第23話 「黒衣の訪問者」
翌日。
悠斗が目を覚ますと、窓の外から鳥の声と、遠く潮騒の音が聞こえてきた。
ローレライの朝は、北の国とは全く違う空気をまとっている。
湿った温かさと、潮の香り。花の香りが混じった風が、薄いカーテンをふわりと揺らす。
「……今日こそ、動かないといけない」
悠斗はゆっくりと体を起こした。
隣のベッドでは、ルーナがまだ眠っている。
銀色の髪が枕に広がり、穏やかな寝息を立てている。
「絶対に取り戻す……」
悠斗は小声で呟いた。
ルーナの最後の記憶。
五つ目の、最も重要な記憶。
それが、あの黒フードの女の手にある。
「くそ……」
悠斗は静かに拳を握りしめた。
力を込めすぎて、ベッドの木枠に小さなひびが入った。
悠斗は慌てて力を抜いた。
「……気をつけないと」
ため息をついた後、悠斗は静かにベッドを降りた。
ルーナを起こさないよう、足音を消して窓辺に立つ。
外を見ると、ローレライの街はすでに動き始めていた。
市場の方向から、売り子の声が聞こえてくる。
魚を運ぶ男が笑い声をあげながら通りを歩いている。
子どもたちが海の方向へ駆けていく。
「……平和な街だな」
悠斗は呟いた。
「だからこそ」
守らなければならない。
悠斗は気持ちを整え、そっと部屋を出た。
廊下に出ると、台所の方から、かすかに何かを刻む音がした。
「おはようございます」
台所に入ると、ソフィアが野菜を切っていた。
「おはよう。もう起きてたのか」
「はい。早起きは習慣なんです」
ソフィアは微笑んだが、その目の下には薄い影があった。
昨夜、泣いていたのだろう。
悠斗は何も言わなかった。
「手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です。もうすぐできますから」
「そうか」
悠斗は椅子に座り、ソフィアの手元を見た。
「……ソフィア」
「はい」
「今日、一つ頼みたいことがある」
ソフィアは包丁を止めた。
「何ですか?」
「この街で、情報を集めたい」
悠斗は続けた。
「最近、怪しい黒いローブの人間が神殿周辺で目撃されているという話がある。そういうことを知っていそうな人を、案内してくれないか」
ソフィアはしばらく考えた。
「……わかりました」
「ありがとう」
「でも……」
ソフィアは少し躊躇ってから、続けた。
「聞き込みをするなら、市場や港の年配の人たちがいいと思います。この街で長く暮らしている人たちは、よく人の出入りを見ていますから」
「なるほど」
「あと……」
ソフィアは少し声のトーンを変えた。
「長老のところにも行ってみたほうがいいかもしれません」
「長老?」
「ええ。ローレライには、古くから街を見守ってきた長老がいます」
ソフィアは鍋に野菜を入れながら言った。
「ミレイア様、といって、八十歳を超えた方なんですが……この街のことなら何でも知っていらっしゃいます。月の神殿のことも、詳しいはずです」
「月の神殿のことを……」
「ええ」
悠斗は頷いた。
「じゃあ、朝食が終わったら案内してくれるか」
「はい」
朝食が始まった頃、ルーナとセレスティアも起きてきた。
「おはよう……」
ルーナは少し眠そうだったが、テーブルに並んだ料理を見て目を覚ました様子だった。
「わあ……魚のスープだわ」
「はい。ローレライ式の朝のスープです」
ソフィアが微笑んだ。
「白身魚と香草を煮込んで、ミルクで仕上げてあります」
「美味しそう……」
ルーナがスプーンを持った。
一口飲んで、目を細めた。
「……本当に美味しい」
「ありがとうございます」
悠斗も飲んでみた。
魚の旨味が溶け込んだ、優しい味わい。塩加減が絶妙で、体の芯まで温まる。
「これ……すごいな」
「お口に合ってよかったです」
四人はしばらく無言で食事をした。
昨日の出来事が、まだ全員の頭の中に残っている。
しかし悠斗は、食べながら考えていた。
今日、何をすべきか。
水晶を奪ったあの三人組を追うには、まず情報が必要だ。
「食事が終わったら」
悠斗は言った。
「街に出よう。情報を集める」
「そうですね」
セレスティアが頷いた。
「昨日の人物たちが、どこに向かったのかを知る必要があります」
「うん」
ルーナも静かに頷いた。
その表情には、決意の色が見えた。
「必ず取り戻す。私の記憶を」
「ああ」
悠斗はルーナを見た。
「一緒に取り戻す」
ルーナの目が、少し和らいだ。
「……ありがとう、悠斗」
朝食を終えた四人は、街へと出かけた。
ローレライの午前中は、活気に満ちていた。
市場には、色とりどりの魚介類が並んでいる。
大きな蟹、見たこともない形の貝、銀色に光る魚。
「すごいな……」
悠斗は思わず立ち止まった。
「ローレライは漁業が盛んですから」
ソフィアが説明した。
「魚は、この街の誇りなんです」
「へえ……」
悠斗は市場を見回した。
「じゃあ、まずここで聞き込みをしようか」
「はい」
ソフィアは市場の奥に向かって歩き始めた。
「あそこに、魚屋のオジョさんがいます。この辺りのことなら何でも知っている人で……」
ソフィアが立ち止まったのは、大きな魚の干物が軒先にぶら下がった店の前だった。
店の主人は、見るからに人の良さそうな恰幅のいい男性だった。年齢は五十代くらいだろうか。日焼けした肌に、白い歯が光る。
「あれ、ソフィア嬢じゃないか!」
男性は声を上げた。
「よう、いつもより早いね。今日のコンサートの前に買い物か?」
「いえ、今日はちょっと違う用事で」
ソフィアは少し頬を染めた。
「こちらは、私の友人たちです。旅人なんですが……少し聞きたいことがあって」
「旅人か」
オジョと呼ばれた男性は、悠斗たちを見た。
「どこから来たんだ?」
「北の方からです」
悠斗は答えた。
「いろいろ旅をしていて、この街に立ち寄りました」
「ほほう、わざわざ南まで来るとはご苦労だな」
オジョは豪快に笑った。
「で、何が聞きたい?」
悠斗は少し声を低めた。
「最近……この辺りで、黒いローブを着た旅人を見かけませんでしたか?」
オジョの表情が、わずかに変わった。
「黒いローブ……」
「はい。三人か、あるいはそれ以上かもしれません」
オジョはしばらく考えた。
「……実はな」
彼は声を低めた。
「三日前くらいから、神殿の方向に黒い人影を見た、って話は聞いてたんだよ」
「神殿の方向に……」
「ああ。ウルマって言って、港の反対側で漁をしているじいさんが言ってたんだ。夜明け前に出漁しようとしたら、神殿の森の方から黒いローブの連中が歩いているのを見た、って」
「夜明け前に……」
悠斗は心当たりがあった。
昨日、神殿で出会った三人組。
あいつらは昨日だけでなく、もっと前から神殿周辺を偵察していたのかもしれない。
「その人に会えますか?」
「ウルマじいさんか?」
オジョは振り返った。
「今の時間なら、港の東側にいるはずだ。今日は珍しく早帰りだって言ってたから」
「ありがとうございます」
悠斗は頭を下げた。
「いや、礼には及ばないよ」
オジョは笑った。
しかし、その笑顔が少し翳った。
「……ただな」
「何ですか?」
「最近、神殿の周りがなんかおかしいんだ」
オジョは腕を組んだ。
「夜、神殿の方向から変な光が見えるとか、森の中で変な音がするとか。そういう話が、ここ一週間くらいで増えてるんだよ」
「変な光……」
「俺は見てないから何とも言えないんだが……ソフィア嬢、お前は気づいてたか?」
「……少し」
ソフィアは俯いた。
「神殿の方向が、なんとなく落ち着かない感じが……」
「そうだろ?」
オジョは難しい顔をした。
「まあ、おかしな連中が入り込んでいるなら、早いとこ出ていってもらったほうがいい。この街には神殿を大切に思っている人が多いからな」
「わかりました」
悠斗は頷いた。
「貴重な話をありがとうございました」
「気をつけてな」
オジョは手を振った。
「ソフィア嬢、また歌、聞かせてくれよ」
「はい」
ソフィアはぺこりと頭を下げた。
市場を出た四人は、港の東側へと向かった。
潮の香りが強くなる。
港には漁船が並び、網を繕う漁師たちの姿がある。
「あれがウルマさんですね」
ソフィアが指差した先に、小柄な老人が座っていた。
白い髭をたくわえ、老いてもなお筋骨たくましい。日焼けした肌は革のように固く、しかし目は澄んで鋭い。
「ウルマさん」
ソフィアが声をかけた。
老人は振り向いた。
「おお、歌姫様ではないか」
ウルマと呼ばれた老人は、皺の深い顔をほころばせた。
「珍しい。この時間に港まで来るとは」
「少し話を聞かせていただきたくて」
「構わないよ」
ウルマは網の上に手を置いた。
「何かね?」
「神殿の近くで、黒いローブの人たちを見たと聞きました」
ウルマの目が鋭くなった。
「……見た」
老人は静かに言った。
「三日前の夜明け前だ。出漁しようとして、岸を歩いていたら、神殿の森の方向から三つの人影が出てきた」
「三つ……」
「全員、黒いローブを被っていた。顔は見えなかった」
悠斗は耳を傾けた。
「どんな様子でしたか?」
「急いでいるようだった」
ウルマは言った。
「何かを抱えて……いや、持っていたかどうかはわからない。暗かったから。ただ、その連中が通ると、周りの空気が……なんというか、妙に冷えた」
「冷えた……?」
「普通じゃない感じだった。だから、俺は声をかけなかった。なんとなく、話しかけちゃいけない気がして」
ウルマは目を細めた。
「あんたたち、あの連中と関係があるのか?」
「敵です」
悠斗は正直に答えた。
「あいつらが、大切なものを奪っていった」
「そうか……」
ウルマは少し考えた。
「だったら、長老のミレイア様のところに行くといい」
「長老……ソフィアからも聞きました」
「ミレイア様は、この街の歴史を全部知っている。神殿の秘密も、昔のことも。何か知っているかもしれない」
「はい。行ってみます」
「気をつけて行きなさい」
ウルマは再び網に視線を戻した。
「……海が、最近落ち着かない」
老人は静かに言った。
「長年漁師をやっていると、海の気配でわかる。何かが、近づいてきている」
「……」
悠斗はその言葉を、胸の中にしまった。
ウルマ老人のもとを離れた四人は、ソフィアの先導で街の中心部へと向かった。
「長老のミレイア様のお屋敷は、街の高台にあります」
ソフィアは歩きながら言った。
「ローレライで一番古い建物なんです」
「どんな人なんですか?」
ルーナが聞いた。
「厳しい方ですが、本当のことしか話しません」
ソフィアは少し笑った。
「子どもの頃、嘘をついたらすごく怒られました」
「ソフィアも知り合いなんだ」
「はい。ローレライに生まれた子は、誰でもミレイア様に会いに行く習慣があるんです。歌の試験を受けるときも、ミレイア様が立ち会ってくれました」
「歌の試験……」
悠斗は首をかしげた。
「そういえば、ソフィアは歌姫の資格を持っているんだよな。それって……」
「はい」
ソフィアは静かに答えた。
「ローレライでは、歌姫は国の代表でもあります。単なる歌い手じゃなくて……」
少し間があった。
「国の行事や、重要な祭事では必ず歌姫が歌わなければなりません。それがないと、儀式が成立しないとされているんです」
「じゃあ、ソフィアは国政に関わっていくってこと?」
「……そうですね」
ソフィアは言葉を選んだ。
「この国にとって、歌姫は欠かせない存在なんです。祭りも、収穫も、大事な決断も、全部歌で始まる。それが、ローレライのやり方で」
「だから昨日、あいつらはソフィアを狙ったのかもしれない……」
悠斗は思い出した。
フードの人物がソフィアを攫おうとした事件があった。
「……そうかもしれません」
ソフィアは少し暗い表情になった。
「この国を混乱させるなら、歌姫を排除するのが手っ取り早いから」
「でも、俺たちが守る」
悠斗はきっぱりと言った。
「お前を、絶対に守る」
ソフィアは驚いたように悠斗を見た。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
高台への道は、石畳が続いていた。
両脇には白い壁の家が並び、窓から花が垂れている。
南国らしい明るい色彩が、街全体を彩っていた。
そして、高台の一番奥に、古い屋敷が見えてきた。
他の建物よりも一回り大きく、石造りの壁は長い年月で苔むしている。
しかし、手入れは行き届いていた。
「ここです」
ソフィアが門の前で立ち止まった。
「入りましょうか」
ソフィアが門の扉をノックした。
しばらくして、中から足音がした。
扉が開いた。
「……誰かと思えば、ソフィアか」
現れたのは、小柄な老女だった。
白髪を結い上げ、深緑の服を着ている。顔には深い皺が刻まれているが、その目は驚くほど澄んでいた。
見た目は穏やかだが、その目の奥には、長い年月が培った厳しさがある。
「ミレイア様、突然ご訪問してしまい申し訳ありません」
ソフィアは頭を下げた。
「構わん」
老女は、悠斗たちを一瞥した。
「旅人か」
「はい。北の方からやってきました」
悠斗は答えた。
「ミレイア様」
「なんじゃ」
「月の神殿のことで、お話を伺いたいのです」
老女の目が、少し変わった。
「……中に入りなさい」
屋敷の中は、古い書物と薬草の匂いがした。
壁沿いには棚があり、古い書物がぎっしりと並んでいる。
四人は居間に通された。
「座りなさい」
ミレイアは椅子を勧めた。
四人が座ると、老女も向かいに腰を下ろした。
「月の神殿のことを聞きたい、と言ったな」
「はい」
悠斗は頷いた。
「あの神殿に、月の記憶の水晶が祀られていたと聞きました。それが、何者かに奪われてしまって」
「……奪われた」
ミレイアの表情が引き締まった。
「本当か」
「はい」
「そうか……」
老女はしばらく黙った。
やがて、静かに口を開いた。
「あの神殿は、ローレライが建国される前からあった」
「……」
「そして、神殿の中心にある祭壇には、ずっとあの水晶が祀られていた」
ミレイアは続けた。
「伝承によれば、その水晶には月の女神の力が封じられているという。女神が自らの力の一部を、大切なものを守るために、と」
「……」
ルーナは静かに聞いていた。
「その水晶は、触れることのできる人間が限られている」
ミレイアは続けた。
「月の力と縁深い者だけが、水晶に触れ、その力を受け取ることができる。そうでない者が触れても、ただの透明な石だ」
「じゃあ……」
悠斗は言った。
「あいつらが水晶を奪ったとして、力を引き出すことはできないってこと?」
「……それは」
ミレイアは少し考えた。
「普通の人間にはできん。しかし……」
老女の目が険しくなった。
「月の力を歪んだ形で扱う者であれば、あるいは」
「歪んだ形で……」
悠斗は黒月教のことを思った。
黒い月の力。
「それから」
ミレイアは続けた。
「一つ、重要なことを教えよう」
「何ですか?」
「あの水晶は、元の祭壇に戻さない限り、力は完全には発動しない」
「え……」
「あの祭壇は、特殊な場所だ。月の力が長い年月をかけて蓄積された場所でな。水晶そのものは力を封じているが、それを解放するには、正しい場所と正しい儀式が必要なのだ」
「じゃあ……」
悠斗は目を見開いた。
「水晶を取り戻して、あの祭壇に戻せば、まだルーナの力を取り戻せる?」
「そうだ」
ミレイアは頷いた。
「間に合う、ということです」
セレスティアが言った。
「水晶を奪われていても、諦めなくていい……」
「はい」
老女は頷いた。
「だから、必ず取り戻しなさい」
ルーナの目に、希望の光が戻った。
「……わかりました」
ルーナは静かに、しかしはっきりと言った。
「必ず取り戻します」
ミレイアは、ルーナをじっと見た。
そして、何かを確信したように、静かに微笑んだ。
「あなたは……」
老女は呟いた。
「月の女神に似ている……」
ルーナは何も言わなかった。
しかし、その言葉を否定もしなかった。
「もう一つ、お聞きしていいですか」
悠斗は言った。
「なんじゃ」
「エレナという人物を知っていますか?」
その名前を聞いた瞬間、ミレイアの表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だったが、悠斗は見逃さなかった。
「……エレナ」
老女は静かに繰り返した。
「どこでその名前を聞いた?」
「ソフィアから聞きました」
悠斗はソフィアを見た。
「ソフィアを育ててくれた人物らしいんですが、数年前に突然姿を消したと」
ミレイアはソフィアを見た。
ソフィアは少し緊張した様子で、視線を返した。
「……エレナのことを、あなたが調べているのか」
「はい」
「なぜ」
「あいつらと何か関係があるかもしれないと思って」
悠斗は正直に答えた。
「昨日、神殿で対峙した黒いフードの人物たちが、エレナに関係しているかもしれない、という可能性が出てきて」
ミレイアはしばらく黙った。
長い沈黙だった。
屋敷の中に、壁時計の音だけが響いている。
「……エレナは」
老女はゆっくりと口を開いた。
「かつて、ローレライの歌姫だった」
「え……」
ソフィアが小さく声を上げた。
「ローレライの歌姫……」
「そうだ」
ミレイアは続けた。
「エレナは、十数年前までこの街に暮らしていた。類まれな歌声を持つ、素晴らしい歌姫だった」
「でも……」
「ある日、突然消えた」
老女の表情は、複雑だった。
「理由は、誰も知らない。ただ、ある朝目が覚めたら、エレナの家は空になっていた」
「……」
ソフィアは唇を噛んだ。
「エレナが引退した後、ローレライの次の歌姫を選んだ」
ミレイアはソフィアを見た。
「そしてお前が、歌姫として認められた時……私はどこかで、エレナが望んでいたのかもしれないと思った」
「……ミレイア様」
ソフィアの目が潤んだ。
「私の養母だったことは……知っていましたか?」
「……知っていた」
老女は静かに答えた。
「エレナが消える前に、私に手紙を残していた。お前のことを頼む、と」
「そんな……」
ソフィアは涙をこらえた。
「では、なぜ……なぜ言ってくれなかったんですか……」
「言えなかった」
ミレイアは目を伏せた。
「理由が……複雑だったからだ」
老女はそれ以上は言わなかった。
悠斗は、ミレイアが何かを隠していると感じた。
しかし、今は無理に聞き出す時ではないと判断した。
「ミレイア様」
悠斗は言った。
「エレナさんが消えた時期は、いつ頃ですか?」
「……七年ほど前だったと思う」
「七年前……」
悠斗はソフィアを見た。
ソフィアの顔が蒼白になっていた。
「私がまだ子どもの頃……」
「ああ」
「でも、ミレイア様、その時期と……」
ソフィアは震える声で言った。
「私の前からいなくなったのも、七年前です」
「……そうだな」
ミレイアは静かに頷いた。
「時期は、一致する」
ミレイアは答えなかった。
しかし、その沈黙が答えだった。
「じゃあ」
悠斗は続けた。
「エレナはなぜ、ローレライを去ったんですか?」
「それは……」
ミレイアは老いた手を組んだ。
「わからない、とは言えない」
老女は静かに息を吐いた。
「ただ……エレナは、ある時期から様子がおかしくなっていた」
「様子が……」
「神殿に行く回数が増えた。夜に一人で出かけるようになった。そして、誰かに追われているような……そんな様子を見せることがあった」
「誰かに、追われていた……」
悠斗の中で、何かが繋がり始めた。
「まさか……黒月教と関係があるのか?」
ミレイアの表情が硬くなった。
「……それは言えん」
老女は言った。
「言えないのか、知らないのか、どちらですか」
悠斗は静かに聞いた。
ミレイアはしばらく黙った。
「……知っていることは、全部話せない」
老女は答えた。
「それだけは理解してくれ」
「……わかりました」
悠斗は引き下がった。
今は、これ以上聞いても無駄だろう。
しかし、一つのことは確かになった。
エレナの失踪は、この世界の秘密と関係している。
そして、それはルーナの記憶とも、何か繋がっているかもしれない。
屋敷を出た後、四人はしばらく沈黙のまま歩いた。
「……ソフィア」
やがて、ルーナが口を開いた。
「大丈夫?」
「……はい」
ソフィアは頷いた。
しかし、声が少し震えていた。
「お母さんが……ローレライの歌姫だったなんて……知らなかった……」
「うん」
ルーナはソフィアの隣を歩きながら、静かに言った。
「でも、エレナさんは、あなたを選んだのよ」
「え……」
「あなたを育てるために頑張っていた。それは……隠しようもない事実です」
「……でも」
ソフィアは唇を噛んだ。
「なぜ、突然消えてしまったのですか……」
「それは」
ルーナは少し考えてから言った。
「まだ、わからない」
「……」
「でも」
ルーナはソフィアの手をそっと握った。
「一緒に、答えを探しましょう」
ソフィアは、少し驚いた表情をした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい」
「ソフィアさんは、エレナさんを信じているんでしょう?」
セレスティアが穏やかに言った。
「はい……信じています」
ソフィアは頷いた。
「お母さんは、悪い人じゃない。どんな事情があるにしても……エレナさんは私を大切にしてくれた。それは本当のことです」
「うん」
悠斗は頷いた。
「じゃあ、それを信じながら進もう」
「……悠斗さん」
「どんな答えが出ても、俺たちがついてるから」
ソフィアはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……ありがとうございます」
昼過ぎ、四人はソフィアの家に戻った。
テーブルに座り、集めた情報を整理した。
「わかったことをまとめると」
悠斗は言った。
「一つ、黒いローブの三人組は、少なくとも三日前から神殿周辺を偵察していた」
「つまり、計画的だということですね」
セレスティアが言った。
「そう。あいつらは行き当たりばったりじゃなかった」
「二つ目は……水晶を取り戻せば、まだ間に合う」
ルーナが続けた。
「祭壇に戻せばいい。だから、諦めなくていい」
「そうだ」
悠斗は頷いた。
「そして三つ目……エレナとこの世界の繋がり」
全員が静かになった。
「ミレイア様は、全部は話してくれなかった」
悠斗は言った。
「でも、エレナが神殿に頻繁に通っていたこと、誰かに追われていたような様子を見せていたこと……そして突然ローレライを去ったこと」
「すべてが、何かと繋がっている」
セレスティアが言った。
「黒月教との繋がりがある可能性も、否定できません」
「……お母さんが黒月教と関係しているということ……ですか」
ソフィアの声が揺れた。
「可能性の話だ」
悠斗はすぐに言った。
「決めつけたわけじゃない。エレナが黒月教に攫われた、という可能性もある」
「……」
「どちらにしても、エレナが危険な状況にあったことは確かだと思う」
ソフィアは俯いた。
「……お母さんを信じたい」
ソフィアはゆっくり言った。
「どんな答えが出るとしても……私は、お母さんを信じる。あの人が悪い人だなんて、思いたくない」
「うん」
「でも……」
ソフィアは手を握りしめた。
「だからこそ、真実が知りたい。お母さんに何があったのか、なぜ消えたのか……」
「それは、必ず明らかにする」
悠斗は言った。
「お前一人で抱え込む必要はない。俺たちが一緒にいる」
「……ありがとう」
ソフィアはそれだけ言って、少し顔を上げた。
その目には、悲しみと、しかし揺るぎない意志が宿っていた。
「私も……前を向きます」
「その意気だ」
悠斗は微笑んだ。
夕方になった。
夕食を終えた四人は、再びテーブルを囲んで話し合いをしていた。
「次の一手は……」
悠斗は腕を組んだ。
「やはり、あいつらを追うしかない。水晶がどこに持ち去られたかを突き止めて、取り返す」
「でも、手がかりがありません」
セレスティアが言った。
「街の人たちも、あの三人組がどこへ向かったかは誰も見ていない」
「そうだな……」
悠斗は考え込んだ。
「あいつら、どこへ行ったんだ……」
「一つ気になることがあります」
セレスティアが静かに言った。
「あの黒フードの女性が、最初から悠斗様と対峙していました。あのレイヴンとガロンを引き連れて」
「ああ」
「でも……あの人物の目的が単に水晶を奪うことだけなら、悠斗様たちと正面から向き合う必要はなかったはずです」
「……確かに」
「なのに、あえて現れた。それは、何かを確認したかったのかもしれません」
「確認……俺たちのことを?」
「あるいは……ルーナ様のことを」
ルーナは黙って聞いていた。
「ルーナ様の力を測ったのか、それとも……別の何かを見ていたのか」
「わからない」
悠斗は首を横に振った。
「でも、あいつらが黒月教とは別の勢力だとすると……目的も違う可能性が高い」
「黒月教なら、ルーナ様の記憶を封印したいはず」
セレスティアが言った。
「でも、別の勢力なら……別の理由があるかもしれない」
「水晶をどこかへ届けようとしている?」
「あるいは、水晶そのものが目的ではなく……記憶に封じられた何かを知ろうとしているのかも」
「記憶に封じられた何か……」
ルーナが小声で言った。
「夢の中で、姉さんが私に何かを言おうとしていた。聞き取れなかったけど……きっと、最後の記憶の中に、姉さんとの決定的な過去があると思う」
「決定的な過去……」
「私たちは双子の女神として生まれた。この世界を共に管理するために。でも、何か大事なことを忘れてる気がするの」
「つまり……あいつらはそれを知りたいのかもしれない」
悠斗は言った。
「それが、この世界を左右するほど重要な情報だから」
「……」
全員が黙った。
もしそうなら、水晶の中の記憶は、ルーナにとってだけでなく、この世界全体にとって重要な意味を持つ。
「とにかく」
悠斗は立ち上がった。
「諦めない。水晶を取り戻す。そのために、あいつらの手がかりを探し続ける」
「うん」
ルーナも頷いた。
「必ず取り戻す」
「そうですね」
セレスティアも静かに頷いた。
「今日は疲れました。休みましょう。明日また、考えます」
「ああ」
「では、私はお茶を淹れてきます」
セレスティアは台所に立った。
ソフィアもその後を追いながら言った。
「私も手伝います」
二人が台所に消えた後、悠斗とルーナは並んでテーブルに座っていた。
「……悠斗」
ルーナが静かに言った。
「ん?」
「怖くないの?」
「何が?」
「フードの人物が、あなたと同じ力を持っているって……」
「怖い、か……」
悠斗はしばらく考えた。
「怖くない、と言えば嘘になる」
「……」
「あいつらと戦ったら、勝てるかどうかわからない」
「でも」
悠斗はルーナを見た。
「それよりも、お前の記憶を取り戻せないことの方が、ずっと怖い」
「悠斗……」
「俺一人じゃ何もできない。でも、お前と一緒なら、前に進める」
ルーナはしばらく悠斗を見ていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
「お互いさまだ」
「私も」
ルーナは小さな声で言った。
「あなたと一緒なら、怖くない。姉さんのことが、どんなに重い真実だとしても……あなたがいてくれるから」
「ああ」
悠斗はルーナの手を、そっと握った。
ルーナも、握り返した。
しばらく、二人はそのままでいた。
夜が深まった。
セレスティアが淹れたハーブティーを飲みながら、四人はしばらく話した後、それぞれの部屋に戻った。
悠斗とルーナは客間へ。
セレスティアは隣の部屋へ。
ソフィアは自分の部屋へ。
悠斗はベッドに横になったが、なかなか眠れなかった。
昨日から今日にかけての出来事が、頭の中でぐるぐると回っている。
謎の三人組。
エレナの過去。
ミレイアが隠していること。
ルーナの最後の記憶。
「……眠れないな」
悠斗は呟いた。
隣のベッドでは、ルーナが静かに寝息を立てている。
悠斗は静かに起き上がり、窓辺に立った。
外を見る。
ローレライの夜空には、星が瞬いている。
そして、二つの月。
白い月と、黒い月。
黒い月は、相変わらず大きい。
「……なんとかしないといけないな」
悠斗は呟いた。
その時だった。
かすかな気配を感じた。
悠斗は瞬時に警戒した。
体中の神経が研ぎ澄まされる。
玄関の方向から、何かを感じる。
足音は聞こえない。
しかし、確かに何かがいる。
「……」
悠斗は素早く動いた。
ルーナを起こさないよう、静かに部屋を出る。
廊下を進み、玄関に向かう。
玄関の扉は、閉まっている。
しかし、扉の外に、確かな気配がある。
「誰だ」
悠斗は低い声で言った。
返事はなかった。
しかし、気配は消えなかった。
「出てこい」
悠斗は扉を開けた。
そこには、黒いフードを深く被った、一人の人物が立っていた。
「……」
悠斗は身構えた。
昨日、神殿で対峙した黒フードの女。
しかし今夜、その人物は一人だった。
レイヴンもガロンも、いない。
「何をしに来た」
悠斗は静かに言った。
「また奪いに来たのか?」
「……違う」
女の声。
低く、しかし昨日とはわずかに違う。
何かが、混じっている。
「では何だ」
「用があるのは……あなたではない」
女は答えた。
「ソフィアに話があって来た」
「ソフィアに……?」
「彼女を、呼んでくれないか」
「呼ぶ前に答えろ」
悠斗は一歩前に出た。
「お前は何者だ。目的は何だ」
「……」
女は沈黙した。
そして、静かに言った。
「危害は加えない。ただ、話したいだけだ」
「信じろと言う方が無理だろ。昨日、水晶を奪っておいて」
「……そうだな」
女はゆっくりと頷いた。
「そう思うのは当然だ」
「じゃあ」
「でも」
女は続けた。
「今夜だけは、聞いてくれ」
悠斗は迷った。
昨日の戦いを思い出す。
あの女の速さ。力。
一人で来ているとはいえ、油断はできない。
「……わかった」
悠斗は決断した。
「ただし、俺も同席する。それが条件だ」
「……構わない」
悠斗は振り返り、廊下の奥へ声をかけた。
「ソフィア、起きてるか!」
少し間があって、ソフィアの部屋の扉が開いた。
「……悠斗さん?」
眠れていなかったのか、ソフィアはまだ服を着たままだった。
「今夜は眠れてなかったのか」
「……少し、考えていたので」
ソフィアは悠斗の後ろを見た。
扉の外の黒フードの人物。
「え……」
ソフィアは目を見開いた。
「そいつが、お前に話があるらしい」
「私に……?」
「来てくれるか。ただし、何かあれば俺がいる」
「……わかりました」
ソフィアはゆっくりと近づいた。
悠斗は黒フードの女と、ソフィアの間に立った。
「話してみろ」
悠斗は言った。
「俺もここにいる」
「……わかった」
女は、ゆっくりと口を開いた。
「ソフィア」
女の声は、静かだった。
「私の名前を、あなたは知らないと思う」
「……はい」
「だから、言う」
女はわずかに間を置いた。
「私は……エレナ」
瞬間、時間が止まったかのような沈黙が流れた。
ソフィアの顔が、みるみる白くなった。
「……え」
「あなたを育てた、エレナ」
「嘘……」
ソフィアは一歩下がった。
「嘘です。エレナさんは……私の前からいなくなった……」
「いなくなったが、死んではいない」
「でも……」
「ソフィア」
女は、フードの縁から一歩踏み出した。
「……本当に、エレナさん……?」
ソフィアの声が、震えていた。
「証拠を見せろ」
悠斗は言った。
「ソフィアのことを信じさせるものを出せ。そうでないと、話には応じない」
「……」
女は少し間を置いた。
そして、ゆっくりとフードの中に手を入れた。
取り出したのは、小さな布の包みだった。
女はそれを、ソフィアに差し出した。
「受け取れ」
ソフィアは震える手で受け取り、包みを開いた。
「……これは」
中に入っていたのは、小さなペンダントだった。
古くてくすんでいるが、見覚えのある形。
「お母さん……」
ソフィアは呟いた。
「そのペンダントは、あなたが六歳の誕生日に、私があなたに贈ったものだ」
「……でも」
ソフィアはペンダントを握りしめた。
「なぜ……なぜ、あなたが持っているの」
「預かっていたからだ」
「預かっていた……?」
「お前が眠っている間に、こっそり取っておいた。お前と再会する日まで、必ず持ち続けると決めて」
「どうして……どうして、そんなことを……」
ソフィアの目から、涙が溢れた。
「なぜ、一緒にいてくれなかったの……消えてしまったの……」
「……」
女は、少しだけ沈黙した。
「それは……」
声が、わずかに揺れた。
「全てを話す時ではない。今は、まだ」
「なぜ!」
ソフィアは叫んだ。
「なぜ、今は話せないの!?ずっと待っていたのに……ずっと探していたのに……!」
「……」
「エレナさんが、お母さんが消えてから……私、ずっと一人で……!」
「わかっている」
女の声が、初めて揺らいだ。
「わかって……いる」
「なら、なぜ……」
「全てを話せば、お前が危険になる」
ソフィアは言葉を止めた。
「……危険」
「そうだ。今は、まだ話せない。でも……」
女は続けた。
「近いうちに、必ず全てを話す。今夜来たのは、一つだけ、伝えたかったことがあったから」
「……何を」
「ソフィア」
女はまっすぐにソフィアを見た。
「お前が歌姫になったことを、私は誇りに思っている。エレナが、胸を張って言える。本当に……よく頑張った」
「……っ」
ソフィアは唇を噛んだ。
涙が、頬を伝って落ちた。
「……お母さん」
「ソフィア」
「行かないで」
「……」
「今度こそ、行かないで。ここにいて。お願い……」
女は静かに首を横に振った。
「まだ、いられない」
「どうして……」
「お前に全てを話せる日まで……少しだけ待ってくれ」
「……」
ソフィアは泣いていた。
しかし、それ以上は言えなかった。
悠斗は、二人を見ながら黙っていた。
追及したい気持ちはある。
水晶のことも、エレナの正体も、目的も。
しかし、この瞬間だけは、悠斗は黙っていることにした。
「エレナ」
悠斗は静かに言った。
「一つだけ聞く」
「……何だ」
「お前たちが、ルーナの水晶を奪ったのは、悪意からか?」
女は少し間を置いた。
そして、答えた。
「……違う」
「目的は?」
「まだ、教えられない」
「いずれ教えてくれるのか」
「……全てが明らかになった時、必ず」
悠斗はその言葉を、しばらく噛み締めた。
「わかった。今夜は引く」
「……」
「でも」
悠斗は目を細めた。
「ルーナの記憶を、ちゃんと返してくれ。それだけは譲れない」
「……」
女は、一瞬沈黙した。
そして、静かに言った。
「それは……考える」
「考える、じゃない。返してくれ」
「……今すぐは、難しい」
「なぜ」
「理由は……まだ言えない」
悠斗は拳を握りしめた。
怒りがある。
しかし、今夜この女を問い詰めても、何も解決しないと悟った。
「……わかった」
悠斗は言った。
「でも、いずれ必ず答えてもらう」
「ああ」
女は頷いた。
「では」
女はソフィアを、もう一度見た。
「元気で、ソフィア」
「……」
「また、必ず会いに来る」
ソフィアは何も言えなかった。
ただ、涙を流しながら、立ち尽くしていた。
「待ちなさい」
その時、声がした。
廊下の奥から、ルーナが歩いてきた。
「……目が覚めた」
ルーナは静かに言った。
「騒いでいたから」
「……」
ルーナは、黒フードの女を見た。
女も、ルーナを見た。
しばらく、二人は見つめ合った。
「あなたが……エレナ?」
ルーナが聞いた。
女は答えなかった。
しかし、その沈黙が答えだった。
「一つだけ、聞かせてくれる?」
ルーナは続けた。
「……何だ」
「私の記憶が封じられた水晶……あなたが持っている理由は、私を傷つけるためではないと、あなたは言える?」
長い沈黙が流れた。
「……言える」
女は、静かに答えた。
「では」
ルーナは目を細めた。
「信じる。今夜だけ」
「……」
「でも次に会う時は、全てを話してもらう。それが条件よ」
「……わかった」
女は短く答えた。
そして、一歩下がった。
「まだ全てを教える時ではない。だが―時が来れば、必ず」
女は続けた。
「それまで、この世界を守ってくれ」
「守るよ」
悠斗は言った。
「俺たちの仕事だから」
「……頼む」
女の声は、その一言だけ、わずかに温かかった。
「では」
女は踵を返した。
一歩、二歩。
夜の闇の中へ、溶けていくように。
「お母さん」
ソフィアの声が、夜の空気を震わせた。
女の足が、一瞬止まった。
しかし、振り返ることはなかった。
そのまま、夜の闇の中に消えた。
足音も、気配も、消えた。
後には、三人が残された。
「……」
ソフィアは、しばらく何も言わなかった。
ただ、ペンダントを両手で握りしめていた。
「大丈夫か」
悠斗は声をかけた。
「……はい」
ソフィアは答えた。
その声は、震えていたが、折れてはいなかった。
「生きていた……」
ソフィアは呟いた。
「お母さんは……生きていた……」
「ああ」
「よかった……本当に……」
ソフィアは泣きながら、笑っていた。
「よかった……」
ルーナがそっと、ソフィアの背中に手を置いた。
「泣いていいよ」
ルーナは静かに言った。
「我慢しなくていい」
「……ありがとうございます」
ソフィアは、声を上げて泣いた。
長い間、胸の中で押さえ続けていた涙が、溢れ出てきた。
しばらくして、四人は屋内のテーブルに戻った。
いつの間にかセレスティアも起きてきて、温かいお茶を淹れてくれていた。
「聞こえていました」
セレスティアは静かに言った。
「すべて」
「そうか」
悠斗は椅子に座った。
「どう思う」
「……エレナという人物が、本当にソフィアさんの養母なのかどうかは、まだ確かめようがありません」
セレスティアは言った。
「でも、ペンダントのことや、ソフィアさんの反応を見ていると……おそらく、本物だと思います」
「うん」
「そして……」
セレスティアは続けた。
「エレナという人物は、黒月教とは別の勢力に所属している可能性が高い」
「そうだな」
悠斗は頷いた。
「黒月教なら、ソフィアに話しかけたりしない。もっと敵対的な行動をとるはずだ」
「かといって、悠斗様たちの味方とも言えない」
「水晶を奪っているからな」
悠斗は腕を組んだ。
「あいつらは……第三の勢力だ」
「第三の勢力……」
「黒月教でもなく、俺たちでもなく、独自の目的で動いている」
「その目的が、ルーナの記憶の水晶を必要とする理由と繋がっているはず」
「うん」
ルーナが静かに言った。
「でも……危害は加えないと言っていた」
「ああ」
「信じてみよう、という気持ちがある」
ルーナは言った。
「根拠はないけど……あの人の目を見ていたら、嘘をついている感じがしなかった」
「俺も、同じだ」
悠斗は言った。
「だから今夜は引いた」
「……でも」
ルーナの表情が、少し翳った。
「水晶のことが気になる」
「うん」
「あの人は、今すぐ返すのは難しいと言っていた。理由も言えないと……」
「ああ」
「ということは……水晶をどこかに持っていっているか、あるいは何かに使っているか」
「そうなるな」
「私の最後の記憶……エクリシアとの過去が、何かに関係している」
ルーナは続けた。
「あの人たちは、その記憶の中に何かを求めている。でも……」
「でも?」
「それを知ったとして、どうするつもりなのかが、まだわからない」
「ああ」
「良い意味で使うのか、悪い意味で使うのか……」
「それが、最大の問題だな」
悠斗は言った。
「でも今夜は、それ以上はわからない」
「そうですね」
セレスティアが言った。
「焦っても、答えは出ません。今夜わかったことを整理して、明日以降に備えましょう」
「そうだな」
悠斗は頷いた。
「整理すると……」
悠斗は指を折った。
「一つ、謎の三人組はエレナを含む別勢力で、黒月教とは関係がない可能性が高い」
「二つ、その勢力の目的は不明だが、ルーナに対して敵対的ではない可能性がある」
「三つ、水晶はエレナたちが持っているが、必要がなくなったら返してもらえる可能性があるが返してもらえない可能性もある」
「結局、取り戻す必要は変わらないわけですね」
セレスティアが言った。
「ああ。でも、やり方を考えないといけない」
悠斗は言った。
「無理に奪いにいくのか、それとも彼女たちが自分から返してくれるのを待つのか」
「……どっちもリスクがある」
「うん」
「あの人たちは、俺と同等の力を持っている。正面から戦ったら、どうなるかわからない」
「でも、待ち続けても……時間が無駄になる」
「難しいな……」
悠斗は天井を見上げた。
「まずは、もう少し情報を集めよう」
「そうですね」
「そして……エレナが言っていた『全てを話せる時』が来るまで、こちらも準備を続ける」
「はい」
四人は、しばらく無言でお茶を飲んだ。
「……ソフィア」
ルーナがソフィアを見た。
「うん?」
「エレナのこと……どう思う?」
ソフィアはしばらく考えた。
「……信じます」
ソフィアは静かに答えた。
「黒月教に攫われていたのか、それとも何か別の事情があるのか……まだわからない。でも、お母さんが悪意でいなくなったとは、どうしても思えない」
「うん」
「お母さんは、私のことを想ってくれていた。あのペンダントが、証拠だと思います」
ソフィアはペンダントを、静かに胸に押し当てた。
「だから……信じる。いつか必ず、全てがわかると信じる」
「……強いな、ソフィアは」
悠斗は言った。
「強くありません」
ソフィアは首を横に振った。
「ただ……他に選択肢がないだけです。信じることしか、できないから」
「それが、強さだよ」
悠斗は言った。
ソフィアは、少し驚いた表情をした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう、悠斗さん」
「さあ、もう寝よう」
悠斗は立ち上がった。
「今夜は色々ありすぎた」
「そうですね」
セレスティアも頷いた。
「明日、また新しい一日から考えましょう」
「うん」
四人は立ち上がった。
それぞれが部屋へと向かう。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ソフィアは自分の部屋に入った。
扉を閉めて、ベッドに座った。
手の中のペンダントを、もう一度見る。
小さな、古びたペンダント。
しかし、その輝きは変わらなかった。
「……お母さん」
ソフィアは呟いた。
「会えた。本当に、会えたのね……」
涙が、また滲んだ。
しかし、さっきとは違う。
悲しみだけでなく、安堵と、温かさが混じっている。
「生きていてくれてよかった」
ソフィアは続けた。
「どんな事情があるとしても……生きていてくれれば、また会える。また話せる」
「だから……」
ソフィアはペンダントを、首にかけた。
「待ってるよ」
「お母さん……」
「あなたが戻ってくるのを……ずっと、待ってる」
「でも」
ソフィアは窓の外を見た。
二つの月が、夜空に浮かんでいる。
「一つだけ、聞きたい」
ソフィアは呟いた。
「あなたは……この世界の秘密を、知っているの?」
「月の神殿のこと。ルーナさんのこと。あの水晶のこと……」
「あなたは……何を知っていたの?」
月は答えない。
ただ、静かに輝き続けている。
「いつか……教えてくれる?」
ソフィアは静かに目を閉じた。
「お母さん……あなたは、この世界の謎を知っていたの……?」
その問いは、夜の空気に溶けていった。
窓の外で、波の音が静かに聞こえていた。
ローレライの夜は、深く、静かだった。
そして、月は——白い月も、黒い月も——ただ黙って輝き続けていた。
翌朝。
ソフィアは、いつもより早く目を覚ました。
窓の外が、まだ薄明るい。
「……」
ソフィアは起き上がり、窓を開けた。
朝の空気が、頬に触れる。
潮の匂いと、花の香りが混じった、ローレライらしい朝の空気。
「今日も……」
ソフィアは呟いた。
「前を向かないと」
首のペンダントを、そっと触れた。
エレナからのペンダント。
その感触が、温かかった。
「お母さんが……生きていた」
「それだけで……十分」
「あとは……一緒に、答えを探していけばいい」
ソフィアは深呼吸をした。
「悠斗さんたちも、一緒に探してくれる」
「だから……大丈夫」
ソフィアは微笑んだ。
そして、台所に向かった。
今日の朝食を、作らないといけない。
ソフィアが台所に入ると、まだ誰もいなかった。
鍋を火にかけ、食材を選ぶ。
「今日は……何にしようかな」
いつも通りの、静かな朝。
しかし、昨夜のことで、何かが変わった気がする。
世界の秘密が、少しずつ明らかになっていく。
エレナの秘密も。
月の記憶も。
「まだ、全部はわからない」
ソフィアは野菜を切りながら言った。
「でも……」
「きっと、答えはある」
「だから、諦めない」
台所に、包丁の音が響いていた―
今回は、長老のミレイア様のお屋敷に伺う場面が、私にとって特別なものになりました。
お母さんが、かつてローレライの歌姫だったこと。
私は何も知らなかった。
あの方が引き取ってくれたのは、どんな事情があったからなのか。なぜ突然いなくなったのか。その理由
を、ずっと探していました。
でも、深夜に現れたお母さんと向き合った時、気がついたことがあります。
責め続けることより、信じることの方が、ずっと難しい。
それでも私は、信じたいと思いました。
あの人が残してくれたペンダントが、首に温かかったから。
まだ全部はわかりません。でも、悠斗さんたちがいてくれる。だから、前を向けます。
———ソフィア




