第27話 「ユリィの占領と、帝都の再会」
焚き火の前は、にぎやかだった。
マリナが荷台から取り出した干し肉と野菜を串に刺して焼いていた。脂が落ちて火が弾ける。いい匂いが、夕暮れの街道に漂っていた。
「悠斗お兄さん、どこから来たの?」
ユリィが串を持ちながら、悠斗の隣に陣取っていた。
いつの間にか、一番近い場所に座っている。
「遠いところからだ」
「遠いって、どれくらい?」
「すごく遠い。説明が難しい」
「えー。もったいぶらないでよ」
「秘密だ」
「けち」
ユリィはぷっと口を尖らせた。
それから、今度はルーナに向き直った。
「ルーナお姉さんはどこから来たの?」
「……私も、遠いところから」
「二人ともそれ! なんで誰も教えてくれないの!」
「秘密が多い旅人というのは、いるものです」
セレスティアが穏やかに口を添えた。
「セレスティアお姉さんもそうなの?」
「私は、エルディア王国の月の神殿に仕えていました。月の巫女です」
「つきのみこ……」
ユリィは目を輝かせた。
「本物の巫女さんに会ったの初めて! 魔法、使えるの?」
「少しだけ」
「見せて!」
「では」
セレスティアは手を伸ばした。
掌の上に、小さな光の玉が浮かんだ。
蛍のような、淡い青白い光。
「うわあ……」
ユリィが目を丸くした。
「綺麗……」
「触れることはできませんが、温かいですよ」
「ほんとだ……!」
ユリィは光の玉に顔を近づけた。
「なんかほっこりする」
「月の力を少し借りているだけです。大したものではないですが」
「すごい! 私も使えるようになりたい!」
「才能と修行が必要ですが、可能性はありますよ」
セレスティアは微笑んだ。
「本当に?」
「もちろん」
ユリィは興奮した顔でミハイルを振り返った。
「お父さん、聞いた? 私、魔法使いになれるかもしれないって!」
「聞こえてる聞こえてる」
ミハイルは苦笑した。
「でも魔法使いより、まず普通の学問を頑張れ」
「えー」
「えーじゃない」
マリナが串を渡しながら言った。
「はい、焼けたわよ。みんな食べて」
「お肉!」
ユリィはすぐに食べることに意識が移った。
悠斗も串を受け取った。
かじった瞬間、旨味が口に広がった。
「美味い……!」
「干し肉ですが、タレに漬けてあるんです」
マリナが照れたように言った。
「出発前に仕込んでおいたので」
「これ、何のタレですか?」
「蜂蜜と香草を合わせたものです。南部の家庭料理の味付けですね」
「南部の……。北に行くのに、南部の料理ですか」
「主人の出身が南なんです。だから料理は南部の味が多くて」
「故郷の味だな」
悠斗は言った。
「ええ。懐かしい味、ですかね」
ミハイルが照れたように頭を掻いた。
「でもこの街道で食べると、なんでか余計に美味くて」
「外で食べると美味いですよね」
「そうそう。なんでだろうな、外飯は」
悠斗とミハイルは笑い合った。
一方、焚き火の反対側では。
「エレナお姉さんも食べてよ」
ユリィが串を持って近づいていた。
エレナは焚き火から少し離れたところに座っていた。
荷物の横。一人で、空を見ていた。
「……いらない」
「食べなきゃ元気出ないよ」
「子供に言われたくない」
「子供でも言えることは言う」
ユリィは引かなかった。
エレナは少し間を置いた。
「……もらう」
「はい」
ユリィは串を押しつけた。
エレナは無言で受け取った。
かじる。
「……美味いか」
エレナはぼそりと言った。
「美味しいでしょ? マリナお母さんの料理は美味しいんだから」
「……そうだな」
エレナはもう一口食べた。
ユリィはエレナの隣にどかっと座った。
「エレナお姉さんって、しゃべらないよね」
「そうか」
「どうして? 私のこと嫌い?」
「嫌いではない」
「じゃあなんで?」
「……しゃべることが、あまりない」
エレナは短く言った。
「何を話したらいいか、いつも迷う」
「えっ」
ユリィは驚いたような顔になった。
「お姉さんって、そういう人なんだ」
「そうだ」
「でも、さっき馬車の修理してた時はしゃべってたよ」
「あれは仕事の話だ。仕事の話はできる」
「じゃあ、仕事みたいに話せばいいじゃん」
「……」
エレナは少し黙った。
「お前は、喋るのが好きなのか」
「うん。お父さんに言われる、しゃべりすぎって」
「そうか」
「でも、しゃべってないと不安なんだよね。静かだと何か考えちゃうから」
「何を考える」
「んー……」
ユリィは串を齧りながら考えた。
「なんか、嫌なこととか。怖いこととか。魔物に取り囲まれた時みたいな気持ちが、静かだと出てくる気がして」
「……そうか」
エレナは少し視線を落とした。
「しゃべることで、追い払えるか」
「そういう感じ。エレナお姉さんはどうやって追い払うの?」
「私は……」
エレナは少し間を置いた。
「動く。手を動かす。何か仕事をする。そうすれば、余計なことを考えなくて済む」
「あ、なんか似てるかも」
「似ていないだろう」
「方法は違うけど、追い払いたいっていうのは同じだよ」
「……そうかもな」
エレナはわずかに目を細めた。
それが笑いなのかどうか、ユリィには判断がつかなかった。
でも、さっきよりは顔が柔らかくなった気がした。
「エレナお姉さんって、怖い顔してるけど、悪い人じゃないよね」
「怖い顔をしているか」
「うん。でも悪い顔じゃない。なんか……疲れた顔」
エレナは返事をしなかった。
代わりに、干し肉を最後まで食べた。
串を持ったまま、少し黙った。
「……ユリィ」
「なに?」
「お前は、さっき魔物に囲まれた時、怖かったか」
「すごく怖かった。泣いた」
「それでも、荷台から降りて、ケルプスを見に行ったな」
「……だって、本当に全部倒したか確かめたかったから」
「怖くても、確かめに行った」
「うん」
エレナは静かに言った。
「それで、いい」
「え?」
「怖くても、動けることが大事だ。それだけで、たいていのことはなんとかなる」
ユリィは少し考えた。
「……エレナお姉さんも、怖いことあるの?」
「ある」
「どんなこと?」
エレナは少し沈黙した。
「大切なものを、失うことだ」
ユリィは何も言わなかった。
なんとなく、それ以上聞かない方がいいと、子供ながらに感じた。
「……もう一本、もらえるか」
エレナが言った。
「あ、はい!」
ユリィは立ち上がって串を取りに走った。
その背中を見ながら、エレナは焚き火の炎を見た。
揺れる火。
遠い過去の何かに似ている気がして、視線を逸らした。
夜が深まった。
ミハイルが焚き火に薪を足した。
マリナはユリィを寝かしつけようとしていたが、ユリィが抵抗していた。
「まだ眠くない」
「もう遅いわよ」
「でも話の途中だもん。悠斗お兄さん、もっと教えて」
「何を」
「旅の話。面白い話して」
「面白い話か……」
悠斗は少し考えた。
「じゃあ、食事した時の話でいいか」
「それ面白いの?」
「俺は衝撃だったぞ」
「どんな衝撃?」
「食べ過ぎて、腹が限界だと思ったのに、まだ食べたかった」
「それ面白くないよ普通に」
「ユリィ」
マリナが苦笑した。
「正直に言いすぎ」
「え、でも」
「でも、いいのか」
悠斗が笑った。
「正直に言ってくれた方が、楽だ。社交辞令より」
「社交辞令ってなに?」
「……気を遣って言わなくていいことを言うことだ」
「ふーん」
ユリィは首を傾げた。
「それって嘘と違うの?」
「難しいところだな」
「悠斗お兄さんも言うの? 社交辞令」
「……言うこともある」
「どんな時?」
「人を傷つけたくない時とか。それ以外はあまり言わない」
「なんで」
「めんどくさいから」
「あはは」
ユリィは笑った。
「正直だ」
「お前に言われたくない」
悠斗も笑った。
ルーナが隣で、少し口元を緩めていた。
「ルーナお姉さんも笑った」
ユリィがすぐ指摘した。
「笑っていない」
「笑ってた。口が動いてた」
「……少しだけ」
ルーナは認めた。
「ユリィ、目ざといね」
「そういう人なんだ、私」
ユリィはどこか誇らしそうに言った。
マリナが肩を叩いた。
「ほら、そろそろ眠りなさい」
「もうちょっと」
「もうちょっとはもう終わり」
「えー」
「えーじゃない」
ユリィは渋々立ち上がった。
「おやすみ」
「おやすみ、ユリィ」
ユリィは荷台に戻った。
毛布を被って、すぐに静かになった。
「……元気な子だな」
ミハイルが苦笑しながら言った。
「うるさくなかったか」
「いや、楽しかった」
悠斗は言った。
「本当に」
「そう言ってもらえると助かる。あの子は、誰にでもああいう感じで突っ込んでいくから、心配で」
「元気があるのはいいことですよ」
セレスティアが静かに言った。
「あの年頃の元気は、大事にした方がいい」
「そうだといいが」
ミハイルは少し遠い目をした。
「北の方はどんどん物騒になってる。商いをしていると、いろんな話が入ってくる。魔物の出現が増えたとか、街道が荒れているとか。ユリィが大人になる頃に、どんな世界になっているのかと思うと……まあ、心配はあるな」
「……物騒に、なってきているんですか」
悠斗は少し声のトーンを変えた。
「ここ最近は特に。俺たちも、今回の荷物を帝都に届けたら、しばらく南の方で商いをしようと思ってる。北は、しばらく落ち着かないだろうから」
「どんな話が入ってきているんですか、具体的には」
ミハイルは少し考えた。
「魔物が増えたっていうのは確かだな。ここ数ヶ月で、明らかに出没する数が違う。あと……これは噂だが」
「噂?」
「帝都に、ある商人仲間から話を聞いた。帝国の北端の街が、何かに襲われたと。魔物の群れじゃなかったって話だ」
「魔物じゃない?」
「ああ。形は人に近かったが、普通の人間じゃなかった、と。何人もの目撃証言があるらしいんだが……詳しいことはわからない。帝国がすぐに情報を封じたから」
悠斗は黙った。
ルーナも、静かに焚き火を見ていた。
「……まあ、噂は噂だ。そんなに気にしなくていいかもしれない」
ミハイルは少し笑った。
「商人は話を盛るからな。俺も含めて」
「そうかもしれないですね」
悠斗は曖昧に返した。
しかし、胸の中に引っかかるものが残った。
人に近い形。魔物の群れではない。帝国が情報を封じた。
「……」
ルーナと目が合った。
ルーナは小さく頷いた。
「今夜は、ゆっくり休もう」
ミハイルが立ち上がった。
「明日、馬が回復してれば出発できる。帝都までは、ここからさらに三日ほどかかるが」
「一緒に行けますか? 帝都まで」
悠斗は聞いた。
「構わない。帝都に荷物を届けるまで、道中一緒の方が心強い。あんたたちがいてくれれば、魔物が出ても安心だ」
「それは互いに助かる」
「では、決まりだな」
ミハイルは焚き火を少し踏み消した。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみです」
一行は、それぞれ休む場所に落ち着いた。
ミハイル一家は荷台。悠斗たちは街道脇の草地に毛布を敷いた。
エレナだけ、少し離れたところで地面に座ったまま動かなかった。
「エレナ」
悠斗は声をかけた。
焚き火の火が小さくなった頃。
ルーナとセレスティアはすでに横になっていた。
「何だ」
エレナは振り返らずに答えた。
「一つだけ、聞いていいか」
「……」
「元の世界に、帰りたいと思ったことはあるか」
しばらく、沈黙があった。
虫の音が遠くで続いている。
「……ある」
エレナは静かに言った。
「最初の頃は、毎日思っていた。朝起きるたびに、夢であってほしかった。二つの月を見るたびに、ここは夢の中だと思おうとした。でも、痛みがあった。腹も減った。夢じゃなかった」
「そうだよな」
「最初の一年は……つらかった。言葉が通じない。金もない。知っている人間が誰もいない。元の世界の家族のことも、友人のことも、思い出すたびに胸が痛かった」
「今でも、帰りたいと思うか」
エレナは少し間を置いた。
「……今は、違う」
「違う?」
「帰りたいと思わなくなった、という意味じゃない」
エレナは空を見上げた。
「帰れない、とわかった時に、何かが変わった。割り切ったわけじゃない。でも……帰ることを考えるより、ここで生きることを考えた方が、楽だと気づいた」
「それは……辛かったんじゃないか」
「辛かった」
エレナは即座に言った。
「でも、辛いことと正しいことは、別だ。辛い選択の方が、正しいことはある」
「……」
悠斗は少し黙った。
「……今でも、時々は思う」
エレナは静かに言った。
「眠れない夜に、ふと思う。あの頃の図書館の匂いとか。自動販売機の音とか。コンビニの灯りとか。そういう、たいしたことのないものを、ふと思い出す時がある」
「俺もそういうのある」
「そうだろうな」
「ゲームセンターのとか。ファミレスの深夜の感じとか。変なものばっかり」
「そういうものだ」
エレナはわずかに口元を動かした。
「大事なものより、たいしたことのないものを思い出す。それが故郷というものかもしれない」
「そうかも」
「でも」
エレナは続けた。
「ソフィアがいた。この世界に、ソフィアがいた。それが、俺を帰れなくさせた理由の一つだ」
「ソフィアが」
「子供が出来た瞬間に……ここが、自分の場所になった気がした。子供が大きくなるのを見て、笑うのを見て。ここには帰る場所がある、と感じた。元の世界ではなく、ここに。そういうことだ」
悠斗は少し黙った。
「……俺は、まだ答えが出ていない」
「当たり前だ。お前はまだ来てから短い」
「エレナは、十七年かかったんだよな?」
「答えが出るのに、十七年かかった。でも今は、答えが出ている」
「どういう答えだ?」
エレナは少し間を置いた。
「ここが、私の場所だ。日本ではなく、この世界が」
悠斗は何も言わなかった。
その言葉を、しばらく頭の中に置いた。
「……参考にするよ」
「参考にするな」
エレナはあっさり言った。
「自分の答えは、自分で出せ。他人の答えを借りるな」
「……」
悠斗は少し笑った。
「厳しいな」
「当たり前だ」
「でも、話してくれてありがとう」
「礼はいらない」
エレナは前を向いた。
「早く寝ろ。明日も歩くだろう」
「そうだな」
悠斗は毛布の方に戻った。
横になりながら、空を見た。
二つの月が浮かんでいる。
白い月は穏やかに。黒い月は、静かに。
ここが、私の場所だ。
エレナの言葉が、もう一度頭の中で響いた。
俺は。
まだ、そう言える日が来るかどうか、わからない。
でも。
ルーナが隣で静かに寝息を立てていた。
銀色の髪が、月の光を受けてわずかに輝いている。
「……まあ、いいか」
悠斗は小声で呟いた。
答えが出るのを、急がなくてもいい。
今は、前に進む。
それだけで、十分だ。
翌朝、馬は回復していた。
セレスティアの治癒魔法が、傷の回復を助けていた。
「これくらいなら走れそうです」
セレスティアが馬の脚を確認しながら言った。
「ゆっくりなら大丈夫そうですね」
「助かります」
ミハイルは深々と頭を下げた。
「セレスティア様のおかげで」
「お気になさらず」
「では、出発しましょうか」
一行は荷馬車と共に、北へ向かって歩き始めた。
ユリィはすぐに悠斗の隣に来た。
「お兄さん、昨日寝てた?」
「寝た」
「何時間くらい?」
「三時間くらいかな」
「短い! それで平気なの?」
「平気だ。俺は短い睡眠でも体が回復する」
「なんで?」
「体の仕組みが、ちょっと違うから」
「どう違うの?」
「説明が難しい」
「また難しいって言う!」
ユリィが不満そうに言った。
「ちゃんと教えてよ」
「本当に難しいんだ。俺自身もよくわかってないし」
「じゃあルーナお姉さん教えて」
「……私も、詳しいことはわからない」
ルーナが静かに答えた。
「でも、悠斗がこの世界に来てから体の仕組みが変わったのは確かね」
「この世界に来た? どこから来たの?」
「遠いところから」
「また遠いところから!」
ユリィは両手を上げた。
「みんな遠いところからばっかり! 遠いところってどこなの!」
「本当に遠いところです」
セレスティアがにこやかに言った。
「私も、出身はエルディア王国ですが、悠斗様とルーナ様は……本当に遠いところから来られているので」
「そうなんだ、エレナお姉さんはどこから来たの?」
エレナは荷馬車の横を歩いていた。
「……遠いところだ」
「絶対みんな示し合わせてる」
ユリィは確信した顔で言った。
「示し合わせていない」
「じゃあなんで全員同じ答えなの」
「……本当に、遠いところが答えだからだ」
エレナは言い切った。
ユリィはしばらく黙った。
「……エレナお姉さんって、嘘つかないよね」
「嘘はつかない」
「なんで」
「必要がないから」
「嘘って、必要な時があるの?」
「ある」
エレナは少し考えた。
「人を傷つけないための嘘は、ある。でも今は、必要な嘘がない。だから言わない」
「……」
ユリィは少し考えた。
「じゃあ、本当に遠いところから来たんだ」
「そうだ」
「どれくらい遠いの?」
「……馬車では行けないくらい、遠い」
ユリィはさらに考えた。
「船でも?」
「船でも」
「じゃあどうやって来たの」
「それは……」
エレナは少し間を置いた。
「特別な方法だ」
「特別な方法……」
ユリィは目を輝かせた。
「魔法?」
「……そう思っていい」
「すごい! どんな魔法?」
「眠ったら来ていた」
「眠ったら?」
「そうだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
ユリィはしばらく黙った。
「……それ、怖くなかった?」
エレナは少し間を置いた。
「怖かった。とても」
「そっか」
ユリィはそれ以上聞かなかった。
エレナの横を、しばらく黙って歩いた。
やがて。
「エレナお姉さん」
「何だ」
「……来てよかったと思う? 遠いところから」
エレナは、ユリィを見た。
子供の目だった。
真剣な、まっすぐな目。
「……今は、そう思っている」
エレナは静かに言った。
「そっか」
「なぜ聞く」
「うん……なんか、お姉さんがずっと一人だったって聞いたから。一人で十七年いたって言ってたから。それって、もったいないなって思って」
「もったいない?」
「もったいない。もっと早く来てたら、もっといろんな人に会えたじゃないかって」
「……」
「でも、来てよかったなら、よかった」
ユリィはさらりと言って、また前を向いた。
エレナは少し黙った。
それから、前を向いた。
言葉を返さなかった。
しかし、その歩幅が、ほんのわずかだけ、軽くなった気がした。
少し後ろを歩いていた悠斗は、それを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、空を見上げた。
青かった。
北に向かうほど、空の色が澄んでいく。
三日間、一行は街道を北へ進んだ。
道中、ユリィは飽くことなく喋り続けた。
悠斗に旅の話を聞き、ルーナに月の話を聞き、セレスティアに魔法の話を聞いた。エレナには毎日必ず一回話しかけに行って、短い会話をした。
エレナは毎回、最初は「いらない」「わからない」「知らない」と答えた。
しかし、ユリィが引かないので、毎回少し答えた。
三日目の昼頃。
「エレナお姉さん、好きな食べ物ある?」
「……ない」
「ないってことないよ。何でも好き?」
「腹が膨れれば何でもいい」
「えー。じゃあ嫌いな食べ物は?」
「ない」
「なんでも食べるんだ」
「食えないものを嫌いとは言わない。食えないものを嫌いになっても意味がない」
ユリィはしばらく考えた。
「それって、旅してたから?」
「そうだ」
「なんでも食べないと生きていけなかったから?」
「そうだ」
「……」
ユリィは少し黙った。
「じゃあ昔は、嫌いな食べ物あった?」
「……あった」
「何?」
エレナは少し間を置いた。
「納豆だ」
「なっとう?」
「知らないか。元の場所の食べ物だ。糸を引く豆の発酵食品で、匂いが強い」
「うわー。なんか想像するだけで嫌だ」
「美味い人間には美味いらしい。俺には無理だった」
「お姉さんって、そういう話する時ちょっと普通になるね」
「普通ではないのか」
「なんか、食べ物の話してる時だけ少し柔らかくなる」
エレナは黙った。
「……そうか」
「うん。だから私、毎日食べ物の話しようかな」
「しなくていい」
「する!」
ユリィは走って前に行ってしまった。
エレナは小さくため息をついた。
ルーナが横に来た。
「子供が苦手ですか」
「苦手ではない。ただ……ペースが読めない」
「ユリィちゃんに限らず、子供はそういうものですよ」
「ソフィアも、ああいう感じだったのか」
「……もっとおとなしかった。でも」
エレナは少し間を置いた。
「元気があるところは、似ているかもしれない」
ルーナは何も言わなかった。
ただ、少しだけ微笑んだ。
夕方。
丘の向こうに、街の輪郭が見え始めた。
「帝都か」
悠斗は目を細めた。
「そうです」
ミハイルが御者台から言った。
「ノルディア帝国の首都です」
城門が近づいてくる。
衛兵が数人立っていた。
「商人の通行証があれば、問題なく入れます」
ミハイルが通行証を出した。
衛兵は一行を検めた。
悠斗たちの顔も確認したが、特に問題はなかった。
「通れ」
城門をくぐる。
石畳の道。両側に建ち並ぶ商店と住居。人々の往来。
南のローレライとは、全く異なる空気だった。
暖かく湿った潮の匂いではなく、乾いた石と金属の匂い。寒さが増している。
「ここで別れますか」
ミハイルが言った。
「荷物の届け先は東の商区です。あなたたちはどちらへ?」
「城の方に用があります」
「なるほど」
ミハイルは頷いた。
「では、ここで」
「お世話になりました」
悠斗はミハイルと握手した。
「こちらこそ。命を助けてもらった恩があります」
マリナも深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「お気をつけて」
「あなたたちも」
ユリィが最後に走り寄ってきた。
「悠斗お兄さん!」
「ユリィ」
「また会えるかな」
「どうだろうな。でも、会えたらいいな」
「絶対また会おう! 約束して!」
「約束は難しい。でも……縁があれば」
「縁ってなに」
「会うべき時に、会える、ということだ」
ユリィは少し考えた。
「……じゃあ、縁を作る!」
「どうやって」
「会いに行く!」
悠斗は笑った。
「元気でいろよ、ユリィ」
「うん! お兄さんたちも!」
ユリィはルーナを振り返った。
「ルーナお姉さん、また会ったら旅の話聞かせて!」
「……縁があれば」
ルーナが静かに言った。
「絶対縁作る!」
それからエレナを見た。
「エレナお姉さん」
「なんだ」
「また、食べ物の話しよう」
「……しなくていい」
「する!」
ユリィは笑って手を振った。
エレナは、返事をしなかった。
しかし、片手をわずかに上げた。
ほんの少し。
上げた。
「……」
悠斗はそれを見た。
何も言わなかった。
ミハイル一家の馬車が、東の商区の方向へ向かっていった。
ユリィがまだ荷台から手を振っていた。
それが小さくなるまで、四人は見ていた。
城への道は、石畳が続いていた。
「エリシアに連絡を入れた方がいいか」
悠斗は歩きながら言った。
「手紙を持っていない」
エレナが言った。
「城門で、名を名乗れば伝わるだろう。この国の皇女に、悠斗の名前が通じるなら」
「通じるはずだ」
「では、試してみろ」
皇城の外門に、衛兵が複数立っていた。
悠斗は前に出た。
「神崎悠斗という者です。第二皇女エリシア様に取り次いでもらえますか」
衛兵の一人が、眉をひそめた。
「どのようなご用件で」
「以前、お世話になりました。旅の途中でこちらに立ち寄った次第です」
衛兵は少し考えた。
「少々お待ちを」
一人が内部に走った。
しばらく待つと外門が開いた。
先ほどの衛兵が戻ってきた。
その後ろに、もう一人。
白い正装。金糸の刺繍。
「悠斗!」
エリシアだった。
以前より、少し大人びて見えた。
髪の結い方が変わっている。立ち姿に、以前はなかった落ち着きがあった。
しかし、声は変わっていない。
「来てくれたんですね!」
「久しぶり、エリシア」
悠斗は言った。
「いつの間に帝都に来てたんですか! 手紙も来ないから……」
「急な旅程で、連絡できなくてな、すまん」
「謝らなくていいです! 来てくれた方が嬉しい!」
エリシアはルーナを見た。
「ルーナさんも!ご無事で……!」
「おかげさまで。エリシア、久しぶりね」
「本当に……どのくらいぶりですか」
「だいぶ経ちましたね」
「セレスティア様も!」
「お元気そうで」
「はい! あの、こちらの方は……」
エリシアの目がエレナに向いた。
エレナは無表情のまま立っていた。
「エレナだ。最近、旅を共にしている」
悠斗が紹介した。
「エレナ……様、ですか。出身は……」
「遠いところだ」
エレナは言った。
「……そうですか」
エリシアは少し戸惑ったが、頷いた。
「とにかく、中へどうぞ! 立ち話もなんですし」
「お邪魔します」
「全然邪魔じゃないです! むしろ、ずっと待ってました」
エリシアは少し早口になりながら、一行を中へ案内した。
皇城の内部は、石の壁に燭台の光が落ちていた。
廊下を歩きながら、エリシアが言った。
「姉様も知ったら喜ぶと思います。今は執務中なので、後で呼びますね」
「イザベラ様も元気か?」
「はい。相変わらず厳しいですが……」
エリシアは少し苦笑した。
「でも、会談の後から、少し変わりました」
「たぶん」
「姉様は素直に認めないので、たぶん、としか言えないんです」
「なるほど」
応接室に通された。
暖炉があり、室内は温かかった。
「少しお待ちください。お茶と食事を用意させます」
「ありがとうございます」
エリシアが出ていった。
部屋に、四人が残った。
「広い部屋だ」
エレナが静かに言った。
「帝国の応接室ですから」
セレスティアが答えた。
「緊張するか」
悠斗は聞いた。
「しない」
エレナは椅子に座った。
「こういう場所には慣れた。情報収集で、色々な場所に入ってきたから」
「そういうものか」
「場所より、人の方が大事だ。どんな場所でも、信頼できる人間がいれば話ができる」
しばらくして、エリシアが戻ってきた。
使用人がお茶と食事を運んできた。
暖かいスープ、パン、燻製肉の盛り合わせ。
「どうぞ。旅の後は、まず温かいものを」
「ありがとう」
悠斗はスープを一口飲んだ。
「……美味い」
「帝都の料理は、塩気が強めです。体が温まりますよ」
「確かに」
「ルーナさんはいかがですか」
「美味しいわ」
「よかったです」
エリシアはエレナを見た。
「エレナさんも、どうぞ」
「いただく」
エレナはスープを受け取った。
一口飲んだ。
「……美味い」
「ありがとうございます」
エリシアはほっとした顔になった。
「それで」
エリシアは悠斗を見た。
「今回は、どのような旅程で? ここに来たということは、北に向かっているんですよね」
「大陸の北端の方向に向かっている」
「北端……」
エリシアは少し表情を変えた。
「それは……何のために?」
「ルーナの残った記憶に関係した場所があって。そこに向かっている」
「そうですか……」
エリシアは少し言葉を止めた。
「実は、北の方向のことで、最近気になる情報が入っていて」
「気になる情報?」
「帝国の北端の街、ヴァルクから報告が来たんです。先月、その街の外で、奇妙なものが目撃されたと」
「奇妙なもの」
「魔物、ではないらしくて。形は人間に近いんですが……普通の人間より、格段に強い動きをしていたと」
「……」
悠斗は少し黙った。
ミハイルが話していた噂と、重なった。
「目撃証言は、どれくらい?」
「複数あります。街の外で作業をしていた農民と、街道の巡回をしていた兵士が、それぞれ別々に見ています。見た時刻も違う。それでも報告内容が似ていたので、姉様が本格的に調査を命じました」
「調査の結果は」
「まだ来ていません。調査隊を送ってから、まだ日が浅いので」
「そうか」
「悠斗、何か知っていますか」
エリシアは少し前のめりになった。
「道中、商人から似たような噂を聞いた。帝国北端の街が何かに襲われたと」
「やはり……」
エリシアは表情を曇らせた。
「そちらの噂は、どこから流れているんでしょう」
「商人の伝聞だ。詳しいことはわからない。でも、複数の噂の向きが一致しているというのは、それなりに信憑性があると思う」
「そうですね……」
エリシアは少し息をのんだ。
「……気をつけてください。いえ、気をつけてという言葉だけでは足りないかもしれませんが」
「大丈夫」
悠斗は言った。
「……あなたは、いつもそう言いますね」
エリシアは少し苦笑した。
「なんとかなる、って」
「なんとかなってきたから」
「それはそうですが……」
エリシアはしばらく悠斗を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……わかりました。防寒装備の調達も手伝わせてください。帝国の北方用の装備は、市場に出回っているものよりずっと性能が違います」
「それは助かる」
「あと……案内人を一人、つけたいと思います。ヴァルク周辺の地理に詳しい者を」
「必要か?」
「あの辺りは、地図だけでは読めない地形が多いんです。地元の案内なしでは、遭難する可能性があります」
「……それは確かに」
エレナが静かに言った。
「信頼できる人間を頼めるなら、案内人はいた方がいい。知らない地形は、どれほどの力があっても動けなくなる」
「では、手配します」
エリシアはすぐに立ち上がろうとした。
「エリシア」
「はい?」
「今日は、休ませてくれ」
「ああ……そうですね。ごめんなさい、せっかちになりすぎて」
「いや、助かる。でも取り敢えず、飯を食べたい」
「はい! 食べてください!」
エリシアはほっとした顔になった。
「そうですよね、旅の後は休むのが一番ですよね。私、つい急いでしまって」
「エリシアは、元気ですね」
ルーナが静かに言った。
「え……そうですか?」
「以前より、活発になった気がします」
「……そうかもしれません」
どこかほっとした顔をしていた。
「では、今夜は部屋をご用意します。明日の朝から、準備を始めましょう」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
夜。
城内に用意された部屋で、悠斗はベッドに座っていた。
ルーナは隣のベッドに腰かけて、窓の外を見ていた。
「ルーナ」
「うん」
「エリシア、変わったな」
「そうね」
「いい意味で」
「ええ」
ルーナは窓の外に目を向けたまま、静かに言った。
「あの頃は、まだ怖がってばかりだったから。今は……自分の足で立っている感じがするわ」
「俺もそう思った」
「悠斗は、嬉しそうにしてたわ」
「そうか?」
「うん。久しぶりに会った友人が、元気にしてたら、嬉しいわよね」
「……そうだな」
悠斗は少し考えた。
「エリシアって、俺のことどう思ってるんだろうな」
「……聞かない方がいいわよ」
ルーナが静かに言った。
「なんで」
「聞かなくていいことは、聞かない方がいい」
悠斗はルーナを見た。
ルーナは窓の外を向いたまま、少し口が尖っていた。
「……ルーナ」
「何」
「機嫌が悪いか?」
「悪くない」
「そうか」
「悪くないわ」
「わかった」
少し間があった。
「……エリシアは友人だ」
悠斗は言った。
「知ってるわ」
「俺の隣に立つのはお前だ。それも知ってるよな」
「……知ってる」
ルーナは窓の外から視線を動かした。
悠斗の方を向いた。
「当たり前のことを言わないで」
「言わないと、拗ねるだろ」
「拗ねてない」
「わかった」
「……」
少し間があった。
ルーナの耳が、わずかに赤かった。
「……明日、何をするの?」
「エリシアと一緒に、装備を見に行く。案内人とも話す。あとは北の情報を集める」
「そう」
「ルーナも一緒に来るか」
「行く」
「わかった」
「……悠斗」
「うん」
ルーナは少し黙った。
「早く取り戻したい。残った記憶を」
「ああ」
「姉さんのことが、夢でまた見えた気がした。今夜も、眠ったら見えるかもしれない」
「見えたら、教えてくれ」
「うん」
「何があっても、俺はここにいるから」
ルーナは少し目を細めた。
「……知ってる」
「おやすみ、ルーナ」
「おやすみ」
二人は横になった。
窓の外から、北の夜風の音が聞こえた。
ローレライよりも冷たく、乾いた風だった。
北は、もっと寒くなる。
翌朝。
朝食を終えた後、イザベラが応接室に現れた。
以前と変わらない、凛とした佇まいだった。
「久しぶりだな、悠斗」
「お久しぶりです、イザベラ様」
「様はいらない」
「……イザベラ」
「そうだ」
イザベラは椅子に座った。
その視線が、エレナに向いた。
「初めて会う顔だな」
「エレナです」
エレナは答えた。
「どこの者だ」
「遠いところから来ました」
「帝国の人間でないことはわかる。エルディアでもない。ヴェスタリアか、アストラルか」
「どちらでもない」
「では」
「悠斗と同じ出身です」
イザベラはわずかに目を細めた。
視線が悠斗に向いた。
「そうです」
「十七年前に来たと聞いた」
「エリシアから聞いたか」
「昨夜、報告を受けた」
イザベラは少し考えた。
「悠斗の次に、そういう者と会うとは思わなかった」
「俺も、いるとは思いませんでした」
イザベラはエレナを見た。
「エレナ。北の方向について、何か掴んでいるか」
エレナは少し考えた。
「ヴァルクで目撃されたというものについては、聞いています。それ以上の情報は持っていません」
「我々の調査隊が出発してから、まだ報告が来ない」
「それが気になっているか」
「ああ」
イザベラは淡々と言った。
「普通なら、三日で往復できる距離だ。すでに五日経っている」
「遅延の可能性は」
「天候か、あるいは別の理由か。どちらにせよ、次の調査隊を送ることを検討している」
「……」
悠斗は少し考えた。
「イザベラ、一つ聞いていいですか」
「言え」
「目撃されたのが、人の形をしたもの、ということですが……言葉を使っていたとか、そういう情報は?」
「目撃者は、戦闘のような動きをしていたと言っている。言葉については、聞いていない。遠くから見ただけだったらしいから」
「そうか」
「何かわかっているのか」
「……わからない。でも、可能性として考えていることはあります」
「言え」
悠斗は少し間を置いた。
「この世界の月のバランスが崩れ続けています。その影響で、通常では考えられないものが現れる可能性が、今の状況では高くなっていると思っています」
「通常では考えられないもの、というのは」
「魔物より強く、知恵を持つ存在、です」
部屋が静かになった。
イザベラは少し考えた。
「……そういった存在を、この世界では魔族と呼ぶことがある。古い文献に記録がある」
「魔族?」
エリシアが繰り返した。
「はい。月のバランスが大きく崩れた時代に、過去に一度、出現したという記録があります。百年以上前の話ですが」
「百年以上前……」
「その頃、月の女神が姿を消した時期と重なっています」
ルーナが静かに言った。
「つまり……」
「私が力を失い、白と黒の均衡が崩れた時期です。その時と、今の状況が似てきているとしたら……」
「過去と同じことが起き始めている、ということか」
イザベラが静かに言った。
「可能性として、です」
「……わかった」
イザベラは立ち上がった。
「北への旅程については、エリシアから詳しく聞いてくれ。私は今日中に、追加の調査隊の編成について手を打つ必要がある」
「はい」
「一つだけ言っておく」
イザベラは悠斗を見た。
「北から何かが来るなら、帝国が最初に当たることになる。それを止める力があるなら、止めてくれ。頼む、ではなく……この国と、国の民のために、頼む」
「……わかりました」
悠斗は頷いた。
「約束します」
イザベラはわずかに目を伏せた。
それから頷いて、部屋を出た。
エリシアが小さく息をついた。
「姉様なりの、お願いの仕方なんです」
「わかってる」
「悠斗のこと……信頼しているんだと思います。あんなふうに頼むのは、珍しいですから」
「光栄です」
「……でも、無茶はしないでくださいね」
エリシアは真剣な目で言った。
「無茶をするつもりはない」
「でも、悠斗は無茶をするんです、いつも」
「……ばれてるか」
「バレてます」
エリシアは苦笑した。
その日は、準備に費やした。
エリシアの案内で、帝都の軍用品を扱う店に向かった。
「防寒具は、この素材が一番保温性が高いです」
エリシアが示したのは、厚みのある外套と、内側に獣の毛皮が施された上着だった。
「これ、重くないか」
「体が重くなりますが、あの先の寒さでは必要です。悠斗さんは体の作りが違うので、多少軽めでも大丈夫かもしれませんが、ルーナさんとセレスティア様には必須です」
「エレナは」
「私は問題ない。すでに北方用の装備は持っている」
「そうか」
「自分たち分だけ揃えろ」
「じゃあ三人分」
店主と交渉する間、エリシアが静かに悠斗の隣に立った。
「一つ、聞いていいですか」
「何だ?」
「エクリシア……という名前を、知っていますか」
悠斗は少し止まった。
「……知ってる」
「やっぱり」
エリシアは静かに言った。
「帝国の古い文献に、その名前が出てきます。破壊の女神、という記述で。姉様が調べていて、私にも教えてくれました」
「どんなことが書いてあった?」
「百年以上前、大きな破壊があったこと。その原因が、破壊の女神エクリシアの暴走だったこと」
「……」
「もしかして、エクリシアとルーナ様は……」
「姉妹だ」
エリシアはしばらく黙った。
「……そうでしたか」
「文献には書いてあったか?」
「女神が二人いたという記述はありました。でも、姉妹だとは書いていなかったです」
「今、エクリシアが何をしているか……俺たちもまだ、全部はわかってない。でも、向き合わないといけないとは思ってる」
「北に向かうことと、関係がありますか」
「ある」
エリシアは少し間を置いた。
「……気をつけて」
「ああ」
「あの……」
エリシアは少し迷った。
「私も、何か力になれることがありますか」
「今やってくれていることが、十分すぎるほどだ」
「それだけじゃ足りない気がして」
「エリシア」
悠斗は少し真剣な顔になった。
「帝国の中で、民のそばにいてくれること。それが今、一番大事なことだよ」
「……どういう意味ですか」
「北に何かがいるなら、この国の民は不安になる。その時に、皇女が民のそばに立っていることが、どれほど大事か」
「……」
「エリシアにしかできないことがあります。それをやってくれること、それが一番の力になる」
エリシアはしばらく、悠斗の顔を見ていた。
「……わかりました」
「ありがとう」
「こちらこそ」
エリシアは小さく息をついた。
「……悠斗は、本当に」
「何?」
「変わらない、と思いました」
「そうか」
「はい。すごく変なところが、全然変わらない」
「それは、どういう意味か?」
「いい意味です」
エリシアは微笑んだ。
「人に、自分のことより相手のことを考えさせるのが、上手い」
「……そうかな」
エリシアはもう一度悠斗の顔を見た。
それから、視線をルーナに移した。
ルーナが少し離れた棚の前で、セレスティアと防寒具を選んでいた。
「ルーナさんが、そばにいてくれますね」
「そうだな」
「……よかったです」
エリシアは静かに言った。
「本当に」
その声に、何かが滲んでいた。
悠斗は気づいていたが、何も言わなかった。
その夜。
夕食の後、エリシアが案内人を連れてきた。
「こちら、ヴァルク周辺の地理に詳しいウルリックという者です」
四十代の男だった。
日焼けした顔。がっしりとした体格。目つきは鋭いが、表情は穏やかだった。
「ウルリックです」
「神崎悠斗です。よろしくお願いします」
「ヴァルクの先に行くと聞いた」
「はい」
「あのあたりは、夏でも吹雪になることがある。迷ったら、まず死ぬ」
「……端的ですね」
「事実だ。だから俺がいる。ついてくれば、生きて通れる」
「頼もしい」
ウルリックは悠斗を見た。
「あんたは、普通の旅人じゃないな」
「そうですか」
「体の作りが違う。目つきも違う。どこかで鍛えたのか」
「……まあ、そういうものです」
「言いたくなければ言わなくていい。ただ、俺を信頼してくれるなら、俺もあんたを信頼する。それだけだ」
「わかりました」
「出発は明後日でいいか。一日、俺の準備が必要だ」
「問題ない」
「では、明後日の朝に北門で」
ウルリックは頷いて、席を外した。
「いい人ですね」
セレスティアが言った。
「ウルリックさんは、長く北方の案内をしている方です」
エリシアが言った。
「帝国の北部調査にも何度か同行しています。信頼できます」
「ありがとうございます」
「……」
エリシアは少し間を置いた。
「明後日、見送りに行きます」
「来てくれるのか?」
「当たり前じゃないですか。またいつ会えるかわからないのに」
エリシアは少し口を尖らせた。
「もっと早く来てくれれば、もっとゆっくりできたのに」
「急な旅程だからな」
「わかってます。でも……次は、もう少し早めに連絡してください」
「そうするよ」
「約束してください」
「……約束する」
エリシアはそれで満足した顔になった。
「では、今日はお休みください。明日は市内を少しご案内できると思いますので」
「ありがとう」
「おやすみなさい」
エリシアは部屋を出た。
その後ろ姿を、悠斗はしばらく見た。
帝都の北門。
夜明け前の空が、少しずつ白み始めていた。
ウルリックがすでに待っていた。
荷を背負い、杖を手に、整然と立っている。
「早いですね」
「待つのは慣れている」
四人が門のそばに揃った。
エリシアが小走りで来た。
白い外套を羽織っている。息が少し上がっていた。
「間に合った……」
「来てくれたんだな」
「当たり前です。行くと言ったんだから」
エリシアは一人一人の顔を見た。
「セレスティア様、気をつけてください」
「はい。エリシア様も、お元気で」
「エレナさん」
「なんだ」
「……また、お話できるといいですね」
エレナは少し間を置いた。
「……そうだな」
「ルーナ様」
エリシアはルーナを見た。
「エリシア」
「記憶、取り戻せるといいですね。全部」
「ありがとう」
「必ず取り戻せると、私は信じています」
ルーナはエリシアを見た。
しばらく、静かに見た。
「……ありがとう」
もう一度、言った。
エリシアは悠斗に向き直った。
「悠斗」
「……無事でいてください」
「そのつもりだ」
「そのつもりじゃなくて、無事でいるって言ってください」
「……無事でいるよ」
「約束ですよ」
「約束だ」
エリシアは少し頷いた。
「お気を付けて行ってきてください」
「行ってきます」
一行は北門をくぐった。
石畳が、砂利道に変わる。
ウルリックが先頭に立った。
「この先、一週間歩けばヴァルクに着く。それから先は……また話す」
「わかりました」
後ろを振り返ると、エリシアが門のそばに立っていた。
手を上げていた。
小さく、静かに。
悠斗も手を上げた。
ルーナも、少し振り返って頷いた。
やがて、道が曲がり、帝都の城壁が見えなくなった。
北の空が開けた。
広い。
空が、南より低く感じる。
風が、肌に刺さるように冷たかった。
「寒いですね」
セレスティアが言った。
「これから、もっと寒くなる」
ウルリックが答えた。
「装備はしっかり身につけておけ。体を冷やすと、体力の消耗が早い」
「わかりました」
一行は北へ歩いた。
帝都の影が、少しずつ遠くなっていく。
エレナが静かに呟いた。
誰にも聞こえないように。
「……また、遠くへ行く」
それは独り言だった。
しかし、不思議と暗い声ではなかった。
ただ、事実を確かめるような、静かな声だった。
悠斗は聞こえていたが、何も言わなかった。
ウルリックの背中を追いながら、ただ前を向いた。
北の道が、続いている。
突然の再会でした。
連絡も何もなく、城門に名前だけで現れる。それが悠斗らしい、と思いながら、足が勝手に走っていました。
久しぶりに会った悠斗は、何も変わっていませんでした。相変わらず「大丈夫」と言って、相変わらず人のことばかり考えて、相変わらず北に向かっていく。
エレナという方のことは、最初、少し怖かったです。でも話すうちに、なぜか安心しました。悠斗と同じ遠いところから来た人が、悠斗のそばにいてくれている。それだけで、なぜか少し楽になった気がします。
見送りの朝、北門をくぐっていく背中を見ていました。帝都の城壁が遮って、もう見えなくなっても、しばらく同じ場所に立っていました。
私にできることは、ここで待つことと、民のそばに立つことだと、悠斗は言いました。
そうします。
だから、必ず戻ってきてください。
全部終わったら、ゆっくり話を聞かせてください。
今度は、ちゃんと連絡してから来てくださいね。
待ってますから。
―― エリシア




