第29話 「時の庭と影の拳」
翌朝、ヴァルクに雪が降った。
夜が明けきる前から、空は鉛色に変わっていた。窓の外に白い粒が舞い始め、やがてそれは本降りになった。石造りの町並みに雪が積もり、昨夜の戦闘の痕跡を静かに覆っていく。
悠斗は早くから目が覚めていた。
眠りは浅かった。体の節々が痛む。腹に食らった蹴りの衝撃は、一晩経っても完全には抜けていなかった。
それでも、悠斗は起き上がった。
窓際に座って、雪を見た。
白い月は雲の向こうに隠れていたが、黒い月だけが朝空に薄く残っている。こういう朝に黒い月が見えるのは、珍しかった。
「起きてたの」
ルーナが声をかけてきたのは、少し経ってからだった。
「ああ」
「体は?」
「まあまあだ。動ける」
「無理しないで」
「してない」
悠斗はルーナを振り返った。
銀色の髪が、寝起きのままで少し乱れている。それでもルーナは真剣な顔をしていた。昨夜「翌朝、ちゃんと話す」と言った時の目と、同じ目をしていた。
「話してくれるか」
「うん」
ルーナはベッドの端に座り直した。
毛布を膝に引き寄せながら、少し間を置いた。何かを頭の中で整理しているような、そういう沈黙だった。
「昨夜、魔族と戦った感触はどうだった」
「思ったより強かった。速さは同等か少し向こうが上。力は明らかに向こうが強い。そして賢い。こっちの動きを読んで、対処してくる。単純な力押しが通じない相手だ」
「そう」
「二人がかりで撤退させただけだった。エレナが傷ついた。もし相手が二体、三体いたら……今の俺たちじゃ、どうなっていたかわからない」
ルーナは頷いた。
「あなたの正直なところ好きよ」
「誤魔化しても意味がないからな」
「それが、あなたのいいところね」
ルーナは少し目を伏せた。
「悠斗、一つ聞く。もし今より、ずっと強くなれるとしたら……どんな代償があっても、望む?」
「その代償の内容による」
悠斗はまっすぐ答えた。
「俺自身が傷つくなら、受け入れる。でも、他の誰かが傷つくなら、それは嫌だ」
「……」
「ルーナに何かが起きるなら、それも嫌だ」
ルーナは少しの間、黙っていた。
「私には、力がある。今はまだ不完全で、制御も難しい。でも、一つだけ確かにできることがある」
「何だ」
「空間を作ること」
悠斗は少し前のめりになった。
「空間?」
「月の女神の力の一つに、『時の庭』という能力がある。本来なら意識しなくても使える力だったけど、今の私には相当の集中が要る」
「『時の庭』……どういうものだ」
ルーナは少し考えてから、言葉を選びながら話し始めた。
「外の世界とは切り離された、小さな閉じた空間を作る力。その空間の中では、私が条件を設定できる。重力を変えることも。時間の流れを変えることも」
「……時間の流れを変える」
「そう。外で一時間が経つ間に、空間の中では六時間~八時間に相当する時間が流れる。外から見れば、少しの間しか経っていないのに、中にいる人間は何倍もの時間、訓練できる」
悠斗の頭が、その言葉を処理した。
「待ってくれ」
「うん」
「それ……」
悠斗は口を開いた。
「某アニメの修行みたいだな」
ルーナは少し首を傾けた。
「某アニメ?」
「俺の知ってる話だと、外で一日の間に、中では一年分の時間を修行に使える場所がある。それに似てる」
「……そっちの世界にも、そういう発想があったのね」
「昔から夢のある話だった。まさか本当にそういうものが世界に存在するとは思わなかったけど」
ルーナは少し口元を動かした。笑いとも、苦笑ともとれる表情だった。
「あなたは、こういう時でも頭の中に日本のものが出てくるのね」
「癖みたいなものだ。それより、続きを聞かせてくれ」
「重力のことも話す。空間の中の重力を、外の何倍にもできる。五倍でも、十倍でも。重力が強くなれば、動くために必要な筋力が増す。同じ動きをするのに、何倍もの負荷がかかる。それを繰り返せば……」
「体が、今より圧倒的に鍛えられる」
「理論上は、そう」
ルーナの声が、少しだけ低くなった。
「ただ……私への負担が大きい」
「どのくらいだ」
ルーナは窓の外を見た。雪が積もっていく景色を、しばらく眺めてから、答えた。
「空間を作って維持する間、私は動けなくなる。全ての集中を空間の維持に使う。何か一つでも意識が乱れれば、空間が崩れる。そうなれば、中にいる人間は外に弾き出される」
「それは……」
「一度崩れれば、再び作り直すのに時間がかかる。力の回復も必要。だから、一回の使用時間には限界がある。何時間も、ずっと維持し続けることはできない」
「どのくらい維持できる」
「今の私の状態では……外の時間で、おそらく二、三時間が限界。それ以上は、倒れるかもしれない」
「倒れる?」
「意識を失う程度で、危険ではない。でも……空間内はわからない」
悠斗は黙った。
ルーナが維持している間、ルーナは動けない。全力で集中している。そして、限界を超えれば倒れる。
「それを、やるつもりか」
「やる」
ルーナの声は、迷いがなかった。
「昨夜のあなたの顔を見た。あなたが自分の力の限界を感じて、それでも前を向いていた。私は、あなたを強くしたい。あなたが守りたいものを、一緒に守れるように」
「……」
「それに、これは私自身の問題でもある。私の記憶を取り戻すために北に行く。その先に何があるか、まだわからない。でも魔族よりも強い何かが待っているとしたら……今の私たちでは、足りない。わかってる」
「ルーナ」
「悠斗が強くなることが、私が前に進む力になる。だから……いい?」
悠斗は少しの間、ルーナを見た。
黒い月の薄い光が、ルーナの横顔をわずかに照らしている。
「……わかった」
悠斗は頷いた。
「でも一つだけ条件がある」
「何?」
「限界だと思ったら、すぐに止めてくれ。無理をするな。俺の訓練より、ルーナの体の方が大事だ」
ルーナは少し目を細めた。
「……わかった」
「約束しろ」
「約束する」
「よし」
悠斗は立ち上がった。
「じゃあ、今日から始めよう」
「その前に……もう一つ、話しておくことがある」
「何だ」
ルーナは少し間を置いた。
「空間の中では、あなたは一人で訓練することになる。ただ体を動かすだけでは、力の使い方は覚えられない。戦闘の感覚が必要だ」
「相手がいない場所でどうする」
「空間を作る時に、あなたの動きを写した『影』を作る。あなたが今持っている、最大の力と反応速度を持った鏡像みたいなもの。あなたが戦えば戦うほど、影もその動きを学習していく。成長するあなたに合わせて、影も変化する」
悠斗は少し目を細めた。
「自分と戦うのか」
「最も正確な相手は、自分自身だから」
「……なるほど」
「最初は絶対に勝てない。それは言っておく」
「それは覚悟してる」
「本当に?」
ルーナはわずかに首を傾けた。
「あなたが一方的に負ける姿を、私も見ることになるけど」
「それが訓練だ。最初から勝てるなら、意味がない」
「……そう言えるなら、大丈夫ね」
ルーナは毛布を払って立ち上がった。
「じゃあ、エレナとセレスティアに話してから、始めましょう」
宿の一室で、エレナは上半身を起こして座っていた。
左肩に、セレスティアが施した包帯が厚く巻かれている。皮膚の色は顔色に比べてわずかに青ざめているが、目は完全に覚めていた。
「聞こえてた」
悠斗が部屋に入った瞬間、エレナは言った。
「……壁、薄いか」
「声が聞こえた。全部ではないが」
「どう思う」
「危険を取るな。ルーナに無理をさせるな、と言いたいところだが……お前たちが決めることだ。私が口を挟むことではない」
エレナは短く言った。
しかし続けた。
「ただ……訓練をするなら、急ぎすぎるな。体が変化する時、怪我をしやすい。重力が変わる空間で動けば、関節や筋肉にも普段と違う負荷がかかる。痛みを感じたら、すぐに止まれ」
「わかった」
「私も、この怪我が治ったら……できることがあれば手伝う」
「お前は今は安静にしてくれ」
「わかってる」
エレナは視線を窓に向けた。雪が積もっていく外の景色を見ながら、少し低い声で言った。
「……悔しい」
それだけだった。
多くを語らない人間が、それだけ言った。
悠斗は何も言わなかった。
「頑張れ」
エレナは前を向いたまま言った。
「……ああ」
場所は宿の裏手の空き地にした。
石壁に囲まれた、人目の少ない場所だ。雪が積もっており、足元はふかふかと柔らかい。ウルリックに頼んで、しばらく宿で待ってもらうことにした。
ルーナが空き地の中央に立った。
目を閉じた。
雪が、止んだ気がした。
実際には降り続けている。しかし悠斗には、ルーナが集中を高めた瞬間、周囲の空気が変わったように感じた。
ルーナの銀色の髪が、わずかに揺れた。風があるわけではない。ルーナの体の内側から、何かが漏れ出ているような揺れだ。
「……始める」
ルーナの声が、普段より少し低かった。
悠斗の視界の前に、何かが生じ始めた。
最初は、空気の揺れだ。陽炎のような、熱気のような。しかし温度はない。むしろ、その揺れの内側は、別の何かだった。
揺れが、輪郭を持ち始めた。
縦に長い、人が一人入れるほどの大きさの裂け目。その内側に、別の空間が見えた。深い灰色の空間。地面があり、天井があり、壁があるわけではないが、確かに「そこ」が存在している。
「入って」
ルーナが言った。
「入れば、感じる」
悠斗は一歩踏み込んだ。
瞬間。
「……っ」
重い。
体が、重い。
足を上げようとして、その重さに驚いた。普段の動きが、どれほど体に「軽さ」を前提としていたかを、一瞬で理解した。
膝を曲げようとするだけで、ふくらはぎと大腿の筋肉が悲鳴を上げる。腕を上げると、肩が軋んだ。
「……これは」
「これでもまだ絞ってる。外の十倍の重力」
ルーナが扉の向こうから声をかけた。
入口の裂け目の外に、ルーナが立っている。目は閉じたまま。眉間に、集中の皺が寄っている。
「普通に歩ける?」
「歩ける……けど、重いな。元のサイズなら動けてもいないかもな」
「そのまま、もっと動いてみて」
悠斗は歩き始めた。
普通に歩いているはずなのに、一歩一歩が重い。体の重心を保つだけで、すでに力を使っている。走ろうとすると、足が思うように上がらない。蹴り出す力が、いつもより遥かに大きく要った。
「これが訓練の場か」
「そう。慣れてきたら重力を上げる。でも、今日はまず、影と向き合って」
「影は、どこにある」
「あなたの正面」
悠斗は前を向いた。
灰色の空間の、少し先。
何かが、立っていた。
形は、人間だ。
輪郭が悠斗と同じ。背格好も同じ。しかし色がない。全身が黒い影のように、輪郭だけがそこに存在している。
目も、口も、表情もない。
しかし、圧力があった。
「……俺、か」
「あなたの現在の限界を写した影。あなたが持つ最大の速さ、力、反応の全てを持っている」
影が、動いた。
悠斗は瞬間的に重力の中で反応しようとしたが、遅かった。
影の拳が、悠斗の腹に入った。
「ぐっ……!」
吹き飛んだ。重力が高いため、空中に舞い上がることなく、そのまま地面に叩きつけられた。
「……速い」
影は、待っていた。
悠斗が立ち上がるのを、ただ見ていた。
「もう一度だ」
悠斗は歯を食いしばって立ち上がった。
重力が十倍の中で、一度の打撃でここまで叩きつけられる。そして影は、まだ余力を持っているように見えた。
「行くぞ」
悠斗は重力の中で地面を蹴った。
思ったより踏み込みが深くなった。重いため、加速に時間がかかる。通常より遅い踏み込みで間合いを詰めようとすると、影はすでに側面に回っていた。
横から一撃。
また吹き飛んだ。
宿の一階で、宿の主人グレムはカウンターを拭きながら、二階の方向を時々見上げた。
昨夜から宿に泊まっている旅人たち。
一人は傷ついて二階に寝ている。一人は治癒師で、その傍にいる。案内人のウルリックは一人で朝食を食べている。
そして残りの二人は、朝早くに裏手の空き地に出て行ったきり、まだ戻ってこない。
「何をしてるんだ、あいつらは」
グレムは独り言を言いながら、炉の薪を足した。
宿は温かい。外は雪だが、石の壁と炉のおかげで、内部は十分すぎるほどの熱がある。
ウルリックが、お茶を飲み終えてカップを置いた。
「あの二人は、お主が思っているより、ずっとやっかいな存在だ」
「知ってる。昨夜見た」
グレムは短く言った。
「六頭のケルプスを三十秒で倒すと聞いていたが」
「昨夜の方が、もっとやっかいだったがな」
ウルリックは窓の外を見た。
雪が積もり続けている。
「魔族と戦った、か」
「ああ」
「……この町の者は、誰も外に出なかった」
「そうだな」
「あの娘が傷ついた。それは痛い」
グレムはため息をついた。
「私は三十年、この宿を続けてきた。ヴァルクが怖いところになったのは、去年の秋からだ。それまではいい町だった。北方との交易で人が動いていた。子供たちが外で遊んでいた。今は……」
グレムは言葉を切った。
壁の向こうで、空き地の方向から、何かが叩きつけられるような重い音がした。
「……何をしてるんだ?」
「修行だろう」
ウルリックが静かに言った。
「修行?」
「あの少年は、昨夜で自分の限界を知った。それで、今日の朝一番から修行に入った。そういう人間なんだ」
「信じられん。体が傷んでいるだろうに」
「それが彼の、やり方なんだろう」
グレムはカウンターに肘をついた。
「……あんたも、北方を長く案内してきた。今の状況は、どう見る」
ウルリックは少し間を置いた。
「悪い」
「正直に言ってくれ」
「正直に言った。あれが一体ならまだいい。しかし複数いたなら、ヴァルクは保たない。石の壁があっても、あの速さで動く存在が数体で本気を出したら、壁は意味をなさない」
「……」
「帝都に援軍を求めるべきだ。今すぐ」
「イザベラ様には届けてある」
グレムは低く言った。
「前の調査隊が戻らないことも。先日の目撃情報も。しかし援軍が来るまでには時間がかかる。その間に、また何かがあったら……」
「だから、あの少年が動いている」
ウルリックは静かに言った。
「あの二人が来てくれた時、私は正直、期待はしていなかった。旅人の若者と、寡黙な女が来たとしても、どうなるものか、と」
「今は?」
ウルリックは少し考えた。
「わからない。でも……昨夜、あの少年が壁の上に跳んだ瞬間を見た。あれは、この世界の物理の話ではない。別の何かだ」
グレムは少し眉を動かした。
「別の何か、というのは」
「この世界の外から来た存在、ということだ」
グレムはしばらく黙った。
それからカウンターを拭き始めた。
「……宿代は先払いだったが」
「ああ」
「長くいてもらった方が、この町のためになるかもしれない、と思い始めている」
「そう思うなら、飯を美味く作ることだ」
「昨夜のシチューは美味かっただろう」
「ああ、美味かった」
「なら、文句なかろう」
グレムは鍋を火にかけ始めた。
悠斗が一方的に叩きのめされる時間は、続いた。
重力十倍の空間の中で、影は容赦しなかった。
速度は同等だ。しかし重力の影響を受けているのは悠斗だけで、影は重力の負荷をものともせずに動いた。いや、影は最初から悠斗の動きを前提に作られているため、この空間の中での最適な動き方を、最初から知っていた。
悠斗は違う。
慣れていない。
「く……」
拳を避けようとして、体が重さで遅れた。腕をガードに使おうとすると、腕を上げるだけで一拍かかる。その一拍が、致命的な遅れになる。
十回目の打撃を受けた時、悠斗は初めて立ち上がるのに少し時間がかかった。
影は待っている。
その立ち姿が、鏡を見ているようだった。自分と同じ体格。自分と同じ動き方。しかし、なぜこれほど違うのか。
「……俺が、重力に慣れていないだけだ」
悠斗は呟いた。
影は動き方を知っている。俺は知らない。それだけの差だ。
ならば。
「覚えるしかない」
悠斗は再び地面を蹴った。
今度は加速を急がなかった。重力の中で、一歩一歩の踏み込みを確かめる。体の重心がどこにあるかを、足の裏で感じる。普段より低い重心が、地面に近い力を使えることを、少しずつ体が理解し始めた。
影が動いた。
悠斗は今度は受けた。
腕でガードする。
衝撃が来た。重い。しかし、弾き飛ばされなかった。
「……少し、わかった」
重力が高いということは、地面との繋がりが強いということだ。踏ん張りが利く。受けの時には、逆に有利に働く。
問題は、攻める時だ。加速が遅い。
しかし、その分を位置取りで補うことができる。相手の動きを先に読んで、移動を最短にする。
昨夜の戦闘で、魔族はそれをやっていた。
悠斗は、動きながら考えた。
影と打ち合い、弾き飛ばされながら、一つずつ観察した。
影の一歩目はどちらの足から踏み出すか。拳を引く前に、どこに重心が移るか。攻撃の後、どこに隙が生まれるか。
それを、体に刻んでいった。
入口の裂け目の向こうで、ルーナが座り込んでいた。
立ったままでいることが難しくなっていた。空間を維持するために全力を使っており、体の末端から冷えていく感覚があった。指先が、少しずつ感覚を失っていく。
しかし、目は閉じたまま。集中を切らさない。
外の時間でどのくらい経ったか、ルーナには正確にはわからなかった。主観的には、ずっと長い時間が経っている気がした。しかし外はまだ同じ雪の景色だ。
「……まだいける」
ルーナは小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
自分に言い聞かせるように。
町の外。
北の山の岩影の中。
三つの影が、息を潜めていた。
昼間の光の中でも、彼らは岩陰に溶け込んでいた。大きな体格。灰色の皮膚。人の形をしているが、明らかに人間ではない、魔族だ。
その中の一体が、深く低い声で言った。
「昨夜は、失敗した」
声の主は、三体の中でも特に体格が大きかった。高さは普通の人間の頭半分以上。肩幅が広く、腕が長い。首には古い傷の痕がいくつか刻まれており、その一つ一つが、長年の戦いの記録だった。
「ガルド」
別の一体が答えた。
こちらは少し細身で、女の声だった。纏った衣は黒く、指先が細長い。眼窩の深い顔に、緑色の目が光っている。
「ヴァラの術が失敗した理由は、お前もわかっているはずだ」
「人間が干渉した」
声の大きな体、ガルドが言った。彼のことを仲間は「試練の牙・ガルド」と呼ぶ。かつて自族の試練をただ一人通過し、百を超える戦いを生き延びてきた、戦闘の権威だった。
「ゲートを展開しようとした瞬間に、反応された。あの人間は、術の気配を感じ取った」
女の声、ヴァラが言った。
「呪縛の指・ヴァラ」と呼ばれる彼女は、魔族の中でも異質の存在だった。戦闘ではなく、術式と封印を専門とする。昨夜のゲートを展開しようとしていたのも彼女だ。
「感じ取れるはずがない」
ガルドは言った。
「人間に、あの術の気配を察知できる感覚は、本来ない。しかし……あの娘は違った。この世界の人間ではない。体の作りが、根本的に別だ」
「試した感触は」
「思ったより、強かった」
ガルドは率直に言った。
「あの少年は、相当な速さを持っている。力も、人間の限界を超えている。フェイントにも、ある程度は対応できた。そして、戦いながら学習していた」
「問題か」
三体目が口を開いた。
これまで黙って岩に背を預けていた存在が、ゆっくりと動いた。
三体の中で最も年嵩の、がっしりとした体格の男だった。白い毛が交じった短い髪と、深い皺の刻まれた顔。しかし動きに無駄がなく、その体には衰えが見えない。
「沈黙の長・ドラグ」とかつては呼ばれた。今は族の長老だ。
「問題ではない、とガルドは言うつもりだろう」
ドラグは静かに言った。
「ああ」
ガルドは頷いた。
「確かに昨夜は撤退した。あの二人がかりで来られた時、消耗を嫌った。しかし、倒せなかったわけではない。あの娘が傷ついた。消耗はこちらより、向こうの方が大きかった」
「では、次は何をする」
「ゲートの再展開だ。ヴァラが干渉を受けない条件で実行できれば、問題ない」
ヴァラは細い指先で石の表面を撫でながら言った。
「昨夜の失敗は、位置と時間が問題だった。あの人間が感じ取れたのは、北壁に近すぎる位置で展開を始めたからだ。気配が壁を通り抜けた。次は、もっと遠くから。そして、あの人間の感覚が届かない時間帯を選ぶ」
「あの人間は、夜目が効く」
「それは知っている」
「ならば——」
「深夜ではなく、夜明け前の最も意識が鈍る時間を使う。術の展開速度も、今回より短縮する。準備に三日、必要だ」
「三日」
ドラグが繰り返した。
「この町に今、何人いると思う」
「多くない。百五十から二百の間だろう」
「退去した者が多いな」
「ゲートを通して、魔物を十体、直接町の中に送り込む。そうすれば、この町は終わる。我々が手を下す必要もない」
「ガルドよ」
ドラグが言った。
「あの少年は、問題にならないか。真剣に答えろ」
ガルドは少し間を置いた。
岩の上に手をついて、昨夜の戦闘を頭の中で繰り返す。
あの速さ。あの力。そして戦いながら、こちらの動きを分析していた目。
「今の状態であれば、問題ない」
ガルドは答えた。
「私一対一なら、時間をかければ倒せる。あの娘が加わったとしても、最終的には我々の方が上だ。ただ……」
「ただ?」
「あの少年が今後、どれだけ強くなるかによっては、話が変わる」
「成長するとしたら、どれくらいの時間がかかる」
「人間の成長速度は遅い。しかし、あの体の作りが通常の人間とは違うなら……わからない」
ドラグは静かに頷いた。
「三日で準備を整えろ。人間の成長より、こちらの行動を先にする」
「わかった」
「もう一つ」
ドラグは空を見上げた。
雪が止んでいた。雲の切れ間から、黒い月が見える。
「この地を我々の領域とする理由は、お前たちも覚えているな」
「覚えている」
ガルドとヴァラは同時に答えた。
「この地の下に、古い封印がある。かつて我々の祖が封じられた場所。月のバランスが崩れた今こそ、その封印を解く機会が来ている。この町を抑えれば、封印の地に自由に近づける」
「祖を目覚めさせることが、目的か」
「それだけではない」
ドラグは低く言った。
「黒い月の力が増している。白い月の女神は、まだ力を取り戻していない。この世界のバランスが崩れ続ければ、我々の祖の封印は、いずれ自然に解ける。しかしそれを待つより、人間の手で解かせる方が早い」
ヴァラが細い目を動かした。
「人間の手で、とは」
「この地に近づいてくる者がいれば、利用できる。あるいは、排除できる。どちらでもいい」
ドラグはゆっくりと立ち上がった。
「三日後、ヴァラの術が成功すれば、この町は終わる。その後は封印の地へ向かう」
「ガルド」
「なんだ」
「あの少年に関しては、三日で答えが出る。問題にならないと言ったなら、その言葉に責任を持て」
「ああ」
「それだけだ」
三体の影は、静かに岩の奥へと消えていった。
雪に刻まれた足跡も、やがて次の降雪に埋もれていった。
外の時間で二時間が経った頃、ルーナは限界を感じた。
指先だけでなく、手の甲から腕にかけて、感覚が薄くなっていた。集中を維持するための意識が、少しずつ揺らいでいる。
「……そろそろ」
ルーナは呟いた。
「悠斗」
入口の裂け目に向かって呼びかけた。
空間の中で、音がした。
何かが地面を蹴る音。打撃の音。それが止まった。
「聞こえてる」
悠斗の声が聞こえた。
「今、どんな感じ?」
「……叩きのめされてる。でも、少しずつわかってきた」
「今日はここまで。出てきて」
裂け目から、悠斗が出てきた。
顔に汗が光っていた。息が少し荒い。服の所々に土が付いている。打撃を受けるたびに転がった跡だ。
しかし、その目は昨夜より強い光を持っていた。
「ルーナ、大丈夫か」
「大丈夫」
ルーナは空間を閉じた。
裂け目が、静かに消えた。
ルーナは座り込んだ。膝が、思ったより不安定だった。
「おい」
悠斗が素早く傍に来た。
「無理してない?」
「無理してない。ただ、少し……足に来た」
「かなり来てる顔してるぞ」
「……少しだけ休めば治るわ」
「休もう、俺も限界だ」
悠斗はルーナの横に座った。雪の上に直接だが、気にしなかった。
「今日の空間の中、どのくらいの時間が経ってた感覚だった?」
「外で二時間なら……中では十数時間か」
「一方的に叩きのめされた?」
「五回に一回くらいは、かわせるようになった。三回に一回は、ガードが間に合った」
ルーナはそれを聞いて、少し目を細めた。
「それは……かなり速い」
「重力の感覚が、少しわかってきた。最初は純粋に負荷だと思ってたけど、考え方を変えれば、地面との繋がりが強くなるということだから。受けに転じた方が、案外安定する」
「そう……そうね。それを一日で気づいたのね」
「感覚でわかっただけで、まだ使いこなせてない。でも、明日はもっとうまく動ける気がする」
「明日も続ける?」
「エレナが動けるようになるまで、続ける」
ルーナは少し黙った。
「わかった。でも今日はもう終わり。休んで、ご飯を食べて」
「ルーナの体が先だ。今日はちゃんと休んでくれ」
「あなたこそ」
「俺は元気だ」
「顔に土ついてる」
「戦いの証だ」
「拭いて」
悠斗は袖で顔を拭いた。
雪の上に並んで座った二人を、冬の空が静かに見下ろしていた。
「……一つだけ、聞いていいか」
悠斗は空を見上げながら言った。
「何?」
「ルーナは、この空間を維持してる間、俺のことを見えてるか?」
「目は閉じてるけど……感じることはできる。あなたが動いてる気配は伝わってくる」
「そうか」
「それが……今日は、少し、心地よかった」
「心地よかった?」
「あなたが諦めずに動いてるのが、伝わってきたから」
悠斗は少し黙った。
「……そうか」
「倒れるたびに、また立ち上がってた。それが、わかった」
「見えないのに、そんなことまでわかるのか」
「伝わるの。気配として。あなたがどんな状態にあるかが」
悠斗はルーナを見た。
ルーナは空を見上げたまま、少し頬が赤い。雪の冷気のせいか、それとも別の理由かは、わからなかった。
「ありがとう」
悠斗は言った。
「何が」
「空間を作ってくれたこと。限界まで維持してくれたこと」
「当たり前のことだから」
「当たり前じゃない」
「……」
「ルーナがいなければ、俺は今日も同じ悩みを抱えたまま、前に進めなかった」
ルーナは少し視線を動かした。
悠斗の横顔を、横目で見た。
「悠斗は……いつも、ちゃんとお礼を言う」
「それが……なんか、ずるい」
「ずるくないだろ」
「ずるいの」
ルーナは小さく唇を結んだ。
「礼を言われると、頑張りすぎてしまう。もっと手を抜けばよかったのに、って思えなくなる」
「それはずるいのは俺じゃなくて、ルーナの性格の問題だ」
「……わかってる」
二人は、しばらく雪の空き地に並んで座っていた。
宿の煙突から煙が上がっている。中で食事の準備が始まっているのかもしれない。
「戻ろう」
悠斗は立ち上がって、ルーナに手を伸ばした。
ルーナは、その手を取った。
「……うん」
宿の夕食は、グレムが腕を振るった。
熟成させた干し肉と、根菜を長時間煮込んだスープ。硬いパンを炉で焼き直したもの。それに、北部特産の酸味の強い果実を煮て作ったソース。
悠斗は三人前を平らげた。
「……よく食う」
グレムが半ば呆れた顔をした。
「修行した分、腹が減るから」
「朝から何をしてたんだ。裏の空き地で」
「……体を鍛えていました」
「雪の中で?」
「ちょうどいい環境です」
グレムは少し首を傾けた。
「変わった旅人だ」
「よく言われます」
「昨夜、うちの宿でシチューを食って、魔族と戦って、傷ついた仲間を連れ帰って、翌朝には修行を始める。普通の人間のすることじゃない」
「この世界に来てから、普通とは何かが少しよくわからなくなってきています」
グレムは少し笑った。
深い皺が動いた。笑うとこういう顔になるのか、と悠斗は思った。
「ここに泊まっている間、この宿を使え。金は昨日払ってもらったが、食事は俺が出す」
「それは申し訳ない」
「申し訳ないと思うなら、この町のために頑張れ」
「……はい」
グレムは炉の前に椅子を持っていき、どかりと座った。
「お前さんたちが来てくれて、一つよかったことがある」
「何ですか」
「昨夜の朝、町の人間が数人、外の様子を見ていた。魔族が出たこと、それと戦う者がいたこと。見た者がいる」
「……それは」
「良くも悪くも、噂になる。でも、この場合は良い方に働いた。この数ヶ月で、初めて外の何かと戦う者が現れたから。逃げない者が来てくれた、ということが、少しだけ人心を安定させた」
悠斗は少し黙った。
「俺たちは通り過がりの旅人です」
「わかってる」
「この町を守るために来たわけじゃない」
「わかってる」
「でも……今ここにいる間は、できることをします」
グレムは目を細めた。
「それで、十分だ」
ウルリックが静かに言った。
「それで、十分だ。人というのは、誰かが来てくれたことが、希望になる。ずっとここにいてくれなくてもいい。今いてくれることが大事だ」
エレナが、二階から降りてきていた。
左腕を庇いながら、ゆっくりと階段を下りてくる。
「エレナ、安静にしてろって」
悠斗は立ち上がった。
「飯が食いたかった」
エレナはそれだけ言った。
「自分で持てるか」
「利き腕じゃないから問題ない」
グレムがすぐにエレナの分のシチューをよそった。
「座れ。熱いうちに食え」
エレナはテーブルにゆっくり腰を下ろした。
シチューを一口飲んだ。
「……美味い」
「そうだろ」
グレムは誇らしそうに言った。
「このシチューは、三十年前に女房から教わったんだ。材料はたいしたことない。でも、煮込む時間と、香草の入れるタイミングが大事でな」
「女房は」
エレナが短く聞いた。
「十年前に、死んだ。病気でな」
「……そうか」
「でも、この味だけ残った。毎冬、この宿のシチューは売りにしてる。来年も続けるつもりだ」
エレナはもう一口飲んだ。
何も言わなかったが、その表情から何かが少し、溶けた気がした。
グレムはそれを見て、ゆっくりと立ち上がった。
夜の黒い月の光の中。
その存在は、静かに目を開いた。
台座の上の水晶は、変わらず淡い銀色に輝いている。
しかし今夜は、その光の中に、何か別のものを感じた。
「……何だ、これは」
その存在は、眉根を寄せた。
黒い月の力を通じて、世界の輪郭をぼんやりと見る。霞がかった映像。方向性を掴むだけの、不完全な視野。
しかし、確かに感じた。
北の方向で、何かが変わっている。
それはゆっくりとした変化ではなかった。速い。急速に、何かが積み重なっている。
「あの少年……」
その存在は、静かに呟いた。
神崎悠斗。
この世界の外から来た、この世界の常識を超えた体を持つ存在。
数日前に確認した時は、確かに強かった。しかしそれは、この世界の人間と比較した場合の話だった。
しかし今感じるのは、それとは違う。
短い時間の中で、力が積み重なっていく気配がある。まるで、何十倍もの時間の中で鍛えられているかのような。
「……まさか」
その存在は、水晶を見た。
水晶の中の記憶が、わずかに反応した気がした。
「ルーナが……何かをしている」
月の女神の力の中に、時間に干渉する力がある。それを、この存在は知っていた。かつて自分たちが共に持っていた力だ。
あの子の力が、そこまで回復してきているとは。
「……思ったより、早い」
その存在は、立ち上がった。
黒い月の光の中を、ゆっくりと歩いた。水晶から少し離れ、闇の空間の縁に立った。
北の方角を、見た。
目に映るものはない。しかし、感じることはできた。
あの少年が、急速に変わっていく。
今この瞬間も、どこかの時間の中で、何かと戦い、体を変えている。
「……まずい、か」
その存在は、静かに呟いた。
まずい、という感情は、久しぶりだった。
この世界に何かが起きようとも、動じないでいられた。魔族が動いても、黒月教が倒れても、世界のバランスが崩れても、ただ一点、水晶を守ることだけを考えてきた。
しかし今感じるのは、それとは種類の違う何かだ。
あの少年が、このまま力を伸ばし続けた時。
北に向かってきた時。
そして、もしルーナと共に——
「……」
その存在は、目を閉じた。
考えるな、と自分に言い聞かせた。
まだ先の話だ。あの少年がどれほど速く強くなるとしても、ここに到達するまでには時間がかかる。
水晶を守ることだけを考えろ。
力を蓄え続けることだけを考えろ。
しかし。
「……お前は、本当に強くなろうとしている」
その存在は、静かな声で言った。
誰にも届かない。
届けるつもりもなかった。
「あの子のために」
少しの間、沈黙があった。
「……厄介な少年だ」
その存在は、水晶の前に戻った。
淡い銀色の光を、しばらく見た。
焦る必要はない。
時間は、まだある。
しかし——今夜は、それが確かなことだとは、言い切れなかった。
黒い月の光が、静かに降り注いでいた。
その中で、かつて破壊の女神と呼ばれた存在は、一人、長い夜を過ごした。
水晶は、変わらず輝いている。
そして、北の方角の何処かで、今夜もあの少年の気配が、少しずつ、確実に、強くなっていた。
空間を作っている間、私の目には何も見えない。 ただ、伝わってくることがある。 悠斗が転ぶ度に、また立ち上がる気配が。諦めた気配は、一度もなかった。 あれだけ叩きのめされて、それでも立つ。それが伝わってくるのが、正直、少し心地よかった。認めたくないけれど、認める。 空間が閉じた後、雪の上に二人で座っていた時、悠斗はお礼を言った。当たり前のことをしただけだと思ったのに、礼を言われると手を抜けなくなる。本当に、ずるい。 でも。 強くなろうとしているあなたのそばで、私も前に進んでいる。そういう気がしている。 まだ先は長い。でも今夜も、白い月は輝いていた。 それだけで、今は十分だと思う。
――ルーナ




