幕間 誰の盾?
熊の一件が落ち着いて、しばらく経ったある日。
ケイは自分の部屋で、ふと隅に立てかけてある大盾へ目を向けた。
「…………」
熊と戦うため、《物質因果》で手に入れた巨大な戦闘用の大盾。
熊事件のあと、一時は村の詰所に預けていた。
だが、騒ぎが落ち着いた頃。
詰所の人に、自分が熊との戦いで使っていた盾だからと話し、許可をもらって引き取っていた。
それからずっと。
大盾は、部屋の隅に立てかけたままになっていた。
そして。
ケイは、その存在をすっかり忘れていた。
『……あ』
『どうされました?』
『盾』
『盾?』
『返してない!』
『覚えておられたんですか』
『当たり前だろ!』
『てっきり、そのまま頂いてしまわれるものかと』
『そんなわけいくかよ。ちゃんと返すって決めただろ』
『律儀でございますなあ』
『普通だよ』
ケイは立ち上がると、大盾の前へ向かった。
『それにしても、ケイ様は悪魔らしからぬところで、ずいぶんしっかりしておられますな』
『悪魔らしからぬは余計だよ。それに俺は悪魔じゃないし』
『借りた物は返す。人の物を勝手に自分の物にしない。なかなか立派でございます』
『母さんに昔から言われてるからな。人の物を取っちゃ駄目だって』
『ですが』
『何?』
『取っておりますやろ。最近は頻繁に』
「…………」
『盾もお菓子も』
『あれは仕方なかったんだよ!』
『以前にはパンも』
『パンは知らなかったんだって! あの時は《物質因果》がどういう術なのか分かってなかっただろ!』
『なるほど』
『何だよ』
『言い訳もお上手になられましたなあ』
『褒めるな!』
『成長の証でございます』
『そんなところ成長したくないよ!』
ケイは改めて、大盾を見た。
立派な盾だった。
蒼い鷹と、交差した二振りの剣を組み合わせた紋章が描かれている。
もしかすると、結構由緒のある代物なのかもしれないと、ケイは思った。
『よし』
ケイは盾の前へ立った。
『これをちゃんと返さないとな』
『ケイ様』
『何?』
『その状態で返されるので?』
『え?』
言われて、ケイは改めて大盾を見た。
「…………」
熊の爪を受け止めた大盾には、戦いの跡がはっきりと残っていた。
表面には無数の傷。
何度も強烈な一撃を受けたせいで、所々がへこんでいる。
縁にも削れた部分があり、塗装もかなり剥げていた。
『……そうだった』
『なかなか見事に傷んでおりますなあ』
『これ、このまま返したら駄目だろ』
『借りた時より随分と状態が悪くなっておりますさかい』
『直してから返さないと』
そう思ったものの、すぐに別の問題が浮かんだ。
『……これ、村で直せるかな』
『この大盾を?』
『うん』
ケイは少し考えた。
タルサ村に、簡単な農具や道具を直せる者はいる。
だが、これは本格的な戦闘用の大型盾だ。
『無理だと思う』
『では?』
『街まで持っていけば、直せる人はいると思うけど』
『これを持って?』
「…………」
『街まで?』
「…………」
『なかなか大変な旅になりそうですな』
『……重いんだよな、これ』
熊と戦っている時は必死だったので気にならなかったが、改めて見ると恐ろしく大きい。
これを担いで街まで歩くことを想像するだけで疲れてきた。
『それ以前に』
『まだ何かあるの?』
『修理代はございます?』
「…………」
ケイは黙った。
『ケイ様?』
『……ない』
十三歳のケイに、本格的な戦闘用大盾を修理してもらえるほどの金などあるはずがない。
『どうすんだよ、これ……』
『方法なら、いくつかございますで』
『本当!?』
ケイの顔が明るくなった。
『はい』
『早く言えよ』
『では、まず一つ目』
『うん』
『《物質因果》でもう一枚、同じ程度の新品の盾を手に入れます』
「…………」
『それを代わりに返せば――』
『駄目だろ!』
『何故でございます?』
『また誰かの盾を盗むだけじゃん!』
『緊急調達でございます』
『今回は緊急じゃない!』
『では、通常調達』
『名前変えても駄目だよ!』
『左様でっか』
アズラは特に残念そうでもなく、次の案へ移った。
『でしたら、《物質因果》で金貨を手に入れます』
『それも盗みだろ!』
『その金貨で修理を――』
『誰かの金で修理してどうすんだよ!』
『では、その金で新品を購入して――』
『もっと駄目だよ!』
アズラが少し不満そうな声を出した。
『細かいですなあ』
『細かくない!』
『ずいぶん律儀でございます』
『人の物を勝手に取らないって普通だろ!』
『魔王としては、些か面倒な性格をしておられますな』
『俺は魔王になりたいわけじゃないって!』
ケイは頭を抱えた。
『他にないの? 誰の物も盗まない方法』
『そうでございますなあ』
アズラがしばらく考える。
やがて。
『……その前に』
『何?』
『もっと根本的なことを確認してもよろしいでっか?』
『根本的?』
『はい』
アズラは尋ねた。
『その盾、誰に返されるおつもりで?』
「…………」
ケイは目の前の盾を見る。
『持ち主に決まってるだろ』
『その持ち主はどなたでございます?』
「…………」
『……知らない』
『どこにお住まいで?』
『知らない』
『この盾が元々どこにあったかは?』
「…………」
『……知らない』
ケイの顔がだんだん引きつっていった。
『待って。名前とか書いてない?』
『盾にでございますか?』
『持ち主が分かるようなやつ』
アズラが少し楽しそうな声で言う。
『ケイ様は御自分の剣へ名前を書いておられます?』
ケイは腰の剣へ視線を落とした。
『書いてない』
『「ケイラス所有」とでも彫っておりますか?』
『そんなの格好悪いだろ』
『では、この盾の持ち主も同じかもしれまへんな』
「…………」
ケイは大盾を持ち上げ、表と裏を確認した。
端も見る。
持ち手の周りも見る。
名前らしいものはない。
表には、蒼い鷹と二振りの剣を組み合わせた紋章がある。
だが、それがどこの誰を示すものなのか、ケイにはまったく分からなかった。
『……返せないじゃん』
『そうでございますな』
『どうすんだよ、これ……』
ケイはしばらく大盾を見つめた。
だが、そこでふと思いつく。
『……待って』
『はい』
『お前なら分かるんじゃないの?』
『何がでございます?』
『この盾がどこから来たのか』
『ワテが?』
『だって、お前の術で持ってきたんだろ?』
『違いますで』
『え?』
アズラはきっぱり否定した。
『《夢想因果》をお使いになったのは、あくまでケイ様でございます』
『でも、お前が術を動かしてるんじゃないの?』
『補助はしております』
『ほら』
『術式の処理。因果の演算。発動の補佐。そういった部分はワテが担っておりますが、術者はあくまでケイ様ですさかい』
『同じようなもんじゃない?』
『まったく違います』
妙に強く否定された。
『御命令を出し、《物質因果》を発動させたのはケイ様。その結果として、この盾を移送したのもケイ様でございます』
「…………」
『俺が盗んだってこと?』
『平たく申せば』
『平たく言うなよ!』
『では、はっきり申し上げます』
『それはいい!』
ケイは頭を抱えた。
『じゃあ……この盾、どこから来たんだよ』
『存じまへん』
『持ち主は?』
『存じまへん』
『お前、本当に分からないの?』
『はい』
『術の補助してたのに?』
『ケイ様が「熊の攻撃を受け止められる頑丈な戦闘用大盾」を御所望になり、《物質因果》が条件に適合する物を移送した。それだけでございます』
『場所は?』
『指定されておりまへん』
『持ち主も?』
『指定されておりまへん』
「…………」
『じゃあ誰が知ってるんだよ』
『ケイ様では?』
『知らないよ!』
『でしたら、誰も知りまへんなあ』
「…………」
ケイは目の前の大盾を見た。
熊と戦うことしか考えていなかった。
頑丈な盾が必要だ。
それだけだった。
どこから持ってくるのか。
誰の物なのか。
そんなことは一切考えていなかった。
『……これ、近くから来たとは限らない?』
『限りまへんな』
『じゃあ、どのくらい遠くから来てる可能性があるの?』
『正確な範囲は分かりまへんが』
アズラは少し考えた。
『この大陸のどこかにあった、誰かの所有物という可能性もございますな』
「…………」
『広すぎるだろ!』
『では、探しに行かれます?』
『どうやって!?』
『大陸を歩き回りながら、「この盾を失くされた方はおられませんか」と』
『何年かかるんだよ!』
『さあ』
『無理じゃん!』
『せやから、そのまま頂いてしまわれればよろしいのでは?』
『よくないって!』
『ですが、返却相手が分からないのでしょう?』
『そうだけど……』
『探すこともできない』
『……うん』
『修理する金もない』
『それは言わなくていい』
『そして、新しい盾や金貨を《物質因果》で調達することも、ケイ様はお嫌やと』
『当たり前だろ』
『では、現状ではどうにもなりまへんな』
「…………」
ケイは大盾を見つめた。
確かに。
どうにもならない。
返したい。
だが、誰に返せばいいのか分からない。
そもそも、どこの誰から持ってきたのかも分からない。
『……最悪だ』
『勉強になりましたな』
『何が?』
『次から《物質因果》で他人の物を調達される際には、返却方法まで考えておくべきやと』
『次は盗まないよ!』
『左様でっか』
『何だよ、その言い方』
『でも、お菓子はたまに盗んでおられますけどな』
「…………」
『ケイ様?』
『それは今関係ないだろ!』
『盗みは盗みでございます』
『うるさい!』
◇ ◇ ◇
結局。
大盾の持ち主が誰なのかは、分からないままだった。
どこから来た物なのかも分からない。
返そうにも、返す相手がいない。
大陸中を探し回るわけにもいかない。
そのため、大盾は今もケイの部屋の隅に立てかけてある。
大きい。
かなり場所を取る。
正直、邪魔でもある。
それでも、捨てる気にはなれなかった。
『ケイ様、また磨いておられるので?』
『悪い?』
『いえ』
ケイは布を使って、盾の表面を丁寧に拭いていた。
『返せないんだから、せめて大事にしないと』
『律儀でございますなあ』
『うるさい』
熊の爪でついた傷も。
大きなへこみも。
今もそのまま残っている。
それでも汚れくらいなら落とせる。
だからケイは今でも時々、誰の物かも分からないその大盾を磨いている。




