第26話 「焦がれる月」
闇の中に、意識があった。
それは眠りとも目覚めとも違う、どこか曖昧な場所に存在していた。
黒い月の光だけが届く場所。それ以外の何もない、空洞のような空間。
「……また、戻ってきた」
声は誰にも届かない。
届けるつもりもない。
目の前には、小さな台座があった。
台座の上に置かれた水晶が、かすかに発光している。淡い銀色の光。触れることすら恐ろしい、あの小さな光の欠片。
月の記憶の水晶。
最後の、五番目の記憶。
妹の。
「……まだ、取り出せない」
水晶を見下ろしながら、その存在は静かに思った。
力が足りない。今の状態では、水晶に封じられた記憶を解析することも、破壊することもできない。何百年もかけて蓄積されてきたはずの力は、あの日からずっと、ゆっくりと失われ続けていた。
あの日。
アリエルが死んだ日。
炎が村を包み、自分が世界を半分焼いた、あの日。
「……ルーナ」
誰もいない暗闇の中で、その名前だけが口をついて出た。
妹の顔が、脳裏に浮かぶ。
銀色の瞳。白いドレス。あの頃の、まだ傷のなかった笑顔。
「お前を愛している」
静かに、誰にも聞こえないように、呟いた。
愛していた。
百年以上前も。
今も。
それは変わっていない。だから、こんなに苦しい。
だから、こんなにも、遠ざけなければならない。
彼女が記憶を取り戻しつつあることは、知っていた。
五つに分かれた記憶の欠片。妹は旅をしながら、一つ、また一つと取り戻してきた。世界の各地に散らばった神殿や遺跡を巡り、仲間たちと共に。
その動きは、ずっと追っていた。
見えるのだ。黒い月の力を使えば、この世界のどこかで起きていることの輪郭を掴むことができる。ぼんやりとした、霞がかった映像のようなものだが、方向性を知るには十分だった。
神崎悠斗。
あの少年の名前を、この存在はいつの間にか覚えていた。
この世界の物理法則とは異なる存在。自分と同じように。
この世界で生きながら、元の世界の力学を体内に宿している。つまり彼の体一つが、この世界の常識を超えた兵器になりうる。
出現を知った時、最初は驚いた。
どうして今、そんな存在が現れたのか。
しかし、すぐにわかった。
ルーナが呼んだのだ。
あの子は、ずっと誰かを待っていた。一人で抱えきれなくなった時、誰かに助けを求めることができる存在を。
「……あの子らしい」
思わず、口元が動いた。
それが微笑みなのか、苦笑なのか、自分でも判断がつかなかった。
あの少年は、強い。
神殿での対峙を思い出す。
ゼノンを倒したという話は、掴んでいた。あれほどの力を持つ教祖を、ほぼ単独で圧倒したと。しかし実際に対峙してみるまでは、それを信じ切れていなかった。
信じるべきだった。
あの速さ、力、判断力。そして何より、限界を感じさせない体。
自分が全盛期の力を持っていたなら、別の話だったかもしれない。しかし今の自分では、正面からぶつかっても勝負にならないだろう。
それが脅威かと問われれば、そうだと答える。
しかし奇妙なことに、恐怖というものは感じなかった。
あの少年は、ルーナを守りたいと思っている。それだけが動機だ。世界を壊したいわけでも、力を誇示したいわけでも、権力を求めているわけでもない。ただ、一人の少女のそばにいたいと思っている。
それが、どういうわけか、許せないほど腹立たしいわけではなかった。
「……奇妙なものだ」
百年以上生きてきて、人間というものに何度も絶望してきた。裏切られ、利用され、消費された。それでも少年は、ルーナのそばで笑っている。
いや。
今は、関係のない話だ。
目の前の水晶を見つめた。
水晶の中には、最後の記憶が眠っている。
ルーナとの最後の場面。アリエルの死の後、自分が暴走し、ルーナと対峙した瞬間。そしてその後、自分がどこへ消えたか。
ルーナに、それを思い出されてはならない。
なぜか。
それを言葉にすることは、今は難しかった。
ただ、漠然とした確信だけがある。
妹がすべてを思い出した時、何かが決定的に変わる。
世界の、ではない。
自分の、内側で。
それが怖かった。
怖い、と感じていること自体が、おかしいのかもしれない。世界を壊そうとしている存在が、妹に記憶を取り戻されることを、どうして恐れているのか。
「……わかっている」
自分は矛盾している。
ルーナを遠ざけたい。同時に、会いたい。
世界を壊したい。同時に、この世界が続いてほしいとも思っている。
人々が幸せに暮らしているのを見ると、アリエルのことを思い出す。
あの子は、笑うのが好きだった。
川で遊ぶのが好きだった。
ルーナと自分の、両方の手を引いて走るのが好きだった。
あの子が最後に言った言葉を、何百年経っても忘れることができない。
『……また……一緒に……遊びたかった……な……』
遊びたかった。
過去形だった。
あの子は、もう叶わないとわかっていながら、それでもそれだけを望んでいた。
炎に包まれた村で、胸に剣が刺さったまま、最後にそれだけを言った。
「……私のせいだ」
誰もいない闇の中で、百年以上繰り返し続けてきた言葉。
そうだ。自分のせいだ。
守れなかった。
神としての力があれば、あの盗賊たちを追い払えた。村を守れた。アリエルを守れた。
なのに自分たちは、神殿にいた。
離れていた。
そしてアリエルは、一人で、冷たい地面の上で倒れていた。
あの瞬間から、自分の中の何かが壊れた。
力が溢れ出した。怒りとも悲しみとも呼べない、もっと根源的な何かが、体の外に溢れ出した。
村が消えた。
森が消えた。
大陸の東部が、焼けた。
そして——ルーナが立っていた。
白い光を纏い、自分に向かって立っていた。
泣きながら叫んでいた。
「姉さん、やめて」
覚えている。
あの声は、ずっと覚えている。
しかし、止まれなかった。
力は制御を失っていた。止めたくても、止まらなかった。そしてルーナが放った白い月の力が、暴走した自分の力と激突した瞬間、何かが砕けた。
ルーナが崩れ落ちた。
その瞬間だけは、はっきりと覚えている。
妹が倒れた瞬間、力が止まった。
止まった、というより抜け落ちた。何万年も積み重ねてきた力が、砂が崩れるように、対消滅した。
そして気づいた。
自分は、何をしていたのか。
周りを見渡した時、東部大陸には、もう何もなかった。
「……」
思い出すのは、ここまでにしよう。
この存在は、静かに目を閉じた。
過去を掘り返しても、何も変わらない。変えることは、できない。
できることは、ただ一つ。
力を取り戻すこと。
少しずつ、少しずつ。削られ続けた力を、もう一度積み上げること。
今は黒い月から力を少しずつ吸収している。
かつての自分なら一瞬で成し遂げたことが、今は何ヶ月もかかる。
しかしそれでも、時間をかけて積み上げていけば、いつかは。
「……水晶を壊せる日が、来るはずだ」
来なければならない。
そうしなければ、ルーナに記憶が届く。
全てを思い出したルーナが何をするか、想像するだけで胸が痛かった。
もしあの子が、最後の記憶を取り戻したら。
自分に会いに来るかもしれない。
それだけは、どうしても。
台座の上の水晶が、かすかに光った。
まるで反応するように。
この存在は、その光から目を逸らした。
「……今は、まだ」
まだ、答えを出せない。
出す時ではない。
ただ、力を蓄えることだけを考えよう。
それだけを。
黒い月の光が、静かに降り注いでいた。
かつて破壊の女神と呼ばれた存在は、その光の中で、一人、静かに膝を抱えていた。
翌朝。
悠斗は鳥の声で目を覚ました。
ローレライの朝だ。
潮の香りが、薄いカーテンを通して部屋に漂っている。
「……ん」
隣のベッドを見ると、ルーナがまだ眠っていた。銀色の髪が枕の上に広がり、穏やかな寝息を立てている。
昨夜は長かった。
エレナの話を聞き、整理し、これからのことを考えた。考えすぎて、眠りにつくのが遅くなった。それでも体はきちんと回復している。この世界に来てから気づいたことだが、自分の体は睡眠効率が異常に高い。三時間も眠れば、ほぼ完全に疲労が抜ける。
悠斗は静かにベッドを出た。
廊下に出た瞬間、いい匂いがした。
「……何だこれ」
思わず足が止まる。
焼けた油の香り。玉ねぎが炒まる香り。何かが煮えている音。
台所の方向から、声が聞こえた。
二人分の声。
「お母さん、それ入れすぎじゃないの」
「これくらいでいい。少ないと味が出ない」
低い笑いが聞こえた。
違う。
笑いではない。
笑いになりそうな音を、かろうじて抑えた音だ。
悠斗は台所を覗いた。
コンロの前に、エレナが立っている。黒いフードは脱いでいた。動きやすい暗色の服装に、短く束ねた黒髪。初めてフードなしで動いている姿を見た気がした。その隣で、ソフィアが鍋を覗き込んでいる。
二人が並んでいる光景は、ごく自然だった。
不思議なくらい自然だった。
「おはよう」
悠斗は声をかけた。
「悠斗さん」
ソフィアが振り返った。今日は顔色がいい。攫われていた三日間の疲れが、一晩でだいぶ回復したようだった。
「おはよう」
エレナは振り返らずに、鍋をかき混ぜながら答えた。
「何作ってるんだ?」
「魚のシチューだ。この港の朝食はこれだとソフィアが言うから」
「お母さんが作ってみたいって言ったんですよ。私の家の定番レシピがあって」
「定番があるなら、教えてもらえばいい。お前が全部作ればいい。私は邪魔しない」
「一緒に作りたいの」
「……」
エレナは少し黙った。
「そういうことは」
エレナは静かに言った。
「最初に言え」
「ふふ」
ソフィアは笑った。
悠斗は何も言わず、椅子に座った。
この二人の間に入る必要はない。ただ、見ていたかった。
言葉が少なくても、横に並んでいるだけで、それが十分伝わってくる。
三年間。
エレナが去って、ソフィアは一人でこの家で暮らしてきた。
その三年間は、埋まるものではない。消えるものでもない。
しかし、今朝のこの台所には、それでも確かに温かいものがあった。
「手伝おうか?」
「座っていろ」
エレナがすぐに答えた。
「働かせるな。食べさせてやる」
「ありがとう」
悠斗は苦笑しながら、壁に背を預けた。
しばらくして、廊下から足音が複数聞こえた。
「おはようございます……」
ルーナが目をこすりながら台所に入ってきた。
続いて、セレスティアが。
「朝食の匂いがすごくて……」
「ルーナさん、何時間寝たんですか? 顔がむくんでます」
セレスティアにさらりと言われて、ルーナはむっとした表情になった。
「む、むくんでないわよ」
「少しだけ。でもかわいいですよ」
「……おはよう」
ルーナは悠斗の隣に座りながら、ぼそりと言った。
悠斗はルーナの頭を軽く撫でた。
「よく眠れたか?」
「……うん」
ルーナは少し目を細めた。
「昨夜、また夢を見た。姉さんの夢」
「どんな夢だ?」
「よくわからない。また、姉さんが何かを言おうとしていたけど、聞き取れなかった」
「そうか」
「……でも」
ルーナは窓の外を見た。
「なんか、今日は少しだけ、顔がはっきり見えた気がした。夢の中で」
「顔が……」
「うん。今まではぼんやりしてた。でも今回は、少し、鮮明で。それだけ」
悠斗は頷いた。
詳しいことは言わなかった。
今は言葉よりも、シチューの匂いの方が正しい気がした。
朝食が並んだ。
魚のシチュー。焼いたパン。干した果物を煮て作った甘いソース。それと、ローレライ特産のハーブを使ったお茶。
「すごい」
悠斗はシチューを一口飲んだ瞬間、思わず声が出た。
「美味い……!」
魚の旨味が溶け込んだスープに、野菜の甘みが加わって、何とも言えない深みがある。昨日の朝と同じシチューとは思えない。
「お母さんが作ったの」
ソフィアが嬉しそうに言った。
「私はパンと果物ソースだけ」
「どちらも美味しかった」
エレナは何も言わなかった。
ただ、自分のカップをゆっくり傾けながら、悠斗がシチューを食べている様子を、横目で一瞬だけ見た。
「悠斗様、おかわりはいかがですか?」
セレスティアが鍋を持ち上げた。
「貰うよ!」
「ルーナ様は?」
「……貰います」
ルーナもカップを差し出した。
テーブルの上には、食べ物と、人の温度があった。
昨夜の話の重さが、まだどこかに残っている。水晶のこと、エクリシアのこと、声の主のこと。解決していない謎は山ほどある。
しかし、今この朝食の場には、そういうものが横に置かれていた。
五人が同じテーブルを囲んで、同じものを食べている。それだけで、十分なような気がした。
「お母さん」
ソフィアが言った。
「なんだ」
「……一緒に作れてよかった」
「そうか」
「うん」
「……次はお前が全部作れ。私が横で確認する」
ソフィアは少し驚いた顔をした。
そして、笑った。
「うん」
食事が終わり、片付けが終わった後、悠斗はエレナとルーナに目配せした。
そろそろ話さなければならない。
「ソフィア」
悠斗は言った。
「うん?」
「少し、話がある」
ソフィアはテーブルに両手を置いた。
すでに察しているのかもしれなかった。
「……出発するんですね」
「ああ」
「水晶を取り戻しに」
「そうだ。エレナも、一緒に来てもらうことになった」
ソフィアは視線をエレナに向けた。
エレナは頷いた。
「俺たちの目的は、水晶を取り戻してルーナの記憶を完全に回復させること。それができないと、この世界の月のバランスを正すことができない」
「わかってる」
ソフィアは静かに言った。
「わかってるから……行ってほしい」
「ソフィアは」
「ここにいる」
ソフィアは遮った。
「私はここの歌姫です。この街の人たちのそばにいないといけない。昨日みたいな騒ぎがまた起きないように、ちゃんとここにいる。それが私の仕事だから」
「……そうか」
「でも」
ソフィアの声が、少しだけ変わった。
「必ず、帰ってきてね。全部終わったら」
「もちろんだ」
悠斗は頷いた。
「約束する」
ルーナも口を開いた。
「ソフィア。今まで、ありがとう。食事も、場所も、全部。あなたのおかげで助かったわ」
「ルーナさんたちこそ、助けてくれた。何度も」
「またいつか、一緒にご飯を食べましょう」
「……うん」
セレスティアも立ち上がった。
「お怪我の具合は? 今朝見た感じ、だいぶよくなっていましたが」
「ほとんど痛みはなくなりました。セレスティア様の治癒魔法のおかげです」
「よかった。無理はしないでください」
「はい」
荷物の整理は、昨夜のうちに終えていた。
四人は玄関に向かった。
ソフィアも、後ろからついてきた。
玄関の扉を開けると、ローレライの朝の空気が流れ込んできた。
青い空。白い雲。遠くで波の音が聞こえる。
「それじゃ」
悠斗は振り返った。
「行ってくる」
「……うん」
ソフィアは返事をした。
しかし、次の瞬間、悠斗の腰に小さな体が飛び込んできた。
「悠斗さん」
ソフィアが、両腕で悠斗の体にしがみついていた。
「絶対に、戻ってきてね」
小さな声だった。
震えていた。
涙の声だった。
「必ず戻る」
悠斗は、ソフィアの頭の上にそっと手を置いた。
「約束だ」
「……うん」
「ソフィアは、ここで歌い続けてくれ。お前の歌が、この街を守ってる」
「……うん」
しばらく、ソフィアは離れなかった。
悠斗も、無理に引き剥がさなかった。
やがて、ソフィアはゆっくりと体を離した。
目が赤い。頬に涙が光っている。
「……ごめんなさい。みっともない」
「みっともなくない」
悠斗は言った。
「気をつけて、ソフィア」
「うん。お母さんも」
ソフィアがエレナを見た。
「ああ」
エレナは短く答えた。
「また来る」
「……わかってる」
ソフィアは少し笑った。
泣き笑いの顔だった。
四人は歩き出した。
石畳の道を、ローレライの街の出口に向かって。
少し歩いてから、悠斗は振り返った。
ソフィアがまだ玄関の前に立っていた。
片手を小さく上げていた。
悠斗も手を上げ返した。
ルーナが悠斗の隣を歩きながら、静かに言った。
「……悠斗」
「うん?」
「ソフィア、すごく長く抱きついてたわね」
「そうか? 気のせいじゃないか」
「気のせいじゃない」
ルーナの語尾が、わずかに固かった。
「抱きつき返してたし」
「頭を撫でただけだ」
「……」
悠斗は少し横を向いた。
ルーナが、静かな顔をして前を向いていた。
表情はほとんど変わっていないが、口が、ほんの少しだけ尖っていた。
「……ルーナ」
「何」
「機嫌が悪いか?」
「悪くない」
「そうか」
「悪くない」
「わかった」
少し間があった。
「……まあ」
ルーナは小声で言った。
「ソフィアが悲しかったのは、わかる。行ってほしくなかったんだろうし」
「ああ」
「だから、別に」
「うん」
「……そういうこと」
「わかった」
悠斗はルーナの横顔を見た。
耳が、わずかに赤かった。
ルーナは前を見たまま、口をきゅっと結んでいた。
悠斗はそっと、ルーナの手を握った。
「行こうぜ」
ルーナはしばらく黙っていた。
それから、握り返した。
「……行く」
セレスティアが、少し後ろで穏やかに微笑んでいた。
エレナは、表情一つ変えずに前を向いて歩いていた。
しかし、その歩幅が、ほんのわずかだけ速くなっていた気がした。
街を出てしばらく歩いたところで、一行は街道に出た。
大陸の幹線に繋がる街道。南北に伸びる土の道。
「エレナ」
歩きながら、悠斗は尋ねた。
「何だ」
「声の主から連絡は来ていないとして、水晶がどこにあるか、手がかりはあるか?」
エレナは少し考えた。
「水晶を渡した後、声が言った言葉を思い出す」
「『正しい時が来れば、正しい者に届く』だったよな」
「そうだ。それともう一つ言われたことがある」
「何を」
「渡す前日の夜に、声がこう言った。『水晶の行き先は、月が初めて生まれた場所に近い』と」
ルーナが反応した。
「月が初めて生まれた場所……」
「聞いたことあるか、ルーナ?」
「……あるわ」
ルーナは静かに言った。
「詳しく教えてくれるか」
「私たちが生まれた時の記憶を取り戻した時、見えたものがある。世界が創造される前の、混沌の中に漂っていた時代の記憶。その中で、私たちが最初に降り立った場所があった」
「どこだ?」
「北の果て」
ルーナは続けた。
「大陸の最北端。教団があった場所からさらに奥。今は氷雪地帯になっているはずの場所。かつて、まだ世界が形を成す前に、私とエクリシアが最初に降り立った大地がある」
「それが、手がかりになるか?」
「可能性はある」
エレナも頷いた。
「北の方向に関する遺跡を、声から調査するよう言われたことがあった。具体的な地名は聞かなかったが、大陸の北端の奥に何かがあると言っていた。今思えば、それと繋がっているかもしれない」
「北の果て」
悠斗は地図の記憶を引っ張り出した。
ノルディア帝国のさらに北。エリシアが教えてくれた地図の外縁部分。
「かなり遠いな」
「ああ」
「どれくらいかかる?」
「馬車が使えれば、二、三ヶ月というところだ。この季節、北は寒い。装備が必要だ」
「装備は、この街で買い足したから大丈夫だ」
「いや、ここで売っている防寒具では、最北端は無理だ。もっと本格的なものが要る」
「どこで手に入る?」
「北に向かう途中に、帝国の北端の都市がある。そこで調達できる」
「わかった。じゃあまず、北を目指す」
一行は街道を北へ歩き始めた。
しばらくは緩やかな丘陵地帯が続いた。ローレライ特有の温かい海風が、まだここまでは届いている。
「エレナさん」
セレスティアが静かに言った。
「何だ」
「以前、声から月の神殿の遺跡調査を頼まれたとおっしゃっていましたよね」
「そうだ」
「その遺跡の中に、エクリシア様に関係するものはありましたか?」
エレナは歩きながら、少し考えた。
「直接そういう形で教えられたことはない。ただ……古い碑文に、破壊の女神の名前が刻まれていた場所が一か所あった」
「どんな碑文でしたか」
「読み解くのは難しかった。古い言語だったから。ただ、声がいくつかを訳してくれた。その中に、こんな一文があった」
エレナは、記憶を手繰るように、少し間を置いた。
「『破壊の女神は、消えたのではない。封じたのだ。自らを』と」
「……自らを封じた」
ルーナが息をのんだ。
「それだけわかっているか?」
エレナは頷いた。
「その後の部分は、風化していて読めなかった。声も、解読できる部分だけしか教えてくれなかった」
「場所を教えてくれるか?」
「地図に書いてある。昨夜渡したやつだ」
「ああ、受け取った」
悠斗は胸ポケットを叩いた。
昨夜、エレナが手書きで書いてくれた地図が折り畳まれている。
「行く場所は複数ありそうだな」
「そうなる可能性が高い」
「焦らず、一つずつ当たっていくしかないか」
「急いでも仕方がない。情報のない場所に突っ込んでも、空振りになる」
エレナは淡々と言った。
「丁寧に、確かめながら進む。それしかない」
「わかった」
悠斗は空を仰いだ。
青い空の端に、白い月が薄く浮かんでいる。昼間でも見える月。
黒い月は今は見えないが、夜になれば白い月よりも大きく、存在感を持って浮かぶ。
「……取り戻す」
悠斗は呟いた。
「必ず」
ルーナが横で、小さく頷いた。
街道を歩くこと半日。
太陽が少し傾き始めた頃、前方に何かが見えた。
土埃が上がっている。
「何だ?」
悠斗は目を細めた。
エレナも足を止めた。
「……馬車だ。止まっている」
「それと——」
悠斗は耳を澄ませた。
低い唸り声。
複数。
「魔物か」
「行く」
悠斗は走り出した。
エレナもすぐに続こうとしたが——悠斗の速度を見て、一瞬足を止めた。
半拍の間があった。
「……速い」
エレナは小声で呟いた。
それから、走った。
街道の先に、大型の荷馬車が一台、横向きに停車していた。
荷台を守るように、御者らしい中年の男と、若い女性が二人で立っている。
そして、馬車の周囲を取り囲んでいたのは―
「ケルプスか」
悠斗はぼそりと呟いた。
四足歩行の魔物。成体のもので体長は約一メートル。頑丈な甲殻に覆われた体、鋭い牙、そして細長い目が特徴的な、この世界では珍しくない種だ。
しかし今日は、六頭いた。
「逃げないんですか」
悠斗は馬車の御者に向かって叫んだ。
御者の男が振り返った。
「馬が二頭、怪我してる! 動けないんだ!」
「わかった」
悠斗は周囲を見渡した。
六頭のケルプス。配置を一瞬で把握する。
右手前に二頭。左奥に一頭。馬の近くに一頭。馬車の後ろに二頭。
「みんなは下がってろ」
悠斗は言った。
最初に、馬の近くにいる一頭に向かって走った。
ケルプスが気づいて牙を剥いた。
低く唸り、飛びかかってくる。
悠斗は横に半歩ずれた。
ケルプスの飛びかかりが、空を切った。
着地の瞬間を狙って、首の後ろに手刀を叩き込む。
ドスッ。
ケルプスは短い呻き声を上げて、その場に倒れた。
意識を失った状態。死んではいない。
続けて振り返らずに、左奥の一頭が飛びかかる感覚を察知した。
半歩前に踏み込みながら、背後に向かって肘を流す。
肘がケルプスの鼻先に当たった。
骨が軋む音。
ケルプスが横に飛び、地面に転がった。
「次」
右手前の二頭が同時に動いた。
一頭が正面から。もう一頭が左から挟み撃ちにしようとしている。
悠斗は正面の一頭の頭の上を飛び越えた。
跳躍で、一気に後ろへ回る。
左から来た一頭の体に、勢いをつけた踵を叩き込んだ。
ズガッ。
ケルプスが地面に叩きつけられた。
正面から来ていた一頭が向きを変えようとする。
その後脚に、手を伸ばして引っ張った。
全力ではない。四分の一程度の力。
それでも、ケルプスは足をもがれそうな勢いで引きずられた。
地面に転がったところで、首の後ろを押さえた。
動かなくなった。
残り二頭が馬車の後ろから来る。
一頭が走りながら咆哮した。
悠斗は地面を蹴り、斜め前方に飛んだ。
空中で体を捻る。
落下の勢いをそのまま乗せた前蹴りが、先頭のケルプスの顎を正確に捉えた。
ゴッ。
乾いた音。
ケルプスの体が横向きに吹き飛んで、石に激突した。
最後の一頭が一瞬動きを止めた。
悠斗はその隙に地面を蹴った。
ケルプスのそばに一気に詰め、前脚の付け根の急所を両手で挟み込んで押さえた。
ケルプスが悲鳴を上げた。
そのまま、地面に組み伏せる。
しばらく押さえていると、暴れていた体がゆっくりと静止した。
「……終わり」
悠斗は立ち上がった。
全て、意識を失っているか、逃げ出すだけの余力もない状態になっている。
死んでいるものはいない。
「……」
エレナが、少し離れたところから見ていた。
その目が、わずかに細くなっていた。
「全部で?」
エレナが聞いた。
「六頭」
「時間は?」
悠斗は考えた。
「三十秒くらいか?」
「……」
エレナはしばらく黙った。
「そうか」
それだけ言った。
しかしその目の中に、何か違うものが入っていた気がした。
悠斗には、驚きとも、共感とも、別の何かとも判断できなかった。
「大丈夫ですか!」
ルーナとセレスティアが走り寄ってきた。
「俺は平気だ。怪我してないか? みんな」
「私たちは無事です」
セレスティアが答えた。
「馬の様子を見ましょう。傷があるはずです」
悠斗は御者の男に声をかけた。
「怪我はなかったか?」
御者の男は、目を丸くしたまま立っていた。
年は五十代くらい。がっしりとした体格だが、今は顔が青い。
「あ、ああ……怪我は……なかった」
男は呟いた。
「お前さん……今のは……何だ?」
「魔物を倒しただけですよ」
悠斗は言った。
「ただの旅人じゃないな」
「まあ、普通の旅人ではないです。ご家族は?」
「妻と娘が二人、荷台の中にいる」
「怪我はありませんか?」
「少し押されて、小さい方が転んだ。大した傷じゃないが……」
「見せてください。連れに治癒師がいる」
悠斗はセレスティアに目配せした。
セレスティアが荷台に向かった。
馬は二頭とも、脚に引っかき傷を負っていた。深い傷ではないが、走るのは難しそうだ。
「しばらく休ませた方がいいですね」
セレスティアが馬を見て言った。
「治癒魔法で少し緩和することはできますが、完全に治すには時間がかかります」
「どれくらいかかる?」
「この傷なら、一晩休ませれば歩けるくらいには回復すると思います」
御者の男が頭を掻いた。
「野宿になるか……まあ、命があっただけで十分だが」
荷台から、女性の声がした。
「あなた、大丈夫だった?」
「俺は平気だ。お前たちは?」
「転んだ時に膝を打ったけど、大したことない。ユリィはちょっと震えてるけど……」
荷台の布が捲れて、二人の女性が顔を出した。
一人は四十代くらいの丸顔の女性。もう一人は、十二歳か十三歳くらいの少女だった。
少女の目が真っ赤だ。泣いていたらしい。
「魔物は……倒したの?」
少女が悠斗を見た。
「全部倒した。もう大丈夫だ」
「……一人で?」
「一人でだ」
少女は荷台から地面に降りて、恐る恐る倒れているケルプスを見た。
「……本当だ」
少女は驚いた顔のまま、悠斗を見上げた。
「あなた、すごい」
「慣れてるから」
少女は悠斗をしばらく見つめていた。
それから、少し表情が和らいだ。
「お兄さん、名前は?」
「神崎悠斗。悠斗でいい」
「私はユリィ」
少女は名乗った。
「ユリィか。怪我はなかったか?」
「膝を打ったけど、大丈夫」
「見せろ」
ユリィは少し躊躇したが、スカートの裾を少しだけ持ち上げた。
膝に、赤い擦り傷があった。
「セレスティア」
「はい」
セレスティアが屈んで、ユリィの膝に手を当てた。
淡い光が滲んだ。
「……温かい」
ユリィが目を見開いた。
「治癒魔法です。少し痛みが残るかもしれませんが、化膿はしないと思いますよ」
「ありがとうございます……」
ユリィは、ルーナとエレナを見た。
「全員が旅の仲間?」
「そうだ」
「いろんな人がいるんだね」
「まあ、いろいろあって」
「へえ」
ユリィは悠斗を見上げた。
「どこまで行くの?」
「北に向かってる。あなたたちは?」
「私たちも北。帝都に荷物を届ける仕事だから」
御者の男が横から言った。
「商いをやっております。ミハイルといいます。改めて、助けてくれてありがとうございました」
男は深々と頭を下げた。
「たまたま通りがかっただけです」
「いや、たまたまでも、命が助かった。それは変わらない」
ミハイルは言った。
「迷惑でなければ、一晩ここで休んでいただけないか。馬の回復を待ちながら。礼をしたい」
悠斗は振り返った。
ルーナとセレスティアが頷いた。
エレナは何も言わなかったが、視線で問うと、わずかに目を伏せた。
反対はしていない。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
「助かります」
ミハイルは少し表情を崩した。
丸顔の女性が荷台から降りてきた。
「私はマリナ。ミハイルの妻です。さっきは怖くて声も出なかったけど……あなたのおかげで助かりました。本当に、ありがとうございます」
「礼はいいです」
「いや、お礼は言わせてください」
マリナは微笑んだ。
「今日は、焚き火で肉を焼くつもりだった。一緒に食べていってください。少し早めの夕食になるけれど」
「お肉!?」
ユリィが素っ頓狂な声を上げた。
「もうご飯の話してるの」
「だってお腹が空いた」
「さっきまで泣いてたのに」
「もう大丈夫だから」
悠斗は思わず笑った。
ユリィが悠斗を見た。
「笑った」
「笑ったか?」
「笑ったよ。悠斗お兄さん、さっきまでちょっと怖い顔してたから」
「そうか」
「でも笑うと全然怖くない」
「それはよかった」
ルーナがやや近くに来た。
悠斗の腕に、そっと寄り添うように立った。
ユリィがルーナを見た。
「お兄さんのお友達?」
「……友達というより」
ルーナが答えようとした。
「恋人だ」
悠斗がさらりと言った。
ルーナが、ほんの一瞬固まった。
それから、耳が少し赤くなった。
「……そうよ。恋人」
ルーナは繰り返した。
「へえ」
ユリィは二人を交互に見た。
「お似合いだね」
「ありがとう」
「ルーナお姉さんは、すごく綺麗だし。悠斗お兄さんは強いし」
「そうだな」
「そういうところが、最初から気に入ってたの?」
「……どちらかというと、お互いに最初は大変だった」
ルーナが静かに言った。
「最初はそれどころじゃなかった」
「へえ。どんな感じだったの?」
「それは長い話になる」
「あとで教えてほしい! 移動中に暇だから、話を聞かせてほしい!」
「……気が向いたら」
ルーナはわずかに頬を緩めた。
遠くでエレナが、馬車の車輪を確認していた。
その背中は変わらず静かだったが、ユリィとルーナのやり取りを横目に見て、何かを考えている様子だった。
「エレナ」
悠斗は声をかけた。
「なんだ」
「車輪は大丈夫そうか?」
「左後ろのクサビが少し緩い」
「道具はあるか?」
「借りる」
エレナはミハイルに声をかけた。
ミハイルが工具を出してくる。
エレナは慣れた手つきでクサビを直し始めた。
ユリィが近づいてきた。
「お姉さん、すごい。馬車の修理もできるの?」
「できる」
「どこで覚えたの?」
「旅の途中でいろいろ覚えた」
「へえ。お姉さんも旅人なの?」
「そうだ」
「長く旅してるの?」
エレナはほんの少しだけ間を置いた。
「……長い」
「どれくらい?」
「もうすぐ十七年」
「じゅう——!?」
ユリィが目を丸くした。
「十七年も旅してるの!?」
「そうだ」
「えっ。でもどこに住んでるの?」
「旅の途中にあるどこかだ」
「そんなことある!?」
「ある」
エレナは淡々と答えながら、クサビを締め続けた。
「すごい……でも寂しくないの?」
「……」
エレナの手が、一瞬止まった。
「そういうことは、あまり考えない」
「え、でも、一人で旅して、ずっと一人だったら……」
「ソフィアがいた」
エレナは言った。
「三年間だったが、一緒にいた」
「ソフィア……って?」
「私の娘だ」
ユリィは、エレナの横顔を見た。
鎧のように隙のない表情。しかしその中に、小さな何かがある。
「……なんか」
ユリィは小声で言った。
「エレナお姉さん、かっこいいな」
エレナはクサビを締め終えて、工具を置いた。
「かっこいい?」
「うん。私は、かっこいいと思ったから」
「そうか」
「うん」
エレナは、ユリィを一瞬だけ見た。
「……礼は言わないぞ」
「別にいいよ」
ユリィは笑った。
少し離れたところで、悠斗がその様子を見ていた。
エレナが子供に接している場面を、初めて見た気がした。
ぶっきらぼうで、言葉は少ない。
しかし逃げていない。
ちゃんと、話している。
マリナが荷台から荷物を下ろし始めていた。
夕食の準備が始まろうとしていた。
街道の端で、倒れたケルプスたちがゆっくりと意識を取り戻し、草むらの方へ逃げ始めていた。
悠斗はそれを見送った。
「行ってくれ」
魔物に向かって呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「お互い、無事でいよう」
夕暮れの光が、街道に伸びていた。
北の方角には、まだ長い道が続いている。
しかし今夜は、一息ついていい。
ここにいる全員が、今夜だけはここで休む。
焚き火が起こされ、肉が焼かれ、五人とミハイルの一家が、その温かい光の周りに集まった。
旅が、続いていた。
こんにちは。ユリィです。
今回の話、ちょっとだけ私も出てきたので、あとがきを書かせてもらえることになりました。うれしい。
最初は本当に怖かったんですよ。魔物に囲まれて、お母さんと一緒に荷台で震えてて。お父さんが外で戦ってたけど、大人三人じゃどうにもならなそうで。
そしたら悠斗お兄さんが来て、ものすごい速さで全部片づけてしまった。
三十秒だって。
三十秒。
信じられないんですけど、本当の話です。見てたから。
あとエレナお姉さんも、怖い顔してるんだけど、話してみたら悪い人じゃなかった。十七年も旅してるって聞いた時はびっくりしすぎて声が出なかった。私だったら絶対無理です。
ルーナお姉さんはすごく綺麗な人で、最初はちょっと緊張したけど、話しかけたら笑ってくれた。悠斗お兄さんのことを見る時の顔が、なんか好きです。ちょっとむくれてる時も含めて。
セレスティアお姉さんに膝を治してもらった時、温かくて、なんか泣きそうになりました。魔法って本物なんだなあって。知ってたけど、改めて思いました。
次の話も楽しみにしています。
また会えるといいな。
ユリィ




