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模型(1/10)スケールのアポカリプス  作者: 暁の裏


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第24話 「消えた歌姫」

 悠斗が目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。


 昨夜は長かった。


 エレナのこと。ソフィアの涙。ルーナの言葉。


 頭の中でいくつものことが渦巻いたまま眠りについたせいか、体はまだ少し重い。


「……ん」


 悠斗はゆっくりと体を起こした。


 隣のベッドを見る。


 ルーナは、まだ眠っていた。


 銀色の髪が白い枕に広がり、穏やかな寝息を立てている。


 悠斗はそっとベッドを出た。


 ルーナを起こさないよう、足音を消して歩く。


 廊下に出ると、朝の光が窓から差し込んでいた。


 潮の香りが混じった、ローレライらしい朝の空気。


「ソフィアはもう起きてるか」


 悠斗は台所の方向へ歩いた。


 いつもなら、この時間にはすでに包丁の音がしているはずだった。


 しかし。


「……?」


 静かだ。


 悠斗は足を止めた。


 昨日も、その前の日も、ソフィアは悠斗が起きるより早く台所に立っていた。


 それが今日は、何も聞こえない。


 台所の扉を開けた。


 途中まで調理された食材が残っていたが、誰もいなかった。


「?」


 悠斗はソフィアの部屋に向かった。


 扉の前に立ち、軽くノックした。


「ソフィア、いるか?」


 返事がない。


「ソフィア?」


 もう一度ノックする。


 やはり返事がない。


 悠斗は眉をひそめた。


「……ソフィア」


 扉に手をかけた。


 鍵は、かかっていなかった。


 そっと押し開ける。


「お邪魔するぞ……」


 部屋の中に入った瞬間、悠斗は息をのんだ。


 部屋は空だったが部屋は荒れていた。


「ソフィア!」


 悠斗は部屋を見回した。


 窓が、少し開いている。


 カーテンが、朝風にはらはらと揺れている。


 しかし、それより悠斗の目を引いたのは、机の上だった。


 一枚の紙。


 乱暴に置かれた、小さな紙。


 悠斗はそれを手に取った。


 文字が書かれている。


 読んだ瞬間、悠斗の胸に冷たいものが走った。




『ローレライの歌姫は、我々が預かった。


 ——解放者同盟』




「……っ」


 悠斗は手紙を握りしめた。


「解放者同盟……?」


 聞いたことのない名前だった。


 エレナたちではない。


 エレナは昨夜、ソフィアを抱きしめんばかりに見つめていた。


 あの女が、自分から再び連れ去るはずがない。


 別の組織だ。


「ソフィアが……」


 悠斗は拳を握りしめた。


 昨夜、ここで泣いていた少女。


 ようやく養母の生存を確かめて、涙を流しながら眠りについた少女が。


 奪われた。


「くそ……」


 悠斗はすでに廊下を走り出していた。


「ルーナ!セレスティア!」


 悠斗は二人の部屋のドアを勢いよく叩いた。


「起きろ!今すぐ!」


「……な、何!?」


 ルーナが目をこすりながら扉を開けた。


 その顔を見た瞬間、悠斗は手紙を突き出した。


「ソフィアが、攫われた」


 一瞬、ルーナの顔が固まった。


「……え」


「読んでくれ」


 ルーナは手紙を受け取り、目を走らせた。


 みるみる表情が険しくなる。


 隣の部屋の扉が開き、セレスティアも出てきた。


「どうしたんですか?」


「ソフィアが攫われました」


 ルーナが短く答えた。


 セレスティアの顔が青ざめた。


「……まさか」


「今朝、部屋に侵入されて連れ去られたようだ」


 悠斗は続けた。


「窓が開いていた。そこから連れ出したんだろう」


「……」


 セレスティアは唇を噛んだ。


「エレナさんが来た後、我々は皆部屋に戻り眠りについて、物音にも気づきませんでした……」


「俺も気づかなかった」


 悠斗は苦く言った。


「エレナのことで頭がいっぱいだったせいか、警戒が薄れていた」


「自分を責めないでください」


 セレスティアは言った。


「今は、ソフィアさんを取り戻すことを考えましょう」


「そうだな」


 悠斗は手紙をもう一度見た。


「解放者同盟……聞いたことあるか?」


「いいえ」


 セレスティアは首を横に振った。


「ルーナは?」


「私も……聞いたことないわ」


 ルーナは眉をひそめた。


「黒月教とは、別の組織ね」


「ああ。黒月教なら、こんな回りくどいことはしない」


「それに……この手紙の内容からすると」


 セレスティアが言った。


「彼らは、ソフィアさんを誘拐して何かを達成しようとしている。命を奪うことが目的ではないかもしれません」


「でも、油断はできない」


 悠斗は言った。


「まず情報を集めよう。街に出る」


 ソフィアの家を出た悠斗たちが最初に気づいたのは、街の異変だった。


「……何だ、あれ」


 悠斗は足を止めた。


 通りの向こうで、人だかりができている。


 怒鳴り声が聞こえる。


「歌姫様が攫われた!」


「どういうことだ!誰がやったんだ!」


「国はどうするつもりだ!」


「歌姫様なしに、この国はどうなる!」


 悠斗は眉をひそめた。


「もう広まってるのか……」


「早すぎます」


 セレスティアが小声で言った。


「誰かが意図的に噂を流したのかもしれません」


「……誘拐した連中が、自分たちで広めた?」


「そうすれば、街が混乱する」


 ルーナが言った。


「それが目的だとしたら……」


 悠斗はざわめく人ごみを見た。


 怒りと不安と混乱が、空気の中に満ちている。


 人々の顔には、恐怖と怒りが入り混じっていた。


「歌姫様を攫ったのは、上層部の命令だ!」


 どこかから、そんな声が上がった。


「上の者が売ったんだ!」


「証拠があるのか!」


「でなければ、なぜ誰も動かない!」


「くそっ……」


 悠斗は拳を握りしめた。


 人ごみの中から、誰かが石を投げた。


 市場の店先の窓ガラスが割れる音がした。


「逃げろ!」


 悲鳴が上がった。


 人々が走り始める。


「まずい」


 悠斗は三人に言った。


「混乱が広がる前に、情報を集めないといけない」


 三人は人ごみを避けながら、市場の外れへと移動した。


 すでに店の半分以上は扉を閉め始めている。


「オジョさんの店は……」


 ソフィアに紹介してもらった魚屋の男性。


 昨日も情報を教えてくれた。


「あそこだ」


 悠斗は店の前に向かった。


 オジョは店の扉を閉めようとしているところだった。


「オジョさん!」


 声をかけると、オジョは振り返った。


「おお、旅人の兄ちゃんか!」


 男は驚いた顔をしたが、すぐに深刻な表情になった。


「聞いたか。ソフィア嬢が攫われたって話」


「はい。それを調べています」


「そうか……」


 オジョは腕を組んだ。


「俺も、さっき聞いたばかりだ。朝方、ソフィア嬢の家の前で怒鳴り声がしたって近所の人から聞いてな」


「怒鳴り声?」


「ああ。まだ夜明け頃だったらしい。窓から見たら、何人かの人間がソフィア嬢の家に入っていったって」


「何人ですか?」


「……三人か四人、だったかな。ただよくわからなかったって」


 悠斗は記憶した。


「あの子を攫うなんて……」


 オジョは険しい顔をした。


「この街で、ソフィア嬢を悪く思う人間はいない。あの子の歌が好きじゃない人間もいない」


「攫った連中の手がかりは何か知りませんか?」


「知らないな……」


 オジョは首を横に振った。


「でも、あの子が攫われた理由について、街じゃいろんな話が飛び交ってる」


「どんな話ですか?」


「それが……嫌な話でな」


 オジョは声を落とした。


「ローレライを滅ぼそうとしている組織が、上層部に黒幕がいると声を上げてるらしい。誰かが、ソフィア嬢を売ったと言う者もいる」


「……根拠は?」


「根拠なんてない」


 オジョは吐き捨てた。


「でも、みんな怒りと不安で頭がおかしくなってるから、誰かのせいにしたくて仕方ないんだ。そういう時に根拠のない噂ほど広まりやすい」


「それも、仕掛けた連中の狙いかもしれません」


 セレスティアが静かに言った。


「え?」


「人々の怒りを向ける矛先を作ることで、街を混乱させる。それが目的なら……ソフィアさんを誘拐した本当の理由は、歌姫を害することではなく、街を壊すことかもしれません」


「……なるほど」


 オジョは眉をひそめた。


「そういう見方か……」


「解放者同盟という名前を知っていますか?」


 悠斗は尋ねた。


 オジョの顔が、わずかに変わった。


「……聞いたことはある」


「どんな組織ですか?」


「詳しくは知らない。でも……」


 オジョは低い声で言った。


「十年くらい前、ローレライで一度揉め事があった。国の税が重すぎるとか、貧しい者が虐げられているとか、そういう不満を持つ人間たちが騒ぎを起こした。その時に使われていた名前だと聞いたことがある」


「十年前……」


「それ以来、名前は聞いてなかったが……また出てきたのか」


 オジョは深いため息をついた。


「旅人の兄ちゃん、気をつけてくれ。今の街は、いつ爆発してもおかしくない状態だ」


「わかりました。ありがとうございます」


 悠斗は頭を下げた。


「ソフィア嬢を、頼む」


 オジョの声は、心配で満ちていた。




 三人は市場を出て、街の外れへと向かった。


 通りのあちこちで、人々が口論していた。


 一軒の店で火が出たと聞こえた。


 すでに暴動の気配は、街の至るところに広がりつつある。


「まずい状況ですね」


 セレスティアが言った。


「ソフィアさんが戻らない限り、この混乱は収まらないかもしれません」


「うん。歌姫が不在というだけで、この国の人々の精神的な支柱が失われる」


 ルーナが言った。


「どこで情報を集める?」


 悠斗は考えた。


「ミレイア様のところに行ってみよう」


「長老のところに?」


「ああ。昨日、エレナのことを知っていた。街の歴史についても詳しい。解放者同盟のことも、何か知っているかもしれない」


 高台への石畳の道を登る。


 道の脇では、数人の男が怒鳴り合いをしていた。


「国が悪い!」「黙れ、証拠もないのに!」


 悠斗は三人に「急ごう」と促した。


 ミレイアの屋敷の門をノックすると、今日は少し時間がかかってから扉が開いた。


「……また来たか」


 ミレイアは、険しい顔をしていた。


 しかし、昨日とは違う。


 老女の目には、深い憂慮が宿っていた。


「入りなさい。来る気がしていた」


 屋敷の居間に通され、四人は椅子に座った。


「ソフィアのことは、聞いた」


 ミレイアはすでに知っていた。


「今朝早く、使いの者が来た。歌姫が攫われたと」


「はい」


 悠斗は手紙を取り出した。


「これを残していきました」


 ミレイアは手紙を受け取り、老いた目で文字を追った。


 しわの深い顔が、さらに険しくなった。


「……解放者同盟」


「ご存知ですか?」


「知っている」


 ミレイアは手紙を机に置いた。


「昔の話だが……今も生き残っていたか」


「どんな組織ですか?」


「元々は、この国の不満を持つ者たちが集まった組織じゃった」


 ミレイアはゆっくりと語り始めた。


「税の重さ、貧富の格差、国の政治への不満……そういうものを抱えた者たちが、旗を作った。それが解放者同盟の始まりじゃ」


「最初は、正当な不満を持つ人々だったわけですか」


「そうじゃ」


 老女は続けた。


「しかし、いつの間にか変質した。正当な要求より、暴力や混乱を好む者たちが中枢を占めるようになった。国を変えるためではなく、国を壊すためだけに動くようになった」


「それが……今回もそういう動きをしていると?」


「そうとしか思えん」


 ミレイアは深いため息をついた。


「ソフィアを攫ったのは、ローレライに混乱を起こすためじゃろう。そして、噂を流した。上層部が黒幕だと。そうすれば、国民は権力者に怒りを向け、街は崩壊に向かう」


「根拠のない噂でも、人々は信じてしまう……」


「恐怖と怒りがある時は、特にな」


 ミレイアは言った。


「では……その組織のリーダーは?」


「……十年前に組織を率いていたのは、ガリウスという男じゃった」


 老女は少し間を置いた。


「この国に、深い恨みを持っている男じゃ」


「恨み……どんな?」


「詳しいことは私も知らん。しかし、昔、この国によって家族を失ったとも聞いた。その怒りが、組織を変質させたと……」


「家族を……」


「恨みを抱えた者が組織を率いると、目的はいつしか憎悪に染まる。最初は正義だったものが、やがて破壊のための道具になる」


 ミレイアは静かに言った。


「今、その男がまた動いているとしたら……ソフィアは危ない」


「どこに連れていかれたか、わかりますか?」


「わからん」


 ミレイアは首を横に振った。


「ただ……あの者たちは昔、街の外れにある廃墟をよく根城にしていた。今も使っているかどうかは、わからないが」


「どの辺ですか?」


「南の港から東へ。海岸沿いを歩いて半刻ほどのところに、古い倉庫群がある。昔は塩の倉庫として使われていたが、今は誰も使っておらん。そこに身を隠していた者が多かった」


「行ってみます」


「待ちなさい」


 ミレイアは厳しい声で言った。


「無闇に動いては、ソフィアが危険になる。今の街の状況も、目を離せない。まず情報を慎重に集めてから動きなさい」


「……わかりました」


 悠斗は頷いた。


「情報を集めます」


「そして」


 ミレイアはじっと悠斗を見た。


「あなたたちの力を、私は見ていた。昨日、港の方向から来たとき、その動きを見ていた。普通の人間ではない」


「……」


「何も言わなくていい。ただ——どうか、ソフィアを頼む」


 老女の声には、深い祈りが込もっていた。


「必ず取り戻します」


 悠斗は答えた。




 しかし、そこからが困難だった。


 解放者同盟について、街で話を集めようとしても、人々は口を閉ざすか、逆に誰彼構わず怒りをぶつけてくるかのどちらかだった。


 街はすでに、静かな沸点に達しつつあった。


 数か所で小競り合いが起き、治安を保とうとする衛兵と市民が衝突した。


 塩の倉庫群にも行ってみたが——空だった。


 誰かが最近使った形跡はあった。炭の燃え跡、食料の残骸、荒れた床。


 しかし、今はもぬけの殻だった。


「最近まで使っていたのは確かです」


 セレスティアが床の燃え跡を調べながら言った。


「二日前か三日前か……この炭の冷え具合からすると、それくらいです」


「ソフィアを攫う前に、ここを引き払ったのか」


「そうかもしれません。捜索を警戒して」


「どこに移ったんだ……」


 悠斗は廃倉庫の中を見回した。


 壁に、何かの落書きがある。


 解放という文字。


 自由という文字。


 そして——打倒歌姫支配、と書かれていた。


「……こいつらは、歌姫という制度そのものを憎んでいるのか」


「歌姫が国を動かすという仕組みへの反発かもしれません」


 ルーナが言った。


「一人の人間に、それだけの権力と神秘性が集中することへの怒り」


「それが……ソフィア個人への怒りじゃなくて、制度への怒りだとしたら」


「ソフィアは、道具として使われている」


 ルーナは声を曇らせた。


「制度を壊すための、道具として」


「……最悪だ」


 悠斗は苦く言った。


「でも、それならまだソフィアは生きている可能性が高い。奴らにとってソフィアは、暴動を煽るための切り札だ。殺してしまったら、使えなくなる」


「そうですね」


 セレスティアが頷いた。


「ならば、急ぎつつも慎重に」


「ああ」




 それから三日が過ぎた。


 この三日間、悠斗たちは休みなく動き続けた。


 港、市場、街の外れ、近隣の集落——あらゆる場所で情報を集めた。


 しかし、ソフィアの痕跡はどこにもなかった。


 解放者同盟の構成員が誰かも、誰も明かさなかった。


 怖いのか、それとも本当に知らないのか。


「……見つからない」


 三日目の夜、悠斗はソフィアの家の台所で椅子に座り、頭を抱えた。


「必ず、どこかにいるはずなんだ。でも」


 テーブルには、手書きの地図が広がっている。


 悠斗が歩き回って書き込んだ、この三日間の調査記録。


 ○をつけた場所は、すべて空だった。


「手がかりが、何もない……」


「悠斗」


 ルーナが向かいに座った。


「疲れているわ。少し休んで」


「でも、ソフィアが」


「休まないと、大事な時に動けなくなる」


 ルーナの声は穏やかだが、しっかりとしていた。


「それに……あなたが無理をしても、ソフィアは見つからない」


「わかってる。でも、動いていないと落ち着かないんだ」


 悠斗は天井を仰いだ。


「あの子は……エレナにようやく会えたのに。これからって時に」


「……うん」


 ルーナは静かに頷いた。


「不公平ね」


「ああ」


 テーブルの上に、ソフィアが使いかけていた鍋がある。


 昨日も、一昨日も、朝食はセレスティアが作った。


 ソフィアが毎朝立っていた台所は、静かすぎた。


「ルーナ」


 悠斗は言った。


「もし、エレナが情報を持っていたら、どうする」


「……エレナが?」


「あの人は、この街のことをよく知っている。ローレライの元歌姫なんだから、解放者同盟についても何か知っているかもしれない」


「でも……」


 ルーナは少し考えた。


「あの人は、連絡先を残していかなかった。どこにいるかもわからない」


「向こうから来るとしたら……ソフィアを攫われたことは、もう知ってるはずだ」


「うん」


「エレナは……ソフィアが危険な目に遭っているのを、黙って見ていられる人間じゃないと思う」


 ルーナは悠斗を見た。


「何かを感じてるの?」


「感じてるというか……」


 悠斗は窓の外を見た。


 夜の空に、二つの月が浮かんでいる。


 白い月と、黒い月。


「待ってみようと思う。今夜」


「そうね」


 ルーナは頷いた。


「私も、起きていようかしら」


「休んでいいよ。俺が見張る」


「一人で?」


「うん」


「……一緒にいる」


 ルーナは言い切った。


「あなた一人に任せない。二人で待ちましょう」


 悠斗は少し表情を緩めた。


「……ありがとう」




 セレスティアには先に休んでもらった。


 悠斗とルーナは、台所のテーブルで向かい合って座った。


 二つの茶碗に、ルーナが温かいお茶を注いだ。


 しばらくの間、二人は無言でお茶を飲んだ。


「悠斗」


 ルーナが口を開いた。


「うん?」


「ソフィアのことを思い出すの。彼女が初めて笑ってくれた時のこと」


「……ああ」


「こちらが友達だって言った時、目を潤ませて……あんなに喜んでくれた」


「うん」


「人に喜んでもらえると、こっちも嬉しくなるのね」


 ルーナは茶碗を両手で包んだ。


「女神だった頃は、そんなに人間と直接触れ合うことが少なかったから。こんなふうに、だれかの笑顔をすぐ近くで見るのは……新鮮で、温かくて」


「ルーナ」


「うん?」


「必ず取り戻す」


 悠斗はルーナの目を見た。


「ソフィアを。絶対に」


 ルーナの目が、少し揺れた。


「……うん」


「だから、心配しすぎるな。気持ちを無駄に消耗させないで、いざという時のために取っておいてくれ」


「あなたに言われると、なんか変な気分ね」


 ルーナは苦笑した。


「あなたの方が、ずっと疲れているのに」


「俺は大丈夫だ」


「嘘ばっかり」


 ルーナは少し笑ったが、やがてまた静かになった。


「悠斗……私ね、ずっと考えてるの。エレナのこと」


「エレナ?」


「あの人は何を知っているんだろう、って。水晶を奪って、何をしようとしているんだろう、って。でも……それ以上に」


 ルーナはテーブルに視線を落とした。


「あの人が、何かを知っている気がするの。この世界の秘密を。私の過去を。エクリシアのことを」


「……そう感じるか」


「根拠はないけど。ただ、あの人の目を見ていたら……」


 ルーナは言葉を探した。


「何か、深いものを抱えているように見えた。悲しみとも、使命とも言えるような」


「エレナが来たら、聞いてみよう」


 悠斗は言った。


「今夜来てくれたら」


「……うん」


 二人は再び静かになった。


 夜の波音が、窓の外から聞こえてくる。


 穏やかで、静かで、しかし今夜はその音も少し重く感じた。




 夜が更けた。


 月が、窓の位置から動き始めた頃——。


 かすかな音がした。


 悠斗は顔を上げた。


 窓の外。


 気配があった。


 人の気配。しかし重くない。


 悠斗は静かに立ち上がり、窓に近づいた。


 そっとカーテンをずらす。


 窓の外の暗がりに——黒いフードの人物が立っていた。


「……来たか」


 悠斗は窓を開けた。


「入ってくれ」


 フードの人物は、音もなく窓から室内に入ってきた。


 エレナだった。


 昨夜と同じ黒いフード。同じ静かな佇まい。


 しかし——その目に、いつもよりはっきりとした感情が見えた。


 怒りと、焦りと、そして何か別のもの。


「ソフィアが攫われたことを、知っているか」


 悠斗は静かに言った。


「……知っている」


 エレナの声は、低かった。


「解放者同盟だ」


「わかってるか」


「ああ」


「あいつらがどこに隠れているか、知っているか?」


 エレナは少し間を置いた。


 ルーナがテーブルから立ち上がり、エレナの傍に来た。


「……知っている」


 エレナは答えた。


「どこだ」


「街の北側。古い邸宅がある。今は廃屋として放置されているが、地下に隠れ場所がある」


「地下に……」


「その邸宅は、かつてローレライの高官が使っていたものだ。地下には複数の部屋がある。今、あそこを拠点にしている」


 悠斗は手書きの地図を開いた。


「どの辺りですか?」


「北の丘の上。石垣で囲まれた廃屋だ。外から見ると草が生い茂っているが、内部は補修されている」


「昨日も、一昨日も行ったはずだが……」


「外から近づいても、わからない。地下への入口は、建物の中に隠されている」


「……なるほど」


 悠斗は地図に場所を書き込んだ。


「なぜ、知っているんですか?」


 ルーナが聞いた。


 エレナは少し沈黙した。


「……以前から、監視していた」


「監視?」


「解放者同盟は、かなり前からこの街に潜伏していた。ソフィアが歌姫になった時から、私は警戒していた。あの子が狙われるかもしれないと」


「あなたが……」


 ルーナは言葉を止めた。


 エレナは続けた。


「だが、対処が間に合わなかった」


 その声に、わずかに自責の色があった。


「昨夜……ソフィアに会ったことで、私は満足して油断した。それが……」


「エレナ」


 悠斗は言った。


「今は過去の話より、これからの話をしよう」


「……そうだな」


「一緒に行ってくれるか」


 エレナは、悠斗を見た。


 しばらくの沈黙の後、短く頷いた。


「ああ」


 セレスティアを起こし、ソフィアの家を出た。


 夜の街は静かだった。


 昼間の喧騒が嘘のように、今は物音一つしない。


 割れた窓ガラス、ひっくり返された台車、散らばった果物。


 昼間の暴動の爪痕が、街の至るところに残っていた。


「酷い……」


 セレスティアが呟いた。


「ソフィアさんが戻れば、これも落ち着く……はずですね」


「落ち着かせてみせる」


 悠斗は言った。


 エレナが先頭を歩く。


 その歩みは静かで、しかし迷いがない。


 街の外れを過ぎ、北の丘への道を登り始めた。


「解放者同盟のボスは、ガリウスという男か」


 悠斗はエレナに聞いた。


「ああ」


「どんな男ですか?」


「……かつて、この国の農民だった」


 エレナは歩きながら言った。


「十数年前、国の政策で農地を取り上げられた。抵抗したが、力でねじ伏せられた。その時、家族も失った」


「家族を……」


「正確には、農地を巡る争いの中で、妻と子が逃げる途中で事故に遭った。国の者が悪いのか、状況が悪かったのか……真実は曖昧だが、ガリウスは国を恨んだ」


「……それが、組織を動かす原動力になっている」


「そうだ」


 エレナは続けた。


「元々は、貧しい者たちのために立ち上がろうとした男だった。しかし、憎しみが長く続きすぎた。今は、ただ破壊することしか頭にない」


「……同情はできる。でも、認められない」


 悠斗は言った。


「ソフィアは、そいつの恨みと関係ない」


「そうだ」


 エレナの声が、少し固くなった。


「ソフィアは、ただの道具として使われている。ガリウスの怒りを晴らすための」


「それは……」


 悠斗は拳を握りしめた。


「絶対に許さない」


 エレナは何も言わなかった。


 しかし、その歩みが、わずかに速くなった。




 北の丘に着いた。


 草が深く茂り、石垣が月明かりに浮かんでいる。


 確かに、外から見ると廃墟にしか見えない。


 しかし。


「……気配がある」


 悠斗は囁いた。


 エレナが頷いた。


「建物の中に、五人から七人。地下にも、数人」


「そんなにいるのか……」


「見張りが三人。地下に二人か三人の護衛。そしてガリウス」


「ソフィアは?」


「地下の奥の部屋だ」


「わかった」


 悠斗はルーナを見た。


「ルーナ、セレスティア。外の見張りを頼めるか。俺とエレナで中に入る」


「え……」


 セレスティアが少し不安そうな表情をした。


「二人で大丈夫ですか?」


「大丈夫だ」


 悠斗は静かに答えた。


「あいつらは俺たちの力を知らない。奇襲で行ける」


「……わかりました」


「ルーナ、魔法でサポートできるか?」


「ええ。外から光の魔法で牽制できるわ。見張りの気を引くこともできる」


「頼む」


「気をつけてね」


 ルーナはそっと悠斗の手を握った。


 一瞬だったが、その温もりが悠斗の手に残った。


「すぐ戻る」


 悠斗はエレナに目配せした。


「行くぞ」


 エレナは無言で石垣へと向かった。




 石垣を越えた先、草が腰まで伸びた庭を抜けると、古い屋敷の建物が見えてきた。


 二階建て。


 窓は板でふさがれている。


 しかし、板の隙間からわずかな灯りが漏れている。


「見張りは?」


 悠斗は囁いた。


「右手の木の影に一人。建物の角に一人。裏手に一人」


「見えてるのか?」


「見えている」


 エレナは静かに言った。


 その視覚の鋭さは——悠斗と同じ、あるいはそれ以上かもしれない。


「右の一人は、俺が処理する。角の方は?」


「私が」


「裏手は?」


「ルーナたちが気を引いてくれれば、一人で来ることができる」


「わかった」


 悠斗は地面を蹴った。


 音もなく、夜の闇の中を動く。


 草が揺れないように、足先から地面に着地する。


 右手の木の影。


 男が一人、あくびをしながら立っている。


 槍を持ち、黒い服を着た、体格のいい男。


 悠斗は接近した。


 男が気づく前に——脇腹に、拳を叩き込んだ。


 力は最低限に抑えた。


 殺さない。ただ、動けなくする。


「……っ」


 男は声もなく崩れ落ちた。


 悠斗は男を草陰に引きずり込んだ。


 角の方を見ると、すでにエレナが二人目を処理していた。


 音もなく。


 まるで影のように。


「すごい動きだ……」


 悠斗は思わず呟いた。


 その時、裏手から物音がした。


 しかし、続いてルーナの光の魔法が夜空に散った。


 裏手の男が「何だ!?」と声を上げながら、光の方向へ走っていく。


 その背後にエレナが回り込み——


 一瞬で、男を無力化した。


「……さすがだな」


「時間はない。行くぞ」


 エレナは屋敷の扉に向かった。




 屋敷の中は、思ったより人がいた。


 廊下に二人、階段の踊り場に一人。


 全員、武装している。


「任せてくれ」


 悠斗は言った。


 廊下の二人が気づいた瞬間——悠斗はすでに動いていた。


 一人目の首筋を手刀で打ち、崩れるのを見届けながら、二人目の足を払う。


 倒れた男の頭が床に当たる前に、悠斗が抑え込んでいた。


「な……何だ……なんでこんな……」


 二人目の男が震えた声で言った。


「大人しくしてたら、殺さない」


 悠斗は静かに言った。


 男は頷いた。


 踊り場の一人は、エレナが処理していた。


「地下への入口は?」


 エレナが男に向かって言った。


「……台所の、床下扉だ」


 男は怯えながら答えた。


 台所の隅、棚の裏に、床扉があった。


 エレナが棚を動かし、悠斗が扉を開けた。


 暗い階段が下に続いている。


「先に行く」


 悠斗は階段を降り始めた。


 地下は、思ったより広かった。


 石造りの廊下が続き、いくつかのドアが並んでいる。


 灯りが、廊下の奥から漏れている。


「……護衛は三人」


 エレナが囁いた。


「奥に、ガリウスとソフィア」


「行くぞ」


 二人は廊下を進んだ。


 最初の護衛が角を曲がったところで現れた。


 剣を持った大柄な男だった。


「誰だ!」


 男が叫んだ。


 悠斗は走った。


 男が剣を抜くより速く、悠斗は男との距離を詰めた。


 剣が鞘から抜けた瞬間、悠斗の左手が剣を掴んだ。


 刃が食い込もうとした瞬間、悠斗は刃ごと握り込んだ。


「……っ!?」


 金属が軋む音がした。


 悠斗の素手の力が、剣の刃を止めていた。


「馬鹿な……」


 男の目が見開いた。


 悠斗の右の拳が、男の鳩尾に突き刺さった。


 男は前に折れ、そのまま意識を失った。


「化け物か……」


 廊下の奥から二人目の護衛が声を上げた。


「違う」


 悠斗は言った。


「ただ、怒ってるだけだ」


 悠斗は走った。


 二人目の護衛が魔法を発動しようとした。


 光が手の中に集まる——しかし悠斗の方が速かった。


 手を跳ね上げ、魔法の発動点を崩す。


 光が天井に散った。


 護衛の胸に、拳。


「三人目は?」


 悠斗はエレナに聞いた。


「……いない」


 エレナは廊下を見た。


「逃げたか、あるいは——」


 その時、奥の部屋から声がした。


「動くな!」


 ガリウスの声だった。


 扉が開いていた。


 奥の部屋は、石造りの狭い空間だった。


 壁に松明がかかり、その明かりの中に——。


「ソフィア!」


 ソフィアがいた。


 椅子に縛り付けられ、口は塞がれていないが、顔色が悪かった。


 しかし、目に光があった。


 生きている。


「悠斗さん……」


 ソフィアは小さく言った。


「来てくれた……」


「当たり前だ」


 しかし、悠斗は足を止めた。


 ソフィアの首元に、短剣が突きつけられていた。


 その短剣を持つ男が、ガリウスだった。


 ガリウスは、五十代くらいの男だった。


 痩せた体に、長い黒髪が白く混じっている。


 目が——深く、暗い。


 怒りと悲しみが混ざり合って固まったような、そんな目をしていた。


「よく来た、旅人」


 ガリウスは静かに言った。


「手を出してみろ。この喉を掻き切る」


「……」


 悠斗は立ち止まった。


 ソフィアの首に突きつけられた短剣。


 距離は三メートル。


 悠斗の反射神経なら、ガリウスが動くよりも速く動くことはできる。


 しかし——。


 刃はすでに皮膚に触れていた。


「お前が、ガリウスか」


 悠斗は言った。


「そうだ」


「何がしたい」


「わかっているだろう」


 ガリウスは唇を歪めた。


「この国を、滅ぼす」


「……ソフィアを攫って、暴動を起こして。それがお前の方法か」


「歌姫が消えれば、この国は混乱する。人々の怒りは権力者に向かう。内から崩れる」


 ガリウスは続けた。


「そして、上層部が黒幕だという噂を流せば——国民は権力者を信じなくなる。一度崩れた信頼は、二度と戻らない」


「それが……目的か」


「国を壊すことが、私の目的だ」


 ガリウスの声に、静かな熱があった。


「この国は、腐っている。農民から土地を奪い、逆らう者を力でねじ伏せる。弱い者が泣いても、誰も助けない。そんな国は一度、完全に壊れなければならない」


「お前の家族が、そのせいで死んだのか」


 ガリウスの目が、わずかに揺れた。


「……妻も、娘も」


「……」


「国の役人が農地の調査に来た。追い出そうとした。妻は荷物を持って逃げる途中、川に落ちた。娘もだ。川は増水していた」


「……」


「国は謝罪しなかった。むしろ、逃げ方が悪いと言った。私は罰せられた。牢に入れられた。そして——誰も助けなかった」


 ガリウスは低い声で言った。


「誰一人」


 悠斗は黙って聞いていた。


「だから、お前はこの国を壊そうとしている」


「そうだ」


「ソフィアを道具として使って」


「歌姫は、この国の権威の象徴だ。歌姫を消せば——」


「やめろ」


 その声が、悠斗の背後から聞こえた。


 エレナだった。


 エレナが、一歩前に出た。


 フードはまだ被っていたが——その声は、低く、静かで、そして冷えていた。


「エレナ……!」


 ガリウスが目を見開いた。


「お前……」


「久しぶりだな、ガリウス」


 エレナは言った。


「知り合いか?」


 悠斗は小声でエレナに聞いた。


「……古い知り合いだ」


 エレナはガリウスを見たまま答えた。


「ガリウス。その娘を放せ」


「なぜ、お前がここにいる」


「お前がソフィアを攫ったからだ」


「ソフィアは……」


 ガリウスの目が揺れた。


「あの子は関係ない。あの子の歌姫という立場が、問題なんだ。個人としてではなく——」


「黙れ」


 エレナの声が、鋭くなった。


「理屈はいい。ソフィアは、私が育てた子だ」


「……知っている」


「なら、なぜあの子を選んだ」


「歌姫だからだ。あの子がソフィアだからではなく——」


「それが答えか」


 エレナの声が——変わった。


 穏やかで静かな声が、一瞬で冷え固まった。


「お前は、あの子をただの道具として見ている」


「違う。私は——」


「違わない」


 エレナは一歩踏み出した。


「ガリウス。お前の怒りは、私も理解している。お前の家族のことも、知っている。国が理不尽だったことも、わかっている」


「……」


「しかし」


 エレナの声に、押しつぶすような重みがあった。


「お前は間違っている。ソフィアは、お前の怒りとは関係ない。あの子は、お前の復讐の道具ではない。あの子は——私の娘だ」


「……」


 ガリウスの短剣を持つ手が、わずかに震えた。


「放せ、ガリウス」


「……お前に、止める権利はない」


「ある」


 エレナは言い切った。


「私にはある。あの子に関して言えば——誰よりも私に権利がある」


「エレナ……」


 ガリウスは唇を震わせた。


「私は……この国を壊さなければ」


「お前の家族は、それで戻ってくるのか」


 静かな声だった。


 しかしその一言が、ガリウスの体を固めた。


「……」


「戻ってこない」


 エレナは続けた。


「何度、この国を壊しても。何人を巻き込んでも。お前の妻は、娘は——戻ってこない」


「……知っている」


 ガリウスの声が、低くなった。


「わかっている……でも、私は——」


「止まれ、ガリウス」


 エレナの声に、かすかな懇願があった。


「これ以上進めば、お前は本当に取り返しのつかないことをする」


「……」


「ソフィアを傷つけたら、お前の残った人生に何も残らない。恨みだけで生きることの結末が、どれほど空虚か——お前は知っているはずだ」


 ガリウスの目に、何かが走った。


 短剣を持つ手が、静止した。


 しかし——。


「遅い」


 ガリウスが動いた。


 短剣が動いた。


 その瞬間、悠斗の視界の中で時間が引き伸ばされた。


 スローモーション。


 しかし——悠斗が動くより速く、エレナがすでに動いていた。


 一閃。


 エレナの手がガリウスの手首を掴んだ。


 捻った。


 短剣が床に落ちた。


 乾いた音が、石の床に響いた。


 ガリウスが短く悲鳴を上げた。


 エレナはガリウスの腕を背後にねじり上げ、石の壁に押し付けた。


「……っ」


 ガリウスは動けなかった。


 エレナの力が、完全にガリウスを制していた。


 悠斗は一瞬、息をのんだ。


 速かった。


 反応速度も、制圧の精度も、悠斗がどう動くかを考えている間に、エレナはすでに完結させていた。


「……終わりだ」


 エレナは静かに言った。


 ガリウスは——泣いていた。


「俺は……俺は……」


 男の声が、震えていた。


 それは、怒りでも恨みでもなく——長い年月の疲労のような、深い、悲しい声だった。


「俺は……何もできなかった……妻も、娘も……何も守れなかった……」


「……」


「だから、せめて……この国を……許せなかった……」


「……わかっている」


 エレナは言った。


「お前の悲しみは、本物だ」


「なぜ……なぜ、止める……」


「ソフィアが危ないからだ」


 エレナの声は、静かだった。


「それだけだ」


 ガリウスは、もう抵抗しなかった。


 ただ、壁に額を押し付けて、静かに泣き続けていた。


「ソフィア!」


 悠斗は椅子に駆け寄った。


 縄を解く。


 何本もの縄が、ソフィアの手と足を縛っていた。


 悠斗は縄を引っ張った。


 力を込めすぎないよう、しかし確実に。


 縄が解けた。


「大丈夫か」


「……はい」


 ソフィアの声は、かすれていた。


 しかし、はっきりとしていた。


「怪我は?」


「……少し。でも、大丈夫です」


 悠斗はソフィアの腕を支えて、立ち上がらせた。


 ソフィアの足が震えていた。


「歩けるか?」


「少し……待ってください」


 ソフィアは深呼吸した。


「……悠斗さん」


「うん?」


「来てくれて……ありがとうございます」


 その声は、震えていた。


 しかし折れていなかった。


「当たり前だ」


 悠斗は言った。


「俺が守るって言っただろ」


「……はい」


 ソフィアはゆっくりと立った。


 足がまだ少し震えていたが、倒れなかった。


 自分の力で、立った。


 部屋の入口に、エレナが立っていた。


 ガリウスを縛り上げ、壁際に座らせていた。


 ガリウスは無言で座っていた。


 目には、もう怒りはなかった。


 ただ、疲れ果てた老人が、そこに座っていた。


 ソフィアがエレナを見た。


「……お母さん」


「ソフィア」


 エレナは、ソフィアを見た。


「怪我は?」


「少し……でも、大丈夫です」


「そうか」


 エレナの声は、平静を保っていた。


 しかし、その目の奥に、何かが揺れていた。


「来てくれたんですね」


 ソフィアは小さく言った。


「……ああ」


 エレナは短く答えた。


「当たり前だ」


 悠斗が先ほど言った言葉と、同じ言葉だった。


 ソフィアは一瞬、唇を震わせた。


 しかし、今は泣かなかった。


「行きましょう」


 ソフィアは言った。


「ここを出ましょう」


「ああ」


 悠斗は頷いた。


 地下の階段を登り、屋敷を出ると——ルーナとセレスティアが待っていた。


「ソフィア!」


 ルーナが駆け寄ってきた。


「無事だった!?」


「はい……」


 ソフィアはルーナに抱き付かれ、少し驚いた表情をした。


 しかし、すぐに体の力を抜いた。


「よかった……本当に、よかった……」


 ルーナは泣きそうな声で言った。


「心配したのよ、私……三日間、ずっと……」


「ごめんなさい、ルーナさん」


「謝らなくていい!あなたのせいじゃないんだから!」


 セレスティアも近づいた。


「お怪我はありますか?」


「少し手首が……」


「見せてください」


 セレスティアはソフィアの手首を確かめた。


 縄の跡が、赤く残っていた。


「治癒の魔法をかけます。少し待ってください」


 セレスティアの手から、淡い光が出た。


 光がソフィアの手首を包む。


「……温かい」


 ソフィアは目を細めた。


「痛みが引いていきます」


「ありがとうございます……」


 エレナは少し離れたところで、その光景を見ていた。


 黒いフードの中で、その表情は見えなかった。


 しかし、動かなかった。


 ただ、静かに立って、見ていた。




 三日前。


 ソフィアは、目が覚めた時に自分がどこにいるかわからなかった。


 暗い。


 石の臭い。


 地面が、冷たく硬い。


「……ここは」


 頭が重かった。


 何かを吸わされたのかもしれない。


 ぼんやりとした意識の中で、少しずつ記憶が戻ってきた。


 夜。


 部屋。


 窓から入ってきた影。


 気づく間もなく、口を覆われた。


 薬の臭い。


 そして——記憶が途切れた。


「……攫われた」


 ソフィアは唇を噛んだ。


 手を動かそうとすると、縄が手首に食い込んだ。


 足も縛られている。


 椅子に座らされているようだった。


 松明の光が、壁を照らしている。


 石造りの、狭い部屋。


 地下らしい。


 湿った空気と、石の冷たさが、そう告げていた。


 ソフィアは深呼吸した。


 怖い。


 怖いが——泣くより先に、考えなければならない。


 誰が攫ったのか。


 なぜ自分が攫われたのか。


 どうすれば脱出できるか。


「目が覚めたか」


 声がした。


 扉の方から。


 ソフィアは顔を上げた。


 扉が開き、人が入ってきた。


 五十代の男。


 痩せた体に、深い目をした男。


「……あなたは誰ですか」


 ソフィアは尋ねた。


 声を震わせないように、努めて平静に。


「ガリウスという」


 男は椅子を引き寄せ、ソフィアの正面に座った。


「解放者同盟のリーダーだ」


「解放者同盟……」


「知らないか」


「聞いたことはあります。昔、この国で騒動を起こした組織だと」


「騒動、か」


 ガリウスは苦く笑った。


「我々は、騒動を起こしたわけではない。正義のために立ち上がったのだ。この国の不正に対して」


「……」


「ただ、誰も本当のことを言わない」


 ガリウスは続けた。


「国の者も、貴族も、商人も。都合の悪いことは全て隠す。弱い者を踏みにじっておきながら、表向きは繁栄と平和を謳う。それが——この国の本当の姿だ」


 ソフィアは黙って聞いていた。


「歌姫は、その欺瞞の象徴だ」


 ガリウスの目が、静かになった。


「美しい歌声で人々を魅了し、安心させ、支配する。国の問題から目を逸らさせる。それが、歌姫という存在の役割だ」


「……それは」


 ソフィアは、反論しようとした。


 しかし言葉が出なかった。


 歌姫という存在が、国を支えるものだと信じていた。


 しかし——ガリウスの言葉には、完全に否定できない何かがあった。


「お前は悪くない」


 ガリウスは静かに言った。


「お前個人を責めているわけではない」


「でも……」


「ただ、お前が消えることで、この国の虚偽が明らかになる。人々は気づく。歌姫という幻想に頼ってきた自分たちに」


「それで、街が混乱しても?」


「混乱しなければ、変わらない」


「混乱した街で、傷つく人間が出ます」


「変わらない社会の中で、もっと多くの人間が静かに傷ついている」


「……」


 二人の間に、沈黙が流れた。


 ガリウスの言葉には、力があった。


 怒りではなく、長い年月が凝縮された、重さがあった。


「あなたの家族のことは……知っています」


 ソフィアは言った。


「街で、少し聞きました。何年か前、農地を取り上げられて……」


 ガリウスの顔が、わずかに固まった。


「妻と娘を、失ったと」


「……誰から聞いた」


「……古い話として、街に伝わっていました」


 ガリウスは黙った。


 長い沈黙の後、男は立ち上がった。


「関係ない話だ」


「関係あります」


 ソフィアは言った。


「あなたが今、こうして行動しているのは——全部、その日から繋がっていることだから」


「……」


「あなたは、怒っているんですよね。悲しんでいるんですよね」


「……」


「その気持ちは、私にはわからない。同じ痛みを経験したことがないから。でも」


 ソフィアは続けた。


「あなたの怒りが本物だとしても……私を道具にすることは、違うと思います」


「黙れ」


「正義の名のもとに、誰かを傷つけることは——正義じゃない」


「黙れ!」


 ガリウスの声が荒くなった。


「お前に何がわかる。家族を失ったことが。誰も助けてくれないまま、一人で抱えてきたことが」


「わかりません」


 ソフィアは静かに言った。


「でも」


「でも?」


「あなたが感じている孤独の痛みは……少しだけなら、わかるかもしれない」


 ガリウスは黙った。


「私も、両親を早くに亡くしました。七歳の時に、一人になりました。誰もいない家で、どうやって生きていけばいいかわからなくて……それでも、誰も助けてくれなかった時の気持ちは、少しだけ知っています」


「……」


「あなたほどの絶望じゃない。比べることもできない。でも——孤独で、誰もわかってくれないという気持ちは、わかる」


 ガリウスは椅子に再び座った。


「……お前は、なぜ歌うんだ」


「え?」


「なぜ、歌姫になった。国に使われるために歌うのか」


「違います」


 ソフィアは答えた。


「私が歌うのは……育てくれた人が、歌を好きだったから。その人が喜んでくれるから、歌いたかった。人の心が温かくなるのを見たくて、歌いたかった」


「……」


「歌は、人を縛るためのものじゃない。解放するためのものだと思っています。悲しい人が、少しだけ楽になれる。怖い夜に、少しだけ明るくなれる。そういう歌を歌いたいと思ってきた」


 ガリウスは、長い間ソフィアを見ていた。


「……お人好しだな」


「そうかもしれません」


 ソフィアは言った。


「でも、それでいいと思っています」


 ガリウスは何も言わなかった。


 立ち上がり、扉の方へ歩いていく。


「今夜は、ここにいろ」


「……はい」


 扉が閉まった。


 ソフィアは、暗い部屋で一人になった。


 手首の縄が、じんじんと痛む。


 背もたれに体を預けた。


 天井を見上げる。


 石の天井。


「……来てくれるかな」


 ソフィアは呟いた。


「悠斗さん……ルーナさん……」


「必ず、来てくれる」


 自分に言い聞かせながら、ソフィアは目を閉じた。


「お母さん……」


 エレナの顔が浮かんだ。


 一昨日の夜に会ったばかりの、黒いフードの後ろ姿。


「あなたも……来てくれる?」


 答えはなかった。


 しかし——ソフィアは待つことにした。


 必ず、誰かが来ると。


 それだけを信じて、待つことにした。




 翌日も、その次の日も、ソフィアはじっと待ち続けた。


 食事は日に一度、水と干し肉と固いパン。


 見張りが来る以外、誰も部屋に入ってこなかった。


 二日目の昼、ガリウスが部屋に来た。


「街が混乱し始めた」


 男は言った。


「お前が攫われたことを、あちこちで喋ってやった。上層部が黒幕だという話もな」


「……」


「人々は怒っている。やはり、歌姫は国の要なんだな。消えるだけで、国が揺れる」


「それが、嬉しいですか」


「嬉しくはない」


 ガリウスは静かに言った。


「ただ……正しいと思っている」


「正しい、ではなく、必要と信じているんですよね」


「……変わらない」


「似て非なるものだと思います」


 ガリウスは答えなかった。


「あなたは、正義のために動いている。しかし、心の中では——本当に正義かどうか、迷っている」


「迷っていない」


「迷っているから、私に話しかけに来る」


「……」


「話す相手も、いないんじゃないですか」


 長い沈黙だった。


「組織の仲間はいる」


「仲間でも、心の話はできないんじゃないですか」


 ガリウスは黙った。


「お前は……なぜ、そういうことを言う」


「あなたに、怒りをぶつけても意味がないから」


 ソフィアは言った。


「あなたも、本当は——救われたいんじゃないかと思って」


「救われる必要はない」


「でも、孤独は嫌でしょう」


「……」


「誰かに、わかってほしいと思っているんじゃないですか。妻と娘のことを。誰も悼んでくれなかったことを」


 ガリウスの目が、揺れた。


「……やめろ」


「やめません」


 ソフィアは続けた。


「あなたの家族が死んだのは、悲しいことだった。国が悪かったとしたら、それは不正義だった。でも——あなた一人が抱えてきた怒りは、重すぎた。誰かに聞いてもらうべきだった」


「聞く者が、いなかった」


「今は、います」


「……」


「私が、聞きます」


 ガリウスは長い間、ソフィアを見ていた。


 そして——男は椅子に座り、ゆっくりと口を開いた。


 それは、十数年間誰にも語らなかった話だった。


 川のこと。妻の声のこと。娘の笑顔のこと。


 ソフィアは、黙って聞いた。


 全部を。




 そして——三日目の夜、悠斗たちが来た。


 扉が開いた時、ソフィアはすぐに分かった。


 悠斗の足音。静かで、しかし迷いのない歩み。


「ソフィア!」


 悠斗の声が聞こえた瞬間——ソフィアの目から、ようやく涙が出た。


 ずっと、泣かないようにしていた。


 ガリウスの前では、泣かないようにしていた。


 でも、悠斗の声を聞いた瞬間——抑えていたものが、全部溢れた。


「来てくれた……」


 ソフィアは呟いた。


「当たり前だ」


 悠斗の声は、穏やかだった。


 ぶれていなかった。


 当たり前のように言ってくれた。


 それが——何より嬉しかった。




 解放者同盟の残党は、翌朝、街の衛兵に引き渡した。


 ガリウスと、地下に残っていた者たち。


 抵抗はなかった。


 ガリウスは一言も言わなかった。


 衛兵に連れていかれる時、男は足を引きずりながら歩いていた。


 悠斗は、その背中を見た。


 複雑な気持ちがあった。


 怒りは、確かにあった。


 ソフィアを攫い、街を混乱させた。


 しかし——あの男の涙も、本物だったと思った。


 どうすることが正しかったのか、悠斗にはわからなかった。


 ただ——ソフィアを取り戻せたことだけは、正しかったと思った。


 ソフィアが無事に戻ったという知らせは、予想以上の速さで街に広まった。


 朝の市場に、ソフィアが姿を見せた瞬間——人々の反応は、昨日までとは全く違った。


「歌姫様!」


「ご無事でしたか!?」


「よかった……本当によかった……」


 人々がソフィアの周りに集まってきた。


 泣いている老婆がいた。


 ソフィアの手を握りしめる若い母親がいた。


「歌姫様……声を聞かせてください」


 誰かが言った。


「あなたの声を聞いたら、きっとみんな落ち着きます」


 ソフィアは少し躊躇した。


 まだ声は十全ではなかった。


 三日間、ろくに水も飲めていなかった。


 しかし——ソフィアは頷いた。


 市場の中心で、ソフィアは息を吸った。


 悠斗はその横に立っていた。


 ルーナとセレスティアも、少し後ろに。


 そして——エレナが、遠くから見ていた。


 ソフィアは歌い始めた。


 最初の音は、少しかすれていた。


 しかし、二音目から、三音目から——声は澄んでいった。


 ローレライの朝の空気に、歌声が溶けていく。


 静かで、柔らかで、しかし芯が強い歌声。


 悠斗には歌詞の意味はわからなかったが——その声が持つ何かが、確かに伝わってきた。


 市場の喧騒が止まった。


 人々が静かになった。


 怒鳴り合っていた男たちが、手を下ろした。


 泣いていた老婆が、涙をぬぐった。


 子どもが、母親の手を握った。


 歌は、短かった。


 けれど、その短さが逆に、全てを言い表しているようだった。


 歌が終わった瞬間——静寂の後、誰かが拍手をした。


 それが広がった。


「よかった……」


「歌姫様、ありがとう……」


「これで、また大丈夫だ」


 誰かがそう言った。


 その言葉は、自分に言い聞かせているようにも、聞こえた。


 ソフィアは深く頭を下げた。


 悠斗の横で、ルーナが小さく息を吐いた。


「……よかった」


 ルーナが呟いた。


「うん」


 悠斗も頷いた。


 家に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 四人——そして、エレナが中に入ってきた。


「座ってください」


 ソフィアが言った。


 エレナは少し躊躇したが、椅子に腰を下ろした。


 フードは、まだ被ったままだった。


「今日は、お茶しか出せませんが」


 ソフィアはお茶を用意した。


「それで十分だ」


 エレナは短く答えた。


 五人でテーブルを囲んだ。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 お茶の湯気が、静かに漂う。


「……お母さん」


 ソフィアが口を開いた。


「なんだ」


「助けに来てくれて、ありがとうございました」


「……」


「昨夜に続いて。二度も……」


「昨夜は、ただ話しに来ただけだ」


「それでも。会いに来てくれた」


 エレナは黙っていた。


「今日は……本当に、危なかった。ガリウスは本気だった」


「わかっている」


「でも、あなたが来てくれた。だから……」


 ソフィアは少し言葉を止めた。


「だから、こうしていられる」


 エレナはお茶を一口飲んだ。


「どういたしまして」


 その声は、いつもより低かった。


 いつもより、少し柔らかかった。


「エレナ」


 悠斗は言った。


「ガリウスのことを知っていた。古い知り合いだと言っていたな」


「……ああ」


「あいつが解放者同盟にいることも、知っていたか?」


「組織のことは知っていた。しかし、ソフィアを直接狙うとは思っていなかった」


「そうか……」


 悠斗はお茶を飲んだ。


「エレナ」


 今度はルーナが言った。


「うん?」


「約束、覚えてる?」


「……なんの約束だ」


「次に会う時は、全てを話してもらうって」


 エレナは少し沈黙した。


「……覚えている」


「話してもらえる?」


 長い、沈黙だった。


 部屋の中に、波の音だけが聞こえる。


 遠く、穏やかに。


「……」


 エレナはゆっくりと言った。


「少し、話せるかもしれない」


「少しでもいい」


 ルーナは言った。


「あなたのことを、もっと知りたい」


 エレナは、ルーナを見た。


 その目が——わずかに揺れた。


「……ソフィア」


 エレナはソフィアを見た。


「はい」


「お前は……聞きたいか」


「……はい」


 ソフィアは答えた。


「怖くても、知りたい。あなたがいなくなった理由を。あなたが何をしてきたかを」


「……」


「あなたが語らなくても、私は待てる。でも……もし話せるなら」


 ソフィアは続けた。


「聞かせてほしいです。お母さんのことを」


 エレナはしばらく、テーブルの上のお茶を見ていた。


 湯気が、ゆっくりと薄れていく。


「……わかった」


 エレナは静かに言った。


「話す」


「ありがとう」


「礼はまだいい」


 エレナはフードを少し上げた。


 フードの奥で、目が見えた。


 深く、暗く、しかし今夜は——何かが、少しだけ緩んでいた。


「どこから話せばいいか……」


 エレナは小さく息を吐いた。


「……最初から、話そうか」


「うん」


 ソフィアはまっすぐに、エレナを見た。


 悠斗も、ルーナも、セレスティアも——静かに、聞く準備をした。


 エレナは少し間を置いた後、ゆっくりと口を開いた―


三日間、地下の部屋でずっと考えていた。


怖かったか、と聞かれれば——怖かった、と答える。


でも、不思議と泣かなかった。


泣けなかったのではなく、泣く必要がなかった。


あの人たちは必ず来てくれると、根拠もなく確信していたから。


ガリウスという人は、悪い人ではなかった。


ただ、怒りを長く一人で抱えすぎた人だった。


誰かに話を聞いてもらえていたら、ああはならなかったかもしれない。


そう思うと、歌というものの意味を、また少し考え直した。


人を支配するためじゃなく、孤独な人に「ここに誰かいるよ」と伝えるために——私は歌いたい。


帰り道、市場で歌を歌った。


声はかすれていたけれど、伝わった気がした。


人々の顔が、少しずつ柔らかくなっていくのが見えた。


遠くから、お母さんが見ていた。


気づかないふりをしていたけれど、ちゃんと気づいていた―


ソフィア

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