第24話 四頭の熊
「グルルルル……」
低い唸り声が、朝の森に響いた。
少し前までノビルの大きさを比べて騒いでいたトーマたちも、ようやくその異変に気づいた。
「……何?」
「今の、なんだ?」
四人の笑い声が消える。
ケイは少し離れた木の陰で、抜いた剣を握りしめたまま茂みの奥を睨んでいた。
こういうことがあるから、子供だけで森へ入るのは禁止されていたのだ。ノビル採りにも大人の引率が必要だと言われていた理由を、ケイは今さらながら理解した。
トーマたちは、その決まりを破って子供だけで森へ来た。
だからといって、こんな目に遭っていいわけがない。
何より、こいつらをこんな目に遭わせようとしているのは自分なのだ。
――ガサガサッ。
茂みが大きく揺れた。
「…………!」
枝を押し分けながら、一頭の大きな熊が姿を現した。
「く、熊……?」
「嘘だろ……」
トーマたちは顔を青ざめさせながら、一歩ずつ後ずさる。
その中でニコだけが木の根に足を取られ、身体を大きくよろめかせた。
「っ……」
なんとか転ばずに踏みとどまり、すぐに体勢を立て直す。
熊は低く唸りながら、真っ直ぐ四人を見ていた。
偶然ではない。
ケイには分かっている。
自分の言葉が、この熊をここへ呼んだのだ。
昨日、こいつらに馬鹿にされて、マリアンヌのことまで言われて頭に血が上った。本気で腹を立てたケイへ、アズラは警告していた。
『また御命令になっても知りまへんで』
それでもケイは、
「お前らなんか――クマにでも食われちまえ!!」
そう叫んだ。
そして《夢想因果》は、その言葉を魔王の命令として受け取った。
だから、この熊はここにいる。
『ケイ様』
『……分かってる』
ケイは木陰から飛び出した。
「お前ら!」
「うわっ!」
「ケイ!?」
「なんでお前がここに――」
「後ろ下がれ!」
左腕で大盾を前へ構え、右手の剣を握りしめる。
近くで見ると、大きい。立ち上がれば、ケイより頭二つ、三つ分は高そうだった。
太い前脚から伸びる鋭い爪。大きく開いた口の奥に並ぶ牙。鼻をつくような獣臭が漂ってくる。
剣を握る手が震えた。
足も震えている。
怖い。当然だった。
ケイは十三歳だ。本物の熊と戦ったことなど、一度もない。
「ケイ……?」
ニコが不安そうに名前を呼んだ。
ケイはほんの少しだけ振り返る。
「ちゃんと感謝しろよ」
「は?」
「今から俺が助けてやるんだから!」
「何言って――」
『ケイ様』
アズラの声が、それまでより少し強く響いた。
『警告いたします』
『何?』
『対象四名へ収束中の事象因果に、ケイ様御自身が介入されました』
「…………」
『これより先、ケイ様も周辺事象へ巻き込まれる可能性が高うございます』
『……分かってる』
『《夢想因果》が直接ケイ様を殺そうとするわけではございまへん。ですが、走る馬車の前へ自ら飛び出せば轢かれることもございます』
『熊に襲われたら、普通に死ぬってことだろ』
『左様でございます』
『それも分かってる』
熊が低く唸った。
「グルルルル……」
ケイは剣を握る手に力を込める。
『でも俺が入れば、四人を助けられる可能性もある』
『……ございます』
『だったらやる』
魔王の力でやらかした。
なら、勇者らしく自分で解決する。
そう決めてここまで来たのだ。
次の瞬間。
熊が地面を蹴った。
「グオオオオオッ!!」
「……っ!」
速い。
想像していたより、ずっと速かった。
ケイは反射的に横へ飛んだ。巨大な身体が、ついさっきまで自分が立っていた場所を通り過ぎる。
「うわっ!」
地面へ転がり、右手のひらを擦った。左腕の大盾も地面へぶつかり、肘に鈍い痛みが走る。
それでも剣だけは離さなかった。
「まだ……!」
大盾を支えながら、すぐに立ち上がる。
熊がこちらを振り返った。
心臓がうるさい。
怖い。
それでも、一頭なら。
一頭だけなら、どうにかなるかもしれない。倒せなくても、四人を逃がすくらいなら。
そう思った、その時だった。
「グオオオオオッ!!」
「……え?」
右側の森から、別の咆哮が響いた。
ケイが顔を向ける。
激しく揺れた茂みを押し分けて、もう一頭の熊が姿を現した。
「…………二頭?」
「お、おい……」
「嘘だろ……」
四人の顔から、一気に血の気が引いていく。
「だ、大丈夫だ」
ケイは、自分自身へ言い聞かせるように言った。
「二頭くらいなら……」
言いながら、自分でも無理があると思った。
一頭ですら、さっき避けるだけで精一杯だった。
それが二頭。
『ケイ様』
『何』
『あまり無理に格好をつけん方がよろしいかと』
『うるさい!』
『手の震えがなかなか正直でございますで』
『見えてるなら黙ってろ!』
『承知しました』
その直後。
「グルルルル……」
今度は反対側から、低い唸り声が聞こえた。
「…………」
ケイの顔が固まる。
「まさか……」
木々の隙間から、三頭目の熊がゆっくりと姿を現した。
「三頭……?」
トーマが呟く。
前方に一頭。
右側に一頭。
そして左側にも一頭。
三頭の熊が、逃げ場を狭めるようにこちらを見ている。
さっきまで残っていたわずかな自信が、一気に消えていった。
「なんで三頭もいるんだよ……!」
『御命令を成立させるため、因果が必要な状況を形成しているのでございましょうなあ』
『必要な状況?』
『対象は四名。そして御命令は「クマにでも食われちまえ」』
「…………」
『現在の《事象因果》は、その結果へ到達するよう周辺の出来事を組み上げております』
『…………』
ケイの頬が引きつった。
対象は四人。
熊は三頭。
嫌な予感がした。
ものすごく、嫌な予感がした。
『なあ』
『はい』
『まさかとは思うけど……』
ケイは唾を飲み込む。
『一人に一頭とか言わないよな?』
ほんの一瞬。
アズラが黙った。
『……アズラ?』
『ケイ様』
『何』
『後ろをご覧にならん方がよろしいかもしれまへん』
「…………は?」
その瞬間。
背後から。
「グルルルルル……」
低い唸り声が聞こえた。
ケイの背筋が凍りつく。
トーマたちも、ゆっくりと振り返った。
木々の間から、四頭目の熊が姿を現す。
「…………嘘だろ」
前に一頭。
右に一頭。
左に一頭。
そして後ろにも一頭。
ケイは剣を握ったまま、周囲を見回した。
どこを向いても熊がいる。
さっきまでは、四人を逃がせばいいと思っていた。自分が熊を引きつけ、その間に走らせればいいと。
だが、逃がすための道そのものが、もう残っていなかった。
「ケイ……」
背後から、ニコの震えた声が聞こえる。
ケイは答えられなかった。
四頭の熊が低く唸りながら、少しずつ距離を詰めてくる。
完全に囲まれていた。
そして。
逃げ道は、どこにもなかった。




