第30話 事件の後
詰所を出てから家へ着くまで、ケイと父親は一言も話さなかった。
父親は何も聞かなかった。
ケイも何も言わなかった。
二人で並んで、ただ黙って村の道を歩いた。
いつもと変わらない村だった。
道を歩く人がいて、家々の煙突から煙が上がっている。どこかでは誰かの話し声も聞こえていた。
けれど、ケイにはそのすべてがひどく遠く感じられた。
頭の中には、何度も三人の名前が浮かんでくる。
ルッツ。
ベイル。
トーマ。
三人とも、もういない。
ときどき隣を歩く父親がケイを見る。
それでも、何も言わなかった。
ケイも俯いたまま歩き続けた。
◇ ◇ ◇
家へ戻り、扉を開けた瞬間だった。
「ケイ!」
「母さん――」
言い終わる前に、母親が駆け寄ってきた。
そのまま強く抱きしめられる。
「ちょ、母さん」
「よかった……!」
「…………」
「本当に……!」
母親の腕に力が入る。
「熊に襲われたって聞いて……」
「うん」
「怪我は? ちゃんと診てもらったの?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「痛いところは?」
「あるけど……」
「やっぱりあるんじゃない!」
「でも大丈夫だから」
母親はしばらくケイを離してくれなかった。
「本当に……無事でよかった」
「…………」
また、その言葉だった。
無事でよかった。
ニコにも感謝された。
父親にもそう言われた。
村長にも、よく生きて帰ってきたと言われた。
そしてトーマも。
最後に、自分とニコが助かったと聞いて喜んだ。
『よかった』
その言葉を思い出すだけで、胸の奥がまた痛んだ。
自分は生きている。
ニコも重傷を負ったけれど、生きている。
なのに、トーマも、ルッツも、ベイルも、もういない。
「ケイ?」
「……何?」
「顔色悪いわよ」
「疲れただけ」
「少し休む?」
「……うん」
今は何もしたくなかった。
「ちょっと寝たい」
母親は心配そうにケイを見たが、やがてゆっくり頷いた。
「分かった。でも何かあったら、すぐ呼ぶのよ」
「うん」
ケイは自分の部屋へ向かった。
服を着替える気にもなれず、そのままベッドへ横になる。
「…………」
今日はもう、何も考えたくなかった。
目を閉じているうちに、いつの間にか眠っていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
「…………」
ケイは目を覚ました。
いつ眠ったのか、よく覚えていない。
身体を起こす。
「いっ……」
腕も肩も背中も痛かった。
熊の攻撃を何度も大盾で受け止めたせいだ。
特に左腕は、少し動かすだけでも鈍い痛みが走る。
「……ケイ」
扉の向こうから父親の声がした。
「起きてるか?」
「……うん」
「少し、いいか?」
「うん」
ケイが部屋を出ると、父親と母親が待っていた。
「身体はどう?」
母親がすぐに聞く。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。痛いけど」
「それを大丈夫とは言わないの」
「…………」
母親は心配そうにケイの顔を見る。
父親も今日は妙に静かだった。
「……父さん」
「何だ?」
「ルッツとベイル……」
「…………」
父親の表情が曇った。
「本当に、死んだんだよね」
「……ああ」
「…………」
分かっていた。
詰所でも聞いた。
それでも、もう一度確かめずにはいられなかった。
「かなり酷い状態だったそうだ」
父親が静かに言った。
「熊に襲われたからな」
「…………」
「身体の一部は……食われていた」
ケイの胸がぎゅっと締めつけられた。
「ほとんど、原形を留めていなかったそうだ」
「あなた」
母親が父親を止めた。
「それ以上は……」
「……そうだな」
「…………」
ケイは俯いた。
クマにでも食われちまえ。
自分がそう言った。
そして。
本当にそうなった。
ただ死んだだけじゃない。
自分が口にした通りに。
「…………っ」
胸の奥が痛んだ。
息をするのも苦しい。
父親が近づいてくる。
ケイは少しだけ身体を強張らせた。
怒られる。
そう思った。
子供だけで森へ入ったトーマたちを追いかけて、自分まで一人で森へ入った。
熊を相手に無茶をして、命まで危険に晒した。
殴られても仕方がない。
怒鳴られても当然だ。
そう思った。
でも、父親は殴らなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、大きな手をケイの頭に置いた。
「……お前まで死ななくてよかった」
「…………」
「本当に」
「……うん」
母親もケイを抱きしめる。
「もう、あんな無茶しないで」
「…………」
「お願いだから」
「……うん」
責められなかった。
怒鳴られもしなかった。
無事でよかったと言われた。
それが今は、余計に苦しかった。
自分のせいで三人が死んだことを、この二人は知らない。
何も知らずに、自分が生きて帰ってきたことを喜んでいる。
「…………」
ケイは何も言えなかった。
「……そうだ」
母親が少し離れた。
「何か食べる?」
「え?」
「朝からほとんど何も食べてないでしょう。少しでも食べた方がいいわ」
「…………」
言われてみれば、腹は少し空いていた。
朝からろくに食べていないのだから当然だった。
さっきまでなら、何か出されたら少しくらいは食べられたかもしれない。
でも今は。
何も口に入れたいと思えなかった。
身体の一部は食われていた。
父親の言葉が頭から離れない。
「……いらない」
「本当に?」
「うん」
「でも、少しだけでも――」
「ごめん」
ケイは首を横に振った。
「今は……食べたくない」
「…………」
どうして食べたくないのか。
ケイには分かっていた。
けれど、それを母親に言うことはできなかった。
母親はしばらく心配そうに見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。でも、お腹が空いたらいつでも言うのよ」
「……うん」
「夜中でもいいから」
「分かった」
父親も何も言わなかった。
ケイは二人に背を向け、自分の部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻り、ベッドへ腰を下ろす。
「…………」
『…………』
アズラもずっと静かだった。
「……今日は静かだな」
『今のケイ様に何を申し上げても、あまり頭には入らんでしょうからなあ』
「…………」
『身体も頭も、もう十分お疲れでございます』
「……うん」
ケイはそのままベッドへ横になった。
目を閉じる。
それでも、すぐに三人の顔が浮かんできた。
「……アズラ」
『はい』
「俺……」
その先の言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのか、自分でも分からない。
アズラはしばらく黙っていた。
『今日のところは、もうお休みなさいませ』
「…………」
『お話は明日にいたしましょう』
「でも……」
『今の状態で考え続けても、余計につらくなるだけでございます』
「…………」
『今はまず、身体を休めることでございます』
「……寝られるかな」
『眠れずとも、横になって目を閉じているだけで違いますさかい』
「…………」
『明日になりましたら、ワテがお話を聞きます』
「……うん」
『ですから今日は、もう何も考えんでよろしい』
何も考えるなと言われても、きっと無理だった。
それでも。
今はその言葉に従いたかった。
「……分かった」
『はい』
「おやすみ、アズラ」
『おやすみなさいませ、ケイ様』
「…………」
ケイは目を閉じた。
今日はもう、何も考えたくなかった。
けれど、目を閉じても三人の顔は消えてくれなかった。
それでもケイは、何も考えないようにしながら、ただ静かに横になっていた。




