第31話 「懐かしい重さ」
夜が、深かった。
ヴァルクの北壁から離れた山の稜線。岩と岩の隙間に、三つの影が沈んでいた。
月の光も届かない。炎もない。ただ、互いの気配だけが暗闇の中にある。
「……失敗した」
最初に口を開いたのは、ドラグだった。
老いた声だが、迷いがない。長い沈黙の重みを全部背負ったような、静かな声だった。
「ガルド」
「ああ」
「ヴァラ」
「……はい」
ヴァラは珍しく、声に迷いがあった。
「ゲートは開いた。魔物も送り込んだ。だが、悠斗は倒せなかった。ガルドも撤退した。この評価に、異論はあるか」
「ない」
「ない……」
ドラグは少し間を置いた。
怒鳴ることはなかった。声を荒げることもなかった。それがかえって、ガルドにとっては重かった。長老が声を荒げる時は、まだ修正の余地がある時だ。静かに語る時は——問題がもっと深い。
「ガルドよ。お前は三日前に言った。今の状態であれば、問題ないと」
「言った」
「そして今夜、悠斗は三日前と別人だったと言った」
「……そうだ」
「三日で、人間がそこまで変わる可能性を、お前は考慮していたか」
ガルドは答えなかった。
答えられなかった、というのが正確だった。
三日前、あの少年を見た時、強いと思った。しかし、人間の成長速度は遅い。百戦を生き延びてきた自分の経験がそう言っていた。だから三日で答えが出ると判断した。
しかしあの少年は、その判断を外れた。
「……考慮していなかった」
ガルドは正直に言った。
「なぜ」
「あの体の作りが、この世界の人間と根本的に違うことは知っていた。しかしその違いが、成長速度にまで影響するとは、想定外だった。一体どんな訓練をすれば、三日でそこまで変われる」
「わからないのか」
「わからない。見たことがない成長速度だ」
ドラグはしばらく黙った。
岩の上で、体を動かさずに。
「ヴァラよ」
「はい」
「何か感じたか」
ヴァラは少し考えてから答えた。
「……感じました。あの少年の周囲に、不思議な力の残滓がありました。普通の人間の体にあるものではない。月の力に近い何かが、体に染み込んでいた」
「月の力」
「月の女神が、あの少年のために何かをしていた可能性があります。ゲートを開く際に、その力の流れが邪魔をしてきた感覚があった。あの少年の成長が速いとしたら……月の力が絡んでいるはずです」
ドラグは静かに頷いた。
「なるほど」
「問題は」
ガルドが続けた。
「月の女神の力がどこまで回復しているか、だ。今夜の戦いを見ると、あの女神はまだ完全ではない。だが、確実に力を取り戻してきている。そして、あの少年の体がその力を吸収して変わっている」
「つまり、時間が経てば経つほど、あの少年は強くなる」
「そうなる」
「それでも、最終的には我々が上になるか」
ガルドは少し黙った。
「……わからない」
その言葉は、重かった。
ガルドが「わからない」と言うことは、少なくなかった。しかし「最終的に勝てるかどうかわからない」という意味でわからないと言ったことは、これまでほとんどなかった。
「今夜の段階では、まだ我々の方が上だ。しかし、時間を与えれば、その差が縮まる可能性がある」
「縮まるだけか?」
「……逆転する可能性も、否定できない」
部屋の空気——いや、岩の隙間の空気が、少し変わった気がした。
ドラグは足元の石を一つ、指でゆっくり弾いた。石が岩の隙間に落ちていく小さな音がした。
「では、ヴァルクへの攻撃を続けることに意味はあるか」
ガルドは即座に答えなかった。
「……あの少年がいる間は、この方法では難しい。魔物の数で押し切るほどの規模を展開する前に、対処される。それが今夜わかったことだ」
「封印の地に近づく別のルートは」
「ヴァルクを経由しない北上ルートは存在する。ただし、険しい。時間がかかる」
「ヴァラよ。ゲートを展開できる位置は、ヴァルク以外に存在するか」
ヴァラは地図を思い描くように、少し目を細めた。
「封印の地に直接近づける規模のゲートを開くには、月の力が薄く、黒い月の気が濃い場所が必要です。ヴァルクは条件が揃っていました。しかし……もう一か所、条件を満たす場所がある可能性があります」
「どこだ」
「東の山脈の向こう。かつて古い戦場があった場所です。大量の血が染み込んだ土地は、黒月の気を引き寄せやすい。あそこなら、別のゲートを開けるかもしれない」
「どれほどかかる」
「準備に数か月。それ以上かもしれない」
ドラグは少し間を置いた。
「わかった」
ドラグは立ち上がった。低くゆっくりとした動作で、老いを感じさせない立ち方だった。
「ガルドよ。ヴァルクへの直接攻撃は、今は見送る」
「……それでいい」
「あの少年に時間を与えるのは不本意だが、今ここで無駄な消耗を重ねても意味がない。我々には、別の仕事がある」
「王都か」
「そうだ」
ドラグは岩の隙間から夜空を見上げた。黒い月が、遠い空に浮かんでいる。
「王都は、人間の力の中心だ。あそこが揺れれば、人間たちの対応が分散する。あの少年も、ただ北だけを見ているわけにはいかなくなる」
「陽動か」
「陽動ではない。正面からの揺さぶりだ。我々には、この世界の秩序を乱す力がある。それを使う」
「……人間の王都に、何をするつもりだ」
ドラグは答えなかった。
代わりに、夜空を見たまま、静かに言った。
「月のバランスが崩れ続けている。白い月の力が戻らない限り、この世界は我々にとって都合のいい状態が続く。しかし、月の女神の力が戻りつつある以上、我々は急ぐ必要がある」
「封印の地に、先に到達する」
「そうだ。南から時間を稼ぎながら、ヴァラの別ルートでのゲート展開を進める。一年以内に、封印を解く」
ガルドは静かに頷いた。
「わかった。王都に向かう前に、一つだけ聞いていいか」
「言え」
「あの少年は……どうする?」
ドラグは初めて、ガルドを見た。
「北に来る。それは確かだ。あの目を見た。絶対に来る、王都にも来るだろう」
「来た時、どうする」
「その時に考える」
ドラグは短く言った。
しかし、その短い言葉の中に、何かが含まれていた。
ガルドには、それが何なのか、今はわからなかった。
「では、行くぞ」
三つの影が動いた。
月の光の届かない闇の中を、音もなく。
南の方角へ。
やがて、岩の隙間には何も残らなかった。
足跡だけが雪の上に刻まれ、それもやがて、夜の冷気に埋もれていった。
ヴァルクに、静かな日々が続いた。
あの夜から、三日が経った。
その間、魔族は現れなかった。
「……来ない」
ウルリックが、朝の見回りから戻りながら言った。
「ああ」
悠斗は、宿の前で体をほぐしながら頷いた。
「夜も、壁の外は静かだ。気配がない。昨夜も、一昨夜も」
「退いたのかもしれない」
「かもしれないな」
ウルリックは少し考えた。
「町の者たちも、それを感じ始めている。昨日、久しぶりに外で子供の声を聞いた」
「そうか」
「今朝は、商店が二軒、扉を開けていた。どちらも半年ぶりらしい」
悠斗はそれを聞いて、少し黙った。
「……少しでも、よかった」
「あなたたちが来てから変わったと言っている。グレムが、そう言っていた」
「グレムは口が悪いが、そういうことを正直に言うか」
「言わない。俺に言っていた。あなたには言わないだろう」
悠斗は苦笑した。
「それが、グレムらしいな」
宿の中では、朝食の準備が始まっていた。
グレムがシチューを鍋で煮ており、セレスティアがパンを切っている。エレナは珍しく、早起きして窓際に座っていた。
左腕の包帯が、昨日より薄くなっている。
「エレナ」
悠斗が宿に入りながら言った。
「腕は」
「問題ない」
「セレスティアに確認してもらったか」
「今朝、してもらった」
エレナは窓の外を見たまま答えた。
しばらくして、セレスティアが振り返った。
「悠斗様、エレナさんの傷は、昨日の時点でほぼ塞がっています。驚異的な回復ですね。もう一日休んでいただければ、完全に動けると思います」
「ほぼ、ではなく完全に、だ」
エレナがすぐに言った。
「ほぼ、も完全のうちよ」
「違う」
「……エレナさん、気持ちはわかりますが」
セレスティアは落ち着いた顔で続けた。
「内部の筋肉の回復には、表面の皮膚より時間がかかります。あと一日、ちゃんと動かさずにいれば、明日は本当に完全です。今日、力を使う動きをすれば、また開くかもしれない」
「わかった」
エレナは少し間を置いた。
「一日だ」
「はい、一日です」
セレスティアはにこやかに頷いた。
エレナはそれ以上何も言わなかった。窓の外を見続けた。
悠斗はその様子を見て、何も言わずに椅子に座った。
「ルーナは?」
「まだ寝ています」
セレスティアが答えた。
「昨夜は遅くまで何か考えていたみたいで。起こさなくていいと思いますよ」
「そうか」
悠斗は少し間を置いた。
ルーナが何かを考えていたのは、悠斗にも察しがついていた。遺跡のことだ。エレナからもらった地図を、昨夜何度も見ていた。北の方向に記されたいくつかの地点を、指でなぞっていた。
どこへ向かうか。
どの順番で動くか。
それを、ルーナは一人で考えていた。
悠斗は急かさなかった。
ルーナが考える時、邪魔をしない方がいいことを、この旅の中で学んでいた。
朝食が並んだ。
シチューと、焼き直したパンと、昨夜グレムが仕込んでいたというハーブ入りの塩漬け肉。
悠斗は三人前を食べた。
「……また三人前か」
グレムが言った。
「修行した後は特に」
「今日も修行したのか。まだ夜明け前に起きていたが」
「少し動いた」
悠斗は答えた。
実際には、夜明け前から二時間、空き地で体を動かしていた。ルーナの「時の庭」は今日は使っていない。ルーナに休んでもらう時間だ。しかし、それでも体を動かさずにはいられなかった。
あの三日間の訓練で得たものが、体の中に刻まれていた。重力の空間で覚えた重心の使い方、地面に貼りつくような踏み込みの感覚、影から学んだ最短の移動軌跡。それらが今、普通の重力の中でどう機能するのかを、一つずつ確かめていた。
「……少し、というのはどう見ても嘘だな」
グレムは言いながら、悠斗の皿に追加のパンを放った。
「食え。体を使うなら、食わないといかんだろう」
「ありがとうございます」
「礼はいい。食え」
グレムはカウンターに戻った。
その後ろ姿に、悠斗は少し頭を下げた。
ウルリックが、静かにお茶を飲みながら言った。
「エレナが回復したら、どうするつもりか」
「北に向かう」
「遺跡か」
「ああ」
「どの遺跡だ。エレナの地図には、いくつか記されていたが」
悠斗は少し考えた。
エレナが渡してくれた手書きの地図には、いくつかの地点が記されていた。謎の声から指示を受けて調査した、月に関係する古い場所の位置だ。
その中で、ルーナが最も気にしていたのは、北に向かいながら二日ほど西に外れた山の中にある一か所だった。「碑文に破壊の女神の名前が刻まれていた場所」——エレナがそう言っていた遺跡。
「ルーナが気にしている場所がある。そこをまず当たってみる」
「どのくらいかかる」
「ここからなら、三日か四日か」
「地形はそこそこきつい」
ウルリックはお茶を一口飲んだ。
「案内できるか」
「その遺跡なら、なんとかなる。あの辺りは一度通ったことがある。道は少ないが、知らないわけじゃない」
「頼む」
「わかった」
ウルリックは頷いた。
その日の昼過ぎ、ルーナが起きてきた。
「おはよう、ルーナ」
悠斗が声をかけると、ルーナは少し眠そうな顔で「おはよう」と答えた。それから椅子に座り、自分で温めたお茶を一口飲んでから、ようやく目が覚めてきたようだった。
「何時まで考えてたんだ?」
「……わからない。気づいたら眠っていた」
「地図を見ていたんだろ」
「うん」
ルーナはカップを両手で包んで、テーブルに視線を落とした。
「悠斗、一つ確認させて」
「何だ」
「私が向かいたい遺跡は、エレナの地図のここ」
ルーナは地図を広げて、一点を指した。
北西方向。山の中。
「わかってる。ウルリックとも話した。三日か四日で着ける。案内してもらえる」
「そう」
「何か気になることがあるか」
ルーナは少し間を置いた。
「……昨夜、夢を見た。また姉さんの夢だった」
「内容は」
「はっきりしない。でも、今回はいつもと少し違った。姉さんが何か話しかけてきていた。声は聞こえなかった。でも、手を伸ばしていた。こちらに向けて」
「こちらに向けて」
「うん。引き止めているのか、それとも招いているのか、わからなかった。ただ、手が伸びていた」
悠斗はルーナを見た。
「それが、今向かおうとしている遺跡と関係があると思うか?」
「……わからない。でも、関係がないとも思えない」
ルーナはカップをテーブルに置いた。
「悠斗、私の中で少しずつ、何かが動いている感じがある。力が戻ってきているのもそうだけど、記憶の断片が繋がり始めているような感覚。まだ全部は見えない。でも、あの遺跡に何かある気がする。確信があるわけじゃないけど」
「わかった」
「怖いと思うか」
「少し」
悠斗は正直に言った。
「でも、向かわないという選択肢はない」
ルーナは悠斗を見た。
その目に、今朝までとは少し違うものが宿っていた。
「……ありがとう」
「いつも言ってるだろ。何があっても、俺はここにいる」
「知ってる」
「知ってるなら、礼を言うな」
「言う」
「……わかった」
二人は少し笑った。
それから、黙って地図を見た。
まず、動く。
それだけが、今の答えだった。
翌朝。
エレナが空き地に出てきた。
包帯はもう巻いていなかった。左腕を、ゆっくりと動かしている。拳を握り、肘を曲げ、肩を回す。
「どうだ」
悠斗が聞いた。
エレナは少し間を置いた。
そして、左腕に力を込めた。
「……問題ない」
「痛みは」
「ない」
「本当に?」
「嘘をついても仕方がない」
それは本当のことだった。エレナが嘘をつく理由がない場合、エレナは必ず本当のことを言う。
セレスティアも傍に来て、エレナの肩口を確認した。
「昨日より、さらに柔らかくなっています。内部も、問題ないと思います」
「じゃあ」
「はい。完全回復です、エレナさん」
エレナは短く頷いた。
「よかった」
「…………礼はいらない」
「言ってないよ」
「言いそうだったから、先に言った」
セレスティアが、小さく微笑んだ。
エレナはそっぽを向いた。
その夜。
グレムの宿の食卓に、全員が集まった。
グレムが今夜は少し腕を振るった。骨付きの肉を長時間煮込んだもの、根菜と豆のスープ、それに珍しい南方産の香辛料を使ったパン。
「出発するんだな」
グレムはテーブルに料理を並べながら、何気なく言った。
「明日の朝、出ます」
悠斗が答えた。
グレムは少し間を置いた。
それから、椅子を引いて向かいに座った。
「この宿に泊まって、何日だ」
「七日です」
「七日間、一度も外に出なかった日はなかったな。朝から修行して、夜は見回りをして」
「この町に居る間はできることをすると言ったので」
「言ったな」
グレムはお茶を一口飲んだ。
「正直に言う」
「どうぞ」
「お前さんたちが来た時、正直、あまり期待していなかった。若い旅人が数人来ても、何が変わるんだと思っていた。三十年ここに住んで、色んな人間を見てきた。話だけは上手くて、いざとなれば役に立たない人間を、何人も見てきた。だから最初は、どうせそういうもんだろうと思っていた」
「……」
「しかし、違った」
グレムは悠斗を見た。
深い皺の中の目が、真剣だった。
「あの夜、壁の外に出て戦った。傷ついた仲間を連れて戻ってきた。翌朝から修行を始めた。その次の夜も、戦った。誰も死ななかった。それだけで、俺にとっては十分だ」
「……俺たちは、この町を救いに来たわけじゃないです」
「わかってる」
「通り過がりで、たまたまここにいただけだ」
「わかってる」
グレムは繰り返した。
「それでも、お前さんたちは居る間にできることをした。それは確かだ。なら俺も、お前さんたちが居る間にできることをした。それだけだ」
「グレム、ありがとうございました」
「礼はいらん」
「言います」
ルーナが静かに言った。
グレムはルーナを見た。
銀色の髪と、静かな目。旅の間ずっと見てきたが、この娘が何者かは、七日間でも正確にはわからなかった。ただ、何か大事なものを持っている人間だということは、わかった。
「……食え。今夜は腕を振るった」
グレムは立ち上がった。
「腕を振るうのは、大事な時だけだ」
それだけ言って、厨房に戻った。
悠斗は、その背中を少し見ていた。
ウルリックが静かに言った。
「グレムが料理に力を入れる時は、本当に大事な客に対してだけだ。七日間、一度もそういう日はなかった。今夜が初めてだ」
「……そうか」
「食え。グレムは照れている時ほど、黙る」
悠斗は苦笑した。
そして、テーブルの料理に手を伸ばした。
翌朝、夜明け前。
一行は北門の前に集まった。
息が白い。空気が、この七日間で一番冷たかった。
グレムが、宿の入口から見ていた。
腕を組んで、炉の火を背に。
「行ってきます」
悠斗は言った。
「行ってこい」
グレムは短く言った。
「ヴァルクに戻ることがあったら、また泊まらせてください」
「金は先払いだ」
「わかってます」
「先払いは、歓迎する」
グレムは少し目を細めた。
笑ったのかどうか、悠斗には判断がつかなかった。しかしその顔の皺が、少しだけ違う形になったのは見えた。
一行は歩き出した。
ウルリックが先頭に立ち、北西の方角へ。
悠斗は少し振り返った。
グレムはまだ入口に立っていた。
動いていない。ただ、見ていた。
悠斗は手を上げた。
グレムは動かなかった。
しかし、腕を組んでいた体の片方が、ほんの少しだけ、持ち上がった気がした。
「行こう」
ウルリックが言った。
「ああ」
悠斗は前を向いた。
北の道が、続いている。
道中は、ヴァルクまでの道のりとは異なる種類の険しさがあった。
街道がなかった。
ウルリックが踏み固めた道を示しながら歩くが、それもいくつかの場所では消えていた。雪が積もり、岩が露出し、木の根が地面を覆っている場所を縫うように進んでいく。
一日目は、高い尾根を越えた。
二日目は、凍りかけた川に沿って西に進んだ。その川の水を飲んだ悠斗は、冷たさに一瞬むせた。
「この川の水は旨い」
「北の山から来てる。不純物がほとんどない」
ウルリックが答えた。
「飲みすぎると腹が冷える。気をつけろ」
「わかった」
三日目は、標高が上がった。
空気が薄くなる。ルーナとセレスティアの呼吸が、少し浅くなった。
「大丈夫か」
悠斗はルーナに聞いた。
「大丈夫。慣れる」
「少し遅く歩いた方がいいか」
「遅くしなくていい。ペースを変えるより、このまま進む方がいい」
ルーナは前を向いたまま、淡々と言った。しかし頬が少し赤い。寒さだけが理由ではないかもしれなかった。
エレナは三日間、一度も弱音を言わなかった。左腕を確かめるように時々動かしながら、黙々と歩いた。その歩き方が、ヴァルクに到着した時よりも、どこか軽い。怪我が治っただけでなく、何かが変わった気がした。
四日目の朝。
空が晴れた。
雲が切れて、白い光が降り注ぐ。その光の中に、白い月が薄く浮かんでいた。昼間でも月が見える——北に来てから、そういう日が増えた。
「……あの先だ」
ウルリックが止まって言った。
前方の崖の上。岩が積み重なった斜面の、さらに奥。木々がまばらになり、地面が露出し始めた先に、何かが見えた。
遠目には、ただの岩の塊のように見える。
しかし、近づくにつれて、その輪郭が変わり始めた。
「……建物だ」
セレスティアが小さく言った。
「ああ」
ウルリックが頷いた。
「この山の中に、こんなものがあるとは知らなかった。情報として聞いていたが、実際に見るのは初めてだ」
「何年前の建物だ」
「わからない。とにかく古い。百年や二百年ではないだろう」
一行は斜面を登った。
岩の上に雪が積もり、足を取られそうになる場所があった。悠斗は先に登って上からルーナの手を取り、セレスティアにはウルリックが手を貸した。エレナは一人で、岩肌を手がかりにしながら静かに登った。
そして。
斜面の頂上に立った。
「……」
悠斗は、その場で立ち止まった。
遺跡は、思っていたよりも、ずっと大きかった。
正面に、石造りの門が立っている。高さは五メートルほど。その横幅は三メートルを超えている。この世界の住民は体長が十八センチほどだから、相対的には非常に巨大な建造物だ。元の世界の建築基準でいえば五十メートル近い門、ということになる——悠斗の感覚としては、それほどの圧倒感があった。
門の両側に伸びる壁は、崩れかけている。長い年月が石を侵食し、表面は苔と氷が混ざり合ったような質感になっていた。しかし根本的な構造は残っており、何かが内側に入れないよう、かつては機能していたことが伝わってくる。
門の柱には、彫刻が刻まれていた。
円形の紋様。中央に月を象徴するような形。そしてその周囲を取り囲む、螺旋状の細かい線。
「月の神殿系の遺跡です」
セレスティアが静かに言った。
「あの紋様は……エルディアの神殿で見たものに似ています。でも、少し違う。もっと古い様式です」
「月の女神に関係する場所か」
「そう思います」
ウルリックは正面の門を見上げながら、少し離れたところに立った。
「ここまでは来たことがない。この先は、俺にはわからない」
「ありがとう、ウルリック。案内してくれてよかった」
「ここまでが俺の仕事だ」
ウルリックは短く言った。
「中に入るつもりか」
「ああ」
「気をつけろ。古い建物の床は信頼するな。石でも、年数で内部が腐ることがある」
「わかった」
「それと……」
ウルリックは少し間を置いた。
「もし二日経っても出てこなかったら、どうすればいいか」
「帝都のエリシアに知らせてくれ。連絡の方法を教える」
「……わかった」
一行は、遺跡の正面に立った。
風が止んでいた。
この場所だけ、周囲の山の冷気が届いていないような、奇妙な静けさがあった。
その時。
「……悠斗」
ルーナが、静かに言った。
声のトーンが、普段と違った。
「うん」
「……感じないか」
悠斗はルーナを見た。
ルーナは正面の門を見ていた。銀色の瞳が、いつもより少し見開かれている。手が、わずかに固まっている。
「何を感じる?」
「……ここから、何かが出ている」
「何かとは」
ルーナは少し考えてから、言葉を選んだ。
「力、と言えばいいか……でも普通の力じゃない。月の力でも、黒月の力でも——いや、黒月の力に近いかもしれない。でも違う。もっと古い。もっと根源的な何かが、この場所の内側から滲み出ている」
悠斗は門に視線を向けた。
自分には、何も感じなかった。普通の石造りの古い遺跡に見える。風も冷たい。
しかし。
「ルーナが感じると言うなら、本当に何かがある」
「うん」
エレナが静かに言った。
「碑文のことを思い出した。この遺跡に、声がかつて何を調べるよう指示したのか」
「調査を頼まれた場所が、何か所かあった。ここは……確かに、月に関係する場所だと言われた。内部に碑文があるから、読んで内容を報告しろと。実際に入ったが、あの時はここまで感じるものはなかった」
「あの時は、今と月の状況が違ったのかもしれない」
セレスティアが言った。
「黒い月の力が、この数ヶ月でさらに増しています。それに伴って、この遺跡の内部にあるものも、変化しているとしたら……」
「白い月の力が戻っていくにつれて、こういった場所が反応し始める可能性もありますか?」
ルーナがセレスティアに聞いた。
「……あると思います。月の力に関係する場所は、月のバランスに敏感です。どちらかの力が動けば、影響を受けやすい」
「では、今ここに出ているこの力は……黒に傾いているのか?」
「感じる限りでは、そう思う」
ルーナは正面の門から目を離さずに言った。
「嫌な感触ではない。でも、ここの力は……私が知っているどの月の神殿よりも、重い」
「重い、というのは」
「黒月の力が混ざっているからかもしれない。あるいは、封じられているものがあるからかもしれない。どちらにせよ、普通の場所ではない」
悠斗は腕を組んだ。
「入れるか」
「入れると思う」
「危ないか」
「……わからない。でも、ここを避けて通れないことも、わかってる」
一行は、少し距離を取った場所に集まった。
岩の陰。遺跡から少し離れた、風が当たりにくい場所。
「どうする」
悠斗が全員を見ながら言った。
ウルリックが先に口を開いた。
「俺は、判断を委ねる。この遺跡のことは、お前たちの方がずっと詳しい。俺に言えることは一つだけだ」
「何だ」
「全員で入るのは避けた方がいい。入口でも中でも、何かが起きた時に全員がやられる」
「同意だ」
エレナがすぐに言った。
「内部の状況が不明な場所に、全員で突入するのは悪手だ。入る人数を絞って、残りが外で待機する方がいい」
「同感です」
セレスティアが続けた。
「月の力に関わる遺跡ですから、私も力になれると思いたいですが……中に何があるかわからない以上、外に備えを残しておくことが大事だと思います」
悠斗はルーナを見た。
「ルーナ。中に入る必要があるのは、俺とお前か」
「そう思ってる」
「理由は」
「私が感じるものを確認するには、私が入らないといけない。そして、あなたがいなければ、私が守れない」
「セレスティアは外か」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「私が外で待機します。エレナさんとウルリックさんと一緒に。中から何かが来た時、外からでも対応できることがあれば、それをします」
「エレナ」
悠斗はエレナを見た。
「外に残ってくれるか」
エレナは少し間を置いた。
「……気に入らない」
エレナはそれだけ言った。
しかし続けた。
「しかし、理屈はわかる。私が外に残ることで、この場所に残る全員が守られる可能性が上がる。ルーナが中で力を使う必要があれば、セレスティアを連れていくより、お前が動く方が機動力が上がる」
「そうだ」
「……わかった」
エレナは短く言った。
「ただし、条件がある」
「言え」
「一時間経っても戻ってこなければ、私も中に入る」
「それは──」
「交渉の余地はない」
エレナの目が、真剣だった。
悠斗は少し考えた。
「……わかった。一時間だ」
「よし」
エレナは立ち上がった。
「行けばいい」
ウルリックが静かに言った。
「時間を気にしながら入っても、集中できない。俺たちは外で待つ。それが俺たちの仕事だ」
「ありがとう、ウルリック」
「礼はいい。戻ってこい、それだけだ」
セレスティアが、悠斗とルーナに向かって言った。
「どうかお気をつけて。もし月の力が必要な場面があれば、私は外からでも、できる限りのことをします」
「ありがとう、セレスティア」
「ルーナ様」
「うん」
「……何があっても、大丈夫です。あなたが月の女神だから、ではなくて。あなたが、あなただから」
ルーナはセレスティアを見た。
その目に、一瞬だけ何かが揺れた。
「……行ってくる」
ルーナは短く言った。
エレナが悠斗を見た。
何も言わなかった。
ただ、その視線に、数日間一緒に過ごした重さがあった。
悠斗は頷いた。
それで、十分だった。
二人は、遺跡の正面に立った。
門に近づくにつれて、ルーナの顔が少し変わっていく。
「……やっぱり、強い」
「何が」
「ここから出てるもの。近づくほど、はっきりわかる。内側から滲み出てくる」
「怖いか?」
ルーナは少し間を置いた。
「怖くはない。でも……知ってる感じがする。どこかで感じたことのある、重さ」
「どこで」
「……わからない。でも、懐かしい感じもある。それが余計に、怖くない」
悠斗は正面の門を見上げた。
石の柱。月を象徴する彫刻。百年以上——いや、もっと昔から、ここに立っていた門。
「行こう」
悠斗は言った。
「うん」
ルーナが頷いた。
二人は、門をくぐった。
月を象った彫刻が、両側から見下ろしている。
一歩、踏み込む。
また一歩。
外の冷たい空気が、内側の重い空気に変わっていく。
石の床が、足の下で静かに軋んだ。
奥に、暗闇がある。
しかし暗闇の向こうに、かすかな何かが光っていた。
青白い光。
月の光とも違う、もっと古い、静かな光。
「……ある」
ルーナが小声で言った。
「うん」
「中に、何かがある」
「わかった」
悠斗は歩みを進めた。
ルーナが隣を歩く。
二人の影が、石の床に伸びていく。
遺跡の奥へ。
光の向こうへ。
門の外では、エレナが石の上に腰を下ろして、正面を見ていた。
セレスティアが横に立ち、ウルリックが少し離れた場所で立哨している。
三人の視線が、遺跡の入口に注がれていた。
そこからは、もう二人の姿は見えなかった。
足音だけが、しばらく聞こえていた。
そして、それも消えた。
静寂が、山の中に広がった。
白い月が、空から静かに見下ろしている。
答えは、あの奥にある。
それだけが、確かだった。
ヴァルクを出た。
グレムには世話になった。不愛想だったけど、あの宿は居心地がよかった。シチューが旨かった。あんなにシチューばかり飲んだのは初めてだと思う。
遺跡に来た。
ルーナが何かを感じると言った。私には何も見えない。でも、ルーナが感じると言うなら、そこには確かに何かある。そういうものだと、旅を続けてわかった。
中に入る。
怖いかと言われれば……少しはある。でも、足は動いてる。
それだけで、十分だ。
―――悠斗




