第33話 「白い月と黒い月、姉と妹」
広間に、沈黙が満ちていた。
「久しいな、ルーナ」
その言葉が、石の天井に吸い込まれて消えた。
それきり、その存在は何も言わなかった。
台座の水晶が放つ銀色の光だけが、呼吸するように揺れている。壁の浮き彫りが、その光を受けて複雑な影を床に落としていた。
ルーナは動かなかった。
右足を前に踏み出したまま、止まっている。
悠斗は二人の間に立っていた。ルーナの少し前に。咄嗟に庇うような位置を取っていたが、どう動くべきかの判断がつかなかった。
目の前の存在は、敵ではない気がした。
しかし、それが何なのかを言葉にすることを、悠斗は迷った。
敵意がない。しかし、近づいていいかもわからない。
深い紅色の瞳が、ルーナを見ていた。静かに、動かずに、ただ見ていた。
何百年分の何かを、その眼差しの中に押し込めているような、そういう目だった。
一秒が、長かった。
また一秒。
また一秒。
広間の外、どこかで水が流れる音がした。地下水脈の音だ。それだけが時間の流れを証明していた。
「……」
ルーナの指先が、かすかに震えていた。
悠斗はそれを横目に確認した。
ルーナが強く動揺している時、まず指先に出る。旅の中で気づいたことだった。言葉に出さなくても、体が先に知らせる。
「ルーナ」
小声で呼んだ。
返事がなかった。
ルーナの視線は、その存在から離れていない。
目が潤んでいた。
泣くか泣かないかの、ぎりぎりのところで——こらえている。
「……」
ルーナはゆっくりと、深く息を吸った。
胸の中に、何かを収めるような息だった。
そして。
「……姉さん」
その言葉が、広間に落ちた。
問いかけではなかった。確認でもなかった。
ただ、声に出さなければ自分が崩れてしまいそうな何かを、それだけの言葉に押し込めたような。
その存在の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
それだけだった。すぐに、また静かな表情に戻った。
ルーナは続けた。
「……どこにいたの」
声が、震えていた。
しかし前を向いて言った。逸らさずに。
「ずっと、探していた。記憶を取り戻すたびに、姉さんのことを思い出した。どこに行ったのか——あの日から、何があったのか——ずっと知りたかった」
その存在は、すぐには答えなかった。
石の壁が、二人の間に立つ悠斗に冷たい圧迫感を返してくる。広間の空気が、重かった。月の力が満ちた場所特有の、粘り気のある重さ。
それが、長い沈黙をさらに引き伸ばしていた。
やがて。
「……お前には関係ないことだ」
低く、静かな声が言った。
「それじゃ分からない」
「分からなくていい」
遮り方は、乱暴ではなかった。ただ、それ以上は言わない、という意志が声の中にあった。
ルーナは少し口を閉じた。
しばらく間があった。
悠斗はその存在を、まっすぐ見た。
「あんたがルーナの姉か」
率直に問いかけた。
その存在は悠斗を見た。
紅色の瞳が、悠斗の上でしばらく止まった。
値踏みしているのではない。観察している。どういう人間かを、確かめている。
「……知っていたか」
「会う前から、いろいろ聞いていた」
「…」
「ルーナから。あとはあちこちの遺跡の碑文から、少しずつ」
その存在は、静かに息を吐いた。
かすかな動作だったが、悠斗にはそれが何かを受け入れるような所作に見えた。
「神崎悠斗、だな」
「そうだ」
「お前のことは遠くから、見ていた」
「見ていた?」
「黒い月の力を通せば、この世界のおおよそのことは掴める。お前のことは、ずいぶん前から知っていた」
悠斗は少し黙った。
「それは、監視していたということか?」
「そうかもしれない」
その存在はあっさりと認めた。否定する気がないのか、否定する必要を感じていないのか。
「俺のことを見ていてどう思ったんだ?」
少し間があった。
「……厄介な少年だと思った」
「それだけか」
「それだけだ」
悠斗は少し肩の力を抜いた。
敵として来たのではない。それだけは、これだけのやり取りでわかった。
「……姉さん」
ルーナが、再び口を開いた。
「一つだけ、聞かせて」
「……」
「水晶を」
ルーナは台座の上の水晶を見た。
銀色の光が、まだ揺れている。
「なぜ、持っていったの?なぜ、知らせてくれなかったの?」
一つ、一つ、区切るように言った。
それぞれの言葉に、長い時間が詰まっていた。
問いかける間も、ルーナは泣かなかった。目が潤んでいたが、落ちなかった。
その存在は、ルーナを見ていた。
長く。
静かに。
水晶の光が、また一度強くなった。それが誰かの感情に反応したのかどうかは、悠斗にはわからなかった。
「……お前を守るためだ」
低い声が、それだけを言った。
「守る、って」
「もっと詳しく」
「それ以上は言わない」
「姉さん」
声に感情はなかった。しかし、その頑なさの中に、何かがあった。
感情がないのではない。感情を出さないようにしている。それが悠斗にはわかった。
ルーナはその顔を見た。
記憶の断片の中にある顔と、今目の前にある顔。同じはずなのに、何かが違う。
輪郭は同じだ。髪の色も——目の色だけが変わった。かつての姉は、こんな色をしていなかった。
しかし、それよりも。
「……姉さんは」
ルーナは小さく言った。
「変わった。昔と雰囲気が、変わった」
その存在は、何も言わなかった。
「昔の姉さんは、もっと」
「昔のことは関係ない」
「関係ある」
ルーナは言い返した。
「私にとっては関係ある。姉さんのことを考える時、私はいつも昔の姉さんを思い出す。それが私の知っている姉さんだから。今の姉さんを見て何かが変わったと感じる。その理由を、教えてほしい」
「……」
「今でなくていい。でも、いつか分かる時がくるだろう」
その存在は、ルーナを見た。
長く、じっと。
それから、視線をわずかに逸らした。
壁の浮き彫りを見た。
二人の存在が並ぶ彫刻。世界の創造を記した絵。白い存在と、黒い存在。
「……いつか、教えてくれるの?」
エクリシアは黙って頷いた。
「……そう」
それだけ言った。
ルーナは前に一歩踏み出した。
「姉さんが変わったなら理由がある。その理由を、私は知りたい。今でなくていい。でも知りたい。それだけは、覚えていてほしい」
「……覚えておく」
「ありがとう」
「……お前は、昔からそうだった」
「何が」
「誰に何と言われても、自分で答えを見つける。変わっていないな」
ルーナは少し目を細めた。
「姉さんも、覚えていてくれていたんだ」
「……」
その存在は答えなかった。
しかし、口元が、ほんのわずかに動いた。
笑い、とは少し違った。しかし、完全に無表情でもなかった。
何百年も、どこかに仕舞い込まれていたような、そういう表情の動きだった。
その時。
台座の上の水晶が突然、強く光った。
銀色が白に変わり、白が光に溶けた。
「——っ」
ルーナが息をのんだ。
体が止まった。
足が地面に縫いつけられたような、完全な停止。
「ルーナ?」
悠斗がすぐに動いた。
「待て」
その存在が声を上げた。
低く、しかしわずかに急ぐような声だった。
「触るな。今、水晶が反応している。手を触れれば、制御できなくなる」
「制御ってルーナに何が起きてる」
「記憶が、溢れかけている」
その存在は台座に向かった。
しかし、水晶に手を伸ばしたところで、止まった。
指先が、水晶の数センチ手前で、動かなくなった。
「……」
手が、わずかに震えていた。
それを見た瞬間、悠斗は気づいた。
この存在も、今どうすればいいかを迷っている。
水晶に触れるべきか触れないべきかその判断を、エクリシアがしかねている。
「ルーナ」
悠斗は呼んだ。
「聞こえるか」
「……聞こえてる」
ルーナの声は、遠かった。
目が半分閉じている。意識が遠のいているのではなく、別の何かに引かれているような状態だった。
「体は動くか」
「……動く。でも」
ルーナはゆっくりと息を吐いた。
「何かが見える」
「何が見える」
「……昔のこと」
記憶は映像ではなかった。
輪郭のない何かが、ルーナの中に流れ込んでくる。
温度。光。声。
笑い声だ。
白い光の中で、誰かが走っている。
黒い髪が風に揺れている。振り返って、こちらに向かって手を伸ばしてくる。
「早く来い、ルーナ」
その声が、遠い。
でも聞こえる。
「……姉さん」
ルーナは呟いた。
光が強くなる。
別の映像が来る。
二人で空の上にいた時の感覚。世界がまだ形を成していなかった頃。黒と白が並んで在ったあの頃。二つで一つだった、あの遠い時間。
それから。
炎が見えた。
炎の中で、誰かが叫んでいる。
小さな誰かが、炎の中で倒れている。
黒い髪が、炎の向こうにある。
その黒い髪が、震えている。
「姉さん、やめて」
誰かの声だ。
自分の声だ。
昔の自分の声だ。
叫んでいる。
泣いている。
手を伸ばしている。
でも届かない。
炎が広がる。
大地が揺れる。
黒い空が割れる。
「ルーナ」
名前を呼ばれた。
遠くから。近くから。混ざり合っている。
今の声か、昔の声か、わからない。
「ルーナ!」
悠斗の声が、遠くから届いた。
今の声だ。
ルーナは目を開けた。
自分がどこに立っているか、一瞬わからなかった。
石の床。広間。水晶の光。
「……悠斗」
「大丈夫か」
「大丈夫……」
ルーナは深く息を吸った。
体が、少し重い。
頭の中に、まだ映像の残滓があった。炎の色が、まだ目の裏に焼きついている。
「何が見えた」
悠斗が聞いた。
「……昔のこと。全部は見えなかった。でも違和感を感じる」
ルーナはその存在を見た。
その存在は、台座の前で静止していた。
水晶に伸ばしかけた手が、引っ込んでいた。
袖の中に、隠すように。
「姉さんが走っているところが見えた。笑いながら、振り返りながら走っていた。それから——炎が見えた」
「……」
「誰かが倒れていた。炎の中で」
その存在は、何も言わなかった。
しかし。
視線が、床の一点に落ちていた。
広間の石の床。何も描かれていない場所に。
「……それだけ」
ルーナは続けた。
「そこで切れた。全部は見えなかった」
「……そうか」
その存在の声は、かすかに低くなっていた。
「まだ、見るべき時ではない」
「でも」
「見るべき時が来た時、自然に見える。それが——この水晶が持つ力の仕組みだ。無理に引き出そうとしても、体が先に限界を来たす」
「だから止まったのか、さっき」
その存在は静かに頷いた。
「水晶が反応して記憶が溢れかけた。それを無理に続ければ意識が落ちていた。危なかった」
「……守ってくれたのか」
「……」
その存在は、台座の水晶を見た。
光が、落ち着いてきていた。また淡い銀色に戻り始めている。
悠斗はその存在を見た。
「一つ聞いていいか」
「……」
「お前はルーナに全部を見せることを、恐れているか」
広間が静かになった。
その存在が悠斗を見た。
鋭い眼差しだった。しかし、怒りではなかった。
「……なぜそう思う」
「さっき、水晶に手を伸ばして止まった。技術的な問題じゃなかったと思う。止めようとすれば、できたはずだ。でも迷った。それは記憶の続きを、ルーナに見せることを、どこかで恐れているからじゃないか」
「……」
「違うか」
その存在は少し間を置いた。
「……違わない」
「何があったんだ?」
「それは——言わない」
「俺には」
「誰にもな」
悠斗は少し黙った。
「……わかった」
「聞かない。今は。でも」
悠斗はまっすぐ言った。
「ルーナが全部を思い出す時俺はそこにいる。それだけは、言っておく」
その存在は、悠斗を見た。
長く。
「……頼む、と言えば」
「言わなくていい」
「そうか」
「言われなくても、そうする。俺が決めたことだ」
その存在の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ。
それから、静かに戻った。
「……お前を見ていたから知っている」
小さく言った。
「だから——厄介なんだ」
悠斗は少し黙った。
「なぜ遠くから見ていた」
「……習慣だ」
「習慣?」
「長く、そうしてきた。それだけだ。それに貴様の力は強大だ。だから見ていたんだ」
それ以上は言わなかった。
悠斗も聞かなかった。
ルーナが、また一歩前に踏み出した。
「姉さん」
「……何だ」
「さっきも言ったけどまた話せる機会を作ってほしい。今日みたいに」
「……」
「ここに来てもいいか。また」
その存在は、すぐには答えなかった。
広間の光が揺れた。天井の梁の隙間から差し込む青白い輝きが、二人の影を伸ばしていた。
「……来るな、とは言えない」
「来ていいということ?」
「……来るかどうかは、お前が決めることだ」
ルーナは小さく微笑んだ。
その笑顔に、何かが溶けた。
緊張ではなかった。長い間こらえていた何かが、少しだけ緩んだような、そういう笑顔だった。
「ありがとう」
その存在は、少し黙った。
「……そうか」
その存在は、ゆっくりと台座に向き直った。
「神崎悠斗」
「一つ伝える」
「何かが王都に向かっている」
悠斗の体が、少し硬くなった。
「王都が危ない。早く戻れ」
「具体的には」
「魔族が動いている。それだけではない別の群れも、既に動き始めた。人間たちの守りが手薄な今、何かが起きるとすれば、遠くない時間の中だ」
「魔族が王都に向かっている?」
「この世界のバランスが崩れている今、彼らが動く理由は複数ある。その中で、王都は人間の力の中心だ。そこを揺さぶれば、人間全体の動きを乱せる」
「陽動か、あるいは本命か」
「どちらにせよ、動いている」
悠斗は頷いた。
「わかった。すぐに戻る」
「ルーナも」
「うん」
「……無理はするな」
「そっちこそ」
その存在は、少し間を置いた。
「……私への気遣いか?」
「ほかに誰がいる」
「……」
ルーナが一歩前に出た。
「姉さん、水晶は——」
台座の水晶が、すう、と浮き上がった。
ルーナに向かって、ゆっくりと近づいていく。
ルーナは反射的に両手を前に出した。
水晶が、その手のひらの上に落ちた。
温かかった。
抱えていると思っていた冷たさが、ない。
石の遺跡の地下、この場所で何百年も封じられていたはずなのに、その光は温かかった。
手のひらの上で、銀色の光が穏やかに揺れている。
「……」
ルーナは水晶を見た。
泣きそうになった。でも、泣かなかった。
「今は持っているだけでいい」
その存在が言った。
「記憶はお前の準備ができた時に、自然に戻る。焦るな」
「焦っていない」
「……そうか」
「ただ——」
ルーナは顔を上げた。
「これを持っていてくれていたことに、ありがとうと言いたい。どんな理由があったとしても」
エクリシアは、ルーナを見た。
「……礼を言われることではない」
少しの間があった。
「……急げ」
その存在が言った。
広間の空気が、変わり始めた。
石の床に刻まれた文様が、光を帯び始めた。放射状の線が、中央から外に向かって輝いていく。
「ちょっと待って」
ルーナが言った。
「もう少しだけ」
「また会える」
その存在の声は、静かだった。
「また?」
「また来れば——その時に、話す」
「……絶対に来るから」
「……わかった」
光が、強くなった。
台座の周囲が、白く輝き始めた。
「ルーナ、俺の手を握れ!」
悠斗が叫んだ。
ルーナが水晶を片手に収めて、悠斗の手を掴んだ。
「姉さん」
ルーナは声を上げた。
その存在は、ルーナを見ていた。
返事はなかった。
しかし、その瞳がほんの一瞬だけ、ルーナが記憶の断片で見た顔と重なった気がした。笑いながら振り返り、手を伸ばしていた、あの頃の顔と。
光が爆発した。
白い。
目の前がすべて白い。
重力がなくなった感覚。上下がわからない。
手のひらに、ルーナの手の感触があった。
それだけが、確かだった。
次の瞬間。
冷たい空気が、顔を打った。
石の床ではなかった。
雪の上だった。
「——っ、うわっ」
悠斗は雪の中に膝をついた。隣に、ルーナが倒れ込んでいた。
「ルーナ!」
「……」
ルーナは自分の手を見た。
水晶が、まだそこにあった。
両手でしっかりと握りしめている。
「大丈夫か」
「大丈夫。体が少し重いけど」
「無理するな」
「してない、本当に」
「悠斗様!」
声が飛んできた。
セレスティアだった。
岩陰から飛び出してきて、膝をついて走ってくる。その後ろにエレナがいて、少し遅れてウルリックが来た。
「無事ですか! 急に光が入口から光が溢れてきて」
「俺は大丈夫だ。ルーナが少し」
「わかりました、すぐに見ます」
セレスティアがルーナの傍に膝をついた。
ルーナは上半身を起こそうとして、少し力が抜けた様子だった。
「……横になっていて。診ます」
「大丈夫。倒れているわけじゃない」
「でも顔色が」
「少し疲れた。それだけよ」
「気力で言っているのが伝わっています。診ます」
セレスティアはきっぱりと言った。
ルーナは少し黙って、言われるままになった。
エレナが悠斗の隣に立った。
「何があった」
短く聞いた。
「説明する。少し待ってくれ」
悠斗は膝から立ち上がった。
雪が靴の中に入っている。それを気にする余裕がない。
空を見上げた。
白い月が、北の空に薄く浮かんでいる。
遺跡の入口は、そこから少し離れた岩の向こうだった。自分たちは、二十メートルほど離れた雪の上に投げ出されていた。
「……あの中から飛ばされた」
「飛ばされた、というのは」
ウルリックが眉を動かした。
「そんなことが?」
「ああ」
悠斗は少し息を吐いた。
それからルーナを見た。
セレスティアに支えられながら、ルーナが何とか体を起こしている。
手の中に、水晶があった。
銀色の光が、雪の白の中で静かに輝いている。
「……みんな」
ルーナが全員を見た。
「ごめん。心配かけた」
「謝らなくていいです」
セレスティアが静かに言った。
「無事ならそれで——それに」
セレスティアの視線が、ルーナの手に落ちた。
「……水晶が」
「第五の水晶。最後の記憶」
「持ってこられたんですね」
ルーナは手の中の光を見た。
「…」
セレスティアは何かを言いかけて、止めた。
ただ、頷いた。
エレナが悠斗を見た。
「説明してくれるか?」
一行は、遺跡の前から少し離れた岩の陰に場所を移した。
冷たい山風を避けながら、悠斗は話した。
遺跡の内部で何があったか。広間に顕現した存在のこと。ルーナの記憶が溢れかけたこと。その存在がどういう言葉を残したか。
できるだけ、事実だけを言った。自分の解釈を混ぜないように。
ただ一点その存在が誰であるかについては、悠斗は言わなかった。
ルーナが、自分のタイミングで話すべきことだと思った。
全員が聞き終えた。
しばらく誰も口を開かなかった。
風が、山の稜線を越えてくる音だけがした。
「何かが王都に向かっていると言ったんだな」
エレナが確認した。
「そうだ。魔族が王都にに向かっている。別の群れも動き始めているとも言っていた。王都が危ないかもしれない」
「その情報を信じるか」
「信じる」
悠斗は迷わずに言った。
「あの存在が俺たちを陥れる理由がない。それより王都に戻る方が先だ」
「同意だ」
エレナはすぐに言った。
迷いがなかった。
「最短ルートはどこだ」
「ウルリック」
悠斗はウルリックを見た。
ウルリックは地図を頭の中で広げるように、少し間を置いた。
「西の峠を越えれば、帝都への街道に出る。この季節、峠は荒れるかもしれないが試す価値はある。そこから馬を使えば、六日で帝都だ。帝都からエリシア様に連絡を入れれば、王都への先触れになる」
「頼む」
悠斗は答えた。
それから、ウルリックの顔を正面から見た。
「一つ、聞いていいか」
「何だ」
「一緒に来てもらえるか。案内を続けてくれると、助かる」
ウルリックは少し沈黙した。
「……帝都から先は」
「帝都で別れる。帝都からは俺たちで動く。ただ、帝都でエリシアへの連絡を通してほしいことと——ウルリック自身も、今すぐヴァルクに戻るより帝都でしばらく待機した方がいいと思っている」
「街道が荒れているから、か」
「魔族が南に動いたなら、北の街道が少し落ち着く可能性がある。逆に、魔物の乱れで南の街道が荒れるかもしれない。今すぐ動くより、状況を見てから戻る方が安全だ」
ウルリックは少し考えた。
「……そうだな。同意だ。帝都までは、案内する」
「ありがとう」
「礼は要らない。あなたたちは、ヴァルクのために動いた。それは見ていた。こちらができることをするだけだ」
それだけ言った。
セレスティアがルーナに声をかけた。
「ルーナ様。歩けますか」
「歩けるわ」
「無理は——」
「無理じゃない。少し疲れているだけ。歩けないような状態じゃない」
ルーナは立ち上がった。
雪の上で、体を確かめるように足を踏んだ。
「……大丈夫」
「確かめましたか」
「確かめた」
「では行きましょう。ただし、今日は早めに休める場所を探します」
「峠の手前に、小屋がある」
ウルリックが言った。
「今夜はそこで泊まれる。明日の朝、峠に入る」
「わかった。行こう」
悠斗は振り返った。
遺跡の入口が、岩の向こうに見えていた。
石の門。月を象った彫刻。何百年も、ここに立っていた場所。
その中に、まだ——何かがいるのかもしれない。
あるいは、もう霧散しているのかもしれない。
「……また来よう」
悠斗は小声で言った。
誰に届かなくてもいい。ただ、言っておきたかった。
ルーナが隣で聞いていた。
「……うん」
「お前の記憶が全部戻る時、俺はそこにいる」
ルーナは悠斗を見た。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
悠斗は少し視線を前に向けた。
「……ありがと」
ルーナは小さく口元を動かした。
その表情は、疲れているのに、どこか軽かった。
長い間、扉が閉じていた場所に——少しだけ光が差したような、そういう顔だった。
「行こう」
「うん」
一行は、山道を歩き始めた。
峠に向かって。
南へ向かって。
遺跡が、少しずつ遠くなっていった。
峠を越えるのに、二日かかった。
ウルリックの予想通り、途中で吹雪に見舞われた。峠の中腹にある岩陰で一夜を過ごし、嵐が過ぎてから再び動いた。
その間、誰も弱音を言わなかった。
エレナは先頭を歩き、足場を確かめた。
セレスティアはルーナの傍を離れなかった。
ウルリックは吹雪の中でも方向を失わなかった。
「長く北方を案内してきたから」
ウルリックは聞かれもしていないのに、そう言った。
「体が、覚えている」
街道に出てから、南下する商人の荷馬車を捕まえた。帝都に向かう大きな商隊だった。交渉して同乗させてもらった。
馬車の揺れに身を任せながら、ルーナは懐の水晶を時々確認した。
外套の内側に収めているが、光の温かさが手越しに伝わってくる。
「……大丈夫か」
悠斗が隣で聞いた。
「うん。ただ——考えていた」
「何を」
「姉さんのことを」
悠斗は黙って聞いた。
「会えたことが、嬉しかった。でも——思っていたのと、違ったわ」
「どう違った?」
「もっと怒っているかと思っていた。私に対して。記憶を取り戻そうとしていることを、邪魔してくるかと思っていた部分もあった」
「でも、そうじゃなかった」
「そうじゃなかった。むしろ守ろうとしていた。やり方は、私の望むものとは違ったけど」
「やり方の話はできる。でも、目的が同じなら、話せる余地がある」
「そうね」
ルーナは馬車の外を見た。
山の稜線が、遠くなっていく。
馬車が、南へ向かって走っていた。
馬車の荷台は干し肉と布の束が積まれており、一行は隅の方に身を寄せながら揺れに合わせて体を預けていた。
セレスティアは途中、ルーナの脈を確かめた。
「問題ないです」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
セレスティアは膝の上に手を置いた。
しばらく、外の景色を見ていた。
山の稜線が遠くなり、街道沿いに農家の建物がぽつぽつと見えてくる。北の険しさから、人の生活の気配へ。その変化が、馬車の揺れと共に体に入ってきた。
「セレスティア」
エレナが声をかけた。
「何ですか」
「この旅でお前は一度も弱音を言わなかったな」
「……そうですか」
「ヴァルクも、遺跡への道も。足並みが乱れたことがなかった」
セレスティアは少し考えた。
「弱音を言っても、状況は変わらないので」
「……みんなが前を向いているから、私も向ける。それが、少し大きいかもしれません」
エレナは黙った。
「そういうものだ」
しばらく経ってから、エレナが言った。
「誰かが前を向いていれば振り向かなくていい。それが、旅だ」
「エレナさんも、前を向いていましたよね」
「……そうか」
「ずっと、先頭を歩いていたじゃないですか」
「それは習慣だから」
「習慣でも、前を向いていることには変わりない」
エレナは少し黙った。
「……そうかもしれない」
馬車が揺れた。
悠斗が横で食べていた干し肉を、また一口齧った。
「……また食べてる」
ルーナが言った。
「腹が減った」
「さっき食べたばかりよ」
ルーナは笑いながら懐の水晶を手の中で握り直した。
温かい光が、手のひらから伝わってくる。
「ルーナ」
「うん」
「水晶、また光ったか」
「少し。でも今は落ち着いている」
「良かった」
「……悠斗」
「うん」
「姉さんが笑いながら走っていた夢を見た。今日」
「昼間に?」
「少し眠ってたから。馬車の揺れで」
ルーナは窓の外を見た。
「……昔の姉さんを、もっと思い出したい」
「思い出せるさ。水晶が手元にあるから」
「そうね」
「エクリシアも言っていただろ。準備ができた時に、自然に戻る、って」
「そう言ってたね」
「焦らなくていい。ゆっくりでいい」
ルーナは少し悠斗を見た。
「悠斗は姉さんのことを、どう思った? 会って」
悠斗は少し考えた。
「強い人だと思った。でも一人で抱えすぎている」
「そうね」
「お前と、似ている部分がある」
「似ている?」
「人に頼ることを、どこかで後回しにする。自分で全部引き受けようとする」
ルーナはしばらく黙った。
「……私が、そんなふうに見える?」
「見える。でも、最近は変わってきた。俺に頼ってくれることが増えた」
「……そうかしら」
「そうだ」
「……」
ルーナは少し口元を動かした。
馬車が揺れた。
「……そういうことを、さらりと言うのよね、あなたは」
「何か問題があるか」
「問題はないけど——困るわ」
馬車は南へ走っていた。
帝都に着いたのは、六日後だった。
皇城に名を告げてから、エリシアは十五分も経たないうちに廊下を早歩きで来た。
「おかえりなさい」
「またすまないな」
「謝らなくていいと言っているじゃないですか」
エリシアは全員の顔を見た。ルーナを見て、少し目を止めた。
「ルーナさん、疲れています?」
「少しだけ。でも、もう大丈夫よ」
「……本当に?」
「ええ」
「……わかりました。中に入りましょう」
応接室に通されて、温かいお茶と食事が運ばれた。
悠斗は、要点を簡潔に話した。
魔族が南に向かっているという情報。王都に何かが起きる可能性があること。帝国から王都への先触れを出してほしいこと。
エリシアは、話を聞くにつれて表情が変わっていった。
「……わかりました。姉様にすぐ伝えます。帝国として、使者を王都に出します」
「頼む。俺たちも明日の朝には出る」
「そんなに急いで」
「急ぐ必要があるから」
エリシアは少し下を向いた。
「……また、すぐに行ってしまうんですね」
「すまない」
「謝らなくていいです」
エリシアは顔を上げた。
「でも一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「今夜だけは、ちゃんと食べて休んでください。明日の出発前に、しっかり食事をとってください。遠慮しないで」
「……それは、お願いというより命令に近いが」
「そうです。お願いの形をした命令です」
「わかった」
「約束ですよ」
「約束だ」
翌朝の別れは、帝都の南門で行われた。
夜明け前の空が、少しずつ白くなっていた。
エリシアが見送りに来ていた。白い外套を羽織って、息が白い。
ウルリックも、宿から出てきていた。
荷物を背負い、杖を手に持っている。いつもの旅の姿だ。
「見送りは要らないと言ったはずだ」
悠斗が言った。
「誰が見送りと言った」
ウルリックは答えた。
「早起きしただけだ。朝は早い方がいい。それだけだ」
「そうか」
悠斗はウルリックを見た。
ヴァルクから一緒に歩いてきた。峠を越え、吹雪を待ち、街道に出た。何度、この背中を目標に歩いたかわからない。
「ウルリック」
「何だ」
「世話になった」
「礼は要らないと言った」
「それでも言う」
ウルリックは少し黙った。
「……俺の仕事は、道を知ることだ。知っている道を、知らない者に示す。それだけだ。礼を言われる筋合いはない」
「知っている道を、的確に示してくれた。そのおかげで着けた。それは感謝している」
「……」
「ヴァルクに戻ったら、グレムに伝えてほしい。この町でシチューをまた食べたい、と」
ウルリックは少し目を細めた。
「……伝えておく」
ウルリックは頷いた。
エレナがウルリックの前に立った。
「世話になった」
「あなたにも言われると、礼は受け取り切れないな」
「受け取れ」
「……そうか」
エレナはそれだけ言った。
短い言葉だった。しかしその短さの中に、エレナなりの重みがあった。
ウルリックもそれを感じたのか、余分なことを言わなかった。
ただ、一度頷いた。
「行ってきてください」
エリシアが言った。
「行ってくる」
「次は、もう少しゆっくりしてください」
「……約束する」
エリシアは頷いた。
それから、ルーナを見た。
「……また会えるのを、楽しみにしています」
ルーナはエリシアを見た。
「私もよ」
「本当に?」
「本当に」
エリシアは少し微笑んだ。
「では、気をつけて行ってきてください」
「行ってきます」
門をくぐった時、悠斗は振り返った。
エリシアがまだ立っていた。
白い外套が、夜明けの空の中で小さく見えた。
片手を、静かに上げていた。
悠斗も手を上げた。
ルーナも、少し振り返って頷いた。
やがて、道が曲がり、帝都の城壁が見えなくなった。
南の道が、開けていた。
「行こう」
「ええ」
ルーナは前を向いた。
「……いい人だったね、ウルリックは」
「ああ。そうだな」
「いい人たちに会えたね」
「そうだな」
「あなたのおかげかもしれない」
「俺は関係ない」
「あるわよ」
「どうして」
「あなたが誰かに対して正直だから向こうも正直に返してくれる。そういうことだと思う」
悠斗は少し黙った。
「……そうかもしれない」
「そういうこと」
ルーナは少し笑った。
王都まで、まだ長い道がある。
しかし一行の足は、ヴァルクを出た時よりも速かった。
エルディア王国、王都。
「何か見つかったか」
後ろから声がした。
グラキエスだった。
「少し」
「どんな話が」
「来ている、と思う。タイミングが全て、一致している」
「そうね。私が聞いた話も同じよ」
グラキエスは市場の端を歩いてきた様子だった。
「東の街道沿いの宿屋の主人が言っていた。昨日の夜中に、遠くから低い音がしたと。地響きのような音が、断続的に続いたと」
「群れの足音か」
「そうかもしれない。あるいは、魔物が何かに追われた時の音か」
「魔族が先頭に立って、魔物を動かしているとしたらその群れが近づいてきているということだ」
「やはりレイナルド様に報告しましょう」
「ああ。今日中に」
二人は王城の方向へ歩いた。
夕暮れの王都。
市場の喧騒が少しずつ落ち着いていく。商人たちが店じまいを始め、子供たちが親に呼ばれて家に入っていく。
その日常の光景が、何か別のものと隣り合っている気がした。
「バルトロメウス」
「何だ」
「この街を守ることに——慣れてきた気がする」
「そうか」
「黒月教にいた頃は、こういう場所を壊す側だった。今は守る側にいる。不思議な感じがして、でも——違和感はなくなってきた」
「それが、変わったということだ」
「あなたが変えてくれた」
「俺は何もしていない」
「脱退してくれた。それだけで十分よ」
バルトロメウスは少し黙った。
「……俺が脱退したのは、お前のためじゃない」
「知ってる。でも、結果としてそこにいる。それが大事なの」
「……そうか」
王城への道を、二人は歩き続けた。
夕暮れの光が、石畳を赤く染めていた。
王城の奥まった一室で、蠟燭の灯りがテーブルの地図を照らしていた。
夜の静けさの中で、レイナルドの声だけが響いていた。
「帝国からの伝令が、一昨日到着しました」
四十代の宰相は、長年の政務で培われた落ち着きで言葉を選びながら話した。
「内容は、悠斗様たちが帝国を経由したこと——そして、北方で何かが動いているという情報です。詳細については、帝国側も掴み切れていない部分があるようで、断定的な表現は避けられていましたが」
「つまり、情報は断片的だ」
バルトロメウスが言った。
椅子に座ったまま、腕を組んでいる。旅先から戻ったばかりだが、その眼差しはすでに仕事の色をしていた。
「そうなります。しかし——こちらでも、独自に確認していることがあります」
レイナルドは地図の北から西にかけてを指した。
「ここ一週間で、農村からの避難民が増えています。特に北と西の方向から。理由を聞くと、魔物の数が急に増えた、夜中に奇妙な音がした、村の家畜が逃げ出した——そういった話が多い」
「農村からの避難民が、一週間で」
グラキエスが地図を確認した。
薄い青の外套を羽織り、金色の髪をまとめている。その目は、地図の上で正確に情報を整理していた。
「ここと、ここと、ここですね」
「はい。点在していますが、方向性として北西——帝国の方角と重なります」
「魔族が南に向かって移動しているとしたら」
バルトロメウスが続けた。
「その道中で、沿道の魔物が撹乱されている可能性があります。彼らが移動することで、周囲の魔物が刺激される——農村に出没が増える。避難民の話と一致します」
「タイミングとしては——」
「おそらく、十日ほど前から始まっている。悠斗様たちが北方で魔族と接触した後、彼らが南に方針を転換したとしたら——計算が合う」
グラキエスは地図を指でなぞった。
帝都から王都への距離。その間に点在する村々。
「王都の守りは、現状どうなっていますか」
「平時の配備です」
レイナルドは率直に言った。
「先の黒月教との戦いで、騎士団の主力は消耗しました。補充と訓練を進めていますが、完全回復には至っていない。実戦可能な数で言えば——以前の七割程度というところです」
「七割」
バルトロメウスは少し眉を動かした。
「七割でどの程度の兵力ですか」
「正騎士が三百。準騎士が二百。衛兵と守備兵を含めれば、さらに五百ほどになりますが——実戦経験のある者は、正騎士の中の精鋭百五十ほどです」
「魔族の戦力がどの程度かによりますね」
グラキエスが言った。
「帝国の伝令には、悠斗様たちが実際に戦ったという情報も含まれていましたか」
「少しだけ」
レイナルドは書状を開いた。
「一体と、二人がかりで戦い、撃退した。しかし消耗が大きかった、と」
「一体と二人で、消耗が大きい」
バルトロメウスの声が、わずかに低くなった。
「悠斗様と、エレナ殿の二人が当たったということですよね」
「そのように読めます」
バルトロメウスは少し沈黙した。
あの悠斗が。
黒月教との戦いで、クルエンタを仕留めた。西の要塞の兵士たちを圧倒した。あの力を持つ悠斗が、消耗が大きかったと報告されている。
「……相当な強さだ、魔族とやらは」
「はい。私も、そう読みました」
グラキエスは静かに言った。
「私が市場で収集した情報でも、商人の伝聞として同じような話がいくつかありました。人の形をしているが人ではない。速い。賢い——そういう表現が共通して出てくる」
「賢い、というのが厄介です」
バルトロメウスは地図に視線を戻した。
「単純に力で圧倒するのではなく、状況を判断して動く。となれば——城壁の外に出て迎え撃つのは得策ではない。内部に引き込んで、地形を活かした戦いが有効かもしれない」
「具体的には」
「東門の前で対処するより——東の城壁に防衛線を敷いて、内側から迎え撃つ。夜戦になるなら、灯りの配置が重要になります」
「篝火を増やすべきですか」
「増やす。ただし、均等に増やすのではなく——見せたくない場所を暗くして、見せたい場所を明るくする。動かしにくい相手は、光で誘導できる場合がある」
グラキエスが頷いた。
「魔物であれば、光と影のコントラストで行動を制限できる場合があります。魔族に通じるかはわかりませんが——試す価値はある」
「東の城壁に、弓の部隊を配置することも検討してください。遠距離から削るだけでも、消耗を減らせます」
「わかりました」
レイナルドは書き記しながら言った。
「バルトロメウス殿は、どこに配置されますか」
「私は東門の前面に出ます。影魔法は、複数の対象に同時に対処できる。先頭に回れる戦力として、私が動いた方が効果的だと思っています」
「グラキエス殿は」
「私は城壁の上から支援します。冷気の制御は、範囲攻撃として使えます。魔物の足を止めることに特化して動きます」
「二人が前に出て」
レイナルドは確認した。
「……頼りにしています」
「こちらこそ、協力させていただけることに感謝を」
バルトロメウスは地図に向き直った。
東門と西門の配備の話に移ろうとしたその時。
扉が、強くノックされた。
三人の目が、一斉に扉に向いた。
「入れ」
レイナルドが言った。
扉が開いた。
若い伝令が、顔を赤くして部屋に飛び込んできた。息が上がっている。
「レイナルド様——急報です!」
「落ち着いて言え」
「は、はい。東の街道監視の部隊から、今ほど急報が届きました。街道の東方向——城壁から十五里の地点で」
伝令の声が、わずかに震えていた。
「大規模な魔物の群れを、確認しました」
室内が静まった。
蠟燭の炎が、揺れた。
「群れ、とは」
バルトロメウスが低く聞いた。
「数は——報告では百を超えると。種類は様々で、しかし統率されているように動いているとのことです」
「統率されている」
「は、はい。先頭に——人の形をした存在が、複数確認されたと。監視班の隊長が、そのように報告を」
グラキエスの表情が変わった。
「魔族が、先頭にいる」
「そのように——見えたとのことです」
バルトロメウスは即座に立ち上がった。
地図を巻きながら言った。
「このまま前進されれば、夜明けには王都の視界に入ります。今夜が、準備の最後の時間です」
「招集は——」
「今すぐかけてください」
「既に動き始めています。急報が届いた時点で、守備隊長の判断で——」
「優秀な隊長ですね」
「王都の守りを任せるに足る方です」
バルトロメウスはレイナルドを見た。
「レイナルド様。国王陛下への報告と、市民への注意喚起——パニックにならない程度の——この二点を優先してください。私たちは東門の準備に入ります」
「わかりました」
レイナルドは立ち上がった。
「……頼みます」
「任せてもらえれば」
バルトロメウスは扉へ向かった。
グラキエスがその隣に並んだ。
廊下を、足音が響く。
「久しぶりだな、こういう状況は」
バルトロメウスは歩きながら言った。
「そうね。黒月教の頃を思い出すわ」
「あの頃と、違うことがある」
「何が」
「あの頃は——どこかで、迷いがあった。この世界を守ることに、自分が加わっていいものかという気持ちが残っていた。脱退した後も、しばらくはそれが消えなかった」
グラキエスは静かに聞いた。
「今は」
「今は迷いがない」
「……そうね、私も」
廊下の先に、外へ通じる大扉があった。
押し開けると、冷たい夜風が吹き込んだ。
王城の外に、王都が広がっていた。
遠くに、篝火の連なりが見える。東の城壁の上だ。すでに守備兵が動き始めているのが、灯りの動きからわかった。
空を見上げた。
黒い月が、夜の空に大きく浮かんでいる。
白い月は、薄い雲の向こうに霞んでいた。
「……悠斗たちは、まだ戻っていない」
グラキエスが言った。
「ああ」
「間に合うかしら」
バルトロメウスは少し間を置いた。
「間に合わなくても、俺たちが何とかする」
「そうね」
「間に合えば、なお良し」
「それはそう」
グラキエスは手袋の指先を確認した。
指先に、わずかに霜が結ぶ。冷気の制御は、問題ない。
「行きましょう」
「ああ」
二人は城門へ向かって歩いた。
夜の石畳が、足音を飲み込んでいく。
「バルトロメウス」
「何だ」
「戦い終わったら——また旅をしたいわ」
バルトロメウスは少し首を向けた。
「どこへ」
「どこでもいい。あなたが決めていい」
「……そうか」
「そういうことよ」
「……悪くない提案だ」
「でしょう」
東の方向、城壁の上に、篝火が増えていた。
騎士団が動き始めている。
バルトロメウスは外套の内側に手を入れた。
足元の影が、指先の意志に従って静かに伸びる。
問題ない。制御は、完全だ。
「行くぞ」
「ええ」
二人は東門へ向かって、夜の王都を歩いた。
黒い月が、その背中を照らしていた。
白い月が、雲の向こうで静かに輝いていた。
夜はまだ長い。
しかし、夜明けは来る。
その夜明けを、この場所で迎えるために。
城壁が近づいてくる。
篝火の光の中に、騎士たちの甲冑が浮かんで見えた。
「バルトロメウス殿!」
東門の守備隊長が、二人を見つけて駆け寄ってきた。
「急報は聞きました。東方向——十五里で大規模な群れが。どうされますか」
「現状を教えてくれ。城壁の上の配置は」
「弓隊を配置しています。城門は閉じました。ただ——数が多い場合、城門での防衛だけでは心許ない」
「私たちが前に出ます」
隊長は少し躊躇した。
「城門の外に出るのは——」
「城門の外で、先頭を食い止めます。魔物の数が多くても、先頭の統率を崩せば群れが乱れる。乱れた群れは城壁で対処できます」
隊長はバルトロメウスを見た。
グラキエスを見た。
それから、短く息を吐いた。
「……わかりました。城門を一時的に開けます。出た後、即座に閉める。再入場の合図は」
「影を上げます」
バルトロメウスは足元の影を持ち上げた。
黒い旗のような動きで、影が夜空に向かって伸びた。
「……わかりました。全員に周知します」
「頼む」
城門が、静かに動き始めた。
重い石の扉が、内側から開いていく。
夜の外気が流れ込んできた。
バルトロメウスは前を向いた。
「行くぞ」
「ええ」
二人は、夜の城門をくぐった。
扉が、後ろで閉まった。
重い音が、背中を伝わった。
前には、夜の城壁の外。
遠く、先で——何かが動いている。
「……来ている」
グラキエスが静かに言った。
「見える?」
「夜目が効く。遠くに、何かが動いている。まだ距離がある。でも——確かに来ている」
バルトロメウスは影を広げた。
足元から外套の裾にかけて、影が溶けるように広がっていく。
戦いの準備だ。
「グラキエス」
「うん」
「悠斗たちが戻ってくる前に、ここが崩れるわけにはいかない」
「わかってるわ」
「それだけだ」
「言わなくてもわかってる」
バルトロメウスは少し息を吐いた。
「そうか」
「……二人なら、なんとかなるわ」
「そうだな」
「絶対に」
「ああ」
夜の外に、何かが動いている。
遠く、しかし確実に。
近づいてくる。
バルトロメウスは両手を開いた。
左手の指先から、影が糸のように伸びていく。
右手を握ると、影が収束する。
黒月教にいた頃に磨いた力が、今この場所で——別の目的のために動く。
「……来い」
バルトロメウスは夜に向かって、静かに言った。
グラキエスは手の甲の霜を確認した。
指先から、冷気が満ちていく。
王都の東の夜空に、篝火が揺れている。
その光の下で。
二人は、夜を待った。
「久しいな、ルーナ」
言葉にした瞬間、自分がどれほどその言葉を準備していたかに気づいた。
気づきたくなかったが、気づいた。
百年以上分の、続きだ。
ルーナは変わっていなかった。
姿かたちではない。あの子は、何かを問う時の目が昔のままだった。怒りでも嘆きでもなく、まっすぐ向かってくる目。答えを求めるのではなく、ただ知りたいと思っている目。
水晶に触れかけた手が、途中で止まった。
止めようとして止めたのか、止まってしまったのかは、自分でもわからなかった。
ただ、記憶の続きを——彼女が見ることが、怖かった。
怖いという感情は、久しぶりだった。
百年以上、この暗い場所にいた。感じることより、感じないようにすることの方が多かった。
なのに、あの子の目を見た瞬間に、怖いと感じた。
それが何かを意味しているとしたら——自分がまだ、何かを失いたくないと思っているということだろう。
何を失いたくないのかは、まだわからない。
神崎悠斗は、厄介な少年だ。
今日、それを改めて確認した。
あの少年は、こちらに礼もなく言い切る。
「俺はそこにいる。それだけだ」
言われなくてもそうする。自分が決めたことだ。
ルーナに向けた言葉ではなく、私に向けた言葉だった。
頼まなくていい、という言葉でもあった。
それが——なぜか、不快ではなかった。
不思議なことだ。
ルーナが「ありがとう」と言った。
水晶を渡した時に。
礼を言われることではない、と返した。
しかし、ルーナは「私が決める」と言った。
昔もそうだった。
誰に何と言われても、自分で答えを決めた。
あの子は何も変わっていない。
そして——私は、変わりすぎた。
「また会える」と言った。
言ってから、少し驚いた。
私がそれを言うとは思っていなかった。
しかし、言った。
言葉というものは、時々、自分が思っているより先に出る。
王都に何かが来ている。
それは知っていた。
だから告げた。
守ることが目的ではない。ただ、情報として、正しいと思ったから伝えた。
そう言い聞かせながら、しかし自分でもわかっている。
あの少年が王都に向かう。ルーナが、王都の方向に向かう。
それを知っていて、黙っていることは——できなかった。
そういうことだ。
広間が静かになった。
二人の気配が、遠くなっていく。
台座の水晶は、もうない。
ずっとここにあったものが、なくなった。
不思議なほど、軽い。
重かったはずなのに。
「……また来ると言っていたな」
誰もいない広間に、呟いた。
声は石の壁に吸い込まれた。
来るだろう。
あの子は、来ると言ったことを必ず実行する。
それも、昔から変わっていない。
次に会う時、何を話すのかはまだわからない。
しかし——少しだけ、準備をしておいてもいいかもしれない。
黒い月の光が、遠くで揺れていた。
―――エクリシア




