第28話 「 足りない夜に」
帝都を出て、五日が経った。
最初のうちは石畳の街道が続いていた。しかし二日目から道は砂利と凍てついた土に変わり、三日目には木々が急に減り、むき出しの岩肌が道の両脇に目立ち始めた。
空気が、確実に変わっていった。
吸い込むたびに、肺の奥が冷える。
「足元に気をつけろ」
先頭を行くウルリックが、振り返らずに言った。
「この先、凍結している箇所がある。見た目ではわからない。足を踏み込む前に杖で確かめろ」
「杖を持っていない人間はどうすればいいんですか」
セレスティアが丁寧な口調で尋ねた。
「前を歩く人間の足跡を踏め。それが最も安全だ」
「わかりました」
一行は、ウルリックの足跡を辿るように進んだ。
道は徐々に上り坂になり、周囲の山が近くなってきた。稜線には白い雪が分厚く積もっており、曇り空の下でくすんだ銀色に輝いている。遠くに見える谷の底には、川が流れていた。水面がところどころ、白く凍り始めていた。
「寒くなってきたわね……」
ルーナが悠斗の隣に並びながら言った。
白い息が、口の前で消えていく。
「防寒具はちゃんと着てるか」
「着てるわよ。でも……もう一枚ほしい」
「帽子とマフラー、両方使え」
「両方つけると顔が見えなくなる」
「見えなくていい。凍えるよりましだ」
「あなたは寒くないの?」
「俺はわりと平気だな」
悠斗は正直に答えた。
代謝が上がっているせいか、確かに寒さへの耐性が高い気がする。その分、腹は尋常ではない速さで減るが。
「ずるい」
ルーナはぼそりと言った。
「ずるくない。その分、腹が減ってる」
「それはそうね」
ルーナは小さくため息をついてから、マフラーを顔まで引き上げた。
「……本当に寒い」
「帝国の北端はこんなものじゃない」
後ろを歩いていたエレナが、静かに言った。
「もっと、か」
「ヴァルクを越えれば、吐いた息が着物に凍りつく。そういう場所だ」
「経験があるんですか」
セレスティアが聞いた。
「一度だけ、冬の北方を通った。情報収集の途中で」
「……どうやって」
「厚着して、歩き続けた。止まると死ぬから」
エレナはそれだけ言った。
そこに感慨はなく、ただ事実を述べているだけだった。しかし悠斗は、その言葉の裏に、十七年間という重みを感じた。止まったら死ぬ場所を、一人で歩き抜いてきた人間の言葉だ。
「お腹、空いてきた」
悠斗は空気を変えるように言った。
「……また」
ルーナが呆れた顔をした。
「朝食べたのは三時間前よ、あれだけ食べたのに」
「三時間で空く。歩いてると特に」
「悠斗様の消費量は、本当に規格外ですね」
セレスティアがさらりと言った。
「次の休憩は、あの岩場を越えてからだ」
ウルリックが前を向いたまま言った。
「二時間かかる。腹が空くなら、歩きながら食え。止まると体が冷える」
「そうします」
悠斗は荷物から干し肉を取り出した。固い。かじると塩と煙の味がした。
「美味しそう」
ルーナが横から見てきた。
「食うか」
「……少しだけ」
悠斗は干し肉をちぎってルーナに渡した。
ルーナは一口かじり、顎を動かした。
「固いわ」
「そういうもんだ」
「でも……温まる気がする」
「塩が入ってるからな」
二人は固い干し肉を嚙みながら歩き続けた。
道の先、岩の稜線の向こうで空が少し開けている。
ヴァルクは、もうすぐそこだ。
「エレナ」
悠斗は少し声を落として言った。
「何だ」
「北に向かいながら、ずっと気になってることがある」
「言え」
「魔族について、お前は何か知ってるか。声の指示で遺跡を調べていた頃に、情報が入ってこなかったか」
エレナは少し間を置いた。
「名前だけなら」
「名前?」
「声が一度だけ言っていた。ヴァルクの北方で、かつて人間と異種族との衝突があったと。その異種族のことを、記録では『黒の民』と呼んでいた」
「黒の民……」
「古い文献の話だ。詳しいことは聞いていない。声もそれ以上は教えてくれなかった」
悠斗は頭の中で情報を整理した。
「黒の民が、今の魔族と同じかどうかはわからない」
「可能性はある」
「うん」
「ただ……」
エレナは少し言いにくそうに続けた。
「声が言っていたのは、その衝突が起きたのが、百年以上前だということだ」
「百年以上前」
「月のバランスが大きく崩れた時期、と声は言っていた」
悠斗はルーナを見た。
ルーナは、黙って前を向いていた。
その横顔が、微かに強張っている。
「ルーナ」
「……聞いてる」
「何か、言えることはあるか」
しばらく沈黙があった。
「……今は、言えない」
ルーナはそれだけ答えた。
「わかった」
悠斗はそれ以上聞かなかった。
ウルリックが立ち止まった岩場の脇で、一行は短い休憩を取った。水筒の水は半分凍りかけていた。
ヴァルクは、あと一日の距離にあった。
翌日の夕方、一行は北の関門の町ヴァルクに到着した。
想像していたよりも、小さな町だった。
しかし、頑丈だった。
切り出した石を積み上げた壁が町を囲んでいる。高さは三メートル近く、頂部には鉄製の柵が張り巡らされていた。城門の両脇には常時、完全武装の衛兵が二人ずつ立っており、一行が近づくと、槍の穂先をわずかに向けた。
「止まれ。旅人か」
先頭の衛兵が言った。
「はい。帝都から来ました。一晩、宿を借りたい」
悠斗が答えた。
衛兵の目が、一行をゆっくりと舐めた。
五人。旅人の格好。女性が二人。無駄のない装備。
「こんな時期に南から来る者は珍しい。目的は何だ」
「北方の調査です。立ち寄りの前に、この辺りの情報を集めたい」
「……北方の調査」
衛兵は眉根を寄せた。
「帝国の人間か」
「いいえ。独自に動いています」
「今は北に行ける状態じゃない。わかってるか」
「聞いています。だから、情報を集めたいんです」
衛兵は少し考えてから、横の衛兵と目を合わせた。
そして、城門の内側を向いた。
「入れ。宿は大通りを真っすぐ。ランプが出てる建物だ。夜中は城門が閉まるから、外に出るな」
「わかりました。ありがとうございます」
一行は城門をくぐった。
町の中は、静かだった。
静かすぎた。
夕方の時間帯のはずだが、通りを歩く人の姿がほとんどない。屋台も、開いている店も少ない。どの建物も扉を閉め、窓の鎧戸を下ろしている。子どもの声は、どこからも聞こえなかった。
「……人が少ないな」
悠斗は呟いた。
「前は違った」
ウルリックが低く言った。
「以前、荷物の護衛でここを通ったことがある。もっと活気があった。去年の秋までは」
「去年の秋から変わったのか」
「それが最初だったと聞いている」
一行は黙って、閉まった扉と鎧戸が並ぶ通りを歩いた。
宿は、大通りの突き当たりにあった。
看板の代わりに、錆びかけた鉄製のランプが軒先に掛かっている。
中に入ると、薪ストーブの熱気が顔を包んだ。暖かさと乾いた木の匂い。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、宿の主人が顔を出した。
五十代の、がっしりとした体格の男だった。白髪を短く刈り込み、深い皺の刻まれた顔に、見る者を値踏みするような鋭い目をしている。
「帝都から来ました。五人で、二部屋借りられますか」
「ある。一晩か」
「しばらくになるかもしれません」
「長くなるなら先払いだ」
「わかりました」
宿代を払ってから、悠斗は主人に声をかけた。
「夕食はありますか」
「今夜はシチューがある。肉と根菜で作った」
「全員分、お願いします」
「ならテーブルに座って待て。すぐ持ってくる」
主人が厨房に消えた。
しばらくして、深い木の皿に入った熱いシチューが運ばれてきた。表面に脂が浮いており、湯気が豊かに立ち上っている。
悠斗は一口飲んだ。
「……美味い」
思わず声が出た。
「ありがとよ。うちの定番だ。この時期はこれに限る」
主人は少し誇らしそうに言った。
「聞いてもいいですか」
悠斗はシチューを飲みながら、ゆっくりと切り出した。
「この辺りで、最近何かあったと聞いてきました。北の方向で」
主人の表情が、わずかに変わった。
皿を拭く手が、止まった。
「どこで聞いた」
「帝都で。噂として」
「噂ね」
主人はため息をついた。それから椅子を引いて、カウンターの前に座った。
「噂どころじゃない。みんな知ってる。この町に残ってる人間は全員」
「何が起きているんですか」
「最初は、北の街道で作業してた木こりが二人消えた。秋の終わりだ」
主人は低い声で話し始めた。
「捜索に出た兵士が現場を見つけた。遺体じゃなかった。血の跡と、何かに引きずられたような痕跡だけだった」
「引きずられた……」
「それから一ヶ月も経たないうちに、また一人消えた。今度は町の外れだ。夜中に厠に出た男が、朝になっても戻らなかった」
「目撃者は」
「いる。その夜、同じ方向にいた農夫が見たそうだ。暗くて詳しくはわからなかったが……人の形をしていた、と」
「人の形……」
「でも、動き方が人間じゃなかったって。とにかく速い。そして、大きい。普通の人間より、一回りは大きかったそうだ」
悠斗は前のめりになった。
「その後は」
「帝国の調査隊が来たのが、半月ほど前だ。五人の精鋭だった。ヴァルクに一泊して、北に向かった。それっきりだ」
「戻ってこない」
「五日経っても来ない。往復三日の距離だ。おかしい。みんなわかってる。でも誰も動けない」
主人は皺の刻まれた手を、テーブルの上に置いた。
「俺は三十年、ここで生きてきた。去年まで、ヴァルクは普通の町だった。北方との交易の起点で、商人も旅人も行き来した。それが今は……」
主人は言葉を切った。
「逃げることは考えたか」
「考えた」
主人はまっすぐに悠斗を見た。
「でも、どこへ行く。ここが俺の町だ。逃げたくない」
悠斗は何も言わなかった。
ウルリックが、テーブルの上で指を組みながら言った。
「夜にしか現れないのか。昼間は目撃されていないか」
「ない。昼間は静かだ。夜になると、時々壁の外で何かが動く音がする。それだけだ」
「昼間は動かない理由があるとしたら」
ウルリックは続けた。
「光を嫌うか、人の動きが少ない時間帯を選んでいるか。どちらかだろう」
「どちらだと思いますか」
エレナが静かに言った。
「後者だとしたら……賢い」
ウルリックは短く言った。
賢い。
その言葉が、悠斗の胸の中に重く落ちた。
本能だけで動く魔物とは、違う。
「今夜、外の様子を見てみたい」
悠斗は主人を見た。
「夜中に出たいんですが、問題ありますか」
主人は少し目を丸くした。
「何のために」
「確かめたいことがある」
「……正気か」
「正気だよ」
主人は悠斗を見てから、エレナを見て、もう一度悠斗を見た。
「止めはしない。ただ……気をつけろよ」
「ありがとう」
悠斗は皿のシチューを飲み干した。
「ルーナ、セレスティアは宿で待っていてくれ」
「……わかったわ」
ルーナが答えた。その声に、何かを飲み込む気配があった。
「私とウルリックも出る」
エレナが静かに言った。
「ウルリックは必要か」
「四つの目より、六つの目がいい」
ウルリックが短く言った。
「では、深夜に」
夜の帳が落ちたヴァルクは、恐ろしいほど静かだった。
月光が、雪に覆われた山を白く照らしている。白い月と黒い月、二つの光が地面に複雑な影を作っていた。風はない。空気は固く冷えており、吐く息が白く固まるように見えた。
悠斗、エレナ、ウルリックの三人は、町の北壁の内側に分かれて配置についていた。
悠斗は壁の隅に背を預け、北の暗闘を見ていた。
視界はいつも通り、周囲より少し鮮明だ。夜の暗さも、細部まで拾う神経も、普段と変わらない。
ただ今夜は、緊張の質が違った。
今まで戦ってきた相手は、どれも悠斗が上回っていた。黒月教の兵士も、使徒クルエンタも、解放者同盟の者たちも。力で圧倒できた。
しかし、主人の言葉が頭から離れない。
速い。そして、大きい。
そして帝国の精鋭五人が消えた。
「エレナ」
悠斗は壁越しにそっと言った。
「何だ」
「戦ったことはあるか。普通の魔物じゃない相手と」
「黒月教の使徒と一度、遭遇した。逃げた」
「勝てないと判断したのか?」
「正確には……勝っても意味がないと判断した。倒したとしても、組織が動いて追ってくる。一人で全部引き受けることはできない」
「今夜は逃げるつもりがあるか」
エレナは少し間を置いた。
「……ない」
「なぜ」
「お前たちがいる」
それだけ言った。
悠斗は少し黙った。
「俺もだ。逃げない」
「知ってる」
「どうしてわかる」
「お前は、逃げない顔をしている」
悠斗は苦笑した。
しかし笑いはすぐに消えた。
気配が、変わった。
北の壁の外。
暗闇の中で、何かが動いている。
目に見えない。音もない。
しかし確かに何かがいる。息をしている。動いている。
「……いる」
悠斗は囁いた。
エレナも、同時に反応していた。
ウルリックは岩の陰に素早く身を沈めた。
北壁の上部、月光の差し込む角度が変わった。
次の瞬間、壁の上に影が現れた。
人の形をした、黒い影。
しかし大きさが違った。普通の人間より、頭半分は高い。肩幅が広く、全体的に分厚い体格だ。壁の上に立ちながら、まるで地面に立っているように安定している。体の重心の置き方が、人間のそれとはどこか根本的に異なった。
月光が、その姿を照らした。
灰色の皮膚。節くれ立った筋肉が、薄い革の上着越しにも盛り上がって見える。首は太く、顔の造作は人間に似ているが、顎が広く、眼窩が深い。
そして、目が光っていた。
琥珀色の、動物めいた光。
しかしその光の奥に、本能だけではない何かがあった。観察するような。計算するような。知性を感じさせる眼差し。
「……魔族」
悠斗は拳を握りしめた。
壁の上の存在は、悠斗を見た。
動かない。
じっと見ている。
その沈黙が、逆に恐ろしかった。普通の魔物なら、目が合った瞬間に飛びかかってくる。しかしこれは、間合いを計っていた。
数秒の沈黙の後、悠斗は動いた。
先に仕掛ける。
地面を蹴った。
跳躍、そのまま壁の上へ。
「……速い」
魔族が、反応した。
壁から飛び降りて地面に着地した。衝撃音がなかった。それだけの脚力と体捌きを持っていながら、着地が無音だった。
悠斗は迎えに行くように間合いを詰めた。
右の拳を叩き込む。
魔族が、半歩横にずれた。
悠斗の拳が、空を切った。
「っ……」
読まれた。
コースを完全に読んでいた。
着地の瞬間に軸を変え、逆に悠斗の側面に腕を振るってくる。
速い。
悠斗は腰を落として避けた。腕が頭上を通り過ぎる。
その腕の風圧だけで、顔が歪むほどの力だった。
「くっ」
体勢を立て直しながら、悠斗は状況を整理した。
速さは同等か、それ以上。体格差から考えれば、純粋な力は向こうが上かもしれない。
そして、対応が早い。こちらの動きを見てから対処している。つまり、先の動きを読んで動いている。
「やっかいだ……」
悠斗は距離を取った。
魔族は追わなかった。
また、じっと見ている。
その時、横から影が動いた。
エレナだった。
音もなく魔族の背後に回り込んでいた。十七年間の逃亡と情報収集で磨かれた、足音を消す技術。
エレナの右の拳が、魔族の脇腹に叩き込まれた。
ドゥン。
石を殴ったような音がした。
魔族が半歩よろけた。
エレナが続けて肘打ちを叩き込む。顎の下を狙った一撃。
魔族の頭が、わずかに揺れた。
「今だ」
悠斗は跳んだ。
上から踵を叩き込む。魔族の肩口を狙った落下踵。
メキッ。
何かが歪む音がした。
しかし魔族は倒れない。
崩れかけた体勢から、即座に立て直した。
そして両方向の敵を、同時に見た。
「考えてる」
エレナが低く言った。
「ああ」
悠斗は拳を握りしめながら頷いた。
ただの獣ではない。二対一の状況を認識して、どちらに優先して対処するかを瞬時に判断しようとしている。
魔族は、悠斗を選んだ。
突進してきた。
速い。
悠斗の視界がスローモーションに入る。
一歩目、二歩目、三歩目。
三歩で間合いを詰める。腕を引いて、正面からの打撃が来る。
避けた。
しかし腕の軌道が途中で変わった。
フェイントだった。
本命は下からの蹴りだった。
「がっ……!」
悠斗の腹に衝撃が走った。
吹き飛ぶ。地面を一度転がり、すぐに体勢を立て直す。
痛い。
体重が軽いこの世界の物理でも、この衝撃は来る。
「悠斗!」
エレナの声がした。
「平気だ」
悠斗は立ち上がった。
内臓はやられていない。しかし、かなり重い一撃をもらってしまった。
魔族は悠斗を見ていた。
その眼差しに、何かが加わった気がした。
興味、のような何か。
「……こいつ、俺を試してる」
悠斗は歯を食いしばった。
気に入らない。でも、相手がどういうものかをわかっていた方がいい。
「エレナ、連携を変える」
「言え」
「俺が正面から押さえる。お前は側面か背後から崩してくれ。一撃一撃を重くしなくていい。ペースを乱すことを優先しろ」
「……わかった」
二人は同時に動いた。
悠斗が正面から間合いを詰める。
魔族が反応する。
その瞬間、エレナが斜め後方から踏み込んだ。
悠斗への対処が一瞬、遅れた。
その隙に悠斗の拳が、魔族の顔面に入った。
ゴッ。
魔族が後ろに押された。
エレナが続けて背後から膝蹴りを腰に叩き込む。
「もう一度」
悠斗が再び突進する。
同じパターン。しかし今度は、魔族も対処してきた。
悠斗の拳を腕でいなしながら、エレナへの蹴りを同時に放つ。
「エレナ、右!」
「わかってる」
エレナは右に跳んだ。
蹴りをぎりぎりでかわす。
しかし、かわしきれなかった。
脚の側面が、エレナの左肩を打った。
ガッ。
肉を打つ鈍い音がした。
「エレナ!」
悠斗は即座に反応した。
魔族の横腹に向かって踵を叩き込む。
全力。
ドゴッ。
魔族の体が、横に二メートル吹き飛んだ。
地面に接触し、一度転がった。
倒れない。
すぐに立ち上がる。
「……化け物か」
悠斗は荒い息をつきながら、魔族と、エレナを交互に見た。
エレナは左腕を抱えるように押さえていた。立っているが、呼吸が浅い。
「動けるか」
「……動ける」
「無理はするな」
「するつもりはない」
魔族が、二人を見た。
そして、悠斗を見た。
その眼差しに、先ほどとは少し違う何かがあった。
警戒、のような色。
悠斗は地面を蹴った。
もう一度、間合いを詰める。
今度は上からではなく、低い体勢で飛び込んだ。タックルに近い角度。
魔族が後ろに跳ぼうとした。
悠斗は腕を伸ばし、その足首を掴んだ。
「うおおお!」
全力で引っ張る。
魔族の体が崩れた。地面に倒れる。
そのまま乗り上げようとした瞬間、魔族の脚が跳ね上がった。
避ける間がなかった。
蹴りが悠斗の胸板を直撃した。
今度は完全に吹き飛んだ。
「がっ!」
地面に叩きつけられながらも、受け身を取った。
転がって立ち上がる。
肋骨が痛い。折れていないと思うが、確証はない。
「……まずい」
悠斗は現状を整理した。
自分は腹と胸に打撃を受けた。エレナは左肩を負傷している。ウルリックは非戦闘員だ。
二人がかりでも、拮抗している。
このまま長引けば、消耗で負ける。
魔族は、立ち上がりながら悠斗を見た。
あの眼が、何かを決定した。
「……退くつもりか」
悠斗は直感した。
そして、全力を出した。
地面を蹴った瞬間、体重のすべてを加速に乗せた。
あの速さを超えるために。
一瞬で間合いを詰めた。
魔族が反応した。横に跳ぼうとした。
しかし、悠斗の方が速かった。
右の拳を叩き込む。
今度は、顔面に直撃した。
ドゴォン。
魔族の体が、後ろに吹き飛んだ。
背中から地面に激突し、数メートル転がった。
そのまま、立ち上がらなかった。
ではなく。
四つん這いになった。
その体勢から、北の暗闇に向かって跳んだ。
壁を飛び越えて、消えた。
気配が遠ざかっていく。
やがて、何もなくなった。
「……逃げた」
悠斗は荒い息をつきながら、立ち尽くした。
「……ね」
岩の陰からウルリックが出てきた。老練な案内人の顔に、珍しく緊張が残っていた。
「エレナ、腕を見せろ」
悠斗はエレナに近づいた。
「自分で……」
「見せろ」
エレナは少し黙ってから、左肩の外套を引き上げた。
月光の下で見ても、傷の深さがわかった。
裂けている。皮膚の深いところまで、切り裂かれていた。
「……セレスティアに頼む。今すぐ戻るぞ」
「歩ける」
「わかってる。でも急げ」
宿に駆け戻る途中、悠斗は暗い通りを走りながら、戦闘の光景を頭の中で反芻していた。
二人がかりで、ようやく撤退させた。
それだけだった。
セレスティアが、エレナの左肩の傷に手を当てていた。
掌から淡い光が滲み出て、傷口の周囲を包んでいく。治癒魔法だ。しかし、月の力がまだ不完全なためか、光の強さはかつてよりも弱い。
「深いですね」
セレスティアは静かに言った。
「縫合が必要です。手元の薬草と処置で今夜はしのぎますが……完全に回復するには、数日かかります」
「何日だ」
エレナが聞いた。
「最低でも三日。動かすと傷口が開く可能性があります。力を入れる動きは、もっと時間がかかるかもしれません」
「……」
エレナは視線を横に向けた。
感情は表に出ていない。しかし、何かを諦めたような静けさがあった。
「ヴァルクに滞在することになります」
セレスティアは続けた。
「主人に話を通してきます」
ルーナが立ち上がった。
「一緒に行く」
「ありがとうございます、ルーナ様」
二人が部屋を出ていく。
エレナは目を閉じた。
「痛いか」
悠斗は聞いた。
「……ある程度は」
「セレスティアに薬草の痛み止めを頼んだか」
「まだだ」
「頼め」
「……頼む」
それだけ言って、エレナは黙った。
悠斗も、何も言わなかった。
ランプの光が揺れている。
薪ストーブが、静かに燃えている。
ウルリックが、椅子に座りながらお茶を一口飲んだ。
「強い相手だった」
ウルリックが静かに言った。
「ああ」
「あれが複数いたら、どうなる」
悠斗は答えなかった。
答えたくなかった。
しかし、頭の中では、すでに計算が終わっていた。
その夜、悠斗は長い時間、眠れなかった。
ルーナは隣のベッドで静かに寝息を立てている。
悠斗は窓の外を見ていた。
白い月と黒い月が、雪山を照らしている。
あの戦闘が、繰り返し頭の中で再生された。
魔族の速さ。
打撃の重さ。
そして、あの知性を感じさせる琥珀の眼。
二人がかりで、撤退させただけだった。
倒せなかった。追い払っただけで、あの個体はどこかで回復して、また来るかもしれない。
そしてエレナは負傷した。
一体と、かつての自分と同等の力を持つエレナと二人で当たって、この結果だ。
「……足りない」
悠斗は小さく呟いた。
今の自分の力では、足りない。
この世界に来てから、ずっと自分の力を信じてきた。体の能力で、立ちはだかるものを何とかしてきた。
しかしあの魔族は、初めて「越えられない壁かもしれない」という感覚を与えてきた。
越えられない、ではない。今夜は退けた。
でも、余裕がなかった。消耗した。そしてエレナは傷ついた。
あれが複数体いたら。
あれより強い個体がいたら。
北の極寒の地に向かう中で、そういった相手がさらに待ち受けているとしたら。
「……俺では、ルーナを守り切れないかもしれない」
声に出した瞬間、その言葉の重さが、改めて胸に響いた。
セレスティアも。エレナも。ウルリックも。
今の自分では、守り切れない可能性がある。
それが、怖かった。
「悠斗」
声がした。
振り返ると、ルーナが起き上がっていた。
銀色の髪が月光を受けて、部屋の中で淡く光っている。
「起こしたか」
「ううん。眠れなかった」
ルーナは毛布を膝に引き寄せながら、悠斗を見た。
「考えてたのね」
「ああ」
「……戦闘のこと」
「そうだ」
悠斗は窓から目を離して、ルーナを見た。
「俺が思っていたより、弱かった」
「あなたは弱くないわ」
「エレナと二人がかりで、ようやく退けた。それでもエレナが傷ついた。これを弱いと言わなくて何という」
ルーナは口を閉じた。
「ルーナ」
「……うん」
「俺は、強くなりたい。今よりずっと」
悠斗はまっすぐに言った。
「今の俺では、お前を守れない。エレナも、セレスティアも、ウルリックも。全員を守れない。そのままで、もっと北に進んで何が待ち受けていても、大丈夫だとは思えない」
「……」
「あの魔族が複数いたら、今夜は終わっていたかもしれない。それが、今夜わかったことだ。だから……強くなりたい。今より、はるかに」
ルーナは少しの間、黙っていた。
窓の外の黒い月を見ていた。
その横顔に、何かが揺れていた。
「悠斗」
「ん」
「……あなたが今よりずっと強くなれる方法が、あるかもしれない」
悠斗は顔を上げた。
「本当か」
「まだ確かなことは言えない。でも……私には、心当たりがある」
ルーナは悠斗を見た。
その目に、静かな決意があった。
「明日、ちゃんと話す。今夜は、少し考えさせて」
「……わかった」
「一つだけ、先に言う」
「何だ」
「その方法は……私が力を使う。あなたのためだけに、私の力を使う方法だから」
「ルーナ……」
「だから、あなたに覚悟してほしい。私も覚悟が必要だから」
ルーナは微笑んだ。
力強くはなかった。しかし、迷いのない笑顔だった。
「大丈夫。絶対に方法がある。だから、今夜は眠って」
「……わかった」
悠斗はベッドに横になった。
天井を見る。
ルーナの言葉が、頭の中で繰り返された。
私の力を使う。
あなたのためだけに。
それがどういうことを意味するのか、悠斗にはまだわからなかった。
しかし。
隣でルーナが横になる気配がした。
「悠斗」
「ん」
「大丈夫だから」
「……ああ」
「必ず、方法がある」
その声は、穏やかだった。
しかし、その穏やかさの奥に、何か大きなものを抱えているような気がした。
窓の外で、北の風がかすかに鳴いていた。
白い月が、静かに輝いている。
黒い月が、その隣で、少しだけ大きく見えた。
肩の傷は、思ったより深かった。
動けないことが、こんなに落ち着かないとは思っていなかった。十七年間、止まると死ぬ場所を歩いてきたからかもしれない。
あの魔族は強かった。悠斗と二人がかりで、ようやく退けた。退けただけだ。
倒せなかった。悔しい、とは少し違う。ただ、事実として、今の私たちでは足りなかった。
悠斗は、それをわかっている。ちゃんとわかった上で、前を向いている。
私があの年の時に、あんな顔ができたかどうか。
ヴァルクの夜は、長い。




