第28話 もう少しだけ
それからどれくらい歩いたのか、ケイにはもう分からなかった。
熊へ大盾を向けながら後退し、追いつかれれば足を止めて両腕で攻撃を受ける。わずかに距離が開けば、またすぐに歩き始める。
それを何度繰り返したのか、もう覚えていなかった。
最初は何度かできていた盾打ちも、今ではもうできない。熊の攻撃を受け止めるだけで精一杯だった。
ベイルの姿はほとんど見えなくなり、ルッツも木々の向こうへ隠れて、今ではどこにいるのか分からない。
トーマの声も、あれから一度も聞こえてこなかった。
今はただ、出口へ向かって進むしかない。
「はぁ……はぁ……」
ニコの呼吸も荒い。
「ケイ……」
「何?」
「もう……足が……」
「あと少し」
「…………」
「あと少しだから」
根拠なんてなかった。
それでも、そう言うしかなかった。
ケイ自身も限界だった。両腕は痛み、足も重い。大盾を構えたまま後ろへ歩き続けるだけでも苦しかった。
それでも足は止めなかった。
そして何度目か、熊の攻撃を受け止めたあとだった。
「…………あ」
ケイは前方へ目を向けた。
木々の向こうが、今までより明るい。
「ニコ」
「何……?」
「あれ」
ニコも顔を上げる。
「…………!」
木々の切れ目が見えた。
その向こうには、朝の空が広がっている。
「出口……?」
「出口だ!」
ようやく森の出口が見えた。
「ニコ! もう少しだ!」
「うん!」
二人は残っている力を振り絞って進んだ。
走ることはできない。
だから最後まで歩く。
ケイは熊へ大盾を向けたまま後退し、ニコはその背後を必死についてくる。
あと少し。
もう少しで森を抜けられる。
「グオオオオオッ!!」
「っ!」
熊がまた迫ってきた。
「まだ来るのかよ!」
ケイは足を止め、大盾を構える。
――ガンッ!!
「ぐあっ!」
大盾が大きく身体へ押し込まれ、足が地面を滑った。
それでも耐える。
「ニコ! 行け!」
熊がわずかに離れた隙に、また出口へ向かって進む。
もう近い。
木々の切れ目は、さっきよりずっと大きく見えていた。
「グオオオオオッ!!」
熊が今まで以上の勢いで地面を蹴った。
「ニコ! そのまま進め!」
「ケイ!」
「振り返るな!」
ケイは足を止め、熊へ正面を向けて大盾を構えようとした。
「…………っ」
腕が上がらない。
「くそ……!」
両腕に残った力を振り絞り、無理やり大盾を持ち上げる。
熊が迫る。
間に合え。
ニコだけは。
「来い!!」
巨大な前脚が振り抜かれた。
――ガァンッ!!
「ぐあっ!!」
大盾が激しく跳ね上がる。
今までなら、なんとか止めていた一撃だった。
けれど、もう腕がもたなかった。
熊の爪が大盾の縁を滑り、そのままケイの横を抜ける。
「ニコ!!」
「――っ!」
鈍い音がした。
ニコの身体が横へ弾き飛ばされる。
「ニコ!」
地面へ転がったニコの肩から脇腹にかけて服が大きく裂け、その下から血が滲み出していた。
「ニコ! おい!」
「う……」
返事はある。
生きている。
けれど、自力では起き上がれない。
「くそ……!」
ケイは震える両腕で大盾を握った。
ずっと守ってきた。
何度も何度も攻撃を受け止めて、ここまで一緒に歩いてきた。
それなのに、最後の最後で届いてしまった。
「絶対守るって……言ったのに……」
「グルルルル……」
熊が再びこちらを向く。
「…………」
ニコはもう歩けない。
ケイの腕も限界だった。
それでも、ケイはニコの前へ出た。
「来るな……」
震える両腕で大盾を持ち上げる。
「ニコには……もう近づくな!」
「グオオオオオッ!!」
熊が地面を蹴った。
その瞬間だった。
森の外から、大きな金属音が響いた。
――ガァァァン!!
「…………!」
熊が足を止める。
「何……?」
倒れたままのニコが顔を上げた。
もう一度。
――ガァン!
――ガァン!
さらに、大きな破裂音が響く。
――バァン!!
「グオッ!?」
熊が驚いたように森の出口へ顔を向けた。
そして。
「ケイ!!」
「…………!」
聞き覚えのある声がした。
「父さん……?」
木々の向こうから、大勢の大人たちが姿を現す。
「ケイ!」
「父さん!」
先頭にいたのは、ケイの父親だった。
その後ろからも何人もの村人たちが走ってくる。
槍や斧、鉈を持った者。
大きな銅鑼を抱えた者。
ほかにも、大きな音を鳴らすための道具を持った者たちがいた。
「子供たちの前へ!」
大人たちが一斉にケイとニコの前へ出る。
「鳴らせ!」
――ガァァァン!!
銅鑼が打ち鳴らされる。
――バァン!!
大きな破裂音が続く。
「おおおおおおおっ!!」
何人もの大人たちが声を張り上げながら、熊へ向かって前へ出た。
「グオオオオオッ!!」
熊も吠える。
「下がるな!」
「もっと鳴らせ!」
――ガァァァン!!
「おおおおおおっ!!」
銅鑼と破裂音、大勢の叫び声が森に響き渡る。
「グオッ……!」
熊が一歩、後ろへ下がった。
「もう一度だ!」
――ガァァァン!!
――バァン!!
「グオオオオオッ!!」
熊は大きく吠えた。
それでも大人たちは下がらない。
さらに一歩、前へ出る。
やがて熊はゆっくりと後退し、しばらく大人たちを睨んだあと、くるりと背を向けた。
そのまま森の奥へ走っていく。
「追うな!」
誰かが叫んだ。
「深追いするな! 他にも熊がいる!」
大人たちは熊を追わなかった。
その姿が木々の向こうへ消えていく。
「…………」
ケイはしばらく、熊が消えた方向を見ていた。
もう追ってこない。
本当に終わった。
「ケイ!」
父親が駆け寄ってくる。
「大丈夫か!」
「……父さん」
「ああ!」
「どうして……」
「トーマだ!」
「…………え?」
「トーマが森の入口まで来たんだ! 血だらけで、熊が四頭いるって……お前たちが森にいるって知らせてくれた!」
「トーマが……」
ちゃんと走ったのだ。
あの遠くから聞こえていた声の先で。
助けを呼ぶために。
「ケイ! おい、しっかりしろ!」
「ニコ……」
「分かってる!」
何人かの村人が、倒れているニコのもとへ駆け寄る。
「布を持ってこい!」
「傷を押さえろ!」
「息はある!」
「早く村へ運ぶぞ!」
「…………」
息はある。
その言葉を聞いた瞬間、ケイの肩からわずかに力が抜けた。
「……ニコ」
ニコが薄く目を開ける。
「ケイ……」
「よかった……」
「何が……?」
「生きてる」
「…………」
「ちゃんと……」
守れた。
そう言いかけて、ケイは口を閉じた。
守れたなんて言えない。
足を痛めたままここまで歩かせて、最後には熊の爪まで届かせてしまった。
それでも。
ニコは生きている。
「……ケイ」
「何?」
「ありがと」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、身体から一気に力が抜けた。
両手から大盾が滑り落ちる。
――ガタン。
「ケイ?」
足にも力が入らなくなった。
「ケイ!」
「……もう」
身体が傾く。
「無理……」
父親が慌てて抱き止めた。
「ケイ! しっかりしろ!」
「…………」
声が少しずつ遠くなっていく。
『ケイ様』
アズラの声が聞こえた。
『もう大丈夫でございます』
「…………」
その言葉を聞いて、ようやくケイは意識を手放した。




