第27話 生き残るために
『ケイ様』
「…………」
『ケイ様』
『……聞こえてる』
ケイは荒い息を吐きながら、熊へ大盾を向けたまま少しずつ後ずさっていた。
その背後では、ニコが痛めた足を引きずりながら森の出口へ向かって歩いている。
「グルルルル……」
熊も低く唸りながら、二人との距離を詰めてくる。
『御意識は、はっきりしておりますか?』
『してるよ』
『それでしたら結構でございます』
『何なんだよ、急に』
『念のためでございます』
アズラの声は、こんな状況でも妙に落ち着いていた。
『ケイ様。決して、意識を失われませぬよう』
「…………」
『倒れてしまえば、先ほどの御二方と同じ状況になりかねまへん』
『……分かってる』
ケイは熊から目を離さないようにしながら、ほんの一瞬だけ遠くへ視線を向けた。
木々の隙間の向こうに、ベイルが倒れているのが小さく見える。
別の方向にはルッツの姿もあった。木や茂みに遮られてはっきりとは見えないが、そのそばには熊がいる。
助けに行きたい。
けれど、今のケイにはどうすることもできない。
自分までここで倒れれば、次に襲われるのはニコだ。
「ケイ……」
背後からニコの声がした。
「大丈夫?」
「俺より自分の心配しろよ」
「でも……」
「いいから。止まるなよ」
「……うん」
ケイは熊へ身体を向けたまま後ろへ進む。
ニコもその背後で、痛む足を庇いながら出口へ向かって歩き続けた。
走ることはできない。
だから歩くしかない。
少しでも出口へ近づくために、一歩ずつ進む。
『ニコ様もおられますさかい』
『分かってる』
『では、何があっても意識だけは――』
『しつこい!』
『大切なことでございます』
「グオオオオオッ!!」
「来る!」
熊が地面を蹴った。
「ニコ、そのまま下がれ!」
「うん!」
ケイは足を止めて大盾を構える。
巨大な前脚が振り下ろされた。
――ガンッ!!
「ぐあっ!」
強烈な衝撃に身体ごと押され、靴の裏が地面を滑った。
左腕に鋭い痛みが走る。
「このっ!」
ケイは右手の剣を振った。
刃が熊の鼻先を浅くかすめる。
「グオッ!」
熊がわずかに顔を逸らした。
「今だ! 行くぞ!」
「う、うん!」
ケイはすぐに熊へ盾を向け直し、そのまま再び後退を始める。
ニコも歩く。
二人で少しでも出口へ近づく。
けれど、熊はまた追ってきた。
「グルルルル……」
重い足音が近づいてくる。
ケイは右手の剣を見る。
何度か当てた。
それでも浅い傷しかつけられていない。
熊を倒せる気配など、まるでなかった。
それどころか、左腕は何度も熊の攻撃を受け止めたせいで、もう限界に近い。左腕だけでこの大盾を支え続けるのも無理だった。
「…………」
ケイは剣を腰の鞘へ戻した。
「ケイ?」
「もう剣はいい」
「え?」
「こいつを倒すのは無理だ」
空いた右手も大盾へ添える。
両腕で支えると、左腕だけで持っていた時よりは少しだけ楽になった。
「だから、もう倒そうとしない」
「…………」
「守ることだけ考える」
ケイは大盾を身体の前へ構え直した。
「俺がこいつを止める。その間に少しでも出口へ近づくぞ」
「……うん」
「グオオオオオッ!!」
再び熊が迫ってくる。
「来い!」
ケイは両腕で大盾を握り、全身で踏ん張った。
――ガンッ!!
「ぐっ……!」
大盾へ巨大な前脚が叩きつけられる。
両腕で支えていても、身体ごと押し込まれた。
それでも弾き飛ばされることだけは耐える。
熊が一瞬動きを止めた。
「このっ!」
ケイは大盾へ身体ごとぶつかるように踏み込み、そのまま熊へ押し返した。
――ドンッ!
「グオッ!」
大盾の表面が熊の顔へぶつかる。
大した攻撃にはなっていない。
それでも熊がわずかにのけぞった。
「ニコ、今!」
二人はすぐに出口の方へ進む。
ケイは熊へ盾を向けたまま後退する。
ニコはその背後を歩く。
少し進む。
また熊が追いつく。
「来るぞ!」
ケイが足を止める。
両腕で盾を構える。
――ガンッ!!
「ぐっ!」
受け止める。
熊が少し離れる。
「おらっ!」
――ドンッ!
大盾を押し出し、もう一度熊の顔へぶつける。
「グオッ!」
「行くぞ!」
また歩く。
出口へ向かって少しでも進む。
そしてまた、熊が追ってくる。
ケイは熊へ正面を向いたまま後退し続けた。
熊との距離が開いている間は歩く。
詰められれば止まる。
攻撃を大盾で受ける。
余裕があれば盾を押し返し、ほんの少しだけ距離を作る。
そして、また歩く。
それを何度も繰り返した。
「はぁ……はぁ……!」
森へ入った時から重いと思っていた大盾が、今では何倍にも重く感じる。
両腕で持っていても、傷めた左腕はずきずきと痛んでいた。
『ケイ様』
『何……!』
『左腕の消耗がかなり激しゅうございます』
『分かってるよ!』
『右腕で支えておられても、左腕への負担がなくなるわけではございまへん』
『でも、これしかないだろ!』
『左様でございます』
ケイは熊へ盾を向けたまま後ずさる。
ニコも必死についてくる。
『アズラ』
『はい』
『やっぱり、お前の言った通りだった』
『何のことでございましょう』
『この盾のこと。それと、熊のこと』
会話をしている間にも、足は止めない。
『森に入る時は、こんな重いの本当にいるのかって思ってたけど……』
ケイは両腕で大盾を支え直した。
熊が低く唸りながら、また少しずつ距離を詰めてくる。
『これなかったら、とっくに死んでた』
『左様でございましょうな』
『それに俺、一頭くらいなら何とかなると思ってた』
『思っておられましたな』
『……何であんな自信あったんだろ』
剣は当たった。
それでも熊は倒れなかった。
結局、今できているのは、両腕で大盾を抱えるようにして攻撃を受け止めることだけだ。
『一頭でも全然無理だ』
『…………』
『剣なんか使ってる余裕もない。これ持って、ニコを守るだけで精一杯だよ』
アズラは少し黙った。
『まあ、それについてはもう終わったことでございます』
『終わったことって……』
『今ここで反省されましても、熊が消えてくれるわけではございまへん』
『それはそうだけど』
『反省会は、生きて帰ってからになさいませ』
「…………」
『今は、生き残ることだけをお考えください』
『……うん』
その言葉には素直に頷けた。
勇者になれるかどうか。
三人を助けられなかったこと。
自分がどれだけ馬鹿だったのか。
そんなことを考えるのは後だ。
今は生き残る。
ニコも生きて帰す。
それだけだった。
「ニコ」
「何……?」
「まだ歩ける?」
「……うん」
「じゃあ止まるな。ゆっくりでいいから進め」
「分かった」
ケイも盾を前へ向けたまま後退を続ける。
その時だった。
「誰かあああああ!!」
「…………!」
遠くから叫び声が聞こえた。
トーマの声だった。
ケイは木々の向こうへ目を凝らす。けれど、姿はほとんど見えない。
いつの間にか、ベイルとルッツの声はもう聞こえなくなっていた。
今、遠くから聞こえてくるのはトーマの声だけだった。
「トーマ……」
ニコが呟いた。
「まだ走ってる」
「うん」
声はさっきより遠くなっていた。
姿は見えない。
どこを走っているのかも分からない。
ただ、出口の方角から声が聞こえる。
「助けてくれええええ!!」
もう一度だけ声が響いた。
そして、それきりトーマの声は聞こえなくなった。
「…………」
森を抜けたのか。
それとも、追っていた熊に追いつかれたのか。
ケイには分からなかった。
「トーマなら大丈夫だ」
「……うん」
「絶対、誰か呼んでくれる」
ニコに言ったというより、自分自身へ言い聞かせるための言葉だった。
「だから俺たちは、それまで進むぞ」
「……うん」
また熊の足音が近づいてきた。
「来る!」
ケイは後退をやめ、その場で大盾を構えた。
――ガンッ!!
「ぐっ!」
今までよりも深く、大盾が身体の方へ押し込まれる。
ケイの足が地面を滑った。
「このっ……!」
盾を押し返す。
――ドンッ!
「グオッ!」
まだ押し返せた。
「行くぞ!」
二人はすぐに出口へ向かって進む。
だが、さっきまでとは違った。
大盾を持つ両腕が震えている。
とくに左腕には、もうまともに力が入らない。
「グオオオッ!!」
また熊が追いつく。
――ガンッ!!
「ぐあっ!」
大盾が激しく揺れた。
ケイは反射的に押し返そうとした。
「この……!」
だが、盾がほとんど前へ動かなかった。
「…………っ」
さっきまでできていた盾打ちが、もうできない。
腕に力が残っていなかった。
「ニコ、行け!」
「でも!」
「いいから!」
熊がわずかに離れた隙を使い、また後退を始める。
歩く。
出口へ。
熊へ盾を向けたまま。
また追いつかれる。
――ガンッ!!
「ぐっ……!」
今度は受け止めるだけで精一杯だった。
熊の爪が大盾の縁を滑る。
「っ!」
鋭い爪がケイの顔のすぐ横を通り過ぎた。
それでも、ニコには届かなかった。
「行くぞ……!」
二人はまた進んだ。
熊へ大盾を向けたまま、ケイは一歩ずつ後ろへ下がる。ニコも痛む足を引きずりながら、その背後をついてくる。
少し進んでは追いつかれ、攻撃を受け止める。
そして、また歩く。
それを繰り返しているうちに、自分たちがどれだけ進んだのかも分からなくなっていた。
「はぁ……はぁ……」
ケイは一瞬だけ、背後へ目を向けた。
木。
その先にも木。
さらに向こうにも、まだ森が続いている。
出口らしきものは、どこにも見えなかった。
「…………まだかよ」
思わず声が漏れた。
ちゃんと出口の方へ進んでいるはずだった。
さっきからずっと歩いている。
何度も熊の攻撃を受けながら、それでも一歩ずつ進み続けている。
なのに。
どれだけ歩いても、森の出口が近づいている気がしなかった。
「ケイ……」
「大丈夫」
ニコにそう答える。
自分でも、何が大丈夫なのか分からなかった。
「止まるな」
「……うん」
「歩くぞ」
ケイはもう一度、熊へ大盾を向けた。
両腕は震えている。
足も重い。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
二人はまた、一歩ずつ歩き始める。
けれど今のケイには。
森の出口が、ひどく遠く感じられた。




