第42話 マリアンヌの顔を見られない
ある日のことだった。
ケイはちょっとした用事を済ませるため、村の中央広場を歩いていた。
昼前の広場には露店が並び、買い物をする村人や荷物を運ぶ男たちが行き交っている。
いつもと変わらない光景の中を歩いていたケイは、ふと見覚えのある栗色の髪を見つけて足を止めた。
「……マリアンヌ?」
少し離れたところに、マリアンヌがいた。
だが、一人ではない。
隣には、ケイの知らない若い男がいた。
マリアンヌよりずっと年上に見える。
二十歳前後だろうか。
背が高く、すらりとしていて、身につけている服も村ではあまり見ないような、仕立ての良さそうなものだった。
そして何より。
二人は、ずいぶん楽しそうだった。
マリアンヌが何かを話す。
男が笑う。
今度は男が何かを言って、マリアンヌが楽しそうに笑い返す。
距離も近い。
ケイがこれまで見たこともないくらい、マリアンヌは自然な顔でその男と話していた。
「…………」
『どうされました?』
『いや……』
ケイは少し離れた場所から、二人を見つめた。
男の髪も、マリアンヌによく似た栗色だった。
肌も白い。
顔立ちも整っている。
よく見れば、どことなく雰囲気まで似ているような気がした。
二人が並んでいるところを見ると。
正直に言って。
お似合いだった。
「…………」
ケイは何となく自分の手を見る。
農作業や剣の練習で少し荒れた手。
外にいることが多いから、肌だってあの男ほど白くはない。
身体なら、それなりに鍛えているつもりだ。
けれど。
顔は平凡。
着ている服も、村で普通に着るようなものだ。
あの男と自分を並べたら。
どう見ても。
『……俺とは全然違うな』
『何がでございます?』
『何でもない』
言いたくなかった。
胸の奥が、妙にざわついている。
その時だった。
マリアンヌがこちらを向いた。
「あ」
「…………」
目が合った。
ケイは今さら隠れることもできず、その場に立ち尽くした。
男もマリアンヌの視線を追い、ケイに気づく。
「知り合い?」
「……うん」
マリアンヌは小さく頷いた。
だが。
すぐにケイから目を逸らした。
「…………」
まだ怒ってるんだ。
ケイはそう思った。
以前のことを、まだ許してくれていない。
それは仕方ない。
自分が悪かったのだから。
男はケイを見た。
「へえ」
「…………」
「結構身体鍛えてるんだな」
ケイは答えなかった。
「農家の仕事って、やっぱり力使うのか?」
「……まあ」
「なるほどな」
男は感心したように頷いたあと、ケイの顔を改めて見る。
「でも顔は普通だな」
「…………」
ケイの眉がぴくりと動いた。
「……そういうこと、本人の前で言わなくていいでしょ」
マリアンヌが小さく言った。
「悪い悪い。別に馬鹿にしたつもりじゃないって」
「…………」
マリアンヌはそれ以上何も言わなかった。
「俺のいる町だと、髪を妙に整えたり、派手な服を着たりしてる奴が多いからさ」
「…………」
「その格好の方が動きやすそうだけどな」
どうやら、本気でケイを馬鹿にしたいわけではないらしい。
それでも。
気に入らないものは気に入らない。
だが、それ以上に。
ケイはマリアンヌの方が気になっていた。
こちらを見てくれない。
男はそんなケイの様子には気づかず、マリアンヌへ顔を向けた。
「で、この子は?」
「……知り合い」
「友達?」
「…………」
マリアンヌは答えなかった。
ケイはじっと、その横顔を見る。
知り合い。
そこまでは言ってくれた。
でも。
友達とは。
言ってくれない。
「まあ、いいか」
男はそれ以上追及しなかった。
だが。
ケイの胸には、小さく引っかかった。
マリアンヌは。
やっぱりこちらを見てくれない。
その時。
「あれ?」
男が何かを思い出したように、もう一度ケイの顔を見る。
「ちょっと待てよ」
「…………」
「もしかして、この子か?」
マリアンヌの肩が、わずかに揺れた。
「……何が?」
「前に話してた――」
「それ、言わないで」
「え?」
「いいから」
いつもより少し強い声だった。
男は一瞬きょとんとした。
それから。
何かに気づいたように笑う。
「ああ。村の広場で小便しながら――」
「だから、言わないでって」
「…………!」
ケイの顔が一気に熱くなった。
「あ、やっぱりこの子なんだ」
「…………」
男は思わず吹き出した。
「悪い。でも、本当にやったのか?」
「…………」
「何でそんなことになったんだよ」
「……もういいでしょ」
「分かったって」
男はまだ笑いを堪えている。
「悪かったよ」
だが。
ケイにとっては十分だった。
拳を強く握る。
『ケイ様』
『…………』
『ケイ様』
『分かってる』
言うな。
ここで何か言うな。
マリアンヌの前だ。
また余計なことを言ったら。
もっと嫌われる。
「……行こ」
マリアンヌが小さく言った。
「え?」
「もういいから」
そして。
マリアンヌは男の手を取った。
「…………」
ケイの目が、そこへ吸い寄せられた。
マリアンヌの白い手が。
男の手を握っている。
「分かった分かった」
男はまだ少し笑っている。
二人が並んで歩き出す。
手を繋いだまま。
マリアンヌは最後まで、ケイの方を見なかった。
「…………」
ケイはその場に立ち尽くしたまま、二人の背中を見つめていた。
男の声が、少しずつ遠ざかっていく。
マリアンヌと同じような栗色の髪。
白い肌。
整った顔立ち。
二人で並んで歩いていると。
やっぱりよく似合って見えた。
自分とは。
全然違う。
『ケイ様』
「…………」
『よく我慢されましたなあ』
「…………」
我慢した。
マリアンヌの前だから。
顔のことを言われても。
広場のことを思い出されても。
友達だと言ってもらえなくても。
何も言わなかった。
でも。
二人は今も、手を繋いで歩いている。
男は楽しそうに何かを話している。
マリアンヌも、その隣を歩いている。
「…………」
胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に膨れ上がった。
ケイは二人の背中を睨みつける。
「あんな奴……」
『ケイ様』
「あんな奴、ハゲちまえばいいんだ!」
――ゴォォン……。
「…………」
言った瞬間。
ケイの顔から怒りが消えた。
『ケイ様』
「……言っちゃった」
『声に出ておりましたで』
「分かってるよ!」
『そして』
「言うな」
『発動しましたなあ』
「言うなって!」
『強い意思を確認しました』
『発言内容との完全一致を確認』
『固有暗黒術《夢想因果》――発動条件成立』
「待って! 今のなし!」
『偉大なる夢想の魔王様による御命令として、悪魔アズラが謹んで受理いたします』
「受理するな!」
『因果系統――事象因果』
『対象――先ほどマリアンヌ様と行動を共にしていた男性』
『御命令――頭髪の脱落』
「…………」
『確定予定結果――対象頭部の複数箇所に円形の脱毛が発生』
『結果実現まで――およそ十二時間』
『命令達成予測――百パーセント』
『これより因果改変を開始いたします』
「…………」
ケイは両手で顔を覆った。
「またやっちまった……」
『左様でございますな』
「解除できる?」
『もちろんでございます。解除条件は――』
「……いや、待て」
『はい?』
ケイは少し考えた。
死ぬわけではない。
大怪我をするわけでもない。
ただ。
禿げるだけだ。
「……髪の毛くらいなら、別にいいか」
『…………』
「何だよ」
『解除されないので?』
「だって死なないんだろ?」
『命に別状はございまへんな』
「だったらいいじゃん」
『ですが、あの御方はまだお若いのでしょう?』
「多分」
『そのお歳で禿げてしまえば、人生の先が真っ暗になったように感じるかもしれまへんで』
「大げさだろ」
『ではケイ様は、今すぐ禿げてもよろしいので?』
「絶対嫌だよ!」
『でしょうなあ』
「…………」
『お若いうちから禿げるいうんは、それほど重大なのでございます』
「……そうだけど」
『では解除条件を――』
「しない」
『そうでっか』
「あいつ、俺のこと笑ったし」
『なるほど』
「少しくらい困ればいいだろ」
『左様でございますか』
「もしすごく落ち込んでたら……その時は俺が励ましてやるよ」
『…………』
「何だよ」
『いえ』
「何?」
『ハゲを励ますのは、少し如何なものかと』
「何だよそれ」
『何でもございまへん』
「変なの」
アズラは少し間を置いた。
『しかし、ケイ様もずいぶん御成長なされましたなあ』
「どこがだよ! また《夢想因果》発動させてるんだぞ!」
『以前のケイ様でしたら、腹を立てた勢いで「死んじまえ」くらいはおっしゃっていたかもしれまへん』
「…………」
『今回は毛髪だけで済みました』
「それを成長って言うな!」
『殺人から脱毛へ。大きな進歩でございます』
「成長の基準がおかしいんだよ!」
◇ ◇ ◇
それから二日ほど経った。
ケイは村の中を歩いている途中で、顔見知りの少年と出会った。
少し立ち話をしているうちに、ふと例の男のことを思い出す。
「そういえばさ」
「何?」
「この前、マリアンヌと一緒にいた男いたじゃん」
「男?」
「ほら。若い男の人。栗色の髪の」
「ああ」
「最近見ないけど、どうしたの?」
「あの人なら、もう町に帰ったよ」
「帰った?」
「うん。なんか急に、頭のあちこちに丸い禿げができたらしくて」
「…………」
ケイの口元が、ほんの少し緩んだ。
「へえ」
『嬉しそうでございますなあ』
『うるさい』
「結構ひどかったらしいぞ。硬貨くらいの大きさの禿げが、頭のあちこちに何個もできたんだって」
「へえー」
『ものすごく嬉しそうでございます』
『黙ってろって』
「急だったから、何かの病気かもしれないし、ストレスのせいかもしれないって。それで町の治療院で診てもらうために、予定より早く帰ったらしい」
「そっか」
ざまあみろ。
ケイは少しだけ気分が良くなった。
人のことを笑うからだ。
少しくらい困ればいい。
「でも、マリアンヌもかわいそうだよな」
「……え?」
「せっかく久しぶりに兄ちゃんが帰ってきたのに」
「…………」
『…………』
ケイの動きが止まった。
「……兄ちゃん?」
「うん」
「マリアンヌの?」
「他に誰がいるんだよ」
「…………」
ケイは固まった。
そして。
頭の奥に引っかかっていた何かが。
ようやく繋がった。
「…………あ」
『どうされました?』
『……いた』
『何がでございます?』
『兄貴……』
そうだ。
いた。
マリアンヌには、年の離れた兄がいる。
ずっと前に聞いたことがあった。
兄は村を離れ、町で暮らしている。
普段はほとんど村へ帰ってこない。
そんな話を。
ケイだって知っていた。
ただ。
あまりにも長い間見かけていなかったせいで。
すっかり頭から抜け落ちていた。
『……完全に忘れてた』
『左様でございましたか』
「どうした?」
「いや……何でもない」
ケイの頭の中で、二日前の光景が一気に蘇った。
よく似た栗色の髪。
白い肌。
どことなく似た顔立ち。
二人並んだ時に感じた、妙な似合い方。
楽しそうに話していた。
距離が近かった。
マリアンヌが当たり前のように手を取った。
兄妹だったのだから。
全部。
当たり前だった。
「マリアンヌ、かなり楽しみにしてたらしいぞ」
「…………」
「兄ちゃんが帰ってくるの、久しぶりだったみたいだから」
「…………」
「なのに急に頭があんなことになって、予定よりずっと早く町に戻っちゃったんだもんな」
「…………」
さっきまで少しだけ良くなっていた気分が、一瞬で消え失せた。
『ケイ様』
『……何』
『御兄上でございましたなあ』
『言うな……』
『ケイ様も、御兄上がいらっしゃることは御存知だったのでしょう?』
『…………』
『……知ってたよ』
『左様でっか』
『ずっと町にいるし、全然会わないから忘れてたんだよ……』
『なるほど』
『…………』
そこで。
ケイは、ふと引っかかった。
『……待て』
『はい?』
『アズラ』
『何でございましょう』
『お前は知ってたの?』
『何をでございます?』
『マリアンヌに兄貴がいるってことだよ』
『それでしたら、存じておりましたで』
『知ってたの!?』
『はい』
『じゃあ何で言わなかったんだよ!』
『言う必要があるとは思いませんでしたさかい』
『あるだろ!』
『そうでっか?』
『だって俺、あいつのこと――』
そこまで言って。
ケイは口を閉じた。
『あいつのこと?』
『……何でもない!』
『左様でっか』
危なかった。
何を勘違いしていたのかまで話す必要はない。
『それに』
『何だよ』
『ワテも最初から、あの御方が御兄上やと知っていたわけではございまへん』
『え?』
『マリアンヌ様に町で暮らしている御兄上がいらっしゃることは、以前、村の者が話しているのを聞いて知っておりました』
『また盗み聞きか』
『情報収集でございます』
『同じだろ』
『ですが、御兄上のお顔までは存じませんでしたさかい』
『じゃあ、あの時は分からなかったの?』
『最初は』
『最初は?』
『栗色の髪。よく似た御顔立ち。年齢差。それに、マリアンヌ様があれほど親しげでございましたからなあ』
「…………」
『途中から、もしや御兄上では、とは思っておりました』
『ほとんど分かってたじゃん!』
『あくまで推測でございます』
『だったら言えよ!』
『ですが、確定ではございませんでしたし』
『それでも言えよ!』
『それに』
『何だよ』
『ケイ様が、随分あの御方を気に入らん御様子でしたので』
「…………」
『てっきり、マリアンヌ様の御兄上が気に入らんのやと思っておりました』
『…………』
『御本人からも少々からかわれておりましたし』
『……まあ』
『ですので、しばらく放っておいたのでございます』
『放っておくなよ!』
『何やら面白くなりそうでもございましたし』
『そっちが本音だろ!』
『否定はいたしまへんなあ』
『お前なあ……!』
『とはいえ』
『何だよ』
『まさか御兄上の毛根を殺すほどお気に召さないとは思いませんでした』
『そういう言い方やめろ!!』
『一応、発動する前には何度かお声がけしましたで』
『あの「ケイ様」ってやつ!?』
『左様でございます』
『それで伝わるか!』
『次からはもう少し具体的に申し上げましょう』
『最初から「兄かもしれない」って言えよ!』
『承知いたしました』
『絶対反省してないだろ……』
ケイは大きくため息をついた。
だが。
悪いのはアズラではない。
少なくとも。
全部ではない。
自分は知っていた。
マリアンヌに兄がいることを。
それなのに忘れていた。
勝手に思い込んだ。
勝手に腹を立てた。
禿げればいいと思った。
そして。
本当に禿げさせた。
相手は少し無神経だった。
自分のことを笑った。
でも。
だからといって。
禿げさせていい理由にはならない。
『……アズラ』
『はい』
『もう一回《夢想因果》使ってさ』
『はい』
『今度は、あの人の髪を元に戻せない?』
『無理でございます』
『え?』
『もう死んでおりますさかい』
「…………」
『誰が!?』
『毛根が』
『毛根!?』
『左様でございます』
『いや、髪だぞ!? また生やせばいいだろ!』
『ケイ様』
アズラの声が、妙に真面目になる。
『死んでしまったものは、蘇りまへん』
「…………」
『人の命も』
「…………」
『毛根も』
『一緒にするなよ!!』
『同じ死でございます』
『重さが全然違うだろ!』
『ですが、失われたという点では同じでございますで』
「…………」
『あの毛根は、ケイ様が奪ってしまわれたのでございます』
『言い方重すぎるだろ!』
『事実でございます』
『俺、人を殺したみたいな気分になってきたんだけど!』
『毛根殺しでございますなあ』
『その呼び方やめろ!!』
思わず怒鳴ってから。
ケイはまた俯いた。
笑い事ではない。
マリアンヌは、久しぶりに兄と会えることを楽しみにしていた。
それなのに。
自分のせいで、兄は予定より早く町へ帰ってしまった。
「…………」
『まあ』
アズラが言う。
『それでも以前よりは御成長――』
『今は成長の話しなくていいから……』
『左様でっか』
その日から、しばらく。
ケイはマリアンヌの顔をまともに見ることができなくなった。
マリアンヌは、何も知らない。
兄の頭に突然いくつもの禿げができた原因が、自分だなんて。
それでも、村の中でマリアンヌを見かけるたびに思い出してしまう。
兄と楽しそうに話していた顔。
兄の手を引いて歩いていった姿。
久しぶりに会えた兄が、予定より早く町へ戻ってしまったこと。
そして。
その原因を作ったのが、自分だということを。
マリアンヌと目が合いそうになるたびに。
ケイは、そっと視線を逸らした。
申し訳なくて。
しばらくの間。
マリアンヌの顔を、まともに見ることができなかった。




