第31話 悪魔の幸福
熊の襲撃から、一日が経った。
三人が死んだ。
トーマ。
ルッツ。
ベイル。
唯一生き残ったニコも、大怪我を負った。命は助かったものの、しばらくは起き上がることもできないらしい。元通り身体を動かせるようになるかどうかも、まだ分からない。
朝。
ケイは自分の部屋で着替えていた。自分はほとんど怪我をしなかった。多少の傷や痛みは残っているが、こうして普通に立って身体を動かせている。命もある。
『しかし』
「何?」
『御無事で何よりでございましたなあ』
「…………」
ケイは服を着る手を止めた。
「お前、心配してたの?」
『もちろんでございます』
「……意外」
『失礼でございますな』
「だってお前、昨日も結構好き勝手言ってただろ」
『それとこれとは別でございます』
「そうなの?」
『前にも申し上げましたやろ。ケイ様がおらんようになれば、ワテも困ります』
「楽しみがなくなるから?」
『それもございます』
「やっぱり」
『それに、出来の悪い生徒を途中で失うんも困りますさかい』
「誰が出来の悪い生徒だよ」
『ケイ様以外にどなたがおられます?』
「お前な……」
ケイはため息をついた。
けれど、すぐに表情が沈む。
「……でも」
『はい』
「三人は死んだ」
『左様でございますな』
「俺のせいで」
『…………』
「俺があんなこと言わなかったら、死ななかった」
アズラは少し黙ったあと、静かに答えた。
『そう落ち込まんでもよろしいのでは?』
「……何でだよ」
『亡くなられた御三方は、もう苦しむこともございまへん』
「…………」
『痛みも、悲しみも、空腹もない。何かに困ったり、明日のことを悩んだりする必要もございません』
「…………」
『そういう何もないところへ行けたのであれば、ある意味では幸せなことかもしれまへんなあ』
「……幸せ?」
『左様でございます』
「死んでるのに?」
『死んだからこそ、もう苦しむこともないのでございます』
「…………」
『ワテなんぞ、死にとうてもそう簡単には死ねまへんしなあ』
ケイはしばらく黙った。
そして、思い出した。
そうだった。
悪魔というものは、人間とは死に対する考え方がまるで違う。
何もない世界。
光もなく、音もなく、苦しみも悲しみもない。
喜びすらない。
何も感じることのない、完全な無。
いつだったか、そんな場所へ辿り着くことが悪魔にとって一つの究極の願いなのだと聞いたことがある。
「…………」
アズラは本気で慰めているのだ。
冗談でも、嫌味でもない。
「……やっぱりお前、悪魔なんだな」
『今さらでっか?』
「……そうだった」
『忘れられては困りますなあ』
「全然慰めになってないけど」
『おかしいですなあ。ワテなりに気を遣ったんですが』
「気の遣い方がおかしいんだよ」
『悪魔でございますさかい』
「便利だな、その言葉」
『非常に便利でございます』
「…………」
ケイはまたため息をついた。
『それにいたしましても』
「何?」
『今回の一件は、実に興味深うございました』
「…………」
「人が三人死んでるんだけど」
『承知しております』
「だったらそんな楽しそうに言うなよ」
『ですが、結果そのものは非常に興味深いものでございましたで』
「……どういう意味?」
『御自分で「クマにでも食われちまえ」と御命令を出され、解除条件を拒否され、そのうえ御自分で因果の中へ飛び込んで助けようとなさった』
「…………」
『四名とも死亡するのか。誰かが助かるのか。それともケイ様まで巻き込まれるのか。最後までどうなるか分かりまへんでした』
「俺が死ぬのは?」
『それだけは困ります』
「そこだけなんだ……」
『もちろんでございます』
「…………」
『そして実際には、三名死亡。一名生存。ケイ様も無事に生還』
「……うん」
『当初の確定予定結果とは異なる結末となりました』
「ニコのこと?」
『左様でございます』
ニコ。
たった一人。
それでも、生き残った。
『本来であれば、四名すべてへ因果が収束しておりました』
「…………」
『ですが、ケイ様が御自分で介入されたことで、そのうち一名の結果が変わった』
「俺が……変えたの?」
『はい』
ケイは自分の手を見る。
熊を倒すことはできなかった。
三人を助けることもできなかった。
それでも。
ニコだけは、生きている。
『《夢想因果》によって定まりつつあった結果を、外から変えることは可能である。そのことが今回確認できました』
「…………」
『なかなか興味深い結果でございます』
「またそれかよ」
『久しぶりに大変楽しませていただきました。ありがとうございます』
「礼言うなよ……」
『これはこれは』
ケイは呆れたように息を吐いた。
それから、しばらく黙る。
「……でもさ」
『はい』
「今回は、お前の言った通りだった」
『何のことでございましょう』
「全部」
ケイは俯いた。
「俺、馬鹿なことした」
『…………』
「解除できるって言われたのに、しなかった」
恥ずかしかった。
馬鹿にされるのが嫌だった。
それに、自分なら何とかできると思っていた。
「熊が来ても、俺が助ければいいって思ってた」
『左様でございましたな』
「一頭でも全然無理だった」
剣なんて、ほとんど役に立たなかった。
熊へ何度か当てても、浅く傷をつける程度。
倒すどころか、ニコを盾の後ろに庇って逃げ続けるだけで精一杯だった。
「俺が思ってたより、ずっと強かった」
『熊がでございますか?』
「うん」
『当然でございます』
「今なら分かるよ」
ケイは自分の左腕を見る。
今も腕や肩には鈍い痛みが残っている。身体のあちこちも打ち身になっていて、朝からずっと身体が重かった。
『御身体の方は、大丈夫でございますか?』
「大きな怪我はないよ」
『左腕はかなり酷使されておりましたが』
「痛いけど、動くし。あとは打ち身と、身体がだるいくらい」
『それで済んだのであれば、上出来でございますな』
「……うん」
あの盾は、熊の爪を何度も受け止めた。
表面は傷だらけになり、縁まで歪んでいた。
森へ入る時は、あんなに重いものを持っていく必要があるのかと思っていた。
けれど今なら分かる。
「あの盾がなかったら、俺もニコも死んでた」
『左様でございましょうな』
「…………」
『熊の攻撃を受け止めるための大盾でございますさかい』
「……そうだったな」
ケイは少しだけ視線を逸らした。
「ありがとな、アズラ」
『何がでございます?』
「盾」
『…………』
「お前が持ってけって言ってくれたから助かった」
『それはそれは』
アズラの声が少しだけ楽しそうになる。
『ようやくワテの有能さがお分かりになりましたか』
「そういうこと言うから、素直に礼言いたくなくなるんだよ」
『せっかくのお褒めの言葉ですさかい。受け取れる時に受け取っておこうかと』
「……まあ、今回は本当に助かったけど」
『では次からも、もう少しワテの助言を真面目に聞いていただきたいものですなあ』
「…………」
その言葉に、ケイは何も言えなかった。
盾だけではない。
アズラは最初から言っていた。
解除した方がいいと。
それなのに、自分が拒んだ。
「……解除すればよかった」
『…………』
「おねしょのこと知られるくらい、何だったんだよ」
今になって思えば。
笑われてもよかった。
馬鹿にされてもよかった。
広場では、もっと酷い恥だってかいた。
それなのに。
「俺が恥かくだけで済んだのに」
『左様でございますな』
「…………」
「俺があの時、ちゃんと解除してれば……三人とも死ななかった」
アズラは何も否定しなかった。
慰めることもしなかった。
その通りだからだ。
「……お前の言うこと、最初から聞いてればよかった」
しばらくして、アズラが答える。
『それを覚えておられるのでしたら』
「うん」
『次からは、もう少し素直になっていただけますと助かりますなあ』
「……努力する」
『ぜひお願いいたします』
ケイは上着を着た。
身体はまだだるかった。
腕も肩も痛むし、全身に昨日の疲れが残っている。
できることなら、もう少し家で休んでいたかった。
それでも。
ニコの見舞いに行かないわけにはいかなかった。
ケイは部屋の扉へ向かう。
『ところで』
「何?」
『どちらへ行かれるので?』
「見舞い」
『見舞い?』
「ニコの」
『左様でございますか』
「うん」
何を話せばいいのか。
まだ分からない。
でも、行かなければならない。
ケイは家を出た。
身体はまだだるかった。
腕も肩も痛むし、全身に昨日の疲れが残っている。
できることなら、もう少し家で休んでいたかった。
それでも。
ニコの見舞いに行かないわけにはいかなかった。




