第1話 またやってしまった
翌朝。
ケイはまだ空が薄暗いうちに目を覚ました。
「…………」
しばらく天井を見つめる。
もう一度眠ろうと目を閉じてみたが、眠気は戻ってこなかった。
頭に浮かぶのは、一昨日見舞いに行ったニコの姿だった。
いまだに包帯だらけの身体。
弱々しい笑顔。
そして、いつもの。
「ありがとな」
自分には言われる資格なんてない言葉。
「……寝れない」
『おはようございます、ケイ様』
『起きてたの?』
『ワテは眠りまへんので』
『便利だな』
『左様でございますなあ』
ケイは小さく息を吐くと、ベッドから起き上がった。
まだ父親も母親も眠っている。
窓の外を見ると、東の空がようやく白み始めたところだった。
『今、何時くらい?』
『おおよそ朝の六時頃でっしゃろな』
『そっか』
どうせ眠れない。
それなら、朝の水汲みでも済ませておこう。
昨日までなら母親に言われるまでやらなかったかもしれない。だが今日は、何かしていた方が余計なことを考えずに済みそうだった。
ケイは着替えると桶を持ち、家を出た。
◇ ◇ ◇
朝の村は静かだった。
昼間なら人の声が絶えない道にも、今はほとんど誰もいない。家々の煙突から少しずつ煙が上がり始め、家畜の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
村の共同井戸までは、家からそう遠くない。
ケイが歩いていくと、井戸のそばに一人だけ人影が見えた。
「…………」
足が止まる。
長い栗色の髪。
足元には、水を入れるための桶。
マリアンヌだった。
「…………」
向こうもケイに気づいた。
一瞬だけ。
二人の目が合う。
「……おはよう」
「…………」
返事はなかった。
マリアンヌはほんの少しだけ頭を下げると、すぐに視線を井戸へ戻した。
「…………」
まただ。
最近はずっとこんな感じだった。
会えば挨拶をする。
声をかける。
それでも、返事はない。
たまに小さく頷くくらい。
それすらない時もあった。
それでもケイは。
まだ怒っているだけなのだと。
そう思うことにしていた。
ケイは少し離れた場所に自分の桶を置いた。
縄が軋む。
マリアンヌが井戸から水を引き上げている。
「…………」
話しかけるべきか。
やめておくべきか。
迷う。
『ケイ様』
『何』
『本日も見事に沈黙でございますな』
『分かってるよ』
『ワテでしたら、そろそろ別の御方を――』
『それ前にも聞いた』
『左様でございましたな』
『俺はマリアンヌがいいんだよ』
『まだそう仰いますか』
『悪い?』
『いえ。ワテには、そこまでマリアンヌ様に拘られる理由がよう分かりまへんので』
『もう分からなくていいよ』
前にも似たようなことを言われた。
サラの方が話しやすそうではないか。
マリアンヌのどこに、そこまで惹かれているのか分からない。
それでもケイは。
マリアンヌがいい。
そう言った。
何度無視されても。
避けられても。
まだ怒っているだけだと思っていた。
そのうち。
また前みたいに話せるようになる。
そう思っていた。
「……マリアンヌ」
「…………」
マリアンヌの手が、少しだけ止まった。
「この前のことなんだけど」
「…………」
「広場の」
マリアンヌの指が、縄を少し強く握った。
「その……ごめん」
「…………」
「嫌だったよな。あんなところ見せられて」
返事はない。
「理由は言えないんだけど」
ケイは続けた。
「好きでやったわけじゃないんだ。本当に事情があって」
「…………」
「……信じられないよな」
マリアンヌは井戸の中を見たままだった。
「ごめん」
朝の冷たい空気の中。
縄の軋む音だけが響く。
「…………」
これも何度目だろう。
声をかけて、何も返ってこなくて。
それでもまた話しかける。
「俺さ」
ケイは小さく息を吐いた。
「何回か話しかけてるだろ」
「…………」
「迷惑?」
マリアンヌの手が止まった。
「…………」
「迷惑なら……そう言ってよ」
「…………」
「何も言われない方が分かんないんだよ」
マリアンヌは俯いた。
返事はない。
「まだ怒ってるだけなのか」
「…………」
「本当に俺と話したくないのか」
「…………」
「俺、分かんないから」
マリアンヌの肩が少し動いた。
だが、それでも声は出なかった。
「……やっぱりいい」
ケイは自分の桶へ手を伸ばした。
「ごめん」
その時。
「マリアンヌ?」
後ろから声がした。
二人が振り返る。
眼鏡をかけた少女が、桶を持って立っていた。
サラだった。
「ケイも」
「……おはよう」
「おはよう」
サラは二人を見比べた。
「…………」
マリアンヌは小さく頷く。
「何かあった?」
「別に」
答えたのはケイだった。
「ちょっと話してただけ」
話していた。
と言っていいのかは分からない。
ほとんど自分しか喋っていなかった。
サラもそれに気づいたのか、少し困ったような顔をした。
「……そっか」
「うん」
ケイは井戸へ向き直る。
これ以上はやめよう、そう思った。
「…………」
「…………」
だが。
サラがマリアンヌの隣へ行き、小さな声で何かを言った。
「マリアンヌ」
「…………」
「ずっとこのままにするの?」
「…………」
「ケイも分かってないみたいだし」
「…………」
マリアンヌは唇を噛んだ。
「無理にとは言わないけど」
サラが続ける。
「何も言わないままだと、ずっと分からないと思うよ」
「…………」
ケイは聞こえていないふりをした。
本当は全部聞こえていた。
長い沈黙が続いた。
そして。
「……ケイ」
「…………」
思わず振り返った。
久しぶりに聞いた。
マリアンヌが、自分に向かって呼んだ名前だった。
「何?」
声が少し上ずった。
マリアンヌは視線を合わせない。
「私……」
「うん」
「…………」
また黙る。
サラが何も言わずに見守っている。
「……広場のこと」
「うん」
「あれだけじゃないの」
「え?」
ケイの胸がざわつく。
「ケイと話してると」
「…………」
「家族や周りの人に、まだ色々言われるから」
「色々?」
「…………」
マリアンヌは俯いた。
「ケイのこと好きなの、とか」
「…………」
「あんなの見せられたのにまだ仲良くしてるの、とか」
「…………」
「勇者を目指している、変な人が好きなんだね、とか」
胸に刺さった。
一つ。
また一つ。
「それが……嫌なの」
「…………」
「マリアンヌ」
サラが少し困ったような声を出した。
「でも、それはケイが――」
「分かってる」
マリアンヌが小さく答えた。
「ケイだけが悪いんじゃないのは分かってる」
「…………」
「この前のお葬式だって」
サラが言う。
「ケイ、ちゃんとしてたじゃん」
「分かってるって」
マリアンヌの声が少し強くなる。
「ケイが悪い人じゃないことくらい、分かってる」
「…………」
ケイは黙って聞いていた。
悪い人じゃない。
その言葉なら、喜んでもいいはずだった。
なのに。
その後に続く言葉が怖かった。
「でも」
マリアンヌが言った。
「今までみたいには、もう話せない」
「…………」
「何で?」
「…………」
「俺、謝ったよ」
「分かってる」
「もうあんなことしないようにするし」
「…………」
「俺だって好きであんなことしたわけじゃない」
「それも聞いた」
「じゃあ――」
「でも嫌なの!」
マリアンヌが初めて声を上げた。
「…………」
ケイが止まる。
マリアンヌ自身も。
少し驚いたような顔をしていた。
「…………」
「……ごめん」
声が小さくなる。
「でも」
マリアンヌは両手で桶の取っ手を握った。
「ケイと話してるところを見られるの、嫌なの」
「…………」
「また何か言われるから」
「…………」
「ケイが悪い人じゃないのは分かってる」
「…………」
「でも、もう前みたいにはできない」
「……もう?」
「今までみたいに普通に話したり、一緒にいたりするのは無理」
「…………」
胸の奥が冷たくなった。
「そんなに……俺と一緒にいるの嫌?」
「…………」
マリアンヌはすぐには答えなかった。
けれど。
しばらくして、小さく頷いた。
「今は、嫌」
「…………」
「だから」
マリアンヌは一瞬だけケイを見た。
「しばらく、話しかけないで」
「…………」
朝の村は静かだった。
静かすぎて。
その言葉だけが、妙にはっきりと聞こえた。
「……そっか」
ケイはそれだけ答えた。
サラが何か言おうとする。
「でも、ケイ」
「いいよ」
「…………」
「分かったから」
ケイは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「もう話しかけない」
「…………」
マリアンヌの顔が少し歪んだ。
何か言いたそうだった。
けれど。
結局、何も言わなかった。
マリアンヌは水の入った桶を持ち上げる。
「……行こ、サラ」
「え」
「お願い」
「…………」
サラはケイを見る。
「ケイ」
「いいって」
「でも――」
「いいから」
「…………」
サラは少し迷ってから。
「……分かった」
二人が歩き出す。
マリアンヌは一度も振り返らなかった。
「…………」
ケイはその背中を見ていた。
自分は何度も何度も挨拶した。
返事がなくても。
まだ怒っているだけだと思った。
アズラにサラの方がいいんじゃないかと言われても。
マリアンヌのどこがいいのか分からないと言われても。
それでも。
俺はマリアンヌがいい。
そう言った。
ずっと。
また普通に話せるようになると思っていた。
マリアンヌが自分を避けているのは、広場の件が原因なんだと思っていた。
なのに。
自分が勇者を目指していることまで、馬鹿にされていた。
しかも、そんなことを言われたからって、マリアンヌまで自分と一緒にいるのを嫌がった。
なんでだよ。
勇者を目指してることの、何が悪いんだ。
「…………くそ」
胸の奥で何かが切れた。
腹が立った自分に。
村のみんなに。
《夢想因果》に。
何も説明できない自分に。
そしてほんの少し。
マリアンヌにも。
「なんだよ……」
声が漏れた。
二人はもう少し先を歩いている。
「俺だって……」
ずっと好きだった。
無視されても。
避けられても。
それでも好きだった。
でも、今は話したくない。
一緒にいるところを見られたくない。
そう言われた。
「俺だって、お前の見た目が好きだっただけだし」
言った瞬間。
胸が痛んだ。
本当はそんなことだけじゃない。
分かっている。
マリアンヌの笑った顔が好きだった。
少しきついことをはっきり言うところも。
自分が勇者になると言った時、馬鹿にしながらも話を聞いてくれたことも。
全部。
見た目だけじゃない。
分かっている。
だからこそ、余計に腹が立った。
「別に……」
何度も自分に言い聞かせてきた。
怒りに任せて、取り返しのつかないことを言うな。
熊の時みたいなことはしない。
言葉に気をつける。
《夢想因果》で、誰かを酷い目に遭わせない。
頭では分かっていた。
それなのに。
ずっと押し込めていた感情が止まらなかった。
「お前なんか……」
『ケイ様』
アズラの声がした。
「可愛くもなんともない!」
『ケイ様』
止まれ。
頭のどこかでは分かっていた。
でも、もう一つの感情が叫んでいた。
自分だけ傷つくなんておかしい。
少しくらい、マリアンヌだって。
自分をこんな気持ちにしたことを後悔すればいい。
「……火傷でもして」
『ケイ様!』
遅かった。
「ひどい顔になっちまえ!」
「…………」
言った。
そして、ほんの一瞬。
本当にそうなればいいと思った。
「…………あ」
ケイの顔から血の気が引いた。
――ゴォォン……。
身体の内側を。
巨大な鐘で打ち鳴らされたような衝撃が駆け抜ける。
『強い意思を確認しました』
「待って」
『発言内容との完全一致を確認』
「待って待って!」
『固有暗黒術《夢想因果》――発動条件成立』
『アズラ、待て!』
『偉大なる夢想の魔王様による御命令として、悪魔アズラが謹んで受理いたします』
『受理するな!!』
頭の中へ、情報が流れ込んでくる。
『因果系統――事象因果』
『対象――マリアンヌ』
「やめろ!」
『御命令――火傷による容貌の損傷』
『違う! 今のなし!』
『確定予定結果――対象の容貌に重大な火傷痕を残す』
「やめろって!!」
『結果実現まで――十二時間』
「…………!」
『命令達成予測――100%』
『これより因果改変を開始いたします』
「…………」
ケイは動けなくなった。
遠くに。
マリアンヌとサラの後ろ姿が見える。
二人は何も知らない。
そのまま歩いている。
「…………」
ケイは空を見上げた。
朝。
まだ太陽も昇り切っていない。
今から十二時間。
「……また」
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
「またやった……」
熊の事件で、あれだけ後悔した。
トーマ。
ルッツ。
ベイル。
ニコ。
もう二度と同じことはしないと決めた。
それなのに今度は。
ずっと好きだった女の子に。
「……俺、何やってんだよ……」
両手で頭を抱える。
怒って傷ついた。
悔しかった。
だからほんの一瞬だけ。
本気で酷い目に遭えばいいと思った。
そして。
《夢想因果》は。
また、その一瞬を見逃さなかった。
「…………」
ケイは歯を食いしばる。
でも今度は、迷わなかった。
『アズラ』
『はい、ケイ様』
『解除条件を調べて』
『承知しました』
『どんな条件でもやる』
声は震えていた。
それでも言い切った。
『今度は絶対に逃げない』
熊の事件で失ったものは、もう戻らない。
だからこそ。
同じ間違いだけは繰り返せなかった。




