第12話 騒がしく賑やかな1日
夏の予選まで数日と迫った金曜日。
一般の学生なら翌日は土曜日なので気を休めることができるが、航大たちはそうはいかない。野球部にほぼ休みはなく、大会前なら尚更だ。
毎日練習をしていると疲労が溜まっていく。金曜日が特にそうである。
航大は寝ていた。次の時間が移動教室であることを忘れて。
何かの気配を感じ、飛び起きる。だが、周りには誰もいない。そこでふと気づく。
「そうか、移動教室だ」
持っていくものを急いで手に取り教室を出る。ただひたすら走る。
周りは勿論、見えていなかった。
曲がり角で何者かとぶつかる。
「きゃっ!」
「うわっ!」
二人とも、持っていたものを落として転ぶ。
「すいません、大丈夫ですか?」
上履きの色で、航大はぶつかった相手が上級生だと分かった。
持ち物を拾い集め、その女生徒に渡す。
「あ、ありがとう。あなたは……、え?」
「あ!」
何かを察した。航大の顔が青ざめる。
「何で……何でいるんだよ……!」
航大は駆け出した。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
航大の姿は間もなく見えなくなり、女生徒は呟く。
「やっぱり、嫌われてるんだ……私」
拾い損ねた生徒手帳に名前が書かれている。
『大村 千夏』
「もう、寝ちゃダメって言ったでしょ。私起こさないからね!」
「すまん」
世話好きの妻に叱られるダメ夫のように、航大が謝る。
「はあ……」
航大はため息をつく。授業に遅れる上、さらにとんでもない人物と会ってしまった。
「どうしたの?」
「……やる気が出ない」
人のやる気とはこうも簡単に下がるものなのか、と航大は実感した。
「もうすぐ大会始まるのに、大丈夫?」
「まあなんとかなるだろ」
「……何かあったんでしょ」
京子は鋭い。航大が読まれやすいのかもしれないが。
「……寝てないだけさ」
とりあえず、航大はごまかすことにした。
放課後。京子は練習の合間に中村と話す。
「ねえ、航大君の様子がおかしいんだけど」
「そりゃ浮気だな」
「馬鹿なこと言わないでよ!」
航大のことだけはすごく必死な京子。
助けたいという気持ちはわかるが、大会前の航大を変に刺激するのもよくない。
「どうしたもんかな……」
中村が考えていると、声がした。
「中村君。……久しぶりね」
身長が高く、容姿端麗で完璧な女性を思わせるルックス。中村には見覚えがあった。
「……お久しぶりです、千夏さん」
場は異様な空気に包まれていた。沈黙が流れる。
気まずい雰囲気を嫌ったのか、京子が口を開いた。
「ちょ、ちょっと。何か喋ったらどうなの?」
京子に小突かれ、中村は千夏と呼ぶ彼女に向かって訊いた。
「千夏さん、航大には会いました?」
「会えたんだけど、逃げられちゃった」
京子はさっぱり会話の意味がわからず、頭に『?』を浮かべる。
「山川。お前には見えないかもしれんが、この人は航大のお姉さん。千夏さんだ」
「航大くんにこんな綺麗なお姉さんがいたなんて、初耳なんだけど」
それを聞いて千夏は言った。
「そりゃそうよ。あなたに会うのは今日が初めてだし。航大が関西の方に引っ越すことになったのは私が航大の義理の姉になったからなのよ」
このとき、航大の転校が両親の再婚だったことを京子は初めて知った。
千夏が言うには、航大は再婚に否定的だったという。ただ1つの条件を課すことで渋々認めた。
自身の苗字が『大村』のままであること。航大はなぜかそこだけは譲らなかった。
「その後も色々あった結果、航大は家を出て行ってしまったのよ」
「……あんまりこういうことは言いたくないですけど、千夏さんが悪いんじゃないですか?」
恐る恐る、京子が尋ねる。
「私はただ、航大と一緒に野球をしたかっただけよ!」
感情的になった千夏に対して中村は言った。
「航大はあなたのような天才じゃないんだ。あいつの心は脆く、崩れやすい。なんで支えてやろうと思わなかったんですか? なんで自分のことしか考えられなかったんですか!?」
中村は続ける。
「あいつは全てを失った。学校も、家族もそして大好きな野球も。全ての居場所をあんたは航大から奪い取った」
千夏は膝をついて涙をこぼした。
「航大は今でこそ十年に一人だの、天才だの言われてますがそれは必死な努力を重ねてきたからです。練習後も一人で黙々、人一倍練習してやっと--」
中村の目にも涙。当時のことを思い出しているのだろうか。
「必ず戻ってくるはずですから、あいつに謝ってください」
一方の航大。中村と京子が千夏に会っているとは知らず、今日のメニューを黙々と進めていた。
目の前に少女が現れ、道を塞いだ。
「久しぶりだね。お兄ちゃん」
長い黒髪。美人というよりは子犬のように可愛らしい少女。航大には見覚えがあった。
「理々香か。京都からよく来たな」
「義理とはいえ妹だもの。当然でしょ」
理々香が来た理由。航大は察しがついていた。
「うちに戻ってきて」
航大は何も言わず、理々香の顔をおにぎりを握るように両手で揉む。
「ふぐっ! 何するのよ!」
そう言って手を払いのける。
「うるさい」
航大は冷静だった。
うっかり大声を出してしまったことに気づいた理々香は顔を赤らめる。
「もう、いじわる」
航大は理々香の反応が昔と変わらないことに少し安心した。
「で、何があった?」
「ちょっと家に居づらくて……来ちゃった」
少し考えて航大は言った。
「なら、練習見学していくか?」
「え?」
「大会前で気が立ってるやつもいるが、身内くらいなら大丈夫だろう。本当は俺のことが心配で来たんだろ?」
理々香は照れながらうなずいた。
二人はグラウンドの方に戻ってきた。そして航大が一番会いたくない人と鉢合せる。
ここにいてはいけないと航大は後ずさりするが、理々香が航大の手を掴む。
「大丈夫だから、私がついてるから!」
逃げているだけでは何も解決しない。千夏に何も言わなかった航大にも非はある。
はぁ、とため息を吐いて、航大は千夏と対峙する。
千夏の目は少し赤くなっていた。
「ごめんね、航大」
「……俺も悪かった」
「で、どうしてこうなるわけ?」
「まあいいじゃない?」
航大の家に航大と京子。普段は航大と京子の二人しかいないのだが、今日はやけに騒がしく賑やかだ。
原因は言うまでもなく千夏たち。家に上がり込んですき焼きパーティーを始めたのだ。
「ちょっと、理々香! 野菜も食べなきゃだめでしょ」
「うるさいバカ! あたしは食べたいものを食べるのよ! 中村くんも早く食べないと肉なくなっちゃうよ―」
「ああ、そうだった。いただきます!」
千夏と理々香が家にいるのは百歩譲ってわかる。だが、中村。
「なんでお前まで」
「すまんすまん。つい来ちまった」
やれやれと思いつつ、航大は笑っていた。
「今笑ったでしょ」
「……そうだな」
あっさり認めた航大に京子が拍子抜けする。
「なんだか昔に戻ったみたいで。この光景が懐かしかったのさ」
そんな航大を見た京子もすき焼きをする三人を見て、笑う。
「この調子だと私たちの分なくなるんじゃ……」
すき焼きの減り方が予想以上に早い。話している場合ではなかった。
「そうだな。俺らもご飯にしよう」
「うん!」
これが騒がしく賑やかな一日の記録である。
そして夏の予選がついに始まる。




