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模型(1/10)スケールのアポカリプス  作者: 暁の裏


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32/33

第32話 「石に刻まれた二柱」

 足音が石に響く。

 

 一歩踏み出すたびに、足の裏から古い遺跡の重さが伝わってくる。表面に苔が張りついた石の床は、見た目よりも固く締まっていた。数百年、あるいはそれ以上の時間をかけて、この場所は少しずつ静かになっていったのだろう。

 

「……思ったより、広い」

 

 悠斗は前を向いたまま呟いた。

 

 入口の門をくぐってすぐ、短い前廊のような通路があった。天井は低く、左右の壁が両腕を広げれば届くほどの距離にある。この世界の住民の体格から考えれば、非常に広い通路だ。しかし、元の世界の身体感覚がまだどこかに残っている悠斗には、少し圧迫感がある。

 

 それでも足を止めなかった。

 

 通路を十メートルほど進んだところで、視界が開けた。

 

「――」

 

 悠斗は思わず息をのんだ。

 

 ルーナも足を止めた。

 

 前方に広がっていたのは、大きな回廊だった。

 

 天井が高い。前廊の倍以上はある。弓形に湾曲した天井の頂点から、今どこに光源があるのかわからない淡い青白い輝きが、じんわりと染み出すように空間を満たしていた。蛍のような光ではなく、もっと均一で、柔らかい。壁に張りついた何かが発光しているように見えるが、近づいてみると、それは苔でも菌でもなかった。

 

 石の壁そのものが、わずかに光っていた。

 

「石英の一種かもしれないな」

 

 悠斗は壁に近づいて、指先で触れた。

 

 冷たい。しかし凍てついた岩の冷たさとは違う。もっと穏やかな、湧き水に手を入れた時のような冷たさだ。

 

「違う」

 

 ルーナが静かに言った。

 

「月の力が染み込んでいるの。長い時間をかけて、この石に月の魔力が浸透した。だから光っている」

 

「月の力が、石に」

 

「この世界では、月に近い場所ほど、石や水が月の力を帯びることがある。神殿の近くにある泉が、夜に光ることもある。ここは……その中でも、古いものね」

 

 ルーナは壁に手を当てた。

 

 銀色の髪が、壁の光を反射してわずかに輝く。

 

「この光は……怖くないよ」

 

 ルーナは小さく言った。

 

「そうか」

 

「昔のもの、だと感じる。悪意がない。ただ、長い間ここにあった何かの残滓」

 

 悠斗は回廊を眺めた。

 

 左右の壁に、浮き彫りが連なっていた。

 

 細かい線で彫られた紋様が、回廊全体に続いている。近くで見ると、それが単純な装飾ではないことがわかった。

 

 人の形をした存在が描かれていた。

 

 二人。

 

 向かい合って立つ二人の姿。一人は白い衣を纏い、手のひらに光を持っている。もう一人は黒い衣を纏い、手のひらに闇を持っている。二人の間には、球形の何かがあって、それが二人の手のひらから伸びる光と闇に包まれていた。

 

「創造の神話」

 

 ルーナが静かに言った。

 

「この世界が生まれた時の、記録?」

 

「……おそらく」

 

 ルーナは浮き彫りをゆっくりと目でなぞった。

 

「白い存在が生命を与え、黒い存在が古いものを取り除く。二つが揃って、世界は循環する」

 

「ルーナとエクリシアの話か」

 

「……そう思う」

 

 ルーナの声が、わずかに変わった。

 

 悠斗は少し振り返った。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫。見るのが……少し、懐かしくて」

 

 懐かしい。

 

 その言葉を、悠斗はしばらく頭の中に置いた。

 

 ルーナにとって、この浮き彫りは記録ではなく、記憶に近いものなのかもしれない。

 

「先に進もう」

 

「うん」

 

 二人は回廊を歩き始めた。

 

 足音が、左右の石壁に反響して、少し前後にずれて聞こえる。自分たちの足音が増えたようで、少し不思議な感覚があった。

 

「なあ、ルーナ」

 

 歩きながら、悠斗は聞いた。

 

「何?」

 

「この遺跡に入る時、外でセレスティアが言ってた言葉、覚えてるか」

 

「あなたがあなただから、大丈夫って言ってたやつ?」

 

「それだ」

 

「……覚えてる」

 

「あれ、セレスティアらしいな」

 

「そうね。あの子は、いつもそういう言い方をする」

 

 ルーナは少し口元を動かした。

 

「月の女神だから、じゃなくて。ルーナだから、っていう言い方を、あの子はする」

 

「好きか、そういう言い方」

 

 ルーナはしばらく黙った。

 

「……好き」

 

「そうか」

 

「あなたも、そういう言い方をするわ」

 

「俺が?」

 

「うん。ルーナだから、ではなくて。お前だから、みたいな。いつも」

 

 悠斗は少し考えた。

 

「意識してないけど」

 

「わかってる。だから、いいのよ」

 

 ルーナは前を向いたまま言った。

 

 その横顔が、石の光に照らされて、少し柔らかく見えた。

 

「……お前」

 

 悠斗は言った。

 

「なに」

 

「耳が赤いぞ」

 

「ここは寒いから」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

「そうだな」

 

 ルーナは少し早足になった。

 

 悠斗は苦笑しながら後を追った。

 

 

 

 回廊を抜けると、石段があった。

 

 下りだった。

 

 段差は低く、一段一段がこの世界の住民向けに作られている。ゆっくり降りれば問題ない。しかし段数は多く、踊り場もなく、ただ真っ直ぐに下へ続いていた。

 

「深いな」

 

 悠斗は石段の先を見た。

 

 青白い光が、下から漏れている。

 

「降りると、さらに月の力が強くなる」

 

 ルーナが言った。

 

「平気か」

 

「平気。というより……引き寄せられるみたいな感覚がある。不快じゃない」

 

「月の神殿を回ってた時も、こういう感覚があったか?」

 

「もっと軽かった。ここはずっと重い。でも……嫌じゃない」

 

「わかった。行こう」

 

 石段を降り始めた。

 

 左右の壁が、また近くなる。上の回廊より通路が狭く、少し閉塞感がある。しかし天井は高く、圧迫感はさほどではなかった。

 

 壁の浮き彫りが、石段にも続いていた。

 

 しかし、内容が変わっていた。

 

 上の回廊に描かれていた二人の存在が、ここでは片方だけになっていた。

 

 黒い衣を纏った存在が、一人で立っている。

 

 その周囲には、光がない。闇だけがある。

 

 しかし不思議なことに、その存在の顔は、苦しそうではなかった。ただ静かに、目を閉じて、立っていた。

 

「……」

 

 ルーナは浮き彫りを見て、足を止めた。

 

「ルーナ?」

 

「……行こう」

 

 ルーナは先に足を踏み出した。

 

 何かを言いかけて、止めたような間があった。

 

 悠斗は聞かなかった。

 

 今は、聞かない方がいい。

 

 

 

 石段を降り切ると、また通路になった。

 

 今度は広かった。しかし、上と違うのは、ここには浮き彫りがなかった。

 

 ただの石の壁と、石の床と、石の天井。

 

 そして、どこからか水の音がした。

 

「水?」

 

「地下に流れてるんだ、川が」

 

 エレナが以前、この遺跡を調査した時のことを話していた。地下に水の流れがある可能性に触れていたことを、悠斗は思い出した。

 

「川の音が聞こえるということは、地下に空洞があるってことか」

 

「この遺跡の下に、地下水脈があるのかもしれない。あるいは、建造物そのものが、水を通す構造になっているのか」

 

 ルーナは壁の下部を確認した。

 

「水は来ていない。ただ、遠くで流れている音が届いてるだけね」

 

「じゃあ床は問題ないな」

 

「今のところは」

 

 二人は通路を進んだ。

 

 光が少し変わった。青白い光から、もう少し暖色が混じった、琥珀色に近い何かが加わっている。壁の素材が変わったのか、通路の奥に何か別の光源があるのかは判断できなかった。

 

「少し、暖かくなった気がする」

 

「そうね」

 

 ルーナも頷いた。

 

「外が寒すぎたから、体が錯覚してるだけかもしれないけど……でも、確かに何かが変わってる。この先に、月の力の中心に近いものがある」

 

「中心に近いもの。つまり、水晶か」

 

「……そう思う」

 

 ルーナの歩みが、少しだけ遅くなった。

 

 悠斗は気づいたが、何も言わずに歩幅を合わせた。

 

「大丈夫か、怖いのか?」

 

「少しだけ」

 

 珍しく、ルーナが素直に言った。

 

「怖い方向は?」

 

「前に進む怖さと、引き戻される怖さ、どちらもある」

 

「引き戻されるとは」

 

「手を伸ばしたら、全部わかってしまうかもしれない。それが……少し、怖い」

 

「全部わかることが怖いのか」

 

「わかること自体じゃない」

 

 ルーナは少し考えてから言った。

 

「わかった後に、自分がどうなるかが怖い。記憶を取り戻すたびに、私は変わってきた。また変わるとしたら……今のあなたと同じ私のままでいられるかどうか、わからない」

 

「変わっても、お前はお前だ」

 

「そう言える?」

 

「言える」

 

 悠斗は迷わずに言った。

 

「俺は、フィギュアのルーナから本物のルーナに会って、旅をして、今もお前と一緒にいる。何度か変わったろ。でも毎回、お前だとわかった。一回もわからなくなったことはない」

 

 ルーナは止まった。

 

 悠斗も止まった。

 

「……なんでそういうことを、こういう場所で言うの」

 

「場所は関係ない」

 

「関係あるわよ。こういう古くて薄暗い場所で、そういうことを言われたら、答え方に困る」

 

 悠斗は少し首を傾けた。

 

「答えなくていい」

 

「でも、答えたくなるじゃない」

 

 ルーナは真っ直ぐ悠斗を見た。

 

 石の光の中で、銀色の瞳が静かに輝いている。

 

「……変わっても、そばにいてくれるか」

 

「いる」

 

「絶対に?」

 

「絶対に」

 

 ルーナは少し間を置いた。

 

 それから、悠斗の袖を、指先でつまんだ。

 

「……行こう」

 

「ああ」

 

「早く進まないと、エレナに一時間で入ってこられる」

 

「それは困る」

 

「でしょう」

 

 ルーナは先に歩き出した。

 

 悠斗はその後ろを、少しだけ笑いながら追った。

 

 

 

 外では、三人が待っていた。

 

 岩陰に近い、風の少ない場所。セレスティアとエレナは岩に腰を下ろし、ウルリックは少し離れた場所に立って周囲に目を配っていた。

 

 遺跡の入口から、もう足音は聞こえない。

 

「静かですね」

 

 セレスティアが言った。

 

「静かだな」

 

 エレナが短く答えた。

 

「中では、今どういう状況なんでしょう」

 

「わからない。でも、悠斗があそこまで入って、すぐに戻ってくるとは思わない」

 

「そうですね」

 

 セレスティアは両手を膝の上に置いて、空を見上げた。白い月が、昼の空に薄く浮かんでいる。

 

「エレナさん」

 

「何だ」

 

「あの二人を、どう思いますか」

 

 エレナは少し間を置いた。

 

「どう、とは」

 

「悠斗様とルーナ様のことです」

 

「強い、と思っている」

 

「強さの話ですか?」

 

「違う」

 

 エレナは少し考えた。

 

「あの二人がいると、周りの人間が引き寄せられる。そういう強さを感じる。ユリィもそうだった。グレムもそうだった。私も……否定できない」

 

「ふふ」

 

「笑うな」

 

「笑ってないです。嬉しいなと思って」

 

「嬉しい?」

 

「エレナさんが素直に認めてくれると、嬉しいです」

 

 エレナはそっぽを向いた。

 

 セレスティアは小さく笑いながら、空を見続けた。

 

「エレナさんは、自分のことをどう思っていますか」

 

「何が」

 

「この旅に加わって。悠斗様たちと一緒に動いていることを」

 

 エレナはしばらく黙った。

 

「……考えていなかった」

 

「今考えてみたら?」

 

「……やかましい」

 

「素直に、でいいですよ」

 

 エレナは遠くを見た。

 

 山の斜面が白い。遠くに稜線が見える。空は青く晴れていた。

 

「・・・悪くない」

 

 エレナはそれだけ言った。

 

 セレスティアは頷いた。

 

 それ以上は聞かなかった。

 

「うまそうな匂いだな」

 

 岩陰から少し離れた場所で、ウルリックが言った。

 

「え?」

 

「干し肉でも焼いているのか?」

 

 セレスティアは荷物を確認した。

 

「……あ。そうです、ちょっと待ってください」

 

 セレスティアは荷物から小さな袋を取り出した。ミハイルの一家から分けてもらった香草塩漬け肉の残りと、硬いパン。

 

「外で食べるとなんでも美味しいですから」

 

「それは同意だ」

 

 ウルリックが戻ってきた。

 

 エレナも、無言で手を伸ばした。

 

「意外と素直に受け取ってくれますね」

 

「腹が減った時に遠慮するのは無駄だ」

 

「そういうところ、悠斗様に似てます」

 

「……それは、褒め言葉と受け取っておく」

 

 三人は、岩陰で干し肉をかじりながら待った。

 

 遺跡の入口は、変わらず静かだった。

 

「ウルリック」

 

 エレナが言った。

 

「何だ」

 

「お前は、長く案内の仕事をしてきた。こういう場所に、今まで立ったことはあるか」

 

「何度かある。古い神殿の案内をしたことも。廃城の中を通ったこともある」

 

「こういう場所で、中に入った者が戻ってこなかったことは」

 

 ウルリックは少し間を置いた。

 

「ある」

 

「どういう場所だった」

 

「地下に水脈がある古い要塞だった。床が腐っていた。踏み抜いた」

 

「……体は見つかったか」

 

「見つかった。怪我はしていたが、生きていた。声が届いて引き上げた」

 

 エレナは少し頷いた。

 

「悠斗は落ちても平気だ」

 

「そうらしい」

 

「だから、その心配はない」

 

「別の心配の話をしていたのか」

 

「……していなかった」

 

 セレスティアが二人を交互に見た。

 

「エレナさんは心配してるんですよ」

 

「してない」

 

「顔に出てます」

 

「そんな顔はしていない」

 

「眉間が少し寄ってます。普段はもっと平らです」

 

 エレナは指で眉間を触った。

 

 ウルリックが、珍しく口の端を動かした。

 

「笑うな」

 

「笑っていない」

 

「笑っている顔だ」

 

「老いると、こういう顔になる」

 

「それは言い訳だ」

 

 セレスティアがくすりと笑った。

 

 風が吹いた。山の冷たい風が、三人の間を通り過ぎていった。

 

 遺跡の入口は、変わらず静かだった。

 

 

 

 一方、同じ日の昼頃。

 

 エルディア王国、王都。

 

 城下の広場に面した宿の一室で、窓の外を見ていた人物がいた。

 

「……やはり、多いな」

 

 低い声が言った。

 

「ここ数日で、また増えている」

 

 黒いローブを纏った男性が、椅子に腰掛けて窓の外を眺めていた。旅の埃が残った服装だが、その眼差しは鋭い。左手には、黒い霧のように揺れる影の痕跡がある。

 

 バルトロメウスだった。

 

「グラキエス、お前も見ているか」

 

「ええ」

 

 窓際に立っていた女性が答えた。

 

 薄い青の外套を羽織り、淡い金色の髪をまとめている。その瞳は、冷徹でありながら、どこか穏やかさを帯びていた。

 

 グラキエスは窓の外の広場を見ていた。

 

「市場で、話を聞いた。先月から、王都の周辺に出る魔物の数が例年の倍以上になっていると。農村から避難してきた家族もいる」

 

「農村からの避難……それはどの方角だ」

 

「北と、西。二方向から来ている」

 

「北か」

 

 バルトロメウスは眉をひそめた。

 

「悠斗たちが向かっている方向と、重なる」

 

「そうね」

 

「偶然ではないかもしれない」

 

 グラキエスは椅子に座り直して、テーブルの上に広げた地図を見た。エルディア王国を中心に、各地の地名が記されている。北方には、帝国の名前。その先には、ヴァルクの位置。

 

「あなたは、黒月教が倒れた後から、ずっとこのことが気になっていたのでしょう」

 

「気になっていた、というより……わかっていた」

 

 バルトロメウスは立ち上がって、テーブルの地図を見た。

 

「黒月の儀式を阻止しても、世界のバランスが完全に戻ったわけじゃない。ゼノンを倒した後、白い月の力がわずかに戻ったのは確かだ。しかし、黒い月はまだ強い。その影響が、魔物の凶暴化として続いている」

 

「そして、ここ最近は特に」

 

「そうだ。王都に戻ってから三日経つが、三日で状況が変わっているのがわかる。悠斗たちが北で動いている時期と、ほぼ一致している」

 

 グラキエスは立ち上がった。

 

「情報を集めましょう。宰相のレイナルド様に話を聞けば、もっと詳しいことがわかるはずよ」

 

「そうだな。それと……」

 

「それと?」

 

 バルトロメウスは少し間を置いた。

 

「市場で一つ、気になることを聞いた。南の商人仲間の間で、噂が流れているらしい」

 

「どんな噂?」

 

「人の形をした、しかし人ではない存在が、各地で目撃されているという話だ。魔物よりも速く、魔物よりも賢い。それが複数、南の街道に近い場所で目撃されているという」

 

 グラキエスは少し表情を変えた。

 

「……それは」

 

「悠斗が北で戦った相手と同じかもしれない。あるいは、別のものかもしれない。どちらにせよ、確認が必要だ」

 

「レイナルド様には、その情報も伝えた方がいいわね」

 

「ああ」

 

 二人は互いを見た。

 

「久しぶりだな、こういう動き方をするのは」

 

 グラキエスが少し口元を動かした。

 

「嫌か?」

 

「そうは言っていない」

 

「なら」

 

「……悠斗たちのためになることなら、何でも」

 

 グラキエスは短く言った。

 

 バルトロメウスはそれを聞いて、少し目元を緩めた。

 

「行こう」

 

「ええ」

 

 二人は宿を出た。

 

 王都の石畳が、足の下に続いていた。

 

 市場の喧騒が聞こえる。人々の声。荷馬車の音。その日常の音の中に、どこかざわついたものが混じっている。普通に暮らしている人々には聞こえないかもしれないが、長年戦いの中を生きてきた二人には、はっきりとわかった。

 

「最近、夜に外出を控えている人が増えているな」

 

 バルトロメウスは周囲を見ながら言った。

 

「日が暮れる前に、急いで店を閉めているところが何軒かあった」

 

「魔物の話が広まっているのね」

 

「広まっていると同時に、当局が情報を押さえようとしている気配もある。広場の掲示板に、普段より注意書きが増えていた」

 

「民衆を不安にさせないように、か」

 

「あるいは、パニックを防ぐために」

 

 二人は広場を抜けて、王城の方向へ歩いた。

 

 グラキエスが静かに言った。

 

「あの時から、ずいぶん経ったわね」

 

「黒月教と戦っていた時か」

 

「その後も。旅をして、各地を見て。戻ってきたと思ったら、また何かが動き始めている」

 

「それが、この世界というものだ」

 

「……あなたは、後悔してる?」

 

「何を」

 

「黒月教を脱退したことを」

 

 バルトロメウスは少し間を置いた。

 

「していない」

 

「本当に?」

 

「脱退したことを後悔したことは、一度もない。あの教義は間違っていた。今でも、そう思っている」

 

「なら、今あなたが感じているのは何?」

 

 バルトロメウスは歩きながら、少し視線を落とした。

 

「……焦りに近いものだ」

 

「焦り?」

 

「悠斗たちが動いている。世界が動いている。自分たちも動かなければならないとわかっている。それなのに、何が起きているかを完全に把握できていない。その感覚が不快だ」

 

「あなたは、昔から情報を持って動く人だったものね」

 

「それが今はできていない。だから、まずここから始める」

 

 グラキエスは頷いた。

 

「わかったわ。私も動く。情報は多い方がいい」

 

「ああ」

 

「バルトロメウス」

 

「何だ」

 

 グラキエスは少し口元を動かした。

 

「……また一緒に動けて、良かった」

 

 バルトロメウスは前を向いたまま、少しの間だけ黙った。

 

「……そうだな」

 

 それだけ言って、二人は王城の方へ歩き続けた。

 

 石畳の道が、続いていた。

 

 

 

 遺跡の中。

 

 二人は通路を進み続けた。

 

 石段を一段降りるたびに、わずかずつ、何かが変わっていく。

 

 最初は気のせいかと思った。しかし五分、十分と経つにつれ、それが確かなものになってきた。

 

 圧迫感、という言葉が、一番近かった。

 

「……少し重い」

 

 悠斗は言った。

 

「感じてるの?」

 

「うん。なんか、空気が厚いというか。重力が変わったとかじゃない。でも——何かがある」

 

「私は最初から感じてた。あなたも感じ始めたということは、かなり強くなっているのね」

 

 ルーナは自分の胸元に手を当てた。

 

 月の加護のペンダントが、わずかに温かくなっていた。

 

「月の力が、この先にある」

 

「それは確かか」

 

「確か。でも……」

 

「でも?」

 

「月の力だけじゃない。何か別のものが混ざっている。黒月の力とも違う——もっと根源的な何か。私の中の古い記憶が、ざわざわしている」

 

「古い記憶が」

 

「うん。言葉にできないけど……何かが呼んでいる気がする。私の一番深いところにある、まだ取り戻していない記憶が、引っ張られている感覚」

 

 悠斗は拳を握った。

 

 引っ張られている。

 

 それがルーナにとって良いことなのか悪いことなのか、今はまだわからない。

 

 しかし。

 

「俺がいる」

 

「……わかってる」

 

「前を向いて歩け。何かあれば俺が先に当たる」

 

「あなたに先に当たられた後で、私が何もできなかったら意味ないでしょう」

 

「やってみないとわからない」

 

「……強がりを言う」

 

「強がりじゃない。信頼だ」

 

 ルーナは少し立ち止まった。

 

 悠斗を見た。

 

「……」

 

「なんだ」

 

「今のは、かなりずるい言い方ね」

 

「そうか?」

 

「そうよ。強がりじゃない、信頼だって言われたら——何も言えないじゃない」

 

 悠斗は少し首を傾けた。

 

「そのつもりで言った」

 

「わかってる」

 

 ルーナはため息をついた。

 

 しかしその目は、少し柔らかくなっていた。

 

「行きましょう。ここで話していても、何も変わらない」

 

「そうだな」

 

 二人は歩みを再開した。

 

 通路は、またわずかに広くなった。

 

 壁の浮き彫りが、また戻ってきていた。

 

 しかし今度は、上の回廊にあったような二人の存在の彫刻ではなかった。

 

 月の形が、連続して刻まれている。

 

 満月、半月、三日月。欠けていく月が、壁に沿って延々と続いている。そして——ほぼ見えない程度にまで欠けた月の形の後、一転して、また満月から始まる。

 

 循環。

 

 終わりのない、月の満ち欠けの記録。

 

「月の周期が刻まれている」

 

 セレスティアがいれば、すぐに解説してくれそうな光景だった。

 

「この遺跡を作った人たちは、月を信仰していたんだな」

 

「月を信仰というより……月と共に生きていた。月は、彼らにとって生活の基準そのものだったはずよ。農業の時期も、祭りの日取りも、全て月の満ち欠けで決めていた。だから、ここまで丁寧に刻んだ」

 

「月を、神聖なものとして見ていたか」

 

「見ていた。でも……単純な信仰ではなかった気がする」

 

 ルーナは月の浮き彫りを指先で触れた。

 

「月と一緒に、この世界の時間を数えていた。そういう感じがする」

 

「それが……エクリシアと、お前の記憶と関係しているか」

 

 ルーナはその言葉に、少し間を置いた。

 

「……おそらく」

 

 それだけ言って、先を促した。

 

 通路を進むにつれて、圧迫感が増していった。

 

 頭が痛くなる、というほどではない。息が苦しくなる、というほどでもない。しかし確実に、この空間に何かが溜まっている、という感覚があった。

 

「……悠斗」

 

「うん」

 

「本当に、何も感じなかった? 最初の頃」

 

「最初は全然。今はわかる。なんというか、空気に粘り気があるみたいな感じ」

 

「そうね。上手い表現だわ。月の力が濃い場所は、そういう感触がある」

 

「経験したことがあるのか」

 

「孤島の神殿に入った時が、少し近かった。でもここはもっと強い。規模が違う」

 

「規模が大きいということは」

 

「長い時間、この場所に力が積み重なってきた、ということだと思う」

 

 悠斗はそれを聞いて、少し考えた。

 

「何百年、という話か」

 

「何百年——あるいは、それ以上」

 

「千年以上前から、ここに力が溜まっていた」

 

「可能性としては、ある」

 

「エクリシアが自らを封じたと碑文に書いてあったのが、このことと繋がっていたら」

 

 ルーナは答えなかった。

 

 答えられなかった、というのが正確だった。

 

 悠斗は気づいていたが、続けなかった。

 

 ただ、前を向いて歩いた。

 

 ルーナも同じように、前を向いて歩いた。

 

 通路が、また変わった。

 

 今度は天井が低くなった。それと同時に、左右の壁が遠くなった。横幅が広がった。廊下から、大きな部屋に繋がる手前のような空間になっていく。

 

「……近い」

 

 ルーナが小声で言った。

 

「どのくらいだ」

 

「もうすぐ。この先に、何かがあると思う」

 

 悠斗は歩みを遅めた。

 

 全身の感覚を、鋭くする。

 

 訓練の中で磨いてきた、あの感覚。影と戦い続けた三日間で、体の内側から鍛えられた何かが、今ここで静かに準備している。

 

「……行くぞ」

 

「うん」

 

 二人は並んで、通路の先へ足を踏み出した。

 

 そして。

 

 足が止まった。

 

 

 

 広間だった。

 

 通路の先に、突然、広大な空間が開けていた。

 

 天井が高い。上を見ると、石の梁が何本も渡されており、その隙間から、青白い光が網目のように差し込んでいる。光の源は見えない。しかし空間全体が、ひんやりとした輝きに満たされていた。

 

 横幅は通路の三倍以上はある。奥行きも深い。

 

 床には、細かい文様が刻まれていた。複雑に絡み合う線が、広間の中央に向かって放射状に広がっている。それは何らかの儀式の場を示しているのか、あるいはただの装飾なのか、今の二人には判断がつかなかった。

 

 壁には、今まで通ってきた通路と同様の浮き彫りがある。しかし密度が違った。壁一面が、びっしりと彫刻で埋め尽くされている。月の満ち欠け、二柱の存在、世界の創造——それらが積み重なって、壁全体が一つの絵巻物のようになっていた。

 

 そして。

 

 広間の中央。

 

 台座があった。

 

 高さは悠斗の腰ほど。石造りで、表面に細かい紋様が施されている。その上に、一つのものが置かれていた。

 

「……」

 

 ルーナの息が、止まった。

 

 台座の上に載っているのは、球形の小さな結晶体だった。

 

 直径は、人の拳一つ分ほど。

 

 その内側から、淡い銀色の光が揺れている。

 

 見間違えようがなかった。

 

「水晶」

 

 悠斗は静かに言った。

 

「……ええ」

 

 ルーナの声が、震えていた。

 

「五番目の。最後の、私の記憶」

 

「ここに、あった」

 

「ここに、ずっとあったのね。だから——この場所から、あんなに強い力を感じていたのか」

 

 悠斗は広間を素早く確認した。

 

 他に人影はない。出入り口は来た通路だけ。天井に罠になりそうな構造はない。床の文様は古いが、踏み抜くほど傷んでいる様子はない。

 

「行けそうだ」

 

「うん」

 

「俺が先に行く。お前は後ろから来い」

 

「わかった」

 

 悠斗は一歩踏み出した。

 

 床の文様が、足の下に広がる。

 

 二歩、三歩。

 

 何も起きない。

 

 広間は静かだった。

 

 空気の粘り気が、さらに増している。しかし歩けないほどではない。

 

 台座まで、あと十歩ほどの距離。

 

 ルーナが後ろからついてくる気配があった。

 

「……悠斗、止まって」

 

 ルーナの声が、突然変わった。

 

 悠斗は即座に足を止めた。

 

「どうした」

 

「……何かが変わった。今、何かが変わった」

 

「?」

 

「私が台座に近づいたと同時に。何かが反応した」

 

 悠斗は周囲を素早く見回した。

 

 変化はない。

 

 しかし。

 

 台座の上の水晶が、変わっていた。

 

 さっきまで淡い銀色だった光が、今は少し濃くなっている。銀から白に近い、強い光。

 

 悠斗は水晶を見た。

 

「光が強くなっている」

 

「……そうね。でも、それだけじゃない」

 

 ルーナは一歩前に出た。

 

「私に向かって、何かが語りかけてくる気がする。声じゃない。感覚として、何かが——」

 

 その時。

 

 声がした。

 

 

 

「・・・来たか」

 

 

 

 声だった。

 

 明確な、言葉を持った声だった。

 

 どこから聞こえてくるのかわからない。広間全体に響いているようでもあり、ルーナの頭の中だけに届いているようでもあった。

 

 悠斗にも聞こえた。

 

「誰だ」

 

 悠斗は声を出した。

 

「……」

 

 返答はなかった。

 

 しかし、次の瞬間。

 

 空気が動いた。

 

 壁の浮き彫りが、ざわめいた。そう見えた。実際には石は動いていない。しかし、何かが浮き彫りの表面を流れたように見えた。月の光が、壁の上を走ったように見えた。

 

 そして。

 

 台座の水晶が、激しく光り始めた。

 

「ルーナ」

 

 悠斗は叫ぼうとした。

 

 しかしその前に、凄まじい圧力が吹き抜ける。

 

 魔力の暴風が来た。

 

 それは普通の風ではなかった。風圧というより、空間が揺れたというほうが近い。広間の空気が、一瞬で逆巻いた。床の文様から光が吹き上がり、天井から銀色の光が落ちてくる。

 

 悠斗は即座に体を低くして地面に踏み込んだ。

 

 三日間の訓練で磨いた重心の使い方。地面に貼り付くように体重を落とす。足の裏から地面を掴む。

 

 しかし。

 

「悠斗!」

 

 ルーナの声が聞こえた。

 

 次の瞬間、ルーナの体が、暴風に吹き飛ばされた。

 

「ルーナ!」

 

 銀色の髪が視野の端を横切った。

 

 ルーナの体が広間の壁に向かって飛んでいく。

 

 悠斗は反射的に跳んだ。

 

 ルーナが壁に当たる直前に、その体に手が届いた。

 

 壁との衝突を、自分の体で吸収する。

 

 背中が石の壁にぶつかった。

 

「がっ——」

 

 衝撃が走る。しかし、それだけだった。

 

「ルーナ、大丈夫か」

 

「……大丈夫。ありがとう」

 

 ルーナは悠斗の腕の中で、体を起こした。

 

 息が少し荒い。しかし怪我はなさそうだった。

 

「立てるか」

 

「立てる」

 

 二人は壁を背にして、広間の中央を見た。

 

 台座の上の水晶は、まだ激しく光っていた。

 

 しかし、暴風は止んでいた。

 

 代わりに。

 

 台座の前に、何かが現れ始めていた。

 

 光だった。

 

 光、といっても、普通の光ではない。

 

 黒い光——それは矛盾した表現だが、それ以外に言い表せるものがなかった。闇が形を持ち、輝いている。周囲の石の光を飲み込みながら、その輪郭が凝縮されていく。

 

 悠斗は拳を握った。

 

「……何が来る」

 

「わからない。でも——」

 

 ルーナの声が、また変わった。

 

 震えが交じっていた。恐怖とは違う。もっと根源的な、何かを認識した時の震えだった。

 

「ルーナ」

 

「……悠斗」

 

「見てるか」

 

「ええ」

 

「離れるな」

 

「分かってるわ」

 

 黒い光が、形を作り始めた。

 

 人の輪郭だった。

 

 足があった。体があった。肩があった。首があった。

 

 そして。

 

 顔があった。

 

「——」

 

 悠斗は息をのんだ。

 

 

 

 その存在が、そこに立っていた。

 

 

 

 黒髪が、肩の下まで流れている。ただし、ルーナの銀色が月光を纏った輝きを持っているとしたら、この存在のは——深い夜の中にいるような、冷たく静かな黒だった。

 

 瞳は、深い紅色だった。

 

 体を纏うものは、闇に近い色の薄い衣。それは布のようにも、光が凝固したものようにも見えた。

 

 立ち姿は静かだった。動こうとしていない。ただそこに存在している。しかしその存在そのものが、広間の空気を変えていた。

 

 ルーナに、よく似ていた。

 

 よく似ているが、ルーナではない。

 

 悠斗は感じた。この存在は、ルーナが持っている「温かさ」の代わりに、何か別のものを持っている。温度のない、しかし深い何か。

 

「……」

 

 ルーナが、その存在を見ていた。

 

 一言も発しない。

 

 体が、わずかに固まっていた。

 

 その存在は、広間を見回した。

 

 悠斗を見た。

 

 一瞬だけ、その紅色の瞳が悠斗の上で止まった。

 

 何かを確認するような眼差しだった。驚きとも興味とも、少し違う。ただ、見ていた。

 

 そして。

 

 ルーナを見た。

 

 長い沈黙があった。

 

 広間全体が、息を止めているようだった。

 

 台座の上の水晶が、まだ光っている。

 

 暴風は完全に止んでいた。

 

 その存在が、口を開いた。

 

 低く、静かな声だった。

 

 月光が言葉になったような声でも、嵐が意志を持ったような声でも——なかった。

 

 ただ、深い場所から来る、静かな声だった。

 

「久しいな、ルーナ」

 

 

 

 広間に、その言葉だけが残った。

王都の石畳は、旅の土と砂利に慣れた足には、少し固く感じる。


旅に出てから、ずいぶん経った。各地を回り、色々なものを見た。北の雪原も、南の港町も、東の草原も。行くたびに、自分がどこに属しているのか、少し考えた。


黒月教にいた頃は、答えが決まっていた。組織が私の居場所だった。そのことを、疑ったことがなかった。


今は違う。


答えはまだ、はっきりとはしない。でも、隣を歩く人が決まっているというのは、思ったより大きなことだと、最近わかってきた。


――グラキエス

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