第25話 「最初から話そうか——ふたりの異邦人」
テーブルの上のお茶が、静かに冷えていく。
窓の外から波の音が聞こえる。
ゆっくりと、繰り返すように。
まるで、この夜が急ぐなと言っているみたいだった。
「……どこから話せばいいか」
エレナはもう一度、低く呟いた。
誰も急かさなかった。
悠斗もルーナも、セレスティアも、ソフィアも。
ただ、静かに待っていた。
エレナはゆっくりと両手をテーブルの上に置いた。
フードは、まだ被ったままだった。
エレナは、息を吐いた。
長く、静かに。
「私は、この世界の人間ではない」
部屋の空気が、少し変わった気がした。
誰も何も言わなかった。
「生まれは日本という国だ」
「日本……」
悠斗の体が、固まった。
思わず前のめりになる。
「え……」
「知っているか」
「知ってるに決まってる」
悠斗は椅子から少し浮き上がりそうになりながら、なんとか平静を保った。
「俺も、そこの出身だ」
「……そうだろうな」
エレナは答えた。
「あなたと会った時から、気づいていた。力が違う。動き方が違う。この世界の人間とは、何かが根本的に異なる」
「……」
「私も、同じだったから」
エレナは続けた。
「名前は——古川恵令奈、という」
古川恵令奈。
その言葉は、この部屋の空気の中に、奇妙な重さで落ちた。
日本語の、日本人の名前。
「え……れ……な」
ソフィアが、小さく呟いた。
「エレナ、は」
「そうだ」
エレナ——古川恵令奈は、短く答えた。
「この世界の言葉に発音が馴染んで、恵令奈がエレナになった。それだけのことだ」
「……いつから、ここに」
悠斗は聞いた。
「何年前ですか」
「……十七年前だ」
十七年。
悠斗は、その数字を頭の中に置いた。
「私が十九歳の時だった」
「十九歳の時に……この世界に?」
「ああ」
エレナは頷いた。
「突然だった。突然この世界に来た」
「……どうやって」
「それが今でも、わからない」
エレナは少し間を置いた。
「あの夜、私は帰り道を歩いていた。夜遅く、一人で。大学の図書館から帰る途中だった。人通りの少ない道で、特に何があったわけでもなく気づいたら、この世界の草原の上に倒れていた」
「……」
「空には二つの月が浮かんでいた。最初は夢だと思った。でも、痛みがあった。草の匂いがした。手の甲に、小石の感触があった。夢ではなかった」
「誰かに送り込まれたとか……」
「わからない。何かの偶然なのか、それとも誰かの意図があったのか、今でもわからない。手がかりが、何もなかった」
エレナは続けた。
「ただ来た時から、体の感覚が違った。軽い。信じられないくらい軽い。そして、動くたびに、常識ではあり得ない力が出た」
「俺と同じだ」
悠斗は呟いた。
「ああ」
エレナは頷いた。
「最初は戸惑った。力の加減がわからなくて、村の木の柵を握っただけで折ってしまった。走ったら、自分でも驚くほど速く動いた。何もかもが、最初は怖かった」
「俺も怖かった」
悠斗は静かに言った。
「この世界に来たばかりの頃、拳一つで魔物が吹き飛んだ時……正直、自分が何をしたのかわからなくて」
エレナはわずかに頷いた。
「同じだ」
二人は、少しの間、沈黙した。
異世界に来た日本人同士の、言葉にならない共鳴が、その沈黙の中にあった。
ルーナが静かに二人を見ていた。
「……続けて」
ルーナが促した。
「ああ」
エレナは続けた。
「草原をさまよって、小さな村にたどり着いた。言葉が通じなかった。でも、身振り手振りで、食べ物と水をもらった。この世界の人々は小さくて……最初は驚いた。自分も同じサイズなのに、元の世界の感覚がまだ抜けていなかったから」
「わかります」
悠斗は小さく笑った。
「言葉も、少しずつ覚えた。この世界の言語は元の世界の言語とは全く違うのに、半年もしないうちに日常会話ができるようになっていた。脳の処理が速くなっていたのかもしれない」
「それも俺と同じ」
「おそらく、この世界の法則がそうさせているんだろう」
エレナは短く言った。
「それでその後、どうしたんですか」
「南へ流れた」
エレナは答えた。
「北は寒く、食べ物が少なかった。南に行けばもっと穏やかな場所があると聞いて、ひたすら南へ歩いた。一人で。金もなかった。その日暮らしで、村から村へと移っていった」
悠斗は、その光景を想像した。
異世界に来たばかりの、十九歳の日本人の女性。
言葉も金もなく、一人で南を目指す。
「辛かったんじゃないか」
「……慣れた」
エレナは短く言った。
「感傷に浸る余裕はなかった。生きることで精一杯だったから」
「……」
「でもこの体が助けた。力があったから、道中の魔物は怖くなかった。食べ物も、力があれば狩りができた。それだけで、十分だった」
エレナは続けた。
「そして海が見えた」
「ローレライ……」
ソフィアが小さく呟いた。
「ああ」
エレナはソフィアを見た。
フードの中で、視線が動く。
「ローレライに流れ着いたのはちょうど春だった。海の色が青くて、花が咲いていて、初めて、この世界もそう悪くないかもしれないと思った」
「……」
「町の人々は親切だった。言葉がたどたどしくても、笑ってくれた。食べ物を分けてくれた。宿を貸してくれた。それだけで、十分だった」
「ローレライで、定住することにしたんですか」
悠斗は聞いた。
「最初は、そのつもりではなかった」
エレナは答えた。
「どこかに元の世界に戻る方法があるかもしれないと思っていたから、長く一か所にいるつもりはなかった。でも一ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎても、戻る手がかりはどこにもなかった。そのうちに、ローレライが居心地よくなっていた」
「……」
「町の広場で、一度だけ歌ったことがあった」
エレナは静かに言った。
「なぜ歌ったのか、今でもよくわからない。寂しかったのかもしれない。元の世界で、歌が好きだったから。ただ誰かに、何かを伝えたくて」
「……どんな歌を」
ソフィアが聞いた。
「日本の歌だ。この世界の誰も知らない歌だ。だから、歌詞の意味は誰にも伝わらなかった。でも通りがかりの人が立ち止まった。聞いていた。歌が終わると、拍手をくれた」
エレナの声が、わずかに柔らかくなった。
「それが、嬉しかった。言葉が伝わらなくても、声が伝わった。それだけで」
「……」
「噂が広まったのは、それからだ。広場で歌う旅人がいると。声が美しいと」
エレナは続けた。
「ミレイア様が私を呼びつけたのは、それから一週間後だった」
「長老が……」
「ああ。あの人は、昔からああいう人だ。単刀直入で、容赦がない。私の前に座って、開口一番こう言った——『お前の声は本物だ。ローレライの歌姫になれ』」
「……」
「断ったんですか?」
悠斗が聞いた。
「最初は断った」
エレナは答えた。
「私はここの人間じゃない。この国の伝統に関わるべき人間じゃないと言った。でも、ミレイア様は聞かなかった。『声に国籍はない。魂に国境はない。お前が歌う時、その場の全員がお前の声に動かされる。それだけで十分だ』と」
「……ミレイア様らしいですね」
ソフィアがぽつりと言った。
「ああ」
エレナは短く答えた。
「それに私は行くあてがなかった。戻る方法もなかった。ならば、ここで生きる意味を作ろうと思った。その方が、彷徨い続けるよりも、まだ自分らしかった」
「それで歌姫になったんですね」
「歌の修行は、長くかかった。ミレイア様は厳しかった。私の癖を全部矯正させた。発声から、感情の込め方から、全部やり直した。三年かかった」
「……三年間」
「その間に、ローレライの言葉も完璧になった。この国の歴史も文化も、全部覚えた。そしてこの国が、好きになっていた」
「……」
「歌姫として立った初日、市場の広場で歌った。満員だった。その時この世界で初めて、ここに居ていいと思えた気がした」
エレナは、少し間を置いた。
「……ありがとう、お母さん」
ソフィアが小さく言った。
「まだ礼を言うな」
「言う」
「……」
「続けて」
エレナは軽く頷いた。
「歌姫として五年ほど過ごした。その間は幸せだったと思う。歌が好きだったから。声が誰かに届くのが嬉しかったから」
エレナは少し間を置いた。
「そしてソフィアに出会った」
ソフィアは、静かに息をのんだ。
「お前の両親とは、町で顔を合わせるうちに親しくなっていた。お前が生まれた時も、少し離れたところから祝っていた。お前が歌うようになったのも、知っていた」
「……」
「お前の親が死んで、一人になった時お前を引き取ることは、迷わなかった」
エレナの声は、淡々としていた。
しかし、その淡々さの奥に、何かが詰まっているのが、悠斗にはわかった。
「迷わなかったのか」
悠斗は聞いた。
「……少し、迷った」
エレナは正直に言った。
「私には、子供を育てる経験がなかった。それに私は、この世界に長くいていい人間ではないかもしれないとも、どこかで感じていた。いつかまた、何かが変わるかもしれないと」
「でも、引き取った」
「ああ」
「なぜ」
「お前が」
エレナはソフィアを見た。
「お前が、玄関の前で一人で座っていたから」
「……」
「小さな体で、膝を抱えて。泣いてもいなくて、ただじっとしていた。誰かが来るのを、ただ待っていた」
「……覚えていない」
ソフィアは小声で言った。
「あの時のことは、あまり覚えていなくて」
「そうだろう」
「……でも」
ソフィアの目が、潤んだ。
「来てくれて、よかった」
エレナは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を下げた。
「ソフィアと過ごした三年は」
エレナは続けた。
「この世界に来てから、一番穏やかな時間だった」
「……」
「歌を教えた。料理も教えた。この世界のことも、少しずつ教えた。お前は覚えが早くて、教えるのが楽しかった。夜、一緒に月を見ながら話した。その時間が好きだった」
ソフィアは、涙をこらえていた。
唇を噛んで、ただエレナを見ていた。
「しかし——」
エレナの声が、少し低くなった。
「ある夜、接触してきた者がいた」
「接触……」
悠斗は身を固めた。
「黒月教だ」
部屋の空気が、重くなった。
「黒月教が私に接触してきた」
「なぜ」
「私の力を、知っていたのだろう。この世界の常識から外れた体の力を持つ人間がローレライにいると、いつの間にか情報が漏れていた。あいつらは情報に長けている。知らない間に、調べ上げていた」
「……それで、どうしたんですか」
「断った」
エレナは即座に言った。
「当然だ。あいつらの目的は、この世界を壊すことだった。そんな組織に協力するつもりは、最初からなかった」
「断って…どうなった」
「脅しが来た。ローレライの歌姫を黙って見逃すつもりはない。協力しなければ、ただではすまないと。それだけではなかった。ある朝、神殿の近くに信者が集まっているのを見た。私ではなく、周りの人間への牽制だ。お前の大切な者たちに何かが起きてもいいのか、という無言の圧力だった」
「……くそ」
悠斗は低く呟いた。
「ソフィアに気づかれないようにしていたが限界があった。あいつらは本気だった。いつ、直接ソフィアに危害を加えるかわからなかった」
エレナの声に、わずかだが、かつての緊張感が戻ってきた気がした。
「歌姫の立場を捨てて、逃げることも考えた。でも、私が逃げれば、あいつらが次に何をするかわからなかった。このままローレライにいれば、ソフィアが標的になる可能性があった。かといって、ソフィアを連れて逃げれば、あいつらは追ってくる。どうすればソフィアを守れるか、何夜も考えた」
「……」
「結論は離れることだった」
エレナの声は、静かだった。
静かすぎて、その重さが余計に伝わってきた。
「ソフィアを守るためには、ソフィアの傍にいることが最大の危険になっていた。私がいる限り、黒月教はこの家に近づいてくる。だから——いなくなることが、唯一の方法だと思った」
「……」
「間違っていたかもしれない」
エレナは続けた。
「お前が泣くことはわかっていた。一人になることも。でもお前が生きていることの方が、大事だった」
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
波の音が、遠く続いている。
ソフィアは何も言わなかった。
ただ、ペンダントを握りしめていた。
「……わかった」
やがて、ソフィアは静かに言った。
「わかったから続けて」
エレナは少し間を置いてから、頷いた。
「ああ」
「黒月教から逃げながら、各地を転々とした。あいつらの目を欺くために、何度も居場所を変えた。一か所に長くはいられなかった。当然、ソフィアのもとには戻れなかった」
「どのくらい逃げ続けたんですか」
悠斗が聞いた。
「二年ほどだ」
「二年……」
「その間は、本当にひどかった。反撃も考えたが人を傷つけたくなかった」
エレナは少し低く言った。
「ただ逃げた。安全な場所などどこにもなかった。夜中に目が覚めて、気配を確かめて、また逃げる。そういう日々だった」
「食べ物は」
「なんとかなった。力があったから、なんとかなった。でもそれだけだった。人と話すことも、一か所に留まることも、できなかった。ただ逃げていた」
悠斗は、その二年間を想像した。
一人で、追われながら、あての見えない逃亡を続ける。
「……きつかったな」
「慣れた」
エレナは短く言った。
しかし、その「慣れた」という言葉の中に、強がりではなく、本当に慣れてしまった者の疲労が滲んでいた。
「ただ逃げるだけではなかった。こちらも、黒月教の情報を少しずつ集めていた。あいつらの動きを知らなければ、逃げることもできなかったから。自然と、諜報のような動きが身についた」
「黒月教はなぜ、しつこく追ってきたんですか」
セレスティアが静かに聞いた。
「私の力が欲しかったのだろう。それに私を野放しにしておくことを、嫌がった。この世界の常識を外れた力を持つ人間が、自分たちの敵側にいることを、あいつらは恐れていた。使えないなら消す、という選択肢もあったはずだが……そこまでには踏み切れなかったらしい。歌姫を直接消せば、ローレライが激怒する。そのリスクを嫌っていたのかもしれない」
「なるほど……」
「そして逃げている間に、別の者から接触があった」
「別の者……」
「黒月教とは違う誰か」
悠斗は、少し前のめりになった。
「どんな人物だったんですか」
「……顔は、見たことがない」
エレナは静かに言った。
「最初から、声だけだった。夜中に、突然声が聞こえた。誰もいない場所で。どこから聞こえるのかもわからなかった。洞窟の中で野宿していた夜だった。たき火の前で一人でいたら突然、声が響いた」
「声だけ……?」
「そうだ。不思議な話だが、本当のことだ。その声は、私のことを詳しく知っていた。日本から来たことも。この世界での経緯も。黒月教に追われていることも。ソフィアのことさえ、知っていた」
「……」
「声は落ち着いていた。穏やかな声だった。しかし、その言葉には重さがあった。まるで長い時間をかけて積み重なった何かを持っている者の、声だった」
「何と言ってきたんですか」
「最初に言ったのは『あなたのことは、ずっと見ていた』という言葉だった」
「……それは怖くなかったか」
悠斗は思わず言った。
エレナはわずかに沈黙した。
「怖かった。しかしその声の次の言葉で、逃げる気が失せた」
「どんな言葉ですか」
「『あなたは、ここに来るべくして来た。あなたの力を私に貸してほしい』と言った」
「……」
「意味がわからなかった。でも声が続けて言ったことが、引っかかった。この世界の今の状態のこと。黒月教が何を目論んでいるか。白い月と黒い月のバランスがどれほど崩れているか。私が知らなかったことを、たくさん教えてくれた」
「信じたんですか」
悠斗は聞いた。
「……半信半疑だった」
エレナは正直に答えた。
「得体の知れない声が夜中に聞こえるなんて、普通に考えればおかしい。信じる理由がなかった。でもその声が教えてくれた情報は、ことごとく正確だった。黒月教の動きも。この世界で起きていることも。全部、後から確認すると、本当のことだった」
「協力を求めてきたんですか」
「そうだ。声は、私に頼みたいことがあると言った」
「何を」
「最初は、情報収集だった」
エレナは続けた。
「各地に散らばっている黒月教の拠点を調べてこい。あの村で何があったかを確認してこい。そういった仕事だ。私の身体能力があれば、普通の人間にはできない速さで動けた。魔物が出ても、力で対処できた。その声が私を使う理由は、そこにあったのだろう」
「他には」
「いくつかの遺跡の調査も頼まれた。月に関係する古い場所の調査だ。何が封じられているか、何が残っているかを調べて報告するだけの仕事だ。報告の方法も変わっていた。声が聞こえる夜に、口頭で伝えるだけだった。会うことはなかった。一度も」
「……その声は、何者なんですか」
「名前は、聞いたことがない」
エレナは言った。
「声しか知らない。顔も、居場所も、何者なのかも。教えてもらったことがない。私が聞こうとすると、話を逸らされる。それでも、言っていることは正確だった。だから、信じて動いていた」
「……」
「危険ではないか、と思ったことはありましたか」
セレスティアが静かに聞いた。
「何度も思った」
エレナは答えた。
「その声の目的が本当に世界を守ることなのか、それとも別の何かなのか、確かめる手段がなかった。でも頼まれた仕事の中に、人を傷つけることや、不正なことは一度もなかった。調べて報告する。それだけだった。だから、続けることができた」
「声の主はどれほど詳しくこの世界のことを知っていましたか」
ルーナが静かに聞いた。
少し、声のトーンが変わっていた。
「非常に詳しかった」
エレナは答えた。
「私がこの世界の月の仕組みを理解していないことを、見透かしているようだった。説明が丁寧で、正確でまるで、月の力そのものを知っている者のような説明だった。白い月と黒い月がなぜ二つあるのか。二つのバランスがどう保たれているのか。そのバランスが崩れると何が起きるのか。一つ一つ、教えてくれた」
「……」
ルーナは、何も言わなかった。
ただ、静かにエレナを見ていた。
その目に、何かが宿っていた。
「話を続ける」
エレナは言った。
「声からの仕事を続けながら、少しずつ黒月教から距離を置くことができるようになっていった。あいつらは私を追い続けていたが、声が教えてくれる情報のおかげで、一歩先を読んで動けるようになっていた」
「……」
「そしてある時、ソフィアのことが頭に戻ってきた」
エレナの声が、わずかに変わった。
「どのくらい経っていたんですか」
「逃亡を始めてから、二年以上。声からの仕事を始めてから、一年ほどだった。ローレライに自分がいなくなってから、三年が過ぎていた」
「三年……」
「ソフィアがどうしているか、気になっていなかったとは言わない。ずっと気になっていた。でも、帰れる状況じゃなかった。黒月教はまだ動いていた。声からの仕事もあった。そしてソフィアのそばに私がいること自体が、危険だという判断も、変わっていなかった」
「……」
「しかし、ある日声が教えてくれた」
「何を」
「ローレライが、不穏になっていると。街の人々が不満を持ち始めている。そしてその隙に乗じて、良くない者たちが動き始めていると」
「解放者同盟のことですか」
「そうだ。その名前は、私も知っていた。ローレライで歌姫をしていた頃から、その組織の噂は耳にしていた。ただ、その頃はまだ表立って動いていなかった。それが再び活動を始めていた」
エレナは続けた。
「新しい歌姫について、声が教えてくれた。若い歌姫が選ばれた。努力で歌姫になった娘だ、と」
ソフィアが、小さく息をのんだ。
「……その時、お前が新しい歌姫だと気づいた」
エレナはソフィアを見た。
「名前は出てこなかった。でもわかった。私が去った後、あの街で、努力で歌姫になるとしたら、お前しかいなかった」
「……お母さん」
「声は、歌姫が狙われる可能性があると言った。解放者同盟は、歌姫という存在そのものを否定している。新しい歌姫が選ばれたことで、また動き始めるかもしれないと」
「……」
「それを聞いた時居ても立っても居いられなかった」
エレナは続けた。
「仕事の途中だった。声からの指示が残っていた。でも、そんなことはどうでも良かった。ソフィアが狙われるかもしれない。それだけで、体が動いていた」
「それでローレライに向かった」
悠斗は言った。
「ああ」
「……俺たちがすでにいた」
「そうだ」
エレナはゆっくりと頷いた。
「ローレライに近づいた時、街に見慣れない旅人たちがいると聞いた。北から来た若い旅人と、月の女神に似た娘と、月の巫女と。それがお前たちだった」
「……俺たちのことも、把握していたのか」
「声が教えてくれた。お前たちが各地を旅しながら、月の記憶の水晶を集めていると。そしてルーナが、本物の月の女神だということも」
「声は、俺たちのことも知っていたのか」
「ああ。何もかも、知っているようだった」
悠斗は少し黙った。
「……それで」
「街に入り、目立たないようにした。ソフィアの場所は、わかっていた」
エレナは悠斗を見た。
「そしてソフィアを連れて行こうとしたが、お前が止めた。普通の人間ならあり得ない。だからお前が、日本から来た者だとわかった」
「……なるほど」
「安全な場所に移動させるつもりだった。解放者同盟が動いているなら、この街にいる限り危険だと判断していた。でも——」
「でも」
「お前が居た。そして、お前たちがソフィアの傍にいた。魔物相手でも対処できる力がある人間が、複数いた。それなら私よりも、お前たちの方がソフィアを守れると思った」
「それで、引いたのか」
「ああ。それにソフィアと長い間会っていなかった。そのまま連れ出すことが、本当にソフィアのためになるかどうか、その場でわからなかった」
「続けてくれ」
悠斗が言った。
「ああ」
エレナは頷いた。
「その後——声から連絡が来た」
「どんな内容ですか」
「月の神殿に、月の女神の記憶が封じられた水晶があると。それを回収せよと」
「……」
ルーナは静かに聞いていた。
「その声は言った。月の力が歪んだ形で使われる可能性がある。だから回収して、安全な場所に移す必要があると」
「……」
「月の力の均衡を完全に崩そうとしていると。ルーナ様の記憶が揃えば、月の女神は本来の力を取り戻す」
「そうなると崩壊が早まる。だから……水晶を奪おうとしていた」
「正確には奪うのではなく、破壊することが目的だった。水晶を砕けば、記憶は永遠に失われる。月の女神は完全な力を取り戻せない」
「……」
ルーナの表情が、静かに固くなった。
「だから、急ぐ必要があった」
エレナは続けた。
「レイヴンとガロンに連絡を取った。彼らは声の紹介で知り合った、同じく諜報の仕事をしている者たちだ。特に信頼しているわけではないが、今回は人手が必要だった。三人で、ローレライの神殿へ向かった」
「その前に、お前たちも神殿に向かっているとわかっていた」
「把握していた。声が教えてくれた。だからなるべく先回りして、お前たちが来る前に水晶を確保するつもりだった」
「でも、ぶつかった」
「そうだ。お前たちが来るのが、私の予想より早かった。レイヴンとガロンに外で時間を稼がせながら、私が中に入って水晶を確保した」
「あの時の戦い……レイヴンもガロンも、かなり強かった」
悠斗は言った。
「そうだろう。この世界の水準では、腕が立つ。ただ——」
「俺には及ばなかった」
悠斗は続けた。
「ああ」
エレナはあっさりと言った。
「あの二人は、この世界の力を研ぎ澄ませた者たちだ。しかし私たちには、別の次元の力がある。日本から来た者は、この世界での身体能力が根本的に違う。だから、勝負にならなかっただろう」
ルーナは黙って聞いていた。
「持ち出した後、お前たちは追ってきた。しかし、煙幕を使って撤退した。その後——その日のうちに、声に連絡した」
「どうやって連絡するんですか」
「特定の方法がある。詳しくは言えないが……夜に、特定の場所で待っていると、声が届く。それだけだ」
「声は、どう反応しましたか」
「短く言った。『よくやった。こちらで預かる』と」
「……どうやって渡したんですか」
「翌朝、指定された場所に水晶を置いた。少し離れたところで待っていたら、水晶は消えていた。誰かが持っていったのだろう。だが、誰が来たかは見えなかった。声の主の姿は、今でも見たことがない」
「消えた……」
悠斗は繰り返した。
「ああ。誰もいないのに、水晶だけが消えていた。それだけだ」
「……その声は、水晶をどこかに保管しているんですか」
「わからない。ただ渡した時に一つだけ言われた。『これは、正しい時が来れば、正しい者に届く』と」
「正しい時が来れば」
悠斗は繰り返した。
「意味がわからないが、そう言っていた」
エレナは続けた。
「その後は、しばらく連絡がなかった。私は待っていた。声からの次の指示を、ただ待っていた」
「……そして、ソフィアが攫われた」
「ああ」
エレナの声が、低くなった。
「解放者同盟が動いたと知った時、声からの連絡はなかった。私が自分で判断して動いた。ガリウスのことは、古い知り合いだ。あいつが何年も組織を続けていることも、どこに身を隠す傾向があるかも、大体は把握していた」
「だから、早く場所がわかったんですね」
悠斗は言った。
「ソフィアが関わっていなければ、放っておいたかもしれない」
エレナは静かに言った。
「でも——ソフィアが攫われたとなれば、話は別だった」
「……」
「悠斗に連絡を取ろうとした。だが、お前たちが自分で動いていた。それなら、情報だけ渡して、一緒に動けばいいと判断した。そしてお前とルーナと、地下の場所を割り出した。それが、今夜のことだ」
「以上か」
悠斗は聞いた。
「以上だ」
エレナは静かに言った。
「私が話せることは、これで全部だ」
部屋に、沈黙が降りた。
長い話だった。
それだけ、長い年月があった。
悠斗は頭の中を整理した。
古川恵令奈。
十七年前、十九歳でこの世界に来た日本人の女性。
流れ着いたローレライで歌姫になり、ソフィアを育て、黒月教に追われ、謎の声の指示で動き、水晶を手に入れ、そしてソフィアを救うために今ここにいる。
「……一つだけ、聞いていいですか」
セレスティアが言った。
「なんだ」
「その声が指示した内容―月の記憶の水晶を回収せよという指示、それは、本当にこの世界のためになることだと、信じているか」
エレナは少し間を置いた。
「……信じたいとは思っている」
「信じている、ではなく?」
「確信はない」
エレナは正直に言った。
「声が言っていることは正確だった。でも、目的の全てを教えてもらったわけではない。私は、判断に必要な情報の全部を持っていない。だから信じたいと思っているが、確信はないと言うしかない」
「正直に答えてくれてありがとうございます」
セレスティアは静かに言った。
「……礼はいらない」
「エレナ」
悠斗は言った。
「うん」
「一つだけ聞く」
「何だ」
悠斗は少し前のめりになった。
「その声月に関係した指示が多かったか。月の神殿、月の女神、月の力に関すること」
「そうだ」
エレナは答えた。
「ほとんどの指示が、月の神殿か、月の女神に関連することだった」
「月の力について、詳しそうだが」
「非常に詳しかった。私がこの世界の月の仕組みを理解していないことを、見透かしているようだった。説明が丁寧で、正確でまるで、月の力そのものを知っている者のような説明だった」
ルーナが、わずかに表情を変えた。
悠斗はそれに気づいたが、今は何も言わなかった。
「わかった」
悠斗は言った。
「恵令奈さん、話してくれてありがとう」
「……礼はいらない」
エレナは短く言った。
「ただ——」
エレナは続けた。
「水晶のことは、申し訳なかった。お前の記憶だ。お前の力だ。他の者が勝手に扱っていいものではなかったかもしれない」
ルーナを、エレナは見た。
ルーナはしばらくエレナを見つめた。
「……謝罪は受け取ります」
ルーナは静かに言った。
「でも、今は怒ることより、水晶を取り戻すことの方が大事だと思っています」
「そうか」
「その声の正体と目的を、もっと知る必要がある。そして水晶がどこにあるかを、明らかにする必要がある」
「ああ」
「エレナさん」
ルーナは続けた。
「もし、その声からまた連絡があったら教えてもらえますか」
エレナは少し間を置いた。
「……わかった」
「ありがとうございます」
ルーナは頷いた。
「一つだけ、俺も言っていいですか」
悠斗が言った。
「何だ」
「恵令奈さんも悠斗って呼んでくれ。年上だと思うけど、敬語はなんか変な感じがするから」
エレナはわずかに沈黙した。
そして——ほんのわずかに、フードの中で口元が動いた気がした。
「……好きにしろ」
「じゃあ、そうします」
悠斗は頷いた。
「それともう一つ、俺から話しておかないといけないことがある」
「何だ」
「恵令奈さんも、ある程度は察していると思いますけど」
悠斗は少し息を吐いた。
「俺も日本から来た」
「知っている」
「でも、俺の場合は少し、事情が違って」
エレナは黙って聞いていた。
「俺はこの世界から呼ばれて来たんです」
悠斗はルーナを見た。
ルーナは静かに頷いた。
「ルーナがこの世界の月の女神が、俺を呼んだ」
エレナの体が、わずかに動いた。
「月の女神が……」
「俺の部屋に、ルーナのフィギュアがあった。1/10スケールのフィギュアです。その中に、本物のルーナが封じられていた。で、ある夜、俺が眠ったらこの世界に来ていた」
エレナは、ルーナをじっと見た。
長い沈黙だった。
ルーナは、その視線を静かに受け止めていた。
「……フィギュア」
エレナは、静かに繰り返した。
「1/10スケールの」
「はい。ゲームのフィギュアとして、日本で売られていた。ダークファンタジーRPG『星辰のアルカディア』の月の女神キャラクターとして」
エレナは、少し黙った。
「……知っている」
エレナは言った。
「そのゲームは、知っている」
「え」
悠斗は驚いた。
「日本にいた頃、そのゲームは有名だったからな。隠しヒロインに月の女神がいると、発売当時に話題になっていた」
「恵令奈さんも、知ってたのか」
「プレイはしていない。でも、名前は聞いたことがあった」
エレナはルーナを見た。
「つまりお前が、あのゲームのルーナか」
「そうとも言えるし、違うとも言える」
ルーナは静かに答えた。
「元々はこの世界の月の女神です。ゲームの中に逃げ込んでいたのが、あの姿でした。だからゲームのルーナであり、本物の月の女神でもある」
「……なるほど」
エレナはそれ以上は聞かなかった。
「俺がこの世界に来た理由は世界を救うため」
悠斗は続けた。
「この世界は、黒月教の儀式によって崩壊の危機にさらされていた。その後も、まだ解決していない問題がある。ルーナの記憶を全部取り戻して、白い月と黒い月のバランスを回復させることが、俺たちの目的だ」
エレナはしばらく、悠斗を見ていた。
「……十六歳か、お前は」
「十七になった」
「そうか」
「……恵令奈さんは、十九歳でこの世界に来たんだよな?」
「そうだ」
「一人で来て一人でここまで来て。すごいと思う」
「すごくないさ」
エレナは短く言った。
「ただ、生きていただけだ」
「それが、すごい」
悠斗は言った。
エレナは何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を下げた。
「……」
沈黙の後、ソフィアが口を開いた。
「お母さん」
「なんだ」
「……一つだけ、聞いていい?」
「何だ」
「この世界に来た時怖かった?」
エレナは少し間を置いた。
「もちろん怖かった」
「そうなんだ」
「最初の夜は二つの月を見ながら、ここがどこかもわからなくて、ただ膝を抱えていた」
「……お母さんにも、そういう時間があったんだ」
「ある」
エレナは静かに言った。
「人間だから」
ソフィアは、小さく微笑んだ。
涙が、また少し滲んだが今度は、悲しい涙ではなかった。
「……ありがとう、お母さん」
「礼はいい」
「いや、言う」
ソフィアはまっすぐにエレナを見た。
「話してくれてありがとう。私のために戻ってきてくれてありがとう。ずっと、生きていてくれてありがとう」
「……」
エレナは、何も言わなかった。
フードの中で、その顔は見えなかった。
しかし——沈黙の中に、何かがあった。
長い、静かな何かが。
「さて」
悠斗は少し間を置いてから、言った。
「これからのことを、話し合わないといけないと思う」
「そうだな」
エレナは答えた。
「問題は水晶がどこにあるかですよね」
「ああ」
「恵令奈さんが渡した相手その声から、何か連絡はありますか。今後の指示とか」
「エレナでいい」
「分かった」
「今のところない」
「水晶を渡した後、その声から何か言われたか」
「一言だけ言われた。『待て』と」
「待て……」
「何を待つのかは、言わなかった。ただ、待てと」
「……」
悠斗は腕を組んだ。
「ルーナ、どう思う」
「……その声が月に詳しいこと、水晶を安全な場所に移す必要があると判断したこと、そして『正しい時が来れば、正しい者に届く』という言葉」
ルーナは静かに言った。
「気になることがある」
「何?」
「その声が言っていることはまるで、全体像を知っている者が言うような言葉ばかりだった」
「全体像を知っている……」
「月の力のことも。白い月と黒い月のバランスのことも。そして、私の記憶のことも。まるで——それらの全てを、最初から知っていたかのような」
「……その声が誰かの可能性について、何か考えがある?」
「……今は、言えない」
ルーナは首を横に振った。
「まだ、確認が取れていないから。でも一つ言えることは」
「何?」
「その声が誰であれ、水晶が今すぐ危険な状態にあるとは思っていない」
「なぜ」
「もし、その声が本当に悪意を持って水晶を手に入れようとしていたならこんな回りくどいことはしない。もっと直接的に動く。それに、エレナさんに何年も情報を与えながら信頼関係を築いていたということは、長期的な計画があることを意味している。焦って動く相手ではない」
「急ぎではないと」
「急ぎではないとは思わない。ただ今すぐ最悪の事態が起きるとも思っていない」
「じゃあ、どう動く?」
「焦らず、情報を集める。その声からまた連絡が来るのを待ちながらでも、待つだけじゃなくて、こちらも調べる」
「何を?」
「その声の正体について。そして——私が取り戻せていない記憶のことについて。エクリシアのことについて」
「エクリシア……」
悠斗は繰り返した。
「私の最後の記憶には、エクリシアが関係している。その記憶が水晶の中に封じられている。声がその水晶を欲しがった理由も——おそらく、エクリシアと無関係ではない」
「……そうか」
「今はまだ、それ以上は言えない」
ルーナは首を横に振った。
「でもわかる時が来ると思う。そう遠くない未来に」
「わかった」
悠斗は頷いた。
「エレナ」
ルーナは続けた。
「なんだ」
「その声から指示された遺跡の調査、他にもありましたか」
「いくつかある」
「月に関係した遺跡だよな」
「そうだ」
「場所を、教えてもらえるか」
エレナは少し間を置いた。
「……わかった。後で地図に書いてやる」
「ありがとう」
エレナはカップを置いた。
「今夜は、これくらいにする」
「はい」
「ソフィア」
「うん」
「……無事でよかった」
エレナは、それだけ言った。
短く、静かに。
しかし、その言葉の重さは、長い時間と一緒だった。
「うん」
ソフィアは答えた。
「お母さんもね」
エレナは立ち上がった。
「おやすみなさい」
「ああ」
エレナは廊下へ向かった。
その背中が、廊下の奥へ消えていく。
足音は、静かだった。
この世界の住人と同じような、しかし少しだけ違う、鍛えられた者の足音だった。
「……来てくれたな」
ソフィアが小さく言った。
「うん」
悠斗は頷いた。
「これからどうなるかは、まだわからない。でも今夜、来てくれた」
「そうだな」
「それだけで、十分です」
ソフィアは静かに言った。
ルーナがそっとソフィアの肩に手を置いた。
「よかったね」
「……うん」
「これからも、一緒にいようね」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「ありがとうございます、ルーナさん」
セレスティアも微笑んでいた。
「今夜は、よく眠れそうです」
「俺も」
悠斗は頷いた。
「色々ありすぎたけど前に進んでいる感じがする」
「ええ」
ルーナは悠斗を見た。
「私も、そう思う」
「じゃあ、俺も休もう。明日からまた動かないといけないし」
悠斗は立ち上がった。
「おやすみ、みんな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみです」
四人は、それぞれの部屋へと向かった。
廊下に出ると、客間の扉が閉まっているのが見えた。
エレナの部屋だ。
扉の下に、かすかな光が見える。
まだ起きているのか、それとも明かりをつけたまま眠っているのか。
悠斗は少し立ち止まって、その扉を見た。
十七年間、一人でこの世界を生き抜いてきた人間。
日本から来て、流れ着いて、歌姫になって、追われて、逃げて、戦ってきた人間。
「……俺も、頑張らないとな」
悠斗は呟いた。
誰にも聞こえない声で。
そして、自分の部屋の扉を開けた。
ルーナが、先に入っていた。
ベッドの端に座って、窓の外を見ていた。
「悠斗」
「うん」
「今夜の話全部、頭に入れた」
「そうか」
「エクリシアのことが、もっとわかってきた気がする」
「どういう意味?」
ルーナは少し黙った。
「……今はまだ、言えない。でも近いうちに、必ず話す」
「わかった」
悠斗はベッドに座った。
ルーナが静かに悠斗の隣に座った。
「怖い?」
ルーナが聞いた。
「何が」
「これから先のことが」
悠斗は少し考えた。
「……怖くないと言えば嘘かもしれない」
「うん」
「でも一人じゃない。それだけは確かだ」
「そうね」
ルーナは悠斗の手に、そっと自分の手を重ねた。
「私も、一緒にいる」
「ああ」
「どんな時も」
「知ってる」
二人は、しばらくそのまま、窓の外を見ていた。
夜空に、二つの月が浮かんでいる。
白い月は穏やかに輝き、黒い月はその隣で、静かに存在していた。
「きっとうまくいく」
ルーナが小さく言った。
「うん」
「絶対に」
「ああ」
悠斗は頷いた。
「絶対に」
窓の外で、波の音が続いていた。
ローレライの夜は、静かだった。
しかしその静けさの中に、何かが動き始めている気配があった。
答えに向かって。
五人が、同じ方向を向き始めた夜。
その先に何があるかは、まだ誰も知らない。
でも進むことだけは、決まっていた。
月が、静かに輝いている。
白い月が。
そして——黒い月も。
ローレライの空に、変わらず、二つ並んで。
その光は、どこまでも届いていった。
今夜は、長い夜だった。
お母さんの話を聞いて、たくさんのことがわかった。
わかったけれど、全部がわかったわけじゃない。
十七年間のことを、一夜で全部知ることはできない。
それでも——今夜だけで、十分だと思った。
お母さんが生きていた。
お母さんが、戻ってきた。
それだけで、十分だった。
お母さんは、強い人だと思っていた。
でも今夜、お母さんにも怖い夜があったと知った。
最初の夜、膝を抱えていたと聞いて——なぜか、少し安心した。
強い人だから、孤独じゃなかったのではなく、孤独でも前を向いていたから、強かったんだと。
悠斗さんも、同じだと思った。
あの人も、怖い時があるはずだ。
でも、腹が減るから動く、と笑っていた。
そういう人が——いるんだな、と思った。
お母さんは、日本から来た。
日本という国が、どこにあるのかも、どんな場所かも、私には全くわからない。
でも——お母さんがそこから来て、たくさんのことを経験して、それでも私のそばに来てくれた。
それだけで、十分だった。
私も、歌う。
誰かが怖い時に、少しだけ明るくなれる歌を。
孤独な夜に、少しだけ温かくなれる声を。
それが、私にできることだから。
お母さんが最初に歌ったのも——きっと、同じ気持ちだったと思う。
誰かに、何かを伝えたくて。
だったら——私たちの歌は、最初から同じだったんだ。
お月様。
今夜は、ありがとう。
二つとも、一緒に輝いていてくれて。
お母さんと一緒にいられる夜が、また来たから。
だから、ありがとう。
ソフィア




