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模型(1/10)スケールのアポカリプス  作者: 暁の裏


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31/33

第31話 「懐かしい重さ」

 夜が、深かった。

 

 ヴァルクの北壁から離れた山の稜線。岩と岩の隙間に、三つの影が沈んでいた。

 

 月の光も届かない。炎もない。ただ、互いの気配だけが暗闇の中にある。

 

「……失敗した」

 

 最初に口を開いたのは、ドラグだった。

 

 老いた声だが、迷いがない。長い沈黙の重みを全部背負ったような、静かな声だった。

 

「ガルド」

 

「ああ」

 

「ヴァラ」

 

「……はい」

 

 ヴァラは珍しく、声に迷いがあった。

 

「ゲートは開いた。魔物も送り込んだ。だが、悠斗は倒せなかった。ガルドも撤退した。この評価に、異論はあるか」

 

「ない」

 

「ない……」

 

 ドラグは少し間を置いた。

 

 怒鳴ることはなかった。声を荒げることもなかった。それがかえって、ガルドにとっては重かった。長老が声を荒げる時は、まだ修正の余地がある時だ。静かに語る時は——問題がもっと深い。

 

「ガルドよ。お前は三日前に言った。今の状態であれば、問題ないと」

 

「言った」

 

「そして今夜、悠斗は三日前と別人だったと言った」

 

「……そうだ」

 

「三日で、人間がそこまで変わる可能性を、お前は考慮していたか」

 

 ガルドは答えなかった。

 

 答えられなかった、というのが正確だった。

 

 三日前、あの少年を見た時、強いと思った。しかし、人間の成長速度は遅い。百戦を生き延びてきた自分の経験がそう言っていた。だから三日で答えが出ると判断した。

 

 しかしあの少年は、その判断を外れた。

 

「……考慮していなかった」

 

 ガルドは正直に言った。

 

「なぜ」

 

「あの体の作りが、この世界の人間と根本的に違うことは知っていた。しかしその違いが、成長速度にまで影響するとは、想定外だった。一体どんな訓練をすれば、三日でそこまで変われる」

 

「わからないのか」

 

「わからない。見たことがない成長速度だ」

 

 ドラグはしばらく黙った。

 

 岩の上で、体を動かさずに。

 

「ヴァラよ」

 

「はい」

 

「何か感じたか」

 

 ヴァラは少し考えてから答えた。

 

「……感じました。あの少年の周囲に、不思議な力の残滓がありました。普通の人間の体にあるものではない。月の力に近い何かが、体に染み込んでいた」

 

「月の力」

 

「月の女神が、あの少年のために何かをしていた可能性があります。ゲートを開く際に、その力の流れが邪魔をしてきた感覚があった。あの少年の成長が速いとしたら……月の力が絡んでいるはずです」

 

 ドラグは静かに頷いた。

 

「なるほど」

 

「問題は」

 

 ガルドが続けた。

 

「月の女神の力がどこまで回復しているか、だ。今夜の戦いを見ると、あの女神はまだ完全ではない。だが、確実に力を取り戻してきている。そして、あの少年の体がその力を吸収して変わっている」

 

「つまり、時間が経てば経つほど、あの少年は強くなる」

 

「そうなる」

 

「それでも、最終的には我々が上になるか」

 

 ガルドは少し黙った。

 

「……わからない」

 

 その言葉は、重かった。

 

 ガルドが「わからない」と言うことは、少なくなかった。しかし「最終的に勝てるかどうかわからない」という意味でわからないと言ったことは、これまでほとんどなかった。

 

「今夜の段階では、まだ我々の方が上だ。しかし、時間を与えれば、その差が縮まる可能性がある」

 

「縮まるだけか?」

 

「……逆転する可能性も、否定できない」

 

 部屋の空気——いや、岩の隙間の空気が、少し変わった気がした。

 

 ドラグは足元の石を一つ、指でゆっくり弾いた。石が岩の隙間に落ちていく小さな音がした。

 

「では、ヴァルクへの攻撃を続けることに意味はあるか」

 

 ガルドは即座に答えなかった。

 

「……あの少年がいる間は、この方法では難しい。魔物の数で押し切るほどの規模を展開する前に、対処される。それが今夜わかったことだ」

 

「封印の地に近づく別のルートは」

 

「ヴァルクを経由しない北上ルートは存在する。ただし、険しい。時間がかかる」

 

「ヴァラよ。ゲートを展開できる位置は、ヴァルク以外に存在するか」

 

 ヴァラは地図を思い描くように、少し目を細めた。

 

「封印の地に直接近づける規模のゲートを開くには、月の力が薄く、黒い月の気が濃い場所が必要です。ヴァルクは条件が揃っていました。しかし……もう一か所、条件を満たす場所がある可能性があります」

 

「どこだ」

 

「東の山脈の向こう。かつて古い戦場があった場所です。大量の血が染み込んだ土地は、黒月の気を引き寄せやすい。あそこなら、別のゲートを開けるかもしれない」

 

「どれほどかかる」

 

「準備に数か月。それ以上かもしれない」

 

 ドラグは少し間を置いた。

 

「わかった」

 

 ドラグは立ち上がった。低くゆっくりとした動作で、老いを感じさせない立ち方だった。

 

「ガルドよ。ヴァルクへの直接攻撃は、今は見送る」

 

「……それでいい」

 

「あの少年に時間を与えるのは不本意だが、今ここで無駄な消耗を重ねても意味がない。我々には、別の仕事がある」

 

「王都か」

 

「そうだ」

 

 ドラグは岩の隙間から夜空を見上げた。黒い月が、遠い空に浮かんでいる。

 

「王都は、人間の力の中心だ。あそこが揺れれば、人間たちの対応が分散する。あの少年も、ただ北だけを見ているわけにはいかなくなる」

 

「陽動か」

 

「陽動ではない。正面からの揺さぶりだ。我々には、この世界の秩序を乱す力がある。それを使う」

 

「……人間の王都に、何をするつもりだ」

 

 ドラグは答えなかった。

 

 代わりに、夜空を見たまま、静かに言った。

 

「月のバランスが崩れ続けている。白い月の力が戻らない限り、この世界は我々にとって都合のいい状態が続く。しかし、月の女神の力が戻りつつある以上、我々は急ぐ必要がある」

 

「封印の地に、先に到達する」

 

「そうだ。南から時間を稼ぎながら、ヴァラの別ルートでのゲート展開を進める。一年以内に、封印を解く」

 

 ガルドは静かに頷いた。

 

「わかった。王都に向かう前に、一つだけ聞いていいか」

 

「言え」

 

「あの少年は……どうする?」

 

 ドラグは初めて、ガルドを見た。

 

「北に来る。それは確かだ。あの目を見た。絶対に来る、王都にも来るだろう」

 

「来た時、どうする」

 

「その時に考える」

 

 ドラグは短く言った。

 

 しかし、その短い言葉の中に、何かが含まれていた。

 

 ガルドには、それが何なのか、今はわからなかった。

 

「では、行くぞ」

 

 三つの影が動いた。

 

 月の光の届かない闇の中を、音もなく。

 

 南の方角へ。

 

 やがて、岩の隙間には何も残らなかった。

 

 足跡だけが雪の上に刻まれ、それもやがて、夜の冷気に埋もれていった。

 

 

 

 

 

 ヴァルクに、静かな日々が続いた。

 

 あの夜から、三日が経った。

 

 その間、魔族は現れなかった。

 

「……来ない」

 

 ウルリックが、朝の見回りから戻りながら言った。

 

「ああ」

 

 悠斗は、宿の前で体をほぐしながら頷いた。

 

「夜も、壁の外は静かだ。気配がない。昨夜も、一昨夜も」

 

「退いたのかもしれない」

 

「かもしれないな」

 

 ウルリックは少し考えた。

 

「町の者たちも、それを感じ始めている。昨日、久しぶりに外で子供の声を聞いた」

 

「そうか」

 

「今朝は、商店が二軒、扉を開けていた。どちらも半年ぶりらしい」

 

 悠斗はそれを聞いて、少し黙った。

 

「……少しでも、よかった」

 

「あなたたちが来てから変わったと言っている。グレムが、そう言っていた」

 

「グレムは口が悪いが、そういうことを正直に言うか」

 

「言わない。俺に言っていた。あなたには言わないだろう」

 

 悠斗は苦笑した。

 

「それが、グレムらしいな」

 

 

 

 宿の中では、朝食の準備が始まっていた。

 

 グレムがシチューを鍋で煮ており、セレスティアがパンを切っている。エレナは珍しく、早起きして窓際に座っていた。

 

 左腕の包帯が、昨日より薄くなっている。

 

「エレナ」

 

 悠斗が宿に入りながら言った。

 

「腕は」

 

「問題ない」

 

「セレスティアに確認してもらったか」

 

「今朝、してもらった」

 

 エレナは窓の外を見たまま答えた。

 

 しばらくして、セレスティアが振り返った。

 

「悠斗様、エレナさんの傷は、昨日の時点でほぼ塞がっています。驚異的な回復ですね。もう一日休んでいただければ、完全に動けると思います」

 

「ほぼ、ではなく完全に、だ」

 

 エレナがすぐに言った。

 

「ほぼ、も完全のうちよ」

 

「違う」

 

「……エレナさん、気持ちはわかりますが」

 

 セレスティアは落ち着いた顔で続けた。

 

「内部の筋肉の回復には、表面の皮膚より時間がかかります。あと一日、ちゃんと動かさずにいれば、明日は本当に完全です。今日、力を使う動きをすれば、また開くかもしれない」

 

「わかった」

 

 エレナは少し間を置いた。

 

「一日だ」

 

「はい、一日です」

 

 セレスティアはにこやかに頷いた。

 

 エレナはそれ以上何も言わなかった。窓の外を見続けた。

 

 悠斗はその様子を見て、何も言わずに椅子に座った。

 

「ルーナは?」

 

「まだ寝ています」

 

 セレスティアが答えた。

 

「昨夜は遅くまで何か考えていたみたいで。起こさなくていいと思いますよ」

 

「そうか」

 

 悠斗は少し間を置いた。

 

 ルーナが何かを考えていたのは、悠斗にも察しがついていた。遺跡のことだ。エレナからもらった地図を、昨夜何度も見ていた。北の方向に記されたいくつかの地点を、指でなぞっていた。

 

 どこへ向かうか。

 

 どの順番で動くか。

 

 それを、ルーナは一人で考えていた。

 

 悠斗は急かさなかった。

 

 ルーナが考える時、邪魔をしない方がいいことを、この旅の中で学んでいた。

 

 

 

 朝食が並んだ。

 

 シチューと、焼き直したパンと、昨夜グレムが仕込んでいたというハーブ入りの塩漬け肉。

 

 悠斗は三人前を食べた。

 

「……また三人前か」

 

 グレムが言った。

 

「修行した後は特に」

 

「今日も修行したのか。まだ夜明け前に起きていたが」

 

「少し動いた」

 

 悠斗は答えた。

 

 実際には、夜明け前から二時間、空き地で体を動かしていた。ルーナの「時の庭」は今日は使っていない。ルーナに休んでもらう時間だ。しかし、それでも体を動かさずにはいられなかった。

 

 あの三日間の訓練で得たものが、体の中に刻まれていた。重力の空間で覚えた重心の使い方、地面に貼りつくような踏み込みの感覚、影から学んだ最短の移動軌跡。それらが今、普通の重力の中でどう機能するのかを、一つずつ確かめていた。

 

「……少し、というのはどう見ても嘘だな」

 

 グレムは言いながら、悠斗の皿に追加のパンを放った。

 

「食え。体を使うなら、食わないといかんだろう」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいい。食え」

 

 グレムはカウンターに戻った。

 

 その後ろ姿に、悠斗は少し頭を下げた。

 

 ウルリックが、静かにお茶を飲みながら言った。

 

「エレナが回復したら、どうするつもりか」

 

「北に向かう」

 

「遺跡か」

 

「ああ」

 

「どの遺跡だ。エレナの地図には、いくつか記されていたが」

 

 悠斗は少し考えた。

 

 エレナが渡してくれた手書きの地図には、いくつかの地点が記されていた。謎の声から指示を受けて調査した、月に関係する古い場所の位置だ。

 

 その中で、ルーナが最も気にしていたのは、北に向かいながら二日ほど西に外れた山の中にある一か所だった。「碑文に破壊の女神の名前が刻まれていた場所」——エレナがそう言っていた遺跡。

 

「ルーナが気にしている場所がある。そこをまず当たってみる」

 

「どのくらいかかる」

 

「ここからなら、三日か四日か」

 

「地形はそこそこきつい」

 

 ウルリックはお茶を一口飲んだ。

 

「案内できるか」

 

「その遺跡なら、なんとかなる。あの辺りは一度通ったことがある。道は少ないが、知らないわけじゃない」

 

「頼む」

 

「わかった」

 

 ウルリックは頷いた。

 

 

 

 その日の昼過ぎ、ルーナが起きてきた。

 

「おはよう、ルーナ」

 

 悠斗が声をかけると、ルーナは少し眠そうな顔で「おはよう」と答えた。それから椅子に座り、自分で温めたお茶を一口飲んでから、ようやく目が覚めてきたようだった。

 

「何時まで考えてたんだ?」

 

「……わからない。気づいたら眠っていた」

 

「地図を見ていたんだろ」

 

「うん」

 

 ルーナはカップを両手で包んで、テーブルに視線を落とした。

 

「悠斗、一つ確認させて」

 

「何だ」

 

「私が向かいたい遺跡は、エレナの地図のここ」

 

 ルーナは地図を広げて、一点を指した。

 

 北西方向。山の中。

 

「わかってる。ウルリックとも話した。三日か四日で着ける。案内してもらえる」

 

「そう」

 

「何か気になることがあるか」

 

 ルーナは少し間を置いた。

 

「……昨夜、夢を見た。また姉さんの夢だった」

 

「内容は」

 

「はっきりしない。でも、今回はいつもと少し違った。姉さんが何か話しかけてきていた。声は聞こえなかった。でも、手を伸ばしていた。こちらに向けて」

 

「こちらに向けて」

 

「うん。引き止めているのか、それとも招いているのか、わからなかった。ただ、手が伸びていた」

 

 悠斗はルーナを見た。

 

「それが、今向かおうとしている遺跡と関係があると思うか?」

 

「……わからない。でも、関係がないとも思えない」

 

 ルーナはカップをテーブルに置いた。

 

「悠斗、私の中で少しずつ、何かが動いている感じがある。力が戻ってきているのもそうだけど、記憶の断片が繋がり始めているような感覚。まだ全部は見えない。でも、あの遺跡に何かある気がする。確信があるわけじゃないけど」

 

「わかった」

 

「怖いと思うか」

 

「少し」

 

 悠斗は正直に言った。

 

「でも、向かわないという選択肢はない」

 

 ルーナは悠斗を見た。

 

 その目に、今朝までとは少し違うものが宿っていた。

 

「……ありがとう」

 

「いつも言ってるだろ。何があっても、俺はここにいる」

 

「知ってる」

 

「知ってるなら、礼を言うな」

 

「言う」

 

「……わかった」

 

 二人は少し笑った。

 

 それから、黙って地図を見た。

 

 まず、動く。

 

 それだけが、今の答えだった。

 

 

 

 翌朝。

 

 エレナが空き地に出てきた。

 

 包帯はもう巻いていなかった。左腕を、ゆっくりと動かしている。拳を握り、肘を曲げ、肩を回す。

 

「どうだ」

 

 悠斗が聞いた。

 

 エレナは少し間を置いた。

 

 そして、左腕に力を込めた。

 

「……問題ない」

 

「痛みは」

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「嘘をついても仕方がない」

 

 それは本当のことだった。エレナが嘘をつく理由がない場合、エレナは必ず本当のことを言う。

 

 セレスティアも傍に来て、エレナの肩口を確認した。

 

「昨日より、さらに柔らかくなっています。内部も、問題ないと思います」

 

「じゃあ」

 

「はい。完全回復です、エレナさん」

 

 エレナは短く頷いた。

 

「よかった」

 

「…………礼はいらない」

 

「言ってないよ」

 

「言いそうだったから、先に言った」

 

 セレスティアが、小さく微笑んだ。

 

 エレナはそっぽを向いた。

 

 

 

 その夜。

 

 グレムの宿の食卓に、全員が集まった。

 

 グレムが今夜は少し腕を振るった。骨付きの肉を長時間煮込んだもの、根菜と豆のスープ、それに珍しい南方産の香辛料を使ったパン。

 

「出発するんだな」

 

 グレムはテーブルに料理を並べながら、何気なく言った。

 

「明日の朝、出ます」

 

 悠斗が答えた。

 

 グレムは少し間を置いた。

 

 それから、椅子を引いて向かいに座った。

 

「この宿に泊まって、何日だ」

 

「七日です」

 

「七日間、一度も外に出なかった日はなかったな。朝から修行して、夜は見回りをして」

 

「この町に居る間はできることをすると言ったので」

 

「言ったな」

 

 グレムはお茶を一口飲んだ。

 

「正直に言う」

 

「どうぞ」

 

「お前さんたちが来た時、正直、あまり期待していなかった。若い旅人が数人来ても、何が変わるんだと思っていた。三十年ここに住んで、色んな人間を見てきた。話だけは上手くて、いざとなれば役に立たない人間を、何人も見てきた。だから最初は、どうせそういうもんだろうと思っていた」

 

「……」

 

「しかし、違った」

 

 グレムは悠斗を見た。

 

 深い皺の中の目が、真剣だった。

 

「あの夜、壁の外に出て戦った。傷ついた仲間を連れて戻ってきた。翌朝から修行を始めた。その次の夜も、戦った。誰も死ななかった。それだけで、俺にとっては十分だ」

 

「……俺たちは、この町を救いに来たわけじゃないです」

 

「わかってる」

 

「通り過がりで、たまたまここにいただけだ」

 

「わかってる」

 

 グレムは繰り返した。

 

「それでも、お前さんたちは居る間にできることをした。それは確かだ。なら俺も、お前さんたちが居る間にできることをした。それだけだ」

 

「グレム、ありがとうございました」

 

「礼はいらん」

 

「言います」

 

 ルーナが静かに言った。

 

 グレムはルーナを見た。

 

 銀色の髪と、静かな目。旅の間ずっと見てきたが、この娘が何者かは、七日間でも正確にはわからなかった。ただ、何か大事なものを持っている人間だということは、わかった。

 

「……食え。今夜は腕を振るった」

 

 グレムは立ち上がった。

 

「腕を振るうのは、大事な時だけだ」

 

 それだけ言って、厨房に戻った。

 

 悠斗は、その背中を少し見ていた。

 

 ウルリックが静かに言った。

 

「グレムが料理に力を入れる時は、本当に大事な客に対してだけだ。七日間、一度もそういう日はなかった。今夜が初めてだ」

 

「……そうか」

 

「食え。グレムは照れている時ほど、黙る」

 

 悠斗は苦笑した。

 

 そして、テーブルの料理に手を伸ばした。

 

 

 

 翌朝、夜明け前。

 

 一行は北門の前に集まった。

 

 息が白い。空気が、この七日間で一番冷たかった。

 

 グレムが、宿の入口から見ていた。

 

 腕を組んで、炉の火を背に。

 

「行ってきます」

 

 悠斗は言った。

 

「行ってこい」

 

 グレムは短く言った。

 

「ヴァルクに戻ることがあったら、また泊まらせてください」

 

「金は先払いだ」

 

「わかってます」

 

「先払いは、歓迎する」

 

 グレムは少し目を細めた。

 

 笑ったのかどうか、悠斗には判断がつかなかった。しかしその顔の皺が、少しだけ違う形になったのは見えた。

 

 一行は歩き出した。

 

 ウルリックが先頭に立ち、北西の方角へ。

 

 悠斗は少し振り返った。

 

 グレムはまだ入口に立っていた。

 

 動いていない。ただ、見ていた。

 

 悠斗は手を上げた。

 

 グレムは動かなかった。

 

 しかし、腕を組んでいた体の片方が、ほんの少しだけ、持ち上がった気がした。

 

「行こう」

 

 ウルリックが言った。

 

「ああ」

 

 悠斗は前を向いた。

 

 北の道が、続いている。

 

 

 

 道中は、ヴァルクまでの道のりとは異なる種類の険しさがあった。

 

 街道がなかった。

 

 ウルリックが踏み固めた道を示しながら歩くが、それもいくつかの場所では消えていた。雪が積もり、岩が露出し、木の根が地面を覆っている場所を縫うように進んでいく。

 

 一日目は、高い尾根を越えた。

 

 二日目は、凍りかけた川に沿って西に進んだ。その川の水を飲んだ悠斗は、冷たさに一瞬むせた。

 

「この川の水は旨い」

 

「北の山から来てる。不純物がほとんどない」

 

 ウルリックが答えた。

 

「飲みすぎると腹が冷える。気をつけろ」

 

「わかった」

 

 三日目は、標高が上がった。

 

 空気が薄くなる。ルーナとセレスティアの呼吸が、少し浅くなった。

 

「大丈夫か」

 

 悠斗はルーナに聞いた。

 

「大丈夫。慣れる」

 

「少し遅く歩いた方がいいか」

 

「遅くしなくていい。ペースを変えるより、このまま進む方がいい」

 

 ルーナは前を向いたまま、淡々と言った。しかし頬が少し赤い。寒さだけが理由ではないかもしれなかった。

 

 エレナは三日間、一度も弱音を言わなかった。左腕を確かめるように時々動かしながら、黙々と歩いた。その歩き方が、ヴァルクに到着した時よりも、どこか軽い。怪我が治っただけでなく、何かが変わった気がした。

 

 四日目の朝。

 

 空が晴れた。

 

 雲が切れて、白い光が降り注ぐ。その光の中に、白い月が薄く浮かんでいた。昼間でも月が見える——北に来てから、そういう日が増えた。

 

「……あの先だ」

 

 ウルリックが止まって言った。

 

 前方の崖の上。岩が積み重なった斜面の、さらに奥。木々がまばらになり、地面が露出し始めた先に、何かが見えた。

 

 遠目には、ただの岩の塊のように見える。

 

 しかし、近づくにつれて、その輪郭が変わり始めた。

 

「……建物だ」

 

 セレスティアが小さく言った。

 

「ああ」

 

 ウルリックが頷いた。

 

「この山の中に、こんなものがあるとは知らなかった。情報として聞いていたが、実際に見るのは初めてだ」

 

「何年前の建物だ」

 

「わからない。とにかく古い。百年や二百年ではないだろう」

 

 一行は斜面を登った。

 

 岩の上に雪が積もり、足を取られそうになる場所があった。悠斗は先に登って上からルーナの手を取り、セレスティアにはウルリックが手を貸した。エレナは一人で、岩肌を手がかりにしながら静かに登った。

 

 そして。

 

 斜面の頂上に立った。

 

「……」

 

 悠斗は、その場で立ち止まった。

 

 

 

 遺跡は、思っていたよりも、ずっと大きかった。

 

 正面に、石造りの門が立っている。高さは五メートルほど。その横幅は三メートルを超えている。この世界の住民は体長が十八センチほどだから、相対的には非常に巨大な建造物だ。元の世界の建築基準でいえば五十メートル近い門、ということになる——悠斗の感覚としては、それほどの圧倒感があった。

 

 門の両側に伸びる壁は、崩れかけている。長い年月が石を侵食し、表面は苔と氷が混ざり合ったような質感になっていた。しかし根本的な構造は残っており、何かが内側に入れないよう、かつては機能していたことが伝わってくる。

 

 門の柱には、彫刻が刻まれていた。

 

 円形の紋様。中央に月を象徴するような形。そしてその周囲を取り囲む、螺旋状の細かい線。

 

「月の神殿系の遺跡です」

 

 セレスティアが静かに言った。

 

「あの紋様は……エルディアの神殿で見たものに似ています。でも、少し違う。もっと古い様式です」

 

「月の女神に関係する場所か」

 

「そう思います」

 

 ウルリックは正面の門を見上げながら、少し離れたところに立った。

 

「ここまでは来たことがない。この先は、俺にはわからない」

 

「ありがとう、ウルリック。案内してくれてよかった」

 

「ここまでが俺の仕事だ」

 

 ウルリックは短く言った。

 

「中に入るつもりか」

 

「ああ」

 

「気をつけろ。古い建物の床は信頼するな。石でも、年数で内部が腐ることがある」

 

「わかった」

 

「それと……」

 

 ウルリックは少し間を置いた。

 

「もし二日経っても出てこなかったら、どうすればいいか」

 

「帝都のエリシアに知らせてくれ。連絡の方法を教える」

 

「……わかった」

 

 一行は、遺跡の正面に立った。

 

 風が止んでいた。

 

 この場所だけ、周囲の山の冷気が届いていないような、奇妙な静けさがあった。

 

 その時。

 

「……悠斗」

 

 ルーナが、静かに言った。

 

 声のトーンが、普段と違った。

 

「うん」

 

「……感じないか」

 

 悠斗はルーナを見た。

 

 ルーナは正面の門を見ていた。銀色の瞳が、いつもより少し見開かれている。手が、わずかに固まっている。

 

「何を感じる?」

 

「……ここから、何かが出ている」

 

「何かとは」

 

 ルーナは少し考えてから、言葉を選んだ。

 

「力、と言えばいいか……でも普通の力じゃない。月の力でも、黒月の力でも——いや、黒月の力に近いかもしれない。でも違う。もっと古い。もっと根源的な何かが、この場所の内側から滲み出ている」

 

 悠斗は門に視線を向けた。

 

 自分には、何も感じなかった。普通の石造りの古い遺跡に見える。風も冷たい。

 

 しかし。

 

「ルーナが感じると言うなら、本当に何かがある」

 

「うん」

 

 エレナが静かに言った。

 

「碑文のことを思い出した。この遺跡に、声がかつて何を調べるよう指示したのか」

 

「調査を頼まれた場所が、何か所かあった。ここは……確かに、月に関係する場所だと言われた。内部に碑文があるから、読んで内容を報告しろと。実際に入ったが、あの時はここまで感じるものはなかった」

 

「あの時は、今と月の状況が違ったのかもしれない」

 

 セレスティアが言った。

 

「黒い月の力が、この数ヶ月でさらに増しています。それに伴って、この遺跡の内部にあるものも、変化しているとしたら……」

 

「白い月の力が戻っていくにつれて、こういった場所が反応し始める可能性もありますか?」

 

 ルーナがセレスティアに聞いた。

 

「……あると思います。月の力に関係する場所は、月のバランスに敏感です。どちらかの力が動けば、影響を受けやすい」

 

「では、今ここに出ているこの力は……黒に傾いているのか?」

 

「感じる限りでは、そう思う」

 

 ルーナは正面の門から目を離さずに言った。

 

「嫌な感触ではない。でも、ここの力は……私が知っているどの月の神殿よりも、重い」

 

「重い、というのは」

 

「黒月の力が混ざっているからかもしれない。あるいは、封じられているものがあるからかもしれない。どちらにせよ、普通の場所ではない」

 

 悠斗は腕を組んだ。

 

「入れるか」

 

「入れると思う」

 

「危ないか」

 

「……わからない。でも、ここを避けて通れないことも、わかってる」

 

 一行は、少し距離を取った場所に集まった。

 

 岩の陰。遺跡から少し離れた、風が当たりにくい場所。

 

「どうする」

 

 悠斗が全員を見ながら言った。

 

 ウルリックが先に口を開いた。

 

「俺は、判断を委ねる。この遺跡のことは、お前たちの方がずっと詳しい。俺に言えることは一つだけだ」

 

「何だ」

 

「全員で入るのは避けた方がいい。入口でも中でも、何かが起きた時に全員がやられる」

 

「同意だ」

 

 エレナがすぐに言った。

 

「内部の状況が不明な場所に、全員で突入するのは悪手だ。入る人数を絞って、残りが外で待機する方がいい」

 

「同感です」

 

 セレスティアが続けた。

 

「月の力に関わる遺跡ですから、私も力になれると思いたいですが……中に何があるかわからない以上、外に備えを残しておくことが大事だと思います」

 

 悠斗はルーナを見た。

 

「ルーナ。中に入る必要があるのは、俺とお前か」

 

「そう思ってる」

 

「理由は」

 

「私が感じるものを確認するには、私が入らないといけない。そして、あなたがいなければ、私が守れない」

 

「セレスティアは外か」

 

「はい」

 

 セレスティアは頷いた。

 

「私が外で待機します。エレナさんとウルリックさんと一緒に。中から何かが来た時、外からでも対応できることがあれば、それをします」

 

「エレナ」

 

 悠斗はエレナを見た。

 

「外に残ってくれるか」

 

 エレナは少し間を置いた。

 

「……気に入らない」

 

 エレナはそれだけ言った。

 

 しかし続けた。

 

「しかし、理屈はわかる。私が外に残ることで、この場所に残る全員が守られる可能性が上がる。ルーナが中で力を使う必要があれば、セレスティアを連れていくより、お前が動く方が機動力が上がる」

 

「そうだ」

 

「……わかった」

 

 エレナは短く言った。

 

「ただし、条件がある」

 

「言え」

 

「一時間経っても戻ってこなければ、私も中に入る」

 

「それは──」

 

「交渉の余地はない」

 

 エレナの目が、真剣だった。

 

 悠斗は少し考えた。

 

「……わかった。一時間だ」

 

「よし」

 

 エレナは立ち上がった。

 

「行けばいい」

 

 ウルリックが静かに言った。

 

「時間を気にしながら入っても、集中できない。俺たちは外で待つ。それが俺たちの仕事だ」

 

「ありがとう、ウルリック」

 

「礼はいい。戻ってこい、それだけだ」

 

 セレスティアが、悠斗とルーナに向かって言った。

 

「どうかお気をつけて。もし月の力が必要な場面があれば、私は外からでも、できる限りのことをします」

 

「ありがとう、セレスティア」

 

「ルーナ様」

 

「うん」

 

「……何があっても、大丈夫です。あなたが月の女神だから、ではなくて。あなたが、あなただから」

 

 ルーナはセレスティアを見た。

 

 その目に、一瞬だけ何かが揺れた。

 

「……行ってくる」

 

 ルーナは短く言った。

 

 エレナが悠斗を見た。

 

 何も言わなかった。

 

 ただ、その視線に、数日間一緒に過ごした重さがあった。

 

 悠斗は頷いた。

 

 それで、十分だった。

 

 

 

 二人は、遺跡の正面に立った。

 

 門に近づくにつれて、ルーナの顔が少し変わっていく。

 

「……やっぱり、強い」

 

「何が」

 

「ここから出てるもの。近づくほど、はっきりわかる。内側から滲み出てくる」

 

「怖いか?」

 

 ルーナは少し間を置いた。

 

「怖くはない。でも……知ってる感じがする。どこかで感じたことのある、重さ」

 

「どこで」

 

「……わからない。でも、懐かしい感じもある。それが余計に、怖くない」

 

 悠斗は正面の門を見上げた。

 

 石の柱。月を象徴する彫刻。百年以上——いや、もっと昔から、ここに立っていた門。

 

「行こう」

 

 悠斗は言った。

 

「うん」

 

 ルーナが頷いた。

 

 二人は、門をくぐった。

 

 月を象った彫刻が、両側から見下ろしている。

 

 一歩、踏み込む。

 

 また一歩。

 

 外の冷たい空気が、内側の重い空気に変わっていく。

 

 石の床が、足の下で静かに軋んだ。

 

 奥に、暗闇がある。

 

 しかし暗闇の向こうに、かすかな何かが光っていた。

 

 青白い光。

 

 月の光とも違う、もっと古い、静かな光。

 

「……ある」

 

 ルーナが小声で言った。

 

「うん」

 

「中に、何かがある」

 

「わかった」

 

 悠斗は歩みを進めた。

 

 ルーナが隣を歩く。

 

 二人の影が、石の床に伸びていく。

 

 遺跡の奥へ。

 

 光の向こうへ。

 

 門の外では、エレナが石の上に腰を下ろして、正面を見ていた。

 

 セレスティアが横に立ち、ウルリックが少し離れた場所で立哨している。

 

 三人の視線が、遺跡の入口に注がれていた。

 

 そこからは、もう二人の姿は見えなかった。

 

 足音だけが、しばらく聞こえていた。

 

 そして、それも消えた。

 

 静寂が、山の中に広がった。

 

 白い月が、空から静かに見下ろしている。

 

 答えは、あの奥にある。

 

 それだけが、確かだった。

ヴァルクを出た。


グレムには世話になった。不愛想だったけど、あの宿は居心地がよかった。シチューが旨かった。あんなにシチューばかり飲んだのは初めてだと思う。


遺跡に来た。


ルーナが何かを感じると言った。私には何も見えない。でも、ルーナが感じると言うなら、そこには確かに何かある。そういうものだと、旅を続けてわかった。


中に入る。


怖いかと言われれば……少しはある。でも、足は動いてる。


それだけで、十分だ。



―――悠斗

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