第26話 勇者にはなれなかった
「グオオオオオッ!!」
「来い……!」
ケイは大盾を前へ突き出しながら、右手の剣を振った。
刃が熊の肩口を浅くかすめる。
「グオッ!」
「当たった!」
一瞬、熊が怯んだように見えた。いけるかもしれないと思ったが、熊はほとんど勢いを落とさなかった。
「え――」
巨大な前脚が振り上げられる。
「ニコ、伏せろ!!」
ケイは大盾の後ろへ身体を縮め、同時にニコを自分の背後へ庇った。
――ガンッ!!
「ぐっ!!」
大盾越しに強烈な衝撃が伝わり、左腕から肩までが一気に痺れる。ケイの身体は靴の裏で土を削りながら、大きく後ろへ押された。
「ケイ!」
「大丈夫!」
反射的にそう答えたが、大丈夫なはずがなかった。
左腕は痛み、指先までじんじんと痺れている。それでも大盾を下ろすわけにはいかない。後ろには、足を痛めて走れないニコがいるのだ。
「ニコ! 少しずつ下がれ!」
「足が……」
「ゆっくりでいい! 俺の後ろから離れるな!」
「う、うん!」
ニコは痛めた足を引きずりながら後ろへ下がった。ケイも熊から目を離さないまま、その動きに合わせて少しずつ後退する。
「グルルルル……」
熊も低く唸りながら追ってくる。
「……来るなよ」
もちろん、そんな言葉を聞いてくれるはずもない。
「グオオオッ!!」
「くそっ!」
再び熊が飛び込んできた。
ケイは大盾を構える。
――ガンッ!!
「ぐあっ!」
また左腕が痺れる。さっきよりも痛みが強い。
熊が少し距離を取れば、その隙に二人で進む。追いつかれれば、ケイが大盾を構えてニコを庇う。
それを繰り返しながら少しずつ森の出口へ向かっていたが、思うようには進めなかった。
「はぁ……はぁ……!」
息が苦しい。
森へ入った時から重いと思っていた大盾が、今では何倍にも重く感じられた。左腕はもう、持ち上げているだけでも痛い。
『ケイ様』
『何……!』
『左腕の消耗がかなり激しゅうございます』
『見れば分かるよ!』
『でしたら、無理に受け続けるのは――』
『受けなかったらニコに当たるだろ!』
アズラが一瞬黙った。
『……左様でございますな』
ケイは荒い息を吐きながら、右手の剣を握り直した。
「まだ……!」
こんなところでニコを置いて逃げるわけにはいかない。
絶対守る。
自分でそう言ったのだ。
「俺は勇者になるんだ……!」
自分を奮い立たせるように呟いた直後、熊が再び地面を蹴った。
「グオオオオオッ!!」
「何回来るんだよ!」
今度は襲われる前に、ケイの方から剣を振った。
刃が熊の鼻先をかすめる。
「グオッ!」
熊が顔を逸らした。
「今だ! ニコ!」
「う、うん!」
二人は急いで後ろへ下がる。
だが、ニコは足を引きずっている。数歩進んだところで身体が大きく傾いた。
「……っ!」
「ニコ!」
ケイが咄嗟に腕を伸ばす。
なんとか倒れずには済んだが、痛めた足を地面についた瞬間、ニコの顔が苦痛に歪んだ。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……」
「大丈夫じゃないだろ!」
「でも、まだ歩けるから……」
「…………」
ケイは何も言えなかった。
自分一人なら、熊から全力で逃げることもできるかもしれない。
けれど、ニコを置いていくなんてできるはずがない。
「肩、貸す?」
「それじゃケイが大盾持てないだろ」
「…………」
「俺、歩くから」
ニコは震える足でなんとか立ち直った。
「だから……行こう」
「……うん」
二人は再び出口へ向かって動き始めた。
その直後だった。
「誰かあああああ!!」
「……!」
遠くから叫び声が聞こえた。
ケイの足が止まる。
「トーマ……?」
ニコも声のした方を振り返った。
三人が逃げていった方向だ。
木々の隙間の向こうに、一人の人影が見えた。
「…………!」
走っているのは、もう一人だけだった。
「トーマ……」
トーマだった。
服が大きく裂け、身体から血を流している。走り方もおかしく、何度も木へ手をつきながら、それでも森の出口へ向かって必死に走り続けていた。
「誰かああああ!!」
助けを求める声が森に響く。
そして、その後ろ。
「…………ベイル」
木の根元にベイルが倒れていた。
熊に吹き飛ばされたのだろう。身体を投げ出したまま、まったく動いていない。
そのすぐそばには、一頭の熊がいた。
「ベイル……!」
ニコの声が震える。
「ベイル!!」
返事はない。
「おい! ベイル!!」
やはり動かない。
ケイは奥歯を強く噛みしめた。
助けに行かなければ。
そう思った、その時だった。
「ぎゃああああああっ!!」
「っ!?」
今度は別の方向から悲鳴が響いた。
「ルッツ!」
「助けて!!」
声が聞こえる。
「誰か!! 助け――」
熊の唸り声と、枝が激しく折れる音。
そして、再び悲鳴が上がった。
「ぎゃああっ!!」
「ルッツ!!」
ニコが叫ぶ。
木々に隠れて、何をされているのかケイにははっきりとは見えない。
けれど、何が起きているのかは分かった。
ルッツも熊に襲われている。
ベイルのそばに一頭。ルッツを襲っている一頭。トーマを追っている一頭。そして、自分たちの目の前に一頭。
四頭とも、まだいる。
ケイは剣を握る手に力を込めた。
ベイルのところへ行きたい。ルッツも、トーマも助けたい。今すぐ走って熊を追い払い、三人とも助けたかった。
けれど。
「グオオオオオッ!!」
「っ!」
目の前の熊が再び襲いかかってきた。
「ニコ、下がれ!!」
ケイは大盾を構える。
――ガンッ!!
「ぐあっ!」
今度は衝撃に耐えきれず、片膝が地面についた。
「ケイ!」
「来るな!」
駆け寄ろうとしたニコを止める。
「そこにいろ!」
「でも!」
「いいから!」
ケイは歯を食いしばりながら立ち上がった。
左腕はほとんど言うことを聞かない。大盾を持ち上げるだけで、腕の奥がずきずきと痛んだ。
無理だ。
三人のところへは行けない。
ここを離れれば、足を痛めたニコは逃げられない。そして何より、ケイ自身がこの一頭を相手にするだけで精一杯だった。
「…………ごめん」
小さく呟いた。
「ケイ?」
「……何でもない」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
ルッツなのか。
ベイルなのか。
トーマなのか。
それとも、全部こんなことにした自分自身になのか。
「ニコ」
「……何?」
「行くぞ」
「でも、みんなが……」
「分かってる」
「助けに行かなくていいの?」
「…………」
答えられなかった。
行きたい。助けたい。
けれど、行けない。
「……今は、お前を森の外まで連れていく」
「…………」
「絶対守るって言ったから」
ニコはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん」
二人はまた、少しずつ森の出口へ向かって進み始めた。
熊が近づけばケイが大盾で受け止め、少しでも隙ができれば先へ進む。追いつかれれば、またニコの前へ出る。
何度それを繰り返したのか、もう数える余裕もなかった。
――ガンッ!!
「ぐっ!」
大盾が大きく揺れる。
左腕が痺れる。
それでも落とさない。
「ニコ! 今!」
「うん!」
少しでも距離を稼ぐ。
だが、すぐに熊が追いついてくる。
「グオオオッ!!」
「くそっ!」
また立ち止まり、大盾を構える。
剣を振っても、つけられるのは浅い傷ばかりだった。何度斬っても熊は止まらず、ケイの方だけが少しずつ消耗していく。
「はぁ……はぁ……!」
もう左腕はほとんど感覚がなかった。
右手も汗で滑りそうになり、足も重い。
それでも後ろにはニコがいる。
絶対に守るつもりだった。
けれど、そのニコも無傷ではない。痛めた足を引きずり、腕や頬には枝で引っかけた細かな傷が増え、服も泥だらけになっている。
トーマは血を流しながら一人で逃げている。
ベイルは動かない。
ルッツは熊に襲われている。
そしてケイは、その三人を助けにも行けず、目の前にいるニコ一人を守るだけで精一杯だった。
「…………」
勇者だったら。
きっと、全員助けられた。
少なくとも、ケイがずっと憧れてきた物語の中の勇者なら、襲ってくる熊を倒してベイルもルッツも助け、トーマを追っている熊だって止めていたはずだ。
「……俺は」
ケイは震える左腕へ目を落とした。
一頭の熊を相手にするだけで、この有様だ。
四頭を倒すどころか、三人を助けに行くことさえできない。
――俺は、勇者じゃない。
その言葉が頭に浮かんだ。
認めたくなかった。
小さい頃からずっと勇者になりたかった。
困っている人を助け、強い敵を倒し、みんなを守れる人間になりたかった。
だから今日だって、解除なんてしなくても、自分が熊から四人を助ければいいと思っていた。
自分が頑張れば何とかなる。
熊を倒して、四人とも無事に連れて帰れる。
そんなふうに思っていた。
でも、できなかった。
三人は熊に追われている。
自分が守れているのは、たった一人。
そのニコだって、痛めた足を引きずりながら必死についてきている。
「…………っ」
悔しかった。
情けなかった。
あれだけ勇者になると言っておいて、何一つ思い通りになっていない。
頭の中に、さっきのアズラの言葉まで蘇る。
『三名を囮として先に走らせ、その間にケイ様は走れない一名と離脱する』
違う。
三人を囮になんてしていない。
自分が囮になるつもりだった。
四頭の注意を自分へ向けて三人を逃がし、ニコも守るつもりだった。
少なくとも、自分はそうしたかった。
でも今、ルッツを襲っている熊はこちらには来ない。ベイルのそばにいる熊も、トーマを追っている熊も来ない。
そのおかげで、自分とニコは一頭だけを相手にすればいい。
結果だけ見れば、三人を囮にしたのと何も変わらなかった。
そして、そのおかげで自分はまだ生きている。
ニコも、まだ生きている。
「…………っ」
ケイは唇を噛んだ。
自分がやりたかったのは、こんなことじゃない。
格好よく熊を引きつけて、三人を逃がして、ニコも守って、最後には自分も無事に戻る。
そんな勇者みたいなことができると思っていた。
でも現実は違った。
四頭全部を引きつけることもできなかった。
三人を助けに行くこともできなかった。
目の前の一頭からニコを守るだけで精一杯で、身体中が痛くなっている。
思い描いていたものとは、何もかも違った。
『ケイ様』
『……何』
『…………』
『何だよ』
『いえ』
珍しく、アズラはそれ以上何も言わなかった。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「グルルルル……」
目の前の熊が、再び身体を低くする。
ケイは顔を上げた。
怖い。
腕も痛い。
もう逃げたい。
自分は勇者じゃなかった。
少なくとも今の自分は、みんなを助けられるような勇者なんかじゃない。
「……ケイ」
背後から、ニコの弱々しい声が聞こえた。
ケイは一度だけ目を閉じる。
それでも。
「……大丈夫」
もう一度、大盾を持ち上げた。
「絶対守るって言っただろ」
「…………」
「だから、お前は俺の後ろにいろ」
「……うん」
左腕は震えている。
声まで震えていた。
それでもケイは、熊の前から退かなかった。
「……来いよ」
勇者には、なれなかった。
それでも今は。
せめて目の前の一人だけでも、絶対に守らなければならなかった。




