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模型(1/10)スケールのアポカリプス  作者: 暁の裏


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28/33

第28話 「 足りない夜に」

 帝都を出て、五日が経った。

 

 最初のうちは石畳の街道が続いていた。しかし二日目から道は砂利と凍てついた土に変わり、三日目には木々が急に減り、むき出しの岩肌が道の両脇に目立ち始めた。

 

 空気が、確実に変わっていった。

 

 吸い込むたびに、肺の奥が冷える。

 

「足元に気をつけろ」

 

 先頭を行くウルリックが、振り返らずに言った。

 

「この先、凍結している箇所がある。見た目ではわからない。足を踏み込む前に杖で確かめろ」

 

「杖を持っていない人間はどうすればいいんですか」

 

 セレスティアが丁寧な口調で尋ねた。

 

「前を歩く人間の足跡を踏め。それが最も安全だ」

 

「わかりました」

 

 一行は、ウルリックの足跡を辿るように進んだ。

 

 道は徐々に上り坂になり、周囲の山が近くなってきた。稜線には白い雪が分厚く積もっており、曇り空の下でくすんだ銀色に輝いている。遠くに見える谷の底には、川が流れていた。水面がところどころ、白く凍り始めていた。

 

「寒くなってきたわね……」

 

 ルーナが悠斗の隣に並びながら言った。

 

 白い息が、口の前で消えていく。

 

「防寒具はちゃんと着てるか」

 

「着てるわよ。でも……もう一枚ほしい」

 

「帽子とマフラー、両方使え」

 

「両方つけると顔が見えなくなる」

 

「見えなくていい。凍えるよりましだ」

 

「あなたは寒くないの?」

 

「俺はわりと平気だな」

 

 悠斗は正直に答えた。

 

 代謝が上がっているせいか、確かに寒さへの耐性が高い気がする。その分、腹は尋常ではない速さで減るが。

 

「ずるい」

 

 ルーナはぼそりと言った。

 

「ずるくない。その分、腹が減ってる」

 

「それはそうね」

 

 ルーナは小さくため息をついてから、マフラーを顔まで引き上げた。

 

「……本当に寒い」

 

「帝国の北端はこんなものじゃない」

 

 後ろを歩いていたエレナが、静かに言った。

 

「もっと、か」

 

「ヴァルクを越えれば、吐いた息が着物に凍りつく。そういう場所だ」

 

「経験があるんですか」

 

 セレスティアが聞いた。

 

「一度だけ、冬の北方を通った。情報収集の途中で」

 

「……どうやって」

 

「厚着して、歩き続けた。止まると死ぬから」

 

 エレナはそれだけ言った。

 

 そこに感慨はなく、ただ事実を述べているだけだった。しかし悠斗は、その言葉の裏に、十七年間という重みを感じた。止まったら死ぬ場所を、一人で歩き抜いてきた人間の言葉だ。

 

「お腹、空いてきた」

 

 悠斗は空気を変えるように言った。

 

「……また」

 

 ルーナが呆れた顔をした。

 

「朝食べたのは三時間前よ、あれだけ食べたのに」

 

「三時間で空く。歩いてると特に」

 

「悠斗様の消費量は、本当に規格外ですね」

 

 セレスティアがさらりと言った。

 

「次の休憩は、あの岩場を越えてからだ」

 

 ウルリックが前を向いたまま言った。

 

「二時間かかる。腹が空くなら、歩きながら食え。止まると体が冷える」

 

「そうします」

 

 悠斗は荷物から干し肉を取り出した。固い。かじると塩と煙の味がした。

 

「美味しそう」

 

 ルーナが横から見てきた。

 

「食うか」

 

「……少しだけ」

 

 悠斗は干し肉をちぎってルーナに渡した。

 

 ルーナは一口かじり、顎を動かした。

 

「固いわ」

 

「そういうもんだ」

 

「でも……温まる気がする」

 

「塩が入ってるからな」

 

 二人は固い干し肉を嚙みながら歩き続けた。

 

 道の先、岩の稜線の向こうで空が少し開けている。

 

 ヴァルクは、もうすぐそこだ。

 

「エレナ」

 

 悠斗は少し声を落として言った。

 

「何だ」

 

「北に向かいながら、ずっと気になってることがある」

 

「言え」

 

「魔族について、お前は何か知ってるか。声の指示で遺跡を調べていた頃に、情報が入ってこなかったか」

 

 エレナは少し間を置いた。

 

「名前だけなら」

 

「名前?」

 

「声が一度だけ言っていた。ヴァルクの北方で、かつて人間と異種族との衝突があったと。その異種族のことを、記録では『黒の民』と呼んでいた」

 

「黒の民……」

 

「古い文献の話だ。詳しいことは聞いていない。声もそれ以上は教えてくれなかった」

 

 悠斗は頭の中で情報を整理した。

 

「黒の民が、今の魔族と同じかどうかはわからない」

 

「可能性はある」

 

「うん」

 

「ただ……」

 

 エレナは少し言いにくそうに続けた。

 

「声が言っていたのは、その衝突が起きたのが、百年以上前だということだ」

 

「百年以上前」

 

「月のバランスが大きく崩れた時期、と声は言っていた」

 

 悠斗はルーナを見た。

 

 ルーナは、黙って前を向いていた。

 

 その横顔が、微かに強張っている。

 

「ルーナ」

 

「……聞いてる」

 

「何か、言えることはあるか」

 

 しばらく沈黙があった。

 

「……今は、言えない」

 

 ルーナはそれだけ答えた。

 

「わかった」

 

 悠斗はそれ以上聞かなかった。

 

 ウルリックが立ち止まった岩場の脇で、一行は短い休憩を取った。水筒の水は半分凍りかけていた。

 

 ヴァルクは、あと一日の距離にあった。

 

 

 

 翌日の夕方、一行は北の関門の町ヴァルクに到着した。

 

 想像していたよりも、小さな町だった。

 

 しかし、頑丈だった。

 

 切り出した石を積み上げた壁が町を囲んでいる。高さは三メートル近く、頂部には鉄製の柵が張り巡らされていた。城門の両脇には常時、完全武装の衛兵が二人ずつ立っており、一行が近づくと、槍の穂先をわずかに向けた。

 

「止まれ。旅人か」

 

 先頭の衛兵が言った。

 

「はい。帝都から来ました。一晩、宿を借りたい」

 

 悠斗が答えた。

 

 衛兵の目が、一行をゆっくりと舐めた。

 

 五人。旅人の格好。女性が二人。無駄のない装備。

 

「こんな時期に南から来る者は珍しい。目的は何だ」

 

「北方の調査です。立ち寄りの前に、この辺りの情報を集めたい」

 

「……北方の調査」

 

 衛兵は眉根を寄せた。

 

「帝国の人間か」

 

「いいえ。独自に動いています」

 

「今は北に行ける状態じゃない。わかってるか」

 

「聞いています。だから、情報を集めたいんです」

 

 衛兵は少し考えてから、横の衛兵と目を合わせた。

 

 そして、城門の内側を向いた。

 

「入れ。宿は大通りを真っすぐ。ランプが出てる建物だ。夜中は城門が閉まるから、外に出るな」

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

 一行は城門をくぐった。

 

 町の中は、静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 夕方の時間帯のはずだが、通りを歩く人の姿がほとんどない。屋台も、開いている店も少ない。どの建物も扉を閉め、窓の鎧戸を下ろしている。子どもの声は、どこからも聞こえなかった。

 

「……人が少ないな」

 

 悠斗は呟いた。

 

「前は違った」

 

 ウルリックが低く言った。

 

「以前、荷物の護衛でここを通ったことがある。もっと活気があった。去年の秋までは」

 

「去年の秋から変わったのか」

 

「それが最初だったと聞いている」

 

 一行は黙って、閉まった扉と鎧戸が並ぶ通りを歩いた。

 

 

 

 宿は、大通りの突き当たりにあった。

 

 看板の代わりに、錆びかけた鉄製のランプが軒先に掛かっている。

 

 中に入ると、薪ストーブの熱気が顔を包んだ。暖かさと乾いた木の匂い。

 

「いらっしゃい」

 

 カウンターの奥から、宿の主人が顔を出した。

 

 五十代の、がっしりとした体格の男だった。白髪を短く刈り込み、深い皺の刻まれた顔に、見る者を値踏みするような鋭い目をしている。

 

「帝都から来ました。五人で、二部屋借りられますか」

 

「ある。一晩か」

 

「しばらくになるかもしれません」

 

「長くなるなら先払いだ」

 

「わかりました」

 

 宿代を払ってから、悠斗は主人に声をかけた。

 

「夕食はありますか」

 

「今夜はシチューがある。肉と根菜で作った」

 

「全員分、お願いします」

 

「ならテーブルに座って待て。すぐ持ってくる」

 

 主人が厨房に消えた。

 

 しばらくして、深い木の皿に入った熱いシチューが運ばれてきた。表面に脂が浮いており、湯気が豊かに立ち上っている。

 

 悠斗は一口飲んだ。

 

「……美味い」

 

 思わず声が出た。

 

「ありがとよ。うちの定番だ。この時期はこれに限る」

 

 主人は少し誇らしそうに言った。

 

「聞いてもいいですか」

 

 悠斗はシチューを飲みながら、ゆっくりと切り出した。

 

「この辺りで、最近何かあったと聞いてきました。北の方向で」

 

 主人の表情が、わずかに変わった。

 

 皿を拭く手が、止まった。

 

「どこで聞いた」

 

「帝都で。噂として」

 

「噂ね」

 

 主人はため息をついた。それから椅子を引いて、カウンターの前に座った。

 

「噂どころじゃない。みんな知ってる。この町に残ってる人間は全員」

 

「何が起きているんですか」

 

「最初は、北の街道で作業してた木こりが二人消えた。秋の終わりだ」

 

 主人は低い声で話し始めた。

 

「捜索に出た兵士が現場を見つけた。遺体じゃなかった。血の跡と、何かに引きずられたような痕跡だけだった」

 

「引きずられた……」

 

「それから一ヶ月も経たないうちに、また一人消えた。今度は町の外れだ。夜中に厠に出た男が、朝になっても戻らなかった」

 

「目撃者は」

 

「いる。その夜、同じ方向にいた農夫が見たそうだ。暗くて詳しくはわからなかったが……人の形をしていた、と」

 

「人の形……」

 

「でも、動き方が人間じゃなかったって。とにかく速い。そして、大きい。普通の人間より、一回りは大きかったそうだ」

 

 悠斗は前のめりになった。

 

「その後は」

 

「帝国の調査隊が来たのが、半月ほど前だ。五人の精鋭だった。ヴァルクに一泊して、北に向かった。それっきりだ」

 

「戻ってこない」

 

「五日経っても来ない。往復三日の距離だ。おかしい。みんなわかってる。でも誰も動けない」

 

 主人は皺の刻まれた手を、テーブルの上に置いた。

 

「俺は三十年、ここで生きてきた。去年まで、ヴァルクは普通の町だった。北方との交易の起点で、商人も旅人も行き来した。それが今は……」

 

 主人は言葉を切った。

 

「逃げることは考えたか」

 

「考えた」

 

 主人はまっすぐに悠斗を見た。

 

「でも、どこへ行く。ここが俺の町だ。逃げたくない」

 

 悠斗は何も言わなかった。

 

 ウルリックが、テーブルの上で指を組みながら言った。

 

「夜にしか現れないのか。昼間は目撃されていないか」

 

「ない。昼間は静かだ。夜になると、時々壁の外で何かが動く音がする。それだけだ」

 

「昼間は動かない理由があるとしたら」

 

 ウルリックは続けた。

 

「光を嫌うか、人の動きが少ない時間帯を選んでいるか。どちらかだろう」

 

「どちらだと思いますか」

 

 エレナが静かに言った。

 

「後者だとしたら……賢い」

 

 ウルリックは短く言った。

 

 賢い。

 

 その言葉が、悠斗の胸の中に重く落ちた。

 

 本能だけで動く魔物とは、違う。

 

「今夜、外の様子を見てみたい」

 

 悠斗は主人を見た。

 

「夜中に出たいんですが、問題ありますか」

 

 主人は少し目を丸くした。

 

「何のために」

 

「確かめたいことがある」

 

「……正気か」

 

「正気だよ」

 

 主人は悠斗を見てから、エレナを見て、もう一度悠斗を見た。

 

「止めはしない。ただ……気をつけろよ」

 

「ありがとう」

 

 悠斗は皿のシチューを飲み干した。

 

「ルーナ、セレスティアは宿で待っていてくれ」

 

「……わかったわ」

 

 ルーナが答えた。その声に、何かを飲み込む気配があった。

 

「私とウルリックも出る」

 

 エレナが静かに言った。

 

「ウルリックは必要か」

 

「四つの目より、六つの目がいい」

 

 ウルリックが短く言った。

 

「では、深夜に」

 

 

 

 夜の帳が落ちたヴァルクは、恐ろしいほど静かだった。

 

 月光が、雪に覆われた山を白く照らしている。白い月と黒い月、二つの光が地面に複雑な影を作っていた。風はない。空気は固く冷えており、吐く息が白く固まるように見えた。

 

 悠斗、エレナ、ウルリックの三人は、町の北壁の内側に分かれて配置についていた。

 

 悠斗は壁の隅に背を預け、北の暗闘を見ていた。

 

 視界はいつも通り、周囲より少し鮮明だ。夜の暗さも、細部まで拾う神経も、普段と変わらない。

 

 ただ今夜は、緊張の質が違った。

 

 今まで戦ってきた相手は、どれも悠斗が上回っていた。黒月教の兵士も、使徒クルエンタも、解放者同盟の者たちも。力で圧倒できた。

 

 しかし、主人の言葉が頭から離れない。

 

 速い。そして、大きい。

 

 そして帝国の精鋭五人が消えた。

 

「エレナ」

 

 悠斗は壁越しにそっと言った。

 

「何だ」

 

「戦ったことはあるか。普通の魔物じゃない相手と」

 

「黒月教の使徒と一度、遭遇した。逃げた」

 

「勝てないと判断したのか?」

 

「正確には……勝っても意味がないと判断した。倒したとしても、組織が動いて追ってくる。一人で全部引き受けることはできない」

 

「今夜は逃げるつもりがあるか」

 

 エレナは少し間を置いた。

 

「……ない」

 

「なぜ」

 

「お前たちがいる」

 

 それだけ言った。

 

 悠斗は少し黙った。

 

「俺もだ。逃げない」

 

「知ってる」

 

「どうしてわかる」

 

「お前は、逃げない顔をしている」

 

 悠斗は苦笑した。

 

 しかし笑いはすぐに消えた。

 

 気配が、変わった。

 

 北の壁の外。

 

 暗闇の中で、何かが動いている。

 

 目に見えない。音もない。

 

 しかし確かに何かがいる。息をしている。動いている。

 

「……いる」

 

 悠斗は囁いた。

 

 エレナも、同時に反応していた。

 

 ウルリックは岩の陰に素早く身を沈めた。

 

 北壁の上部、月光の差し込む角度が変わった。

 

 次の瞬間、壁の上に影が現れた。

 

 人の形をした、黒い影。

 

 しかし大きさが違った。普通の人間より、頭半分は高い。肩幅が広く、全体的に分厚い体格だ。壁の上に立ちながら、まるで地面に立っているように安定している。体の重心の置き方が、人間のそれとはどこか根本的に異なった。

 

 月光が、その姿を照らした。

 

 灰色の皮膚。節くれ立った筋肉が、薄い革の上着越しにも盛り上がって見える。首は太く、顔の造作は人間に似ているが、顎が広く、眼窩が深い。

 

 そして、目が光っていた。

 

 琥珀色の、動物めいた光。

 

 しかしその光の奥に、本能だけではない何かがあった。観察するような。計算するような。知性を感じさせる眼差し。

 

「……魔族」

 

 悠斗は拳を握りしめた。

 

 壁の上の存在は、悠斗を見た。

 

 動かない。

 

 じっと見ている。

 

 その沈黙が、逆に恐ろしかった。普通の魔物なら、目が合った瞬間に飛びかかってくる。しかしこれは、間合いを計っていた。

 

 数秒の沈黙の後、悠斗は動いた。

 

 先に仕掛ける。

 

 地面を蹴った。

 

 跳躍、そのまま壁の上へ。

 

「……速い」

 

 魔族が、反応した。

 

 壁から飛び降りて地面に着地した。衝撃音がなかった。それだけの脚力と体捌きを持っていながら、着地が無音だった。

 

 悠斗は迎えに行くように間合いを詰めた。

 

 右の拳を叩き込む。

 

 魔族が、半歩横にずれた。

 

 悠斗の拳が、空を切った。

 

「っ……」

 

 読まれた。

 

 コースを完全に読んでいた。

 

 着地の瞬間に軸を変え、逆に悠斗の側面に腕を振るってくる。

 

 速い。

 

 悠斗は腰を落として避けた。腕が頭上を通り過ぎる。

 

 その腕の風圧だけで、顔が歪むほどの力だった。

 

「くっ」

 

 体勢を立て直しながら、悠斗は状況を整理した。

 

 速さは同等か、それ以上。体格差から考えれば、純粋な力は向こうが上かもしれない。

 

 そして、対応が早い。こちらの動きを見てから対処している。つまり、先の動きを読んで動いている。

 

「やっかいだ……」

 

 悠斗は距離を取った。

 

 魔族は追わなかった。

 

 また、じっと見ている。

 

 その時、横から影が動いた。

 

 エレナだった。

 

 音もなく魔族の背後に回り込んでいた。十七年間の逃亡と情報収集で磨かれた、足音を消す技術。

 

 エレナの右の拳が、魔族の脇腹に叩き込まれた。

 

 ドゥン。

 

 石を殴ったような音がした。

 

 魔族が半歩よろけた。

 

 エレナが続けて肘打ちを叩き込む。顎の下を狙った一撃。

 

 魔族の頭が、わずかに揺れた。

 

「今だ」

 

 悠斗は跳んだ。

 

 上から踵を叩き込む。魔族の肩口を狙った落下踵。

 

 メキッ。

 

 何かが歪む音がした。

 

 しかし魔族は倒れない。

 

 崩れかけた体勢から、即座に立て直した。

 

 そして両方向の敵を、同時に見た。

 

「考えてる」

 

 エレナが低く言った。

 

「ああ」

 

 悠斗は拳を握りしめながら頷いた。

 

 ただの獣ではない。二対一の状況を認識して、どちらに優先して対処するかを瞬時に判断しようとしている。

 

 魔族は、悠斗を選んだ。

 

 突進してきた。

 

 速い。

 

 悠斗の視界がスローモーションに入る。

 

 一歩目、二歩目、三歩目。

 

 三歩で間合いを詰める。腕を引いて、正面からの打撃が来る。

 

 避けた。

 

 しかし腕の軌道が途中で変わった。

 

 フェイントだった。

 

 本命は下からの蹴りだった。

 

「がっ……!」

 

 悠斗の腹に衝撃が走った。

 

 吹き飛ぶ。地面を一度転がり、すぐに体勢を立て直す。

 

 痛い。

 

 体重が軽いこの世界の物理でも、この衝撃は来る。

 

「悠斗!」

 

 エレナの声がした。

 

「平気だ」

 

 悠斗は立ち上がった。

 

 内臓はやられていない。しかし、かなり重い一撃をもらってしまった。

 

 魔族は悠斗を見ていた。

 

 その眼差しに、何かが加わった気がした。

 

 興味、のような何か。

 

「……こいつ、俺を試してる」

 

 悠斗は歯を食いしばった。

 

 気に入らない。でも、相手がどういうものかをわかっていた方がいい。

 

「エレナ、連携を変える」

 

「言え」

 

「俺が正面から押さえる。お前は側面か背後から崩してくれ。一撃一撃を重くしなくていい。ペースを乱すことを優先しろ」

 

「……わかった」

 

 二人は同時に動いた。

 

 悠斗が正面から間合いを詰める。

 

 魔族が反応する。

 

 その瞬間、エレナが斜め後方から踏み込んだ。

 

 悠斗への対処が一瞬、遅れた。

 

 その隙に悠斗の拳が、魔族の顔面に入った。

 

 ゴッ。

 

 魔族が後ろに押された。

 

 エレナが続けて背後から膝蹴りを腰に叩き込む。

 

「もう一度」

 

 悠斗が再び突進する。

 

 同じパターン。しかし今度は、魔族も対処してきた。

 

 悠斗の拳を腕でいなしながら、エレナへの蹴りを同時に放つ。

 

「エレナ、右!」

 

「わかってる」

 

 エレナは右に跳んだ。

 

 蹴りをぎりぎりでかわす。

 

 しかし、かわしきれなかった。

 

 脚の側面が、エレナの左肩を打った。

 

 ガッ。

 

 肉を打つ鈍い音がした。

 

「エレナ!」

 

 悠斗は即座に反応した。

 

 魔族の横腹に向かって踵を叩き込む。

 

 全力。

 

 ドゴッ。

 

 魔族の体が、横に二メートル吹き飛んだ。

 

 地面に接触し、一度転がった。

 

 倒れない。

 

 すぐに立ち上がる。

 

「……化け物か」

 

 悠斗は荒い息をつきながら、魔族と、エレナを交互に見た。

 

 エレナは左腕を抱えるように押さえていた。立っているが、呼吸が浅い。

 

「動けるか」

 

「……動ける」

 

「無理はするな」

 

「するつもりはない」

 

 魔族が、二人を見た。

 

 そして、悠斗を見た。

 

 その眼差しに、先ほどとは少し違う何かがあった。

 

 警戒、のような色。

 

 悠斗は地面を蹴った。

 

 もう一度、間合いを詰める。

 

 今度は上からではなく、低い体勢で飛び込んだ。タックルに近い角度。

 

 魔族が後ろに跳ぼうとした。

 

 悠斗は腕を伸ばし、その足首を掴んだ。

 

「うおおお!」

 

 全力で引っ張る。

 

 魔族の体が崩れた。地面に倒れる。

 

 そのまま乗り上げようとした瞬間、魔族の脚が跳ね上がった。

 

 避ける間がなかった。

 

 蹴りが悠斗の胸板を直撃した。

 

 今度は完全に吹き飛んだ。

 

「がっ!」

 

 地面に叩きつけられながらも、受け身を取った。

 

 転がって立ち上がる。

 

 肋骨が痛い。折れていないと思うが、確証はない。

 

「……まずい」

 

 悠斗は現状を整理した。

 

 自分は腹と胸に打撃を受けた。エレナは左肩を負傷している。ウルリックは非戦闘員だ。

 

 二人がかりでも、拮抗している。

 

 このまま長引けば、消耗で負ける。

 

 魔族は、立ち上がりながら悠斗を見た。

 

 あの眼が、何かを決定した。

 

「……退くつもりか」

 

 悠斗は直感した。

 

 そして、全力を出した。

 

 地面を蹴った瞬間、体重のすべてを加速に乗せた。

 

 あの速さを超えるために。

 

 一瞬で間合いを詰めた。

 

 魔族が反応した。横に跳ぼうとした。

 

 しかし、悠斗の方が速かった。

 

 右の拳を叩き込む。

 

 今度は、顔面に直撃した。

 

 ドゴォン。

 

 魔族の体が、後ろに吹き飛んだ。

 

 背中から地面に激突し、数メートル転がった。

 

 そのまま、立ち上がらなかった。

 

 ではなく。

 

 四つん這いになった。

 

 その体勢から、北の暗闇に向かって跳んだ。

 

 壁を飛び越えて、消えた。

 

 気配が遠ざかっていく。

 

 やがて、何もなくなった。

 

「……逃げた」

 

 悠斗は荒い息をつきながら、立ち尽くした。

 

「……ね」

 

 岩の陰からウルリックが出てきた。老練な案内人の顔に、珍しく緊張が残っていた。

 

「エレナ、腕を見せろ」

 

 悠斗はエレナに近づいた。

 

「自分で……」

 

「見せろ」

 

 エレナは少し黙ってから、左肩の外套を引き上げた。

 

 月光の下で見ても、傷の深さがわかった。

 

 裂けている。皮膚の深いところまで、切り裂かれていた。

 

「……セレスティアに頼む。今すぐ戻るぞ」

 

「歩ける」

 

「わかってる。でも急げ」

 

 宿に駆け戻る途中、悠斗は暗い通りを走りながら、戦闘の光景を頭の中で反芻していた。

 

 二人がかりで、ようやく撤退させた。

 

 それだけだった。

 

 

 

 セレスティアが、エレナの左肩の傷に手を当てていた。

 

 掌から淡い光が滲み出て、傷口の周囲を包んでいく。治癒魔法だ。しかし、月の力がまだ不完全なためか、光の強さはかつてよりも弱い。

 

「深いですね」

 

 セレスティアは静かに言った。

 

「縫合が必要です。手元の薬草と処置で今夜はしのぎますが……完全に回復するには、数日かかります」

 

「何日だ」

 

 エレナが聞いた。

 

「最低でも三日。動かすと傷口が開く可能性があります。力を入れる動きは、もっと時間がかかるかもしれません」

 

「……」

 

 エレナは視線を横に向けた。

 

 感情は表に出ていない。しかし、何かを諦めたような静けさがあった。

 

「ヴァルクに滞在することになります」

 

 セレスティアは続けた。

 

「主人に話を通してきます」

 

 ルーナが立ち上がった。

 

「一緒に行く」

 

「ありがとうございます、ルーナ様」

 

 二人が部屋を出ていく。

 

 エレナは目を閉じた。

 

「痛いか」

 

 悠斗は聞いた。

 

「……ある程度は」

 

「セレスティアに薬草の痛み止めを頼んだか」

 

「まだだ」

 

「頼め」

 

「……頼む」

 

 それだけ言って、エレナは黙った。

 

 悠斗も、何も言わなかった。

 

 ランプの光が揺れている。

 

 薪ストーブが、静かに燃えている。

 

 ウルリックが、椅子に座りながらお茶を一口飲んだ。

 

「強い相手だった」

 

 ウルリックが静かに言った。

 

「ああ」

 

「あれが複数いたら、どうなる」

 

 悠斗は答えなかった。

 

 答えたくなかった。

 

 しかし、頭の中では、すでに計算が終わっていた。

 

 

 

 その夜、悠斗は長い時間、眠れなかった。

 

 ルーナは隣のベッドで静かに寝息を立てている。

 

 悠斗は窓の外を見ていた。

 

 白い月と黒い月が、雪山を照らしている。

 

 あの戦闘が、繰り返し頭の中で再生された。

 

 魔族の速さ。

 

 打撃の重さ。

 

 そして、あの知性を感じさせる琥珀の眼。

 

 二人がかりで、撤退させただけだった。

 

 倒せなかった。追い払っただけで、あの個体はどこかで回復して、また来るかもしれない。

 

 そしてエレナは負傷した。

 

 一体と、かつての自分と同等の力を持つエレナと二人で当たって、この結果だ。

 

「……足りない」

 

 悠斗は小さく呟いた。

 

 今の自分の力では、足りない。

 

 この世界に来てから、ずっと自分の力を信じてきた。体の能力で、立ちはだかるものを何とかしてきた。

 

 しかしあの魔族は、初めて「越えられない壁かもしれない」という感覚を与えてきた。

 

 越えられない、ではない。今夜は退けた。

 

 でも、余裕がなかった。消耗した。そしてエレナは傷ついた。

 

 あれが複数体いたら。

 

 あれより強い個体がいたら。

 

 北の極寒の地に向かう中で、そういった相手がさらに待ち受けているとしたら。

 

「……俺では、ルーナを守り切れないかもしれない」

 

 声に出した瞬間、その言葉の重さが、改めて胸に響いた。

 

 セレスティアも。エレナも。ウルリックも。

 

 今の自分では、守り切れない可能性がある。

 

 それが、怖かった。

 

「悠斗」

 

 声がした。

 

 振り返ると、ルーナが起き上がっていた。

 

 銀色の髪が月光を受けて、部屋の中で淡く光っている。

 

「起こしたか」

 

「ううん。眠れなかった」

 

 ルーナは毛布を膝に引き寄せながら、悠斗を見た。

 

「考えてたのね」

 

「ああ」

 

「……戦闘のこと」

 

「そうだ」

 

 悠斗は窓から目を離して、ルーナを見た。

 

「俺が思っていたより、弱かった」

 

「あなたは弱くないわ」

 

「エレナと二人がかりで、ようやく退けた。それでもエレナが傷ついた。これを弱いと言わなくて何という」

 

 ルーナは口を閉じた。

 

「ルーナ」

 

「……うん」

 

「俺は、強くなりたい。今よりずっと」

 

 悠斗はまっすぐに言った。

 

「今の俺では、お前を守れない。エレナも、セレスティアも、ウルリックも。全員を守れない。そのままで、もっと北に進んで何が待ち受けていても、大丈夫だとは思えない」

 

「……」

 

「あの魔族が複数いたら、今夜は終わっていたかもしれない。それが、今夜わかったことだ。だから……強くなりたい。今より、はるかに」

 

 ルーナは少しの間、黙っていた。

 

 窓の外の黒い月を見ていた。

 

 その横顔に、何かが揺れていた。

 

「悠斗」

 

「ん」

 

「……あなたが今よりずっと強くなれる方法が、あるかもしれない」

 

 悠斗は顔を上げた。

 

「本当か」

 

「まだ確かなことは言えない。でも……私には、心当たりがある」

 

 ルーナは悠斗を見た。

 

 その目に、静かな決意があった。

 

「明日、ちゃんと話す。今夜は、少し考えさせて」

 

「……わかった」

 

「一つだけ、先に言う」

 

「何だ」

 

「その方法は……私が力を使う。あなたのためだけに、私の力を使う方法だから」

 

「ルーナ……」

 

「だから、あなたに覚悟してほしい。私も覚悟が必要だから」

 

 ルーナは微笑んだ。

 

 力強くはなかった。しかし、迷いのない笑顔だった。

 

「大丈夫。絶対に方法がある。だから、今夜は眠って」

 

「……わかった」

 

 悠斗はベッドに横になった。

 

 天井を見る。

 

 ルーナの言葉が、頭の中で繰り返された。

 

 私の力を使う。

 

 あなたのためだけに。

 

 それがどういうことを意味するのか、悠斗にはまだわからなかった。

 

 しかし。

 

 隣でルーナが横になる気配がした。

 

「悠斗」

 

「ん」

 

「大丈夫だから」

 

「……ああ」

 

「必ず、方法がある」

 

 その声は、穏やかだった。

 

 しかし、その穏やかさの奥に、何か大きなものを抱えているような気がした。

 

 窓の外で、北の風がかすかに鳴いていた。

 

 白い月が、静かに輝いている。

 

 黒い月が、その隣で、少しだけ大きく見えた。

肩の傷は、思ったより深かった。


動けないことが、こんなに落ち着かないとは思っていなかった。十七年間、止まると死ぬ場所を歩いてきたからかもしれない。


あの魔族は強かった。悠斗と二人がかりで、ようやく退けた。退けただけだ。


倒せなかった。悔しい、とは少し違う。ただ、事実として、今の私たちでは足りなかった。


悠斗は、それをわかっている。ちゃんとわかった上で、前を向いている。


私があの年の時に、あんな顔ができたかどうか。


ヴァルクの夜は、長い。

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