」
「偶然ではないかもしれない」
グラキエスは椅子に座り直して、テーブルの上に広げた地図を見た。エルディア王国を中心に、各地の地名が記されている。北方には、帝国の名前。その先には、ヴァルクの位置。
「あなたは、黒月教が倒れた後から、ずっとこのことが気になっていたのでしょう」
「気になっていた、というより……わかっていた」
バルトロメウスは立ち上がって、テーブルの地図を見た。
「黒月の儀式を阻止しても、世界のバランスが完全に戻ったわけじゃない。ゼノンを倒した後、白い月の力がわずかに戻ったのは確かだ。しかし、黒い月はまだ強い。その影響が、魔物の凶暴化として続いている」
「そして、ここ最近は特に」
「そうだ。王都に戻ってから三日経つが、三日で状況が変わっているのがわかる。悠斗たちが北で動いている時期と、ほぼ一致している」
グラキエスは立ち上がった。
「情報を集めましょう。宰相のレイナルド様に話を聞けば、もっと詳しいことがわかるはずよ」
「そうだな。それと……」
「それと?」
バルトロメウスは少し間を置いた。
「市場で一つ、気になることを聞いた。南の商人仲間の間で、噂が流れているらしい」
「どんな噂?」
「人の形をした、しかし人ではない存在が、各地で目撃されているという話だ。魔物よりも速く、魔物よりも賢い。それが複数、南の街道に近い場所で目撃されているという」
グラキエスは少し表情を変えた。
「……それは」
「悠斗が北で戦った相手と同じかもしれない。あるいは、別のものかもしれない。どちらにせよ、確認が必要だ」
「レイナルド様には、その情報も伝えた方がいいわね」
「ああ」
二人は互いを見た。
「久しぶりだな、こういう動き方をするのは」
グラキエスが少し口元を動かした。
「嫌か?」
「そうは言っていない」
「なら」
「……悠斗たちのためになることなら、何でも」
グラキエスは短く言った。
バルトロメウスはそれを聞いて、少し目元を緩めた。
「行こう」
「ええ」
二人は宿を出た。
王都の石畳が、足の下に続いていた。
市場の喧騒が聞こえる。人々の声。荷馬車の音。その日常の音の中に、どこかざわついたものが混じっている。普通に暮らしている人々には聞こえないかもしれないが、長年戦いの中を生きてきた二人には、はっきりとわかった。
「最近、夜に外出を控えている人が増えているな」
バルトロメウスは周囲を見ながら言った。
「日が暮れる前に、急いで店を閉めているところが何軒かあった」
「魔物の話が広まっているのね」
「広まっていると同時に、当局が情報を押さえようとしている気配もある。広場の掲示板に、普段より注意書きが増えていた」
「民衆を不安にさせないように、か」
「あるいは、パニックを防ぐために」
二人は広場を抜けて、王城の方向へ歩いた。
グラキエスが静かに言った。
「あの時から、ずいぶん経ったわね」
「黒月教と戦っていた時か」
「その後も。旅をして、各地を見て。戻ってきたと思ったら、また何かが動き始めている」
「それが、この世界というものだ」
「……あなたは、後悔してる?」
「何を」
「黒月教を脱退したことを」
バルトロメウスは少し間を置いた。
「していない」
「本当に?」
「脱退したことを後悔したことは、一度もない。あの教義は間違っていた。今でも、そう思っている」
「なら、今あなたが感じているのは何?」
バルトロメウスは歩きながら、少し視線を落とした。
「……焦りに近いものだ」
「焦り?」
「悠斗たちが動いている。世界が動いている。自分たちも動かなければならないとわかっている。それなのに、何が起きているかを完全に把握できていない。その感覚が不快だ」
「あなたは、昔から情報を持って動く人だったものね」
「それが今はできていない。だから、まずここから始める」
グラキエスは頷いた。
「わかったわ。私も動く。情報は多い方がいい」
「ああ」
「バルトロメウス」
「何だ」
グラキエスは少し口元を動かした。
「……また一緒に動けて、良かった」
バルトロメウスは前を向いたまま、少しの間だけ黙った。
「……そうだな」
それだけ言って、二人は王城の方へ歩き続けた。
石畳の道が、続いていた。
遺跡の中。
二人は通路を進み続けた。
石段を一段降りるたびに、わずかずつ、何かが変わっていく。
最初は気のせいかと思った。しかし五分、十分と経つにつれ、それが確かなものになってきた。
圧迫感、という言葉が、一番近かった。
「……少し重い」
悠斗は言った。
「感じてるの?」
「うん。なんか、空気が厚いというか。重力が変わったとかじゃない。でも——何かがある」
「私は最初から感じてた。あなたも感じ始めたということは、かなり強くなっているのね」
ルーナは自分の胸元に手を当てた。
月の加護のペンダントが、わずかに温かくなっていた。
「月の力が、この先にある」
「それは確かか」
「確か。でも……」
「でも?」
「月の力だけじゃない。何か別のものが混ざっている。黒月の力とも違う——もっと根源的な何か。私の中の古い記憶が、ざわざわしている」
「古い記憶が」
「うん。言葉にできないけど……何かが呼んでいる気がする。私の一番深いところにある、まだ取り戻していない記憶が、引っ張られている感覚」
悠斗は拳を握った。
引っ張られている。
それがルーナにとって良いことなのか悪いことなのか、今はまだわからない。
しかし。
「俺がいる」
「……わかってる」
「前を向いて歩け。何かあれば俺が先に当たる」
「あなたに先に当たられた後で、私が何もできなかったら意味ないでしょう」
「やってみないとわからない」
「……強がりを言う」
「強がりじゃない。信頼だ」
ルーナは少し立ち止まった。
悠斗を見た。
「……」
「なんだ」
「今のは、かなりずるい言い方ね」
「そうか?」
「そうよ。強がりじゃない、信頼だって言われたら——何も言えないじゃない」
悠斗は少し首を傾けた。
「そのつもりで言った」
「わかってる」
ルーナはため息をついた。
しかしその目は、少し柔らかくなっていた。
「行きましょう。ここで話していても、何も変わらない」
「そうだな」
二人は歩みを再開した。
通路は、またわずかに広くなった。
壁の浮き彫りが、また戻ってきていた。
しかし今度は、上の回廊にあったような二人の存在の彫刻ではなかった。
月の形が、連続して刻まれている。
満月、半月、三日月。欠けていく月が、壁に沿って延々と続いている。そして——ほぼ見えない程度にまで欠けた月の形の後、一転して、また満月から始まる。
循環。
終わりのない、月の満ち欠けの記録。
「月の周期が刻まれている」
セレスティアがいれば、すぐに解説してくれそうな光景だった。
「この遺跡を作った人たちは、月を信仰していたんだな」
「月を信仰というより……月と共に生きていた。月は、彼らにとって生活の基準そのものだったはずよ。農業の時期も、祭りの日取りも、全て月の満ち欠けで決めていた。だから、ここまで丁寧に刻んだ」
「月を、神聖なものとして見ていたか」
「見ていた。でも……単純な信仰ではなかった気がする」
ルーナは月の浮き彫りを指先で触れた。
「月と一緒に、この世界の時間を数えていた。そういう感じがする」
「それが……エクリシアと、お前の記憶と関係しているか」
ルーナはその言葉に、少し間を置いた。
「……おそらく」
それだけ言って、先を促した。
通路を進むにつれて、圧迫感が増していった。
頭が痛くなる、というほどではない。息が苦しくなる、というほどでもない。しかし確実に、この空間に何かが溜まっている、という感覚があった。
「……悠斗」
「うん」
「本当に、何も感じなかった? 最初の頃」
「最初は全然。今はわかる。なんというか、空気に粘り気があるみたいな感じ」
「そうね。上手い表現だわ。月の力が濃い場所は、そういう感触がある」
「経験したことがあるのか」
「孤島の神殿に入った時が、少し近かった。でもここはもっと強い。規模が違う」
「規模が大きいということは」
「長い時間、この場所に力が積み重なってきた、ということだと思う」
悠斗はそれを聞いて、少し考えた。
「何百年、という話か」
「何百年——あるいは、それ以上」
「千年以上前から、ここに力が溜まっていた」
「可能性としては、ある」
「エクリシアが自らを封じたと碑文に書いてあったのが、このことと繋がっていたら」
ルーナは答えなかった。
答えられなかった、というのが正確だった。
悠斗は気づいていたが、続けなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
ルーナも同じように、前を向いて歩いた。
通路が、また変わった。
今度は天井が低くなった。それと同時に、左右の壁が遠くなった。横幅が広がった。廊下から、大きな部屋に繋がる手前のような空間になっていく。
「……近い」
ルーナが小声で言った。
「どのくらいだ」
「もうすぐ。この先に、何かがあると思う」
悠斗は歩みを遅めた。
全身の感覚を、鋭くする。
訓練の中で磨いてきた、あの感覚。影と戦い続けた三日間で、体の内側から鍛えられた何かが、今ここで静かに準備している。
「……行くぞ」
「うん」
二人は並んで、通路の先へ足を踏み出した。
そして。
足が止まった。
広間だった。
通路の先に、突然、広大な空間が開けていた。
天井が高い。上を見ると、石の梁が何本も渡されており、その隙間から、青白い光が網目のように差し込んでいる。光の源は見えない。しかし空間全体が、ひんやりとした輝きに満たされていた。
横幅は通路の三倍以上はある。奥行きも深い。
床には、細かい文様が刻まれていた。複雑に絡み合う線が、広間の中央に向かって放射状に広がっている。それは何らかの儀式の場を示しているのか、あるいはただの装飾なのか、今の二人には判断がつかなかった。
壁には、今まで通ってきた通路と同様の浮き彫りがある。しかし密度が違った。壁一面が、びっしりと彫刻で埋め尽くされている。月の満ち欠け、二柱の存在、世界の創造——それらが積み重なって、壁全体が一つの絵巻物のようになっていた。
そして。
広間の中央。
台座があった。
高さは悠斗の腰ほど。石造りで、表面に細かい紋様が施されている。その上に、一つのものが置かれていた。
「……」
ルーナの息が、止まった。
台座の上に載っているのは、球形の小さな結晶体だった。
直径は、人の拳一つ分ほど。
その内側から、淡い銀色の光が揺れている。
見間違えようがなかった。
「水晶」
悠斗は静かに言った。
「……ええ」
ルーナの声が、震えていた。
「五番目の。最後の、私の記憶」
「ここに、あった」
「ここに、ずっとあったのね。だから——この場所から、あんなに強い力を感じていたのか」
悠斗は広間を素早く確認した。
他に人影はない。出入り口は来た通路だけ。天井に罠になりそうな構造はない。床の文様は古いが、踏み抜くほど傷んでいる様子はない。
「行けそうだ」
「うん」
「俺が先に行く。お前は後ろから来い」
「わかった」
悠斗は一歩踏み出した。
床の文様が、足の下に広がる。
二歩、三歩。
何も起きない。
広間は静かだった。
空気の粘り気が、さらに増している。しかし歩けないほどではない。
台座まで、あと十歩ほどの距離。
ルーナが後ろからついてくる気配があった。
「……悠斗、止まって」
ルーナの声が、突然変わった。
悠斗は即座に足を止めた。
「どうした」
「……何かが変わった。今、何かが変わった」
「?」
「私が台座に近づいたと同時に。何かが反応した」
悠斗は周囲を素早く見回した。
変化はない。
しかし。
台座の上の水晶が、変わっていた。
さっきまで淡い銀色だった光が、今は少し濃くなっている。銀から白に近い、強い光。
悠斗は水晶を見た。
「光が強くなっている」
「……そうね。でも、それだけじゃない」
ルーナは一歩前に出た。
「私に向かって、何かが語りかけてくる気がする。声じゃない。感覚として、何かが——」
その時。
声がした。
「・・・来たか」
声だった。
明確な、言葉を持った声だった。
どこから聞こえてくるのかわからない。広間全体に響いているようでもあり、ルーナの頭の中だけに届いているようでもあった。
悠斗にも聞こえた。
「誰だ」
悠斗は声を出した。
「……」
返答はなかった。
しかし、次の瞬間。
空気が動いた。
壁の浮き彫りが、ざわめいた。そう見えた。実際には石は動いていない。しかし、何かが浮き彫りの表面を流れたように見えた。月の光が、壁の上を走ったように見えた。
そして。
台座の水晶が、激しく光り始めた。
「ルーナ」
悠斗は叫ぼうとした。
しかしその前に、凄まじい圧力が吹き抜ける。
魔力の暴風が来た。
それは普通の風ではなかった。風圧というより、空間が揺れたというほうが近い。広間の空気が、一瞬で逆巻いた。床の文様から光が吹き上がり、天井から銀色の光が落ちてくる。
悠斗は即座に体を低くして地面に踏み込んだ。
三日間の訓練で磨いた重心の使い方。地面に貼り付くように体重を落とす。足の裏から地面を掴む。
しかし。
「悠斗!」
ルーナの声が聞こえた。
次の瞬間、ルーナの体が、暴風に吹き飛ばされた。
「ルーナ!」
銀色の髪が視野の端を横切った。
ルーナの体が広間の壁に向かって飛んでいく。
悠斗は反射的に跳んだ。
ルーナが壁に当たる直前に、その体に手が届いた。
壁との衝突を、自分の体で吸収する。
背中が石の壁にぶつかった。
「がっ——」
衝撃が走る。しかし、それだけだった。
「ルーナ、大丈夫か」
「……大丈夫。ありがとう」
ルーナは悠斗の腕の中で、体を起こした。
息が少し荒い。しかし怪我はなさそうだった。
「立てるか」
「立てる」
二人は壁を背にして、広間の中央を見た。
台座の上の水晶は、まだ激しく光っていた。
しかし、暴風は止んでいた。
代わりに。
台座の前に、何かが現れ始めていた。
光だった。
光、といっても、普通の光ではない。
黒い光——それは矛盾した表現だが、それ以外に言い表せるものがなかった。闇が形を持ち、輝いている。周囲の石の光を飲み込みながら、その輪郭が凝縮されていく。
悠斗は拳を握った。
「……何が来る」
「わからない。でも——」
ルーナの声が、また変わった。
震えが交じっていた。恐怖とは違う。もっと根源的な、何かを認識した時の震えだった。
「ルーナ」
「……悠斗」
「見てるか」
「ええ」
「離れるな」
「分かってるわ」
黒い光が、形を作り始めた。
人の輪郭だった。
足があった。体があった。肩があった。首があった。
そして。
顔があった。
「——」
悠斗は息をのんだ。
その存在が、そこに立っていた。
黒髪が、肩の下まで流れている。ただし、ルーナの銀色が月光を纏った輝きを持っているとしたら、この存在のは——深い夜の中にいるような、冷たく静かな黒だった。
瞳は、深い紅色だった。
体を纏うものは、闇に近い色の薄い衣。それは布のようにも、光が凝固したものようにも見えた。
立ち姿は静かだった。動こうとしていない。ただそこに存在している。しかしその存在そのものが、広間の空気を変えていた。
ルーナに、よく似ていた。
よく似ているが、ルーナではない。
悠斗は感じた。この存在は、ルーナが持っている「温かさ」の代わりに、何か別のものを持っている。温度のない、しかし深い何か。
「……」
ルーナが、その存在を見ていた。
一言も発しない。
体が、わずかに固まっていた。
その存在は、広間を見回した。
悠斗を見た。
一瞬だけ、その紅色の瞳が悠斗の上で止まった。
何かを確認するような眼差しだった。驚きとも興味とも、少し違う。ただ、見ていた。
そして。
ルーナを見た。
長い沈黙があった。
広間全体が、息を止めているようだった。
台座の上の水晶が、まだ光っている。
暴風は完全に止んでいた。
その存在が、口を開いた。
低く、静かな声だった。
月光が言葉になったような声でも、嵐が意志を持ったような声でも——なかった。
ただ、深い場所から来る、静かな声だった。
「久しいな、ルーナ」
広間に、その言葉だけが残った。
王都の石畳は、旅の土と砂利に慣れた足には、少し固く感じる。
旅に出てから、ずいぶん経った。各地を回り、色々なものを見た。北の雪原も、南の港町も、東の草原も。行くたびに、自分がどこに属しているのか、少し考えた。
黒月教にいた頃は、答えが決まっていた。組織が私の居場所だった。そのことを、疑ったことがなかった。
今は違う。
答えはまだ、はっきりとはしない。でも、隣を歩く人が決まっているというのは、思ったより大きなことだと、最近わかってきた。
――グラキエス




