五十七、たけひと
それからやがて、センター試験の三日前が訪れていた。
時雨さんって・・ほんと意地っ張りよね・・
まったく連絡がないなんて、あり得ないわっ!
もうセンター試験なのに・・頑張ってって言いたいのに・・
私は道場からの稽古帰り、家に向かって自転車を走らせていた。
やがて時雨さんのアパートまで来た時、入浴グッズを持って時雨さんが出てきた。
時雨さんは私に気がついたが、なにも言わずに銭湯へ向かって歩いた。
ちょ・・なによ・・無視ってあり得ないんだけど・・
「時雨さん・・」
私は自転車なので、すぐに追いついてそう言った。
「なんだよ、薄柿さん」
時雨さんは立ち止まり、私のことを薄柿さんと呼んだ。
「え・・」
「俺、もうすぐ試験なんだけど」
「・・・」
「だから忙しいんだよ。用があるなら早く言えよ」
「薄柿さん・・って・・」
「あ?お前、薄柿ってんだろ」
「酷い・・なんて人なの・・」
「ああっ!?酷でぇのはどっちだよ!てめぇの苗字は薄柿ってんだろ!だったら俺がどう呼ぼうと自由だろが!」
「・・・」
「俺に人の呼び方を強制しやがって、んで?お前を薄柿って呼んだら、また不満かよ!」
「・・・」
「てめぇ、ふざげんのも大概にしろよな」
「時雨さん・・」
「っんだよ!」
「もう・・私のことが嫌いですか・・」
「はあ?まだそんな、くだらねぇこと訊くのか」
「嫌いなら・・もういいです・・」
「ああ、嫌いだ」
「え・・」
「嫌いだ。これいでいいか」
「・・・」
「納得したのかよって訊いてんだよ!」
私は大粒の涙が、とめどなく溢れた。
「女はすぐに泣く」
「うう・・」
「で、もう用は済んだんだな」
「・・・」
「俺は今後、ダチとしてお前を守る。これはお前のかあちゃんと約束したことだからな」
「ダチって・・それって・・」
「だから、なんかあったらいつでも言え」
「・・・」
「んじゃな」
そう言って時雨さんはお風呂へ行った。
え・・なに・・今の・・
私と・・別れるってこと・・?
う・・嘘でしょ・・
名前の呼び方でケンカしたくらいで・・別れるの・・?
信じられない・・
私はそこに立ち止まったまま、涙を拭うこともせず、ただひたすら泣いていた。
「あ・・薄柿さん・・」
そこに東雲さんがきた。
「う・・薄柿さん・・どうしたの?なにかあったの?」
「わ・・私・・」
「うん、どうしたの?言ってごらん」
「時雨さんに・・嫌われちゃって・・んで・・もう私と別れるみたいです・・」
「えっ!どういうこと?」
「時雨さん・・私のこと薄柿さんって呼んだんです・・」
「ああ・・そのことなんだね」
「え・・」
「あのね・・」
そう言って東雲さんは、少しずつ話し始めた。
「きみも知ってると思うけど、設楽さんは亮介くんを一人で養って、すごく苦労してるんだ」
「はい・・」
「苦労って、一言でいうのは簡単だけどね」
「はい・・」
「僕も親はいなくてね。生活に苦労したことはなかったけど、やっぱり親がいないっていうのは、辛いことだよ」
「・・・」
「それで健人くんたちも親はいないよね。設楽さんはそんな僕たちに気を許したのか、辛かった話をしてくれて、すごく泣いてたよ」
「そう・・ですか・・」
「彼女ね、とても美人でしょ?だけど彼氏も作らず、好きな人さえ作らず、必死になって働いてた時に、何度も何度もたくさんの人から言い寄られてね。その殆どが見た目で言い寄ってきたらしいんだけど、設楽さんはそれが疎ましくてずっと断り続けてたんだって。中には乱暴されそうになったり、危ないこともしばしばでね。それでも設楽さんはめげずに必死になって働いた。そんな時、亮介くんが変わってしまい、思うようにならなくなって、なんのために働いて、何のために生きてるんだろうって、すごく悩んだんだって。そんな時、お兄さんや健人くんに出会って、ほんとに救われる思いがしたって。おまけに亡くなったお兄さんにそっくりなこともあったし、健人くんたちが自分の境遇を誰よりも理解してくれて、親身になってくれることが本当に嬉しかったらしいよ」
「・・・」
「だからね、薄柿さんの呼び方の拘りっていうのが、健人くんにしたらとても小さなことで、理解できなかったんだと思うよ」
「そう・・なんですね・・」
「健人くんは、薄柿さんにはわかってほしかったんだよ。一緒に設楽さんや亮介くんのこと、支えてほしいって思ってるんじゃないのかな」
「うう・・ううう・・」
「泣かなくていいから。大丈夫。健人くんは薄柿さんのこと、好きだよ」
「そ・・そうなんですか・・?」
「うん。そうだよ。僕が保証するよ」
「・・・」
「健人くん・・寝言で小春って言ってるんだよ」
そう言って東雲さんは笑った。
「え・・そ・・そうなんですか・・」
「うん。はっきりそう言ってたよ」
「そうですか・・寝言で私の名前を・・」
「薄柿さん」
「はい」
「もう呼び方には拘らなくていいんじゃない?」
「あ・・はい・・」
「きみから連絡すればいいよ。最初は、なんだてめぇとか言うかも知れないけど、健人くんはきみが好きなんだから、きっと許してくれるよ」
「はい・・わかりました・・」
「それじゃ、僕もお風呂行ってくるね」
「あ、足を止めてしまって・・すみませんでした」
「ううん。いいよ。じゃね」
そして東雲さんはお風呂へ行った。
そっか・・私にわかってほしかったんだね・・時雨さん・・
考えたら・・呼び方なんて、ほんと・・どうでもいいように思えてきた。
それより設楽さんの苦労・・か・・
ほんとに・・大変な思いをしてきたんだよね・・
そりゃ・・一人っ子で甘やかされて育った私には・・到底理解できないよね・・
葵さんが言ってたっけ・・
彼の意に沿うことが・・真心よって・・
こういうことなんだな・・
そしてセンター試験当日が訪れた。
時雨さん・・もう出かけるのかな・・
頑張ってって・・言いたい・・
そして私は、時雨さんの家の前で、時雨さんが出てくるのを待っていた。
ガラガラ・・
ほどなくして時雨さんと東雲さんが外に出てきた。
「あ・・」
時雨さんは、不機嫌そうに私を見てそう言った。
「あ、僕、先に行ってるよ」
そう言って東雲さんは、早足で駅に向かって歩いて行った。
「おい、和樹」
東雲さんは聞こえなかったのか、振り向くことはなかった。
「なんだよ、お前」
「試験・・頑張ってください・・」
「ああ」
「えっと・・緊張しないでくださいね」
「はっ、っんなもん、するかよ」
「そうですよね・・」
「話はそれだけか」
「え・・」
「俺、駅行かないといけねぇんだけど」
「あの・・私・・すみませんでした・・」
「なにがだよ」
「その・・呼び方のこと・・」
「・・・」
「もう・・あんなこと言いませんので、許してくれませんか・・」
私はパジャマの上にカーディガンを羽織っただけで出てきたので、身体が震えていた。
「お前、寒いんだろ。早く家へ入れよ」
「いえ・・許してくれるまで・・入りません・・」
「バカかっ!風邪ひいたらどうすんだよ!」
「か・・風邪なんて・・引いてもいい・・です・・ハックション!」
うわあ~~・・さ・・寒いぃぃ・・
「ったく・・お前ってやつは・・マジでバカかっ」
「あの・・うう・・えっと・・わっ・・私のこと・・許して・・くれますか・・」
そこで時雨さんは、着ていたコートを脱いで私にかけてくれた。
「ああ・・そんな・・時雨さんが・・寒いですよ・・ハックション!」
「だから、早く家に入れっつってんだろ!」
そう言って時雨さんは、私がプレゼントした手袋で、私の頬を温めてくれた。
「た・・たけひと・・」
「えっ・・」
「あの・・健人・・。わっ・・私を許してくれますか・・」
「お前・・」
「わっ・・私、時雨さんのこと健人って呼びます・・」
「小春・・」
「私・・私・・本当にごめんなさい・・うううう」
「小春・・泣くなよ・・」
「ううっ・・うう・・」
「俺も悪かった。言い過ぎたよ・・」
「・・・」
「俺、お前が嫌だってんなら、設楽って呼ぶことにするよ」
「いいえっ!いいんです!華子って呼んであげてください!」
「え・・」
「そ・・そして・・設楽さん姉弟を・・支えてあげてください・・」
「小春・・」
「わっ・・私もっ・・支えますから・・」
「小春~~!」
そう言って時雨さんは、私をきつく抱きしめた。
「お前、マジでかわいいよ。大好きだよ・・」
「た・・たけひと・・」
「ん・・?なんだ、小春」
「私も・・健人が・・大好きです・・」
「うん・・うん・・」
「試験・・頑張ってください」
「うん。頑張るよ」
「気をつけていってらっしゃい」
「ああ。んじゃ、行ってくるな」
そして時雨さんはコートを着て、駅に向かって歩いて行った。
時雨さん・・すごく嬉しそう・・
私が理解したこと・・ほんとに嬉しそうにしてた・・
よかった・・




