第30話 「片腕の盾」
二日目の朝は、静かに始まった。
昨夜と同じく、空は鉛色だった。しかし雪は止んでいる。雲の切れ間から、朝の光が薄く差し込んでいた。
宿の裏手の空き地。
悠斗は、空き地の端に立って体をほぐしていた。肩を回す。腰を入れる。昨日の打撃の痕が、筋肉の奥にまだ残っている。普通の人間なら、二日は動けないような痛みのはずだった。
しかし、不思議なことがあった。
「……治ってる」
昨夜、宿に戻って確認した時、腹の内側に感じた重い痛みが、今朝はほとんど消えていた。ルーナに言わせれば「少し待てば大丈夫」という程度のものではなく、確かな傷の回復だった。触れてみると、青あざがあるべき部分の皮膚が、すでに柔らかく戻っている。
「体に何かが起きている」
「起きているわね」
背後でルーナが言った。
振り返ると、外套を羽織ったルーナが、白い息を吐きながら立っていた。昨日と同じ、真剣な顔だ。しかしその目に、今日は昨日とは少し違う何かが宿っていた。落ち着き、とでも言うような。
「昨日も感じていたけど、あなたの傷の治りが、普通じゃない」
「自分でも気づいた。昨日あれだけ叩かれたのに、今朝はほぼ痛くない」
「私も考えていたの。昨夜の間に」
ルーナは少し間を置いた。
「私の魔力があなたの体に干渉している可能性があるって」
「どういうことだ」
「時の庭を維持している間、私の魔力は空間全体に満ちている。あなたはその中で動いていた。あなたの体はこの世界の物理法則と少し違う構造で動いているから……その魔力が、体の代謝と組み合わさって、普通よりずっと早く細胞を修復している可能性がある」
悠斗は少し黙った。
「……それって、昨日よりもっと速く強くなれるということか」
「そうなるはず。理論上は」
「理論上?」
「確認する方法が、実際にやってみることしかないのよ。でも……昨日、一日で三回に一回はかわせるようになっていたでしょ。普通、そんな速さで体が変わらない。今日も、きっとそれより速く変われるはずだわ」
ルーナの声に、わずかだが確信に近いものが混じっていた。
悠斗は、空を見上げた。雲の切れ間が、少し広がっている。
「よし」
悠斗は拳を握った。
「やろう」
「今日は重力を上げる。あなたが昨日、重心のことに気づいたと言っていたから、それをもっと使えるようにする訓練にしたい。具体的には……影の動き方が、昨日とは少し変わる」
「どう変わるんだ?」
ルーナは真剣な目で答えた。
「あなたの昨日の動きを取り込んで、影が更新された。今日の影は、昨日よりあなたの癖を知っている。同じ動きは、通じなくなっているはずよ」
「……なるほど」
「それが、本来の訓練の意味。自分に勝つということは、自分の癖を超えるということだから」
悠斗はそれを聞いて、少し口元を動かした。笑い、というよりは、気合の入った表情だった。
「よし。始めよう」
ルーナは目を閉じた。
空気が、変わった。
昨日と同じ感覚だ。しかし今日は、少しだけ違いがある。
空気の揺れが、昨日より速く形を作った。ルーナが昨日より確実に空間の作り方に慣れている証拠だった。裂け目の輪郭が整うまでの時間が、昨日の半分ほどしかかからなかった。
「入って」
ルーナの声が告げた。
悠斗は一歩踏み込んだ。
「……っ」
重い。
昨日の重力が十倍だとしたら、今日はそれより確実に重い。十五倍。一歩を踏み出す度に、ふくらはぎが悲鳴を上げる。しかし昨日と違うのは、体がその重さを知っていることだ。驚かない。どう足を運べばいいかを、ある程度体が覚えている。
「今日は二十倍」
悠斗は重力の中で、ゆっくりと体の重心を確かめた。
昨日気づいたこと。重力が高い空間では、地面との繋がりが強くなる。踏ん張りが利く。だから受けには有利だ。しかし攻める時の加速が遅くなる。その問題は、「移動距離を最短にすること」で補うことができる。
つまり——足を大きく動かさない。
重心の位置だけを変えて、最小の移動で最大の打撃点に立つ。
魔族がやっていたことだ。
悠斗は前を向いた。
影が、そこにいた。
昨日と同じ体格。昨日と同じ体積。しかし立ち方が、少し違っていた。昨日より体の重心が低く、前傾が浅い。どこか、落ち着いた構えだ。
「……確かに違う」
悠斗は呟いた。
影が動いた。
昨日との違いは、最初の一歩が違うことだった。昨日は正面から入ってきた。今日は——斜め前から、横にスライドする動きで入ってきた。
横への動きは、二十倍重力では遅い。しかし、それで十分だった。
悠斗の拳の軌道を外し、そのまま側面に打撃を叩き込む。
「ぐっ」
昨日より浅い角度だが、体が横に流れた。地面に倒れなかった。昨日との差がここにある。一日で、受けの体幹が少し変わっていた。
影が間合いを詰めてくる。
悠斗は昨日の記憶を引き出した。
影の一歩目の癖。右足から出る。重心が右に寄る瞬間、打撃の威力が下がる。
しかし——今日の影は、最初の一歩を左足で踏んだ。
「……癖を変えてきた」
ルーナが昨日言っていた通りだ。自分の癖を吸収した影は、その癖ごと変わってきた。
「おもしろい」
悠斗は歯を食いしばりながら、影と向き合った。
癖で対応できないなら、目で見るしかない。一歩一歩、見て、判断する。重力が高い分、反応に時間がかかる。しかし昨日一日で積み重ねた感覚が、その遅れを補い始めていた。
次の攻撃が来た。
悠斗は今度は受けにいかなかった。
体ごと前に入った。相手の打撃の軌道の内側に、半歩踏み込む。
ガードではなく、潜り込む。
影の腕が、頭上を通り過ぎた。
その瞬間、悠斗は腰を回した。
重力の重さを逆に利用して、地面に足を貼り付けながら全体重を乗せた横の打撃。
影の脇腹に、入った。
ドゴッ。
影が、半歩よろめいた。
昨日の一日で初めて当てた時より、確かに大きく動かした。手応えが違う。
「……そうか」
悠斗の頭が、一つのことを理解した。
重力が高い空間では、純粋な速度よりも体重の乗せ方が威力に影響する。速く動けなくていい。重く動けばいい。地面に繋がったまま、体の質量を最大に乗せれば、十五倍の重力がそのまま打撃の重さになる。
「入口の向こうで、ルーナがそれを教えようとしていたんだな」
悠斗は口元を動かした。
影が向き直る。今度は警戒が増した。
「同じ手は通じない」
悠斗は重心を下げた。
二十分後——
影は悠斗を六回叩き飛ばした。しかし悠斗も三回打撃を当てた。昨日の一日目と比べると、明らかな差だった。
一方。
空間の外で目を閉じたまま座っていたルーナも変化を感じていた。
悠斗が動く気配が、昨日より鮮明に伝わってくる。それだけではない。魔力が空間の中で循環する感覚が、昨日より整っている。維持にかかる負荷が、少し軽くなっている気がした。
不思議だった。昨日は二時間でほぼ限界だった。今日は……もう少し行けるかもしれない。
指先の感覚が失われ始めるのが、昨日より遅かった。
「……何かが変わっている」
ルーナは小さく呟いた。
わからない。でも、感じることができる。自分の体の中で、月の力の流れが変わっている。まるで、空間の中の悠斗の代謝と魔力が共鳴して、こちら側にも何かが返ってきているような——。
考えることをやめた。
今は、維持することだけを考える。
もう少し。もう少しだけ、続ける。
宿の一階。
カウンターの前で、セレスティアがエレナの左肩の包帯を確認していた。
エレナは椅子に腰掛けて、腕をゆっくりと動かしていた。
「どうですか」
「動く」
「昨日より動かせていますね」
「おかしいと思うか」
エレナが聞いた。
セレスティアは少し考えながら、傷口を確認した。
深い裂傷が、昨日の夜より明らかに塞がっている。表面の皮膚が、通常の二倍以上の速度で再生していた。セレスティアの治癒魔法は確かに助けているが、それだけではこれほど速くは治らない。
「おかしくはないですよ。ただ、説明がつく話ではあります」
「聞かせろ」
セレスティアは包帯を当て直しながら、静かに話し始めた。
「元の世界とこの世界の物理法則が違うことは、あなたはもう自分の体で知っていますよね。縮小によって、代謝が上がり、神経伝達が速くなり、力が相対的に増す。それと同じことが、回復力にも働いている可能性があります」
「代謝が高ければ、傷の治りも早いということか」
「はい。細胞分裂の速度が上がっている可能性があります。もちろん、私の治癒魔法が補助しているのも確かですが……あなたの本来の回復力が、この世界では普通の人間より高いかもしれない」
エレナは少し黙った。
「十七年で、大きな怪我をしたことはあったが、治りが早いと感じたことはなかった」
「それは……おそらく、今まで治癒魔法の助けがなかったから、気づきにくかったのではないでしょうか。今回は私が毎日処置をしています。魔法と体の回復力が組み合わさって、効果が出ているんだと思います」
「……なるほど」
エレナは少し頷いた。
「三日と言っていたが、それより早く動けるか」
「今の回復速度であれば……明日の夜には、軽い動きができるかもしれません。ただ、無理はしないでください。表面の皮膚が塞がっても、筋肉の内部はまだ修復の途中ですから。力を入れる動きは、さらにもう一日は待った方がいいです」
「わかった」
エレナはそれだけ言った。
セレスティアは道具を片付けながら言った。
「私は、エレナさんのことを最初に見た時、怖い人だと思いました」
エレナがセレスティアを見た。
「今も怖いか」
「怖くはないです」
セレスティアはにこやかに言った。
「でも、近寄りにくい感じは、最初はありました。表情があまり動かないので。何を考えているのか、わからなかった」
「今は」
「今は……わかります。少しだけ」
「少しだけ」
「思っていることをそのまま言葉にする方なのだと思っています。余分なことを言わない。でも嘘もつかない。だから……信頼できます」
エレナは少し黙った。
「月の巫女は、人を見るのが得意なのか」
「得意というより……神殿にいた頃から、多くの人の祈りを聞いてきましたから。言葉の中にある、本当のものを聞く癖がついているのかもしれません」
「神殿が黒月教に落とされた後、どうしていた」
突然の問いだったが、セレスティアは静かに答えた。
「囚われていました。西の要塞で。クルエンタという使徒の……実験体にされそうになっていました」
「どんな実験だ」
「月の力を持つ者の体が、黒月の術式にどう反応するか、というものだったと思います。詳しくは聞かされませんでした。ただ、連れてこられた日から、毎日恐ろしかった。逃げられなかった。でも……諦めませんでした」
「なぜ」
セレスティアは少し考えた。
「ルーナ様が、いつか来てくださると、信じていたから」
エレナは無表情のまま、セレスティアを見ていた。
「……信仰は、支えになるか」
「なります。あなたには、ないですか」
「ない」
「そうですか」
「私が信じるのは、自分の体だけだ。それで十七年やってきた」
セレスティアは首を傾げた。
「それは……寂しくなかったですか」
エレナは少し間を置いた。
「寂しい、とは考えなかった。そういう場合じゃなかった」
「今は?」
「……今も、考えていない」
「そうですか」
セレスティアはそれだけ言って、微笑んだ。
エレナはその微笑みを見て、少し眉を動かした。
「なぜ笑う」
「考えていない、と言う時に、少し間があったから」
「……」
「答えを探していたのかもしれない、と思って」
エレナは黙った。
しばらく沈黙があった。
薪が、静かに燃えていた。
セレスティアはその横顔を見て、今度は声に出さずに、静かに微笑んだ。
外の時間で三時間が経った頃、ルーナは裂け目を閉じた。
昨日より一時間長かった。
「……やっぱり、伸びた」
ルーナは空間を閉じながら呟いた。
体が重い。腕の感覚が薄い。膝が震えている。しかし昨日のような「意識が落ちる」という感覚ではなく、長い水泳の後のような疲労感だった。限界まで使い切ったのではなく、ちゃんと自分で止めることができた。
「ルーナ」
悠斗が出てきた。
汗が光っている。服のあちこちに土がついている。しかし、昨日より転がり方が少ない。
「三時間、維持できたんだな」
「ええ」
「大丈夫か」
「大丈夫。昨日より、ずっとマシ」
「調子はどうだった」
「昨日よりずっとわかってきた。影が癖を変えてきたのは最初戸惑ったけど、半時間くらいで新しい動きのパターンが見えてきた」
「そう」
「今日は打撃の数が増えた。あっちに当てた回数が、昨日の三倍はある。やられた回数も昨日より多いけど、一回一回の深さが浅くなってる気がする」
ルーナは静かに聞いた。
「内側からどう感じてる? 体が変わってる感覚はある?」
「ある。朝の時点で傷が治っていた時から感じていたけど、空間の中にいる間も同じ感覚がある。叩かれた後、すぐに次の動きができるようになってる。回復が速い」
「やっぱりそうなのね」
ルーナは自分の手のひらを見た。
指先の感覚が、ゆっくりと戻ってくる。
「私も感じていた。空間を維持している間、あなたの代謝と魔力が共鳴して、お互いに強めあっているような感覚。私の魔力の消費が、昨日より少なかった気がするの。あなたの体を通った魔力が、何かになって帰ってくるような——」
「俺の体を通して魔力が増幅して戻しているということか」
「よくわからない。でも、そう感じる」
悠斗は空を仰いだ。
「アニメで言うと、相互強化みたいなやつか。主人公と相棒が一緒にいると両方強くなる」
「どういう話?」
「いや、こういう状況を想定した話が、向こうの世界にはいくつかある。俺は今、そのパターンの中にいるのかもしれない、と思って」
ルーナは少し口元を動かした。
「……あなたは、こういう時でも向こうの世界のことを引き出してくるのね」
「癖だって言っただろ」
「わかってる」
「でも、真剣に言ってる。お前がそばにいることが、俺を強くしてる。それは事実だ」
ルーナは少し黙った。
「……当たり前のことを言わないで」
「前も言ったな、それ」
「また言う」
「なんで」
「……そういうことを、まっすぐ言われると困る」
ルーナは視線を横に逸らした。頬が、冬の空気の中でも、かすかに温かい色をしていた。
「困らせるつもりじゃないんだがな」
「わかってるわ」
「……まあ、今日のところはいい。昼飯食いに行こう。腹が限界だ」
「そっちにすぐ移るのが、あなたらしいわね」
「修行した後は特に減る」
「知ってる」
ルーナは立ち上がって、悠斗と並んで宿の方へ歩いた。
冬の空気は冷たいが、二人の間の温度は、それよりずっと温かかった。
昼食の時間。
グレムが出してきたのは、厚切りの豚肉を脂で炒めたものと、黒パン、それに昨夜の残りのシチューを煮直したものだった。
悠斗は四人前を平らげた。
「……またか」
グレムが言った。
「修行の後は特に減るんです」
「昨日も言ってた」
「毎日言います」
グレムはため息をついたが、すぐに追加の皿を持ってきた。
「まあ……食べる方が元気で長生きするとも言うからな」
「ありがとうございます」
そんな他愛ない話をしながら夜は更けていった。
三日目の朝。
悠斗が空き地に出ると、ルーナの他に、エレナが出てきていた。
左腕に包帯を巻いたまま、外套を羽織って立っている。
「エレナ、まだ安静にしていろ」
「見学だ」
「見学?」
「訓練を見る。それだけだ」
悠斗はルーナを見た。
ルーナは少し考えてから、頷いた。
「見ていてもいいけど」
「何だ」
「今日の訓練を見て、気づいたことがあれば教えてあげて」
エレナは少し眉を動かした。
「私に教えることは、あまりない」
「お前は十七年、この世界で生き抜いてきた。俺はまだ短い。俺にはない視点で見ることができると思う」
「……わかった」
エレナは空き地の端の岩に腰を下ろした。
ルーナが空間を作り始めた。
今日は、少し違う組み方をするつもりだった。昨日と一昨日の経験から、空間を作ることに確実に慣れてきている。今日は一つだけ、新しい条件を加えた。
重力は十五倍のまま。しかし、空間の床の一部を、変則的な傾斜にする。水平ではなく、所々に微妙な段差と傾きがある地形。実際の戦闘は、常に平らな場所では起きない。
「入って」
悠斗が入った瞬間、昨日とは違う感触があった。
「……床が違う」
「今日は地形を変えたの。平らじゃない部分がある。昨日よりも重力を上げたからそこで戦ってみて」
「なるほど」
確かに昨日よりも更に重く感じる。
影は、もうそこにいた。
昨日と同じ体格。しかし、今日の影の立ち方には、また昨日とは違う何かがあった。より低い重心。そして、両足の角度が、傾いた地面に対して自然に適応している。
影も、この地形を知っている。
悠斗は、知らない。
「……よし」
悠斗は地面を確かめるように一歩踏み出した。
右足が、わずかな傾斜に乗った瞬間、体のバランスが一瞬ずれた。
影が、その瞬間を使った。
速い。傾斜の上では加速が一方向に乗せやすい。影は斜面を使って踏み込みのベクトルを乗せた打撃を繰り出してきた。
「がっ」
避けられなかった。胸板に入った。
しかし昨日より早く立ち上がった。
「傾斜を、逆に使う方法があるはずだ」
外で、エレナが石の上から静かに見ていた。
しばらく見ていた。
悠斗が転がる。立ち上がる。また転がる。しかし一度転がるたびに、地面の感触を手のひらで確かめている。傾斜の角度を、全身で覚えようとしている。
「……賢い覚え方だ」
エレナは小声で言った。
空間の外に向かって言ったわけではなかったが、ルーナには届いた。
「どういう意味ですか」
「地面を手で確かめている。戦いながら地図を作っている。私が最初の頃にやっていたことと同じだ」
「エレナさんも、同じことを?」
「この世界に来た最初の年、知らない地形で何度も魔物に不意打ちをくらった。それから、足の裏と手のひらで地面を覚える癖をつけた。どこに段差があるか。どこが滑るか。それがわかれば、動き方が変わる」
ルーナは静かに聞いた。
「伝えることは、できますか」
「今から伝えても、体に入るのには時間がかかる。でも……感覚だけは伝えられるかもしれない」
エレナはゆっくりと立ち上がった。
傷の入っていない右腕だけで、動きを作った。
「悠斗」
空間の内側に向けて言った。
「聞こえてるか」
「聞こえてる」
「今、傾斜を体で覚えようとしているのはわかる。それはいい。でも、もう一つ見ている部分がある」
「何だ」
「影の足元だ。影は傾斜を知っている。だから、影の足の置き方が、地形の情報を持っている。影が右足を外側に置いた瞬間、そこに傾斜があるということだ。相手を見ながら地形を読む方法だ」
「……なるほど」
空間の中で、悠斗が影と向き合いながら、今度は影の足元を意識し始めた。
影の左足が、内側にひかれた。
その位置の、やや左側に傾斜がある。
悠斗は、踏み込む方向を変えた。
傾斜の高い方から、低い方に向かって体重を乗せる。重力を味方にした踏み込み。
影の腕をかいくぐり、体ごと前に入った。
打撃が、今日一番の手応えで入った。
影が大きく後退した。
「……入った」
外で、エレナが静かに言った。
「そうだ」
ルーナは目を閉じたまま、その気配を感じていた。
悠斗が変わっていく。
一撃一撃で、何かが積み重なっていく。
自分が空間を維持している間、悠斗は確実に変わっていく。それが、こちら側にも伝わってくる。まるで、空間を通じて繋がっているようだった。
三時間。
今日も三時間。
昨日と同じ時間だったが、感覚が違った。昨日は三時間で限界に近かった。今日は三時間で「まだ少し行けるかもしれない」という感覚があった。しかし悠斗との約束がある。限界だと感じたら止める。今日は限界ではないが、悠斗も十分やった。
「悠斗、今日はここまで」
「……わかった」
空間が静かに閉じた。
悠斗が出てきた。
昨日より土汚れが少ない。転がる回数が、また減った。
「エレナ」
「何だ」
「ありがとう。さっきの教え、役に立った」
「お前の賢さがあったからだ。教えたのは言葉だけだ」
「それでも」
エレナは少し間を置いた。
「……どういたしまして」
それだけ言って、エレナは宿の方へ歩いた。
悠斗は、その背中を見た。
昨日より歩幅が広い。
左腕を庇う様子が、昨日より減っていた。
夜の帳が完全に落ちた頃、町は静かだった。
衛兵が壁の上を巡回している。足音だけが、規則的に聞こえる。
宿の中は温かかった。グレムが炉に薪を足し、テーブルの上に灯かりを置いた。
夕食の後、それぞれが休もうとしていた時間。
悠斗は横になっていたが、眠れなかった。
体は動ける。三日間の訓練で、何かが変わった感覚がある。しかし、それが実戦でどこまで通じるかは、まだわからない。
「悠斗」
ルーナが、隣のベッドから声をかけた。
「起きてる?」
「起きてる」
「私も」
「眠れそうか」
「……眠れない」
「そうか」
「悠斗は」
「眠れない」
少しの間、沈黙があった。
宿の外で、風が鳴いている。北の風だ。乾いて冷たい。
ルーナが、静かに言った。
「悠斗」
「うん」
「……三日間で、変われた?」
悠斗は少し考えた。
「変われた気がする。ちゃんとしたことは、戦ってみないとわからないけど」
「そう」
「お前が空間を作ってくれたから、変われた。それは確かだ」
「……当たり前のことだから」
「当たり前じゃない」
「……」
「ルーナが限界まで維持してくれたから、変われた。それだけだ」
ルーナはしばらく沈黙した。
「……今夜、全部うまくいったら」
「うまくいったら?」
「また、雪の上に並んで座りたい」
悠斗は少し笑った。
「そうしよう」
「約束よ」
「約束だ」
二人は静かになった。
宿の外で、北の風が鳴り続けていた。
——そして、深夜。
夜明けの二時間前。
「……悠斗」
ルーナが起き上がった。
部屋の空気が、変わっていた。
眠れずに横になっていた悠斗も、その瞬間に感じた。
「感じるか」
「うん……」
ルーナは窓の外を見た。
黒い月が、今夜は不思議なほど大きく見えた。その光の中に、何かが滲んでいる。黒い月の力が、今この瞬間、突然大きく揺れた。
「魔力を感じる」
ルーナの声が、静かだが切迫していた。
「どこだ」
「東の方向。町の東壁の外から——」
次の瞬間、遠くから音がした。
壁の外で、複数の何かが動く音。重い、大きな足音。一体ではなく、複数。しかし人間の足音ではなかった。
それから——壁を越えるような重い衝撃音。
「入ってきた」
悠斗は飛び起きた。
「私も行く」
「ルーナは——」
「一緒に行く」
ルーナの目には、迷いがなかった。
悠斗は一瞬だけ見て、頷いた。
廊下に出た瞬間、隣の部屋のドアが開いた。
エレナだった。
すでに外套を羽織っている。
「エレナ」
「先に行く」
「腕は」
「動くから問題ない」
セレスティアが後ろから出てきた。
「私も行きます」
「セレスティア、お前は——」
「戦闘はできません。でも、結界を張ることと、治癒はできます。後ろで支えます」
悠斗は一瞬だけ考えた。
「わかった」
二人は宿の外に出た。
町の中に、魔物がいた。
東壁に近い区画。路地の奥から、低い唸り声が複数響いている。
悠斗は空気を読んだ。
「……七、八体か」
「九体」
エレナが静かに言った。
「感じ取り方が速いな」
「十七年で身についた」
悠斗は路地の先を見た。
魔物は、ケルプスよりも大きい。四足歩行で、体表に黒い霧のようなものが纏わりついている。目が赤く光っていた。
ゲートを通して送り込まれた魔物。
「散らばってる」
エレナが確認した。
「二手に分かれているな。東の路地に五体、西の通りに四体」
「俺が東をやる」
「ならば西は俺とセレスティアが当たる」
「エレナ、腕が——」
「右腕は使える」
エレナは既に動いていた。
「セレスティア、ついてこい」
「はい」
「ルーナは悠斗のそばにいろ」
エレナの声が、今まで聞いた中で最も速かった。
西の通り。
エレナが路地の角を曲がった瞬間、四体の魔物が反応した。
赤い目が、人間の気配を察知して向く。
魔物は人間よりも一回り以上大きく、黒い霧を纏った体が月光を受けて不気味に輝いていた。四足歩行の体格から考えると、突進の威力は相当なものだ。
エレナは、右手だけを使うことを自分に言い聞かせた。
左肩は動く。しかし無理には使えない。
右だけで当たれる。
「先頭の一体から」
エレナは声を出さず、頭の中だけで計算した。
速い方から。
四体の中で、最も前にいる一体が、先に動いた。突進してくる。
エレナは横に半歩ずれた。
魔物が通り過ぎた瞬間、右肘を首の後ろに叩き込んだ。
ゴッ。
魔物が地面に転がった。倒れたが、すぐに立ち上がる。黒い霧が纏わりついているため、通常より回復が速い。
「セレスティア」
「はい」
セレスティアが、両手を構えた。
月の力の結界が、魔物を囲むように展開した。淡い光の膜。完全に封じる力はないが、動きを一瞬遅らせることができる。
「今」
エレナは踏み込んだ。
結界で動きが鈍った一体の顎を、右の手刀が打ち上げた。
首の骨が、軋んだ。
魔物が倒れた。今度は立ち上がらなかった。
「残り三体」
次の二体が同時に動いた。
挟み撃ちだ。右からと左から。
エレナは左腕が使えない。両方を同時には対処できない。
「左」
セレスティアが即座に動いた。
結界を左の一体に向けて張り直す。魔物が結界に当たり、一瞬足を止める。
「……ありがとう」
エレナは右の一体だけを見た。
右の一体が飛びかかる。
エレナは受けた。
左腕を庇いながら、右腕で魔物の前脚を掴む。体を捻り、魔物の体重を利用して地面に叩きつける。
ドゴッ。
魔物が地面に打ちつけられた。
その間に、セレスティアの結界で止まっていた左の一体が動き始めた。
「エレナさん」
「見えてる」
エレナは地面の魔物を一瞬押さえたまま、左の一体へ右足で蹴りを放った。
魔物の鼻先に直撃した。
魔物が横に吹き飛んだ。
残り一体。
最後の一体が、セレスティアを狙って動いた。
「——っ」
セレスティアが後退した。魔物の突進が、すぐそこに迫る。
エレナが間に入った。
左腕で受けた。
「がっ——」
左肩に衝撃が走った。
包帯の下で、何かが——しかし、倒れなかった。
左腕だけで、魔物の突進を止めた。
その瞬間の隙に、右の手刀が魔物の首を撃った。
魔物が、沈んだ。
「……終わった」
エレナは左腕を抱えた。
包帯の上から感じる、鈍い痛み。傷が開いたかもしれない。しかし、今は動ける。それで十分だ。
「エレナさん、腕が——」
「後で確認する。悠斗の方は」
セレスティアは東の方向を見た。
遠く、複数の衝撃音が聞こえている。
「……まだ続いています」
「行く」
エレナはすでに動き始めていた。
東の路地。
悠斗は五体の魔物と正面から向き合っていた。
三日間の訓練の成果が——今、本番を迎えた。
最初の一体が突進してくる。
悠斗は踏み込みの方向を読んだ。
エレナの言葉が頭に蘇る。相手の足の置き方で、地形を読む。進む方向を読む。
一体目の右前脚が、右に重心を乗せた。
次の一歩は左からくる。
悠斗は左に半歩ずれた。
魔物が通過した瞬間、踵を背中に叩き込んだ。
重力は戻っている。普段の重力だ。しかし三日間、数十倍の重力の中で体を動かしてきた体は、普通の重力を「軽い」と感じていた。
足が、地面から離れる感覚が違う。
踏み込みが速い。蹴り出しに力が乗る。
「……っ速い」
ルーナが後ろで、思わず声を漏らした。
悠斗が動く速度が、三日前とは違う。
ただ速いのではない。動きに無駄がない。踏み込みの方向が最短。重心の移動が最小。それなのに打撃の重さは、以前の倍以上に感じられた。
二体目が横から来た。
悠斗は地面を蹴らなかった。
体重を右にシフトした。重力に逆らわず、右に流れながら、魔物の首の横に右の肘を叩き込んだ。
魔物が横に吹き飛んだ。
三体目と四体目が同時に来た。
「——ここで試す」
悠斗は、重心を落とした。
三日間で体が覚えたこと。重く動くこと。地面に貼り付いたまま動くこと。
三体目の突進を体の前で受け、そのまま前に踏み込んだ。魔物の体重を利用して、自分の体をぶつける。
ゴォッ。
三体目が後方に吹き飛んだ。
四体目が飛びかかる。上からの飛びかかり。
悠斗は沈み込んだ。
魔物が上を通過した瞬間、両腕で体を掴んで地面に投げつけた。
ドゴォン。
五体目が遠くで止まっていた。この数秒で四体が倒れたことを見て、距離を取っている。
逃げる様子を見せている。
悠斗は追わなかった。
「ルーナ、最後の一体を」
ルーナが右手を前に伸ばした。
月の光を凝縮した小さな玉が走った。
魔物が地面に転がった。
「……終わった」
悠斗は荒い息をついた。
しかし、この三日間と比べると、消耗が少ない。体が、今日の戦いを「重すぎる負荷」とは感じていない。
「悠斗」
ルーナが呼んだ。
「前」
声が低かった。
悠斗は前を向いた。
路地の奥。
影があった。
人の形をした、しかし人ではない影。
一歩踏み出した瞬間、月光が当たった。
この間の魔族だった。
あの夜と同じ眼で、悠斗を見ていた。
「……貴様、三日と別人だな」
ガルドは静かに言った。
低い声。感情が乗っていない。ただ事実を確認するような声だった。
「分かるのか?」
「少しだけ」
「我が名はガルド、貴様の名前は?」
魔族は静かに問いかけてきた。
「俺は悠斗だ。魔物を送り込んだのは、陽動か」
「時間を使わせるためだ」
悠斗は拳を握った。
「町の人間に手を出したのか」
「まだだ」
「まだ、ということは」
「お前次第だ」
ガルドは一歩踏み出した。
三日前と同じように。しかし今夜は、その一歩の重さが違う気がした。三日前は「試している」雰囲気だった。今夜は——本気で来ている。
「三日前、お前は私を退けた。今夜は、そうはいかない」
「やってみなければわからない」
「……いい目だ」
ガルドはそれだけ言った。
そして動いた。
三日前とは別の速さだった。陽動の魔物相手に温存していたものを、一気に解放している。
悠斗の視界がスローモーションに入る。
一歩目——左から。
三日前とは違う出足だ。
しかし悠斗は、エレナの言葉を思い出した。
相手の足の置き方を読め。
ガルドの右前脚が、わずかに外側に開いている。
次の踏み込みは——右から入ってくる。
悠斗は左に重心を移した。
ガルドの右腕が、悠斗の右を薙いだ。
かわせた。
「——!」
ガルドの眼に、三日前にはなかった何かが生まれた。
悠斗は即座に踏み込んだ。
重心を下げて、地面に貼り付くように前に出る。
ガルドの脇腹に、右の拳が入った。
ドゴッ。
ガルドが、半歩横にずれた。
三日前、同じ打撃でほとんど動かなかった相手が、半歩動いた。
「……変わっている」
ガルドは静かに言った。
「三日でそこまで変わる人間は、見たことがない」
「お前の試練のおかげだ」
「……そうかもしれない」
ガルドは姿勢を立て直した。
そして、今度は本当に来た。
フェイントなし。陽動なし。ただの、全力の打撃。
悠斗は避けた。
しかし、完全にはかわせなかった。
腕の側面が、ガルドの拳の軌跡を掠めた。
地面が揺れるような衝撃が、腕を伝ってきた。
「——くっ」
腕が痺れた。でも折れていない。
距離を取る。
ガルドは追わなかった。
「悠斗、気をつけて」
後ろでルーナの声がした。
「わかってる」
悠斗は体を確かめた。
三日前と比べると、ダメージの深さが違う。同じ打撃でも、防げる量が増えている。体の密度が変わっているような感覚がある。
しかし——ガルドも、三日前より本気の出力で来ている。
拮抗だった。
かわしては打ち込む。踏み込んでは距離を取る。どちらも、相手を倒す一撃を与えられていない。
十分が過ぎた。
消耗が蓄積してきた。悠斗の呼吸が、荒くなってくる。
ガルドは、それを見ていた。
「……やはり、まだ足りない」
ガルドは言った。
「今夜で終わらせる」
ガルドが踏み込んだ瞬間、その背後から別の気配が動いた。
エレナだった。
西の魔物を処理してきたエレナが、音もなくガルドの背後に回り込んでいた。
右拳が、ガルドの背中に叩き込まれた。
「ドゥン」
ガルドが前のめりになった。
悠斗はその瞬間を逃さなかった。
踏み込んで、顎の下を突き上げた。
ガルドの頭が、後ろに揺れた。
「……やる」
ガルドは体勢を立て直した。
今度は、エレナと悠斗の両方を見た。
「二人いても、同じことだ」
ガルドは低く言った。
「三日前の続きをする」
ガルドが動いた瞬間——エレナが前に出た。
右拳が、ガルドの腹に入る。
ガルドは腹を使ってエレナの拳を受けた。そのまま右腕でエレナを払いのけた。
「——っ」
エレナが横に吹き飛んだ。
「エレナ!」
「問題——ない」
エレナは地面に手をついて立ち上がった。左腕から、包帯の上を血が滲んでいた。
悠斗はガルドを正面から受け止めた。
ガルドの拳をガードしながら、その重さを体で押し返す。
重い。
三日前より、ガルドの打撃の重さが増している気がした。本気だ。一撃一撃に、ヴァルクの地面が震えるほどの力が乗っている。
「——くっ、くそっ」
押されている。
ルーナが月の光を放った。
ガルドの背中に当たった。
しかし、ガルドは止まらなかった。
一瞬だけ体が揺れて、そのまま悠斗を押し込んでくる。
「がっ——!」
悠斗が吹き飛んだ。
三日前と同じように。
しかし今夜は——立ち上がる速度が、全然違った。
「……まだだ」
悠斗は立ち上がった。
血が口の中に滲んでいた。
ガルドは悠斗を見た。
「……しぶとい」
「知ってるか、俺の世界の言葉で」
悠斗は言った。
「七転び八起き、って言う」
「何だ、それは」
「七回倒れても、八回立てばいい、という意味だ」
「……」
「まだ立てる。それだけだ」
ガルドは悠斗を見た。
その眼の中に、三日前の「試している」という感情は、もうなかった。
代わりに——何か、別のものがあった。
ガルドは踏み込んだ。
本当の全力で来た。
悠斗は受けに入った——その瞬間、ガルドの腕がフェイントで変わり、下からの蹴りが悠斗の腹に入った。
「ぐっ——!!」
吹き飛んだ。
今度は遠かった。地面を二度転がった。
立ち上がろうとした。
脚に力が入りにくい。
「悠斗!」
ルーナの声がした。
「——平気だ」
しかし体が、まだ言うことを聞かない。
ガルドが歩いてきた。
急がない足取り。
「終わりにする」
ガルドは静かに言った。
「……」
エレナがガルドの前に出た。
「どけ」
「どかない」
「腕が使えないだろう」
「右腕はある」
「足りない」
エレナは、それでも動かなかった。
ガルドは少し間を置いた。
「……あなたは、止まれないのか」
「止まれない。理由がある」
「何が理由だ」
「あいつが、後ろにいるから」
それだけだった。
ガルドはエレナを見た。
「——退く理由がない」
ガルドの腕が上がった。
エレナはガードに入った。
しかし——その瞬間。
地面を震わせる音がした。
速い。
信じられないほど速い踏み込みの音が、路地の奥から響いた。
悠斗が、来ていた。
立ち上がっていた。
体の左半分を庇いながら、しかし目に光を取り戻して。
「ガルド」
悠斗は、ガルドとエレナの間に立った。
「俺の仲間に触るな」
ガルドは、悠斗を見た。
三日前と変わっていた。
いや、今夜の戦闘の中でも、変わっていた。さっき吹き飛ばしたはずの相手が、もう立っている。目の光が消えていない。
「……」
「今夜は終わりにしよう」
悠斗は言った。
「お互いに」
「それを決めるのは——」
「俺とお前でいい」
悠斗は拳を握った。
「この先何があっても、お前たちとまた当たることになる。その時まで取っておこう」
「お前が、今この状態でそれを言えるのか」
「言える。理由がある」
「——何だ」
悠斗は、ガルドの眼を見た。
琥珀色の眼が、こちらを見ていた。
「三日前、お前は俺を試した。今夜も、最初は確認していた。お前は俺の力がどこまで伸びたか、知りたかったんだろう」
「……」
「答えは見えたか」
しばらく、静寂があった。
冬の夜の空気が、二人の間に凍りついている。
ガルドは、少しの間、悠斗を見ていた。
「……見えた」
それだけ言った。
「では」
「この町に、今夜これ以上は手を出さない。ただし——」
ガルドは静かに続けた。
「次に会う時は、今夜と同じではない」
「知ってる」
「それでも来るか、北に」
「来る」
ガルドは悠斗を見た。
最後にもう一度だけ、その眼が何かを確認するように動いた。
そして。
踵を返した。
路地の奥へ。暗闇の中へ。
音もなく、消えた。
静寂が残った。
遠くで、衛兵が壁の上を走っている音がした。
ルーナが駆け寄ってきた。
「悠斗、大丈夫?」
「大丈夫だ。エレナは」
「腕が……」
エレナは左腕を見ていた。
包帯の上から、じわりと染みている。
「セレスティアに処置してもらえ。すぐに」
「……わかった」
エレナは初めて、素直にそれを聞いた。
「エレナ」
悠斗は言った。
「ありがとう。助かった」
エレナは少し間を置いた。
「七転び八起きとか言いながら、また倒れていたな」
「……七転びしていたんだ」
「八回目だったな」
「そうだ」
エレナはそっぽを向いた。
「次は七回で止めろ」
悠斗は苦笑した。
ルーナが悠斗の腕を掴んだ。
「体を確認させて」
「大丈夫だ、本当に」
「見るまで信じない」
「……わかった」
セレスティアがエレナのそばに来た。
「エレナさん、傷を見せてください」
「急がなくていい」
「急ぎます」
「……わかった」
グレムが、宿の前に立っていた。
炉の火を背に、腕を組んで。
町の中から魔物が消えていることを確認しながら、静かに一行を見ていた。
「……終わったか」
「終わりました。今夜は」
「誰か死んだか」
「誰も」
グレムは、深い皺の刻まれた顔を動かした。
「……中に入れ。温かいものを用意する」
「ありがとうございます」
「礼は要らん。お前さんたちが来てくれたから、今夜この町は終わらなかった。それだけだ」
悠斗は頷いた。
空を見上げた。
黒い月が、さっきより少し小さく見えた。
白い月が、雲の向こうから、静かに顔を出し始めていた。
まだ夜は明けていない。
でも、朝は来る。
「行こう」
悠斗は、ルーナの手を取った。
「うん」
ルーナは、その手を握り返した。
一行は、宿の中へ入った。
北の夜は、まだ続いている。
しかし、炉の火は消えていなかった。
腕が使えない状態で戦ったことを、無謀だと思う人間はいるだろう。俺もそう思う。セレスティアにも怒られた。
ただ、あの場面で動かない理由が、私にはなかった。
それだけだ。
悠斗は七回倒れたが立ち上がった。それを見て、何も感じないほど、俺は出来ていない。十七年、この世界で生きてきたが、そういうことは変わらなかった。
セレスティアのことも少し書いておく。あいつはよく見ている。俺が答えを探しているのに気づいた。それは正直、驚いた。
信仰で支えられてきた者と、体だけで支えられてきた者は、どこかで違う。しかし、あいつと話していると、そこまで遠くない気もしてくる。
また次の話で会おう。
—— エレナ




