第29話 三人の死
「……ケイ」
誰かに呼ばれている。
「ケイ」
「…………」
ゆっくりと目を開けると、心配そうに覗き込んでいる父親の顔が見えた。
「父さん……?」
「ケイ!」
父親の表情が一気に緩んだ。
「分かるか? 俺が分かるか?」
「……分かるよ」
「そうか……よかった」
ケイはぼんやりと周囲を見回した。
森の入口近くまで運ばれていたらしい。近くでは何人もの大人たちが慌ただしく動き回っている。
「ニコ……」
その名前を口にした瞬間、意識を失う直前の光景が頭に蘇った。
熊の爪。
弾き飛ばされたニコ。
服の下から滲んでいた血。
「ニコは!?」
「落ち着け。生きてる」
「…………!」
ケイは身体を起こした。
少し離れたところで、何人かの大人たちに囲まれているニコが見えた。
肩から脇腹にかけて布が巻かれ、血が滲んでいる。痛めた足も手当てされていた。
酷い怪我だった。
それでも、意識はある。
「この子は先に連れていくぞ」
大人の一人がニコの身体を支えた。
「歩けるか?」
「……たぶん」
「無理するな。肩を貸す」
ニコが立ち上がろうとして、顔を歪めた。
「ニコ」
「……ケイ」
「大丈夫か?」
聞いてから、自分でも変なことを聞いたと思った。
ニコも同じことを思ったらしい。
「ケイに言われたくないよ」
「…………」
「ケイの方がボロボロじゃん」
「俺は大丈夫」
「本当に?」
「うん」
ニコはしばらくケイの顔を見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……ありがとな」
「え?」
「俺、ケイがいなかったら死んでた」
「…………」
「あの熊、ずっと俺を狙ってたんだろ?」
「それは……」
「何回も盾で守ってくれたじゃん」
ニコは少しだけ笑った。
「ケイは俺の命の恩人だよ」
「…………っ」
胸の奥に、何かが刺さったような痛みが走った。
命の恩人。
感謝されるような人間ではない。
ニコが熊に襲われたのは、自分のせいなのだ。
「本当に、ありがとう」
ニコがもう一度言った。
感謝されればされるほど、胸の奥に刺さった棘が深くなっていくような気がした。
「……うん」
それしか言えなかった。
「ケイもちゃんと診てもらってよ」
「分かってる」
「絶対だよ」
「分かったって」
「じゃあ……またな」
「……うん」
ニコは大人に身体を支えられながら、森の外へ連れていかれた。
ケイはその後ろ姿を黙って見送った。
「ケイ」
「何?」
父親が隣にしゃがみ込む。
「本当に無事でよかった」
「…………」
「トーマから聞いた時は、肝が冷えたぞ」
「トーマから?」
「ああ」
父親は森の入口の方へ目を向けた。
「血だらけで森の入口まで走ってきたんだ。そこで助けを呼んで、知らせてくれた」
「…………」
「熊が四頭出たって。それから、お前が熊の前に残って囮になってるって」
「……俺のことも?」
「ああ。足を痛めて走れないニコを、お前が守ってるって言ってた」
「…………」
「それを聞いて、慌てて人を集めた。熊を追い払えそうな物も、使えそうな武器も、とにかく持てるだけ持って森へ来たんだ」
父親は大きく息を吐いた。
「本当に……間に合ってよかった」
「お前が囮になってるって聞いて、余計に心配したぞ」
「…………」
「あと少し遅かったらと思うと……」
そこで言葉を切り、父親はケイの肩へ手を置いた。
「無事でよかった」
ケイは何も答えられなかった。
「……父さん」
「何だ?」
「ルッツとベイルは?」
「…………」
父親の表情が変わった。
その瞬間、嫌な予感がした。
「二人は?」
「…………」
「父さん」
父親はゆっくりと首を横に振った。
「……駄目だった」
「…………」
「見つけた時には、もう……二人とも熊にひどくやられていた」
「…………」
「助けられなかった」
言われた意味を、すぐには受け止められなかった。
ルッツの悲鳴を聞いた。
ベイルが木の根元に倒れているのも見た。
途中から二人の声は聞こえなくなっていた。
それでも、どこかでまだ助かるかもしれないと思っていた。
「……死んだの?」
「ああ」
「…………」
ルッツ。
ベイル。
二人とも死んだ。
「トーマは?」
ケイはすぐに顔を上げた。
「トーマは!?」
「生きてる」
「…………!」
「本当?」
「ああ。ただ、かなり酷い怪我だ。助けを呼んだあとすぐに倒れて、今は治療師が診てる」
「……そっか」
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。
「よかった……」
少なくとも、トーマは生きている。
最後まで走って、助けを呼んでくれた。
トーマが知らせてくれたから、大人たちが来てくれた。
だから自分もニコも助かった。
「トーマなら……大丈夫だよね」
「今は治療師に任せるしかない」
「……うん」
父親は少し黙ってから、地面へ視線を落とした。
「それにしても、その盾……」
「え?」
ケイも視線を下げる。
そこには、さっきまで自分が使っていた大盾が置かれていた。
表面には熊の爪痕が何本も刻まれ、塗装はあちこち剥がれている。縁も少し歪んでいた。
「随分と立派な盾だな」
「……うん」
「そんな物、どこで手に入れた?」
「…………」
ケイは少し困った。
「偶然……手に入れた」
『まあ』
アズラの声が頭の中に響く。
『偶然ではございますな』
『黙ってて』
『嘘ではございまへんで』
『分かったから』
ケイは傷だらけになった大盾を見る。
戦っている時は、確かめる余裕なんてなかった。
それでも、この盾は熊の攻撃を何度も受け止めてくれた。
これがなかったら、自分もニコもきっと生きていなかった。
「まあ、盾のことはいい」
「それより、ケイ」
「何?」
父親の声に顔を上げる。
「どうして森なんかに来たんだ?」
「…………」
「トーマたちを追ってきたんだろ?」
「……うん」
「何でだ?」
ケイは少しだけ迷った。
「四人で森に入っていくのが見えて」
「それで?」
「子供だけで森に入ったら駄目だろ」
「まあ、そうだが」
「何するのかなって気になって……それで後をついていった」
そこまでは嘘ではない。
「一人で?」
「……うん」
「お前なあ……」
「ごめん」
父親は眉間を押さえた。
「今回は助かったからよかったものの、お前まで一人で入ってどうするんだ」
「……うん」
「次からは大人に言え」
「分かった」
「絶対だぞ」
「うん」
その時、別の大人が近づいてきた。
「ケイ」
「何ですか?」
「少し話せそうか?」
「話?」
「何があったのか、詰所で聞かせてほしい」
「…………」
「ニコはあの状態だ。今すぐ詳しい話を聞くのは無理だろう。トーマも治療中だ」
「……はい」
「今は、お前が一番状況を説明できそうなんだ」
ケイは頷いた。
「分かりました」
◇ ◇ ◇
村の詰所。
ケイは椅子に座り、何があったのかを順番に話した。
トーマたちが子供だけで森へ入っていったこと。
気になって後をついていったこと。
偶然、盾を手に入れたこと。
熊が現れたこと。
しかも、一頭ではなく四頭もいたこと。
三人を助けを呼びに走らせたこと。
自分は足を痛めたニコを守りながら森の出口へ向かったこと。
もちろん、《夢想因果》のことだけは言わなかった。
熊が現れた本当の理由も言えなかった。
「そうか……」
話を聞いていた村長が重い声で言った。
「四頭か」
「……はい」
「よく生きて帰ってきた」
「…………」
「大盾があったとはいえ、子供二人でよく耐えたな」
褒められても、嬉しくなかった。
ニコから感謝された時と同じだった。
褒められるたびに、胸の奥が痛む。
ルッツとベイルは、もういない。
トーマも今は治療を受けている。
その時だった。
「村長」
一人の男が詰所へ入ってきた。
「どうした?」
「……トーマですが」
「…………」
その男の顔を見た瞬間、ケイの胸がざわついた。
「トーマが?」
父親が聞く。
男は一瞬、言葉を詰まらせた。
「治療が……間に合いませんでした」
「…………」
ケイは何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「え?」
「先ほど……亡くなりました」
「…………」
「傷が深すぎたそうです」
ケイは男の顔を見たまま、動けなかった。
「ただ……」
男が続けた。
「最後に、ケイとニコはどうなったって聞いたそうです」
「…………え?」
「助けに行った大人たちが間に合って、二人とも生きてるって伝えたら……」
男はそこで少し言葉を詰まらせた。
「安心したみたいに笑ったそうです」
「…………」
「よかった、って」
ケイの息が止まった。
「それから……すぐに」
「…………」
「息を引き取ったと」
胸の奥を、何かで引き裂かれたような気がした。
「…………っ」
痛い。
さっきニコに感謝された時とは比べものにならないほど、胸が痛かった。
トーマは最後まで走った。
傷だらけになって、それでも走って助けを呼んだ。
自分だって死にそうだったのに、最後に気にしていたのはケイとニコのことだった。
そして。
二人が助かったと聞いて。
安心して。
死んだ。
「……何で」
声が震えた。
「何で……」
自分のせいなのに。
トーマが熊に襲われたのも。
あれだけ傷を負ったのも。
死んだのも。
全部、自分があんなことを言ったからなのに。
なのにトーマは、最後に自分が助かったことを喜んだ。
「…………」
ケイは胸元を強く握った。
苦しかった。
息をするだけで、胸の奥に刺さったものがさらに深く食い込んでくるようだった。
「……トーマ」
名前を口にすると、さらに痛んだ。
これで三人。
トーマ。
ルッツ。
ベイル。
三人とも。
死んだ。




