第23話 低い唸り声
森へ入ってしばらくすると、トーマたちは道から少し外れた場所で足を止めた。
ケイも少し離れた木の陰で立ち止まり、抱えるように持っていた大盾を地面へそっと下ろす。
「……重い」
『熊の攻撃を受け止めるための大盾でございますさかい』
『分かってるけど、これ持って森の中歩くのきついんだよ』
村を出てからずっと持ってきたせいで、すでに腕が疲れ始めていた。いくら熊の攻撃を防ぐためとはいえ、十三歳のケイが持ち歩くには少々大きすぎる。
『もう少し大きさや重量まで細かく指定しておくべきでしたなあ』
『今さら言うなよ……』
ケイは昨夜できたたんこぶへ手をやった。
『ついでに頭もお前のせいで重いんだけど』
『そちらは、中身があまり入っておりまへんけどな』
「うるさい!」
『ケイ様』
「……あ」
『声を出してはいけまへんで』
ケイは慌てて口を押さえた。
少し先を確認する。
幸い、四人はこちらに気づいていない。
『お前が変なこと言うからだろ!』
『ワテは事実を――』
『もう喋るな!』
『今度はちゃんと頭の中で言えましたな』
『うるさいって!』
今度は声を出さずに言い返した。
そんなやり取りをしているうちに、トーマが足元を見て声を上げた。
「お、あった!」
その足元には、細長い葉がいくつも伸びていた。
「結構あるじゃん!」
「こっちにもあるぞ!」
「早く採ろうぜ。なくなる前に!」
やはりノビル採りだった。
四人は持ってきた籠や袋を地面へ置くと、一斉に採り始めた。葉の根元を掴んで引き抜こうとする者もいれば、小さな鎌で周囲の土を掘る者もいる。採れたノビルを掲げて、大きさを比べ始める者までいた。
「見ろよ、これでかくない?」
「全然。こっちの方がでかいって!」
「それ葉っぱだけだろ!」
「うるせえ!」
朝の静かな森に、四人の笑い声が響く。
少し離れた木の陰から、ケイはその様子を眺めていた。
『……普通だな』
『何がでっか?』
『いや……あいつら』
昨日は自分を散々馬鹿にしてきた。
腹が立った。
マリアンヌのことまで言われて、本気で頭にきた。
だから。
「クマにでも食われちまえ」
そう言った。
けれど、こうして見ていると、四人で馬鹿なことを言いながらノビルを採っているだけだった。
どこにでもいる、ただの子供たちだ。
「ニコ、それ俺が見つけたやつ!」
「先に採った方の勝ちだろ!」
「返せよ!」
「嫌だね!」
ニコがノビルを持って逃げ、トーマが追いかける。その二人を見ながら、ルッツとベイルが笑っている。
あまりにも普通だった。
今日これから死ぬかもしれない人間には、とても見えない。
ケイはしばらく四人を見つめたあと、ぽつりと尋ねた。
『……なあ』
『はい』
『こいつら、本当に死ぬのか?』
『このまま御命令通りに因果が進めば、現時点での命令達成予測は百パーセントでございます』
「…………」
『百パーセント……』
『はい』
目の前では、四人が笑っている。
誰一人、自分がすでに死へ向かう因果の中にいるなど知らない。
『そこまで気になられるのでしたら、やはり解除条件を――』
『もう言うな』
アズラの声が止まった。
『……ケイ様』
『もう決めたんだ』
ケイは四人から目を逸らさなかった。
『解除はしない』
『…………』
『俺が助ける』
解除した方が安全なのも分かっている。
自分が恥をかくだけで、四人を確実に助けられることも分かっている。
それでも、もう決めた。
『俺が勇者として、あいつらを助ける』
『……左様でっか』
『だから、もう解除の話はいい』
しばらくして、アズラが静かに答えた。
『承知しました』
ケイは腰の剣へ手を添えた。
解除しないと決めた以上、自分で助けるしかない。
先ほどアズラと話した通り、《夢想因果》で熊を倒すこと自体はできる。
だが、それでは間に合わない。
今頼れるのは、自分自身と腰にある剣。そして、重くて仕方がないこの大盾だけだ。
『アズラ』
『はい』
『あとどれくらい?』
『結果実現予定時刻までは、まだ少々ございます』
『少々ってどれくらい?』
『正確な襲撃開始時刻までは分かりまへん』
『十二時間後じゃないの?』
『十二時間後を基準として因果は形成されております。ただし今回の御命令は、単純に十二時間経過した瞬間、対象四名が死亡するというものではございません』
『……どういうこと?』
『熊との遭遇、襲撃、そして御命令結果へ至るまで。その一連の事象そのものが、すでに因果へ組み込まれておりますさかい』
ケイは眉を寄せた。
『つまり?』
『いつ熊が姿を現すかについては、多少の幅があるということでございます』
『じゃあ、急に来るかもしれないってこと?』
『左様でございます』
「…………」
ケイは改めて周囲を見回した。
木々の間。
深い茂み。
薄暗い森の奥。
どこから熊が来るのか分からない。
それどころか、一頭なのかどうかさえまだ分からない。
四人はそんなことなど知るはずもなく、相変わらず楽しそうにノビルを採っている。
「おい! こっちにもいっぱいあるぞ!」
ベイルの声が響いた。
「マジ?」
「どこどこ?」
三人がそちらへ集まっていく。
ケイは思わず顔をしかめた。
『あいつらさ……』
『はい』
『熊が出るかもしれない森で、よくあんな大声出せるよな』
『まさか今ここへ熊が来るとは思っておらんのでっしゃろ』
『まあ、そうだけど』
それにしても騒ぎすぎだった。
これだけ声を出していれば、自分たちの居場所を森中の動物へ知らせているようなものだ。
だからこそ、子供だけで森へ入ってはいけないと言われている。
ノビル採りにも、本来なら大人がついてくる決まりなのだ。
普段のケイなら、ただ口うるさい決まりだと思っていたかもしれない。
だが今は違う。
森には、子供だけではどうにもならないものがいる。
その一つが、もうすぐここへ来る。
ケイは木陰から少しだけ位置を変えた。
四人からは見つからず、それでいて何か起きたらすぐに飛び出せる距離を保つ。
『ケイ様』
『何?』
『念のため申し上げますが、熊との戦闘経験はございませんな』
『分かってる』
『剣術も達人には程遠い』
『……分かってる』
『十三歳』
『それ関係ある!?』
『大いにございます』
『うるさいな!』
今度はきちんと頭の中だけで言った。
アズラは何も返さなかったが、少しだけ満足そうな気配がした。
それでも、やるしかない。
自分が言ったことなのだから、自分で何とかする。
それが勇者だと、ケイはそう思っていた。
「見ろよ! これ今日一番じゃね?」
「でかっ!」
「売ったら結構するんじゃない?」
「俺の方がでかいって!」
「それさっきも聞いた!」
また笑い声が響く。
ケイはその姿を見つめた。
昨日はあれだけ腹が立っていたはずなのに、今はもう四人に死んでほしいなんて少しも思っていなかった。
絶対に助ける。
ケイがそう心の中で決め直した、その時だった。
――ガサッ。
「…………?」
ケイが振り返る。
四人がいる場所とは反対側。
森の奥。
茂みの向こうから、何かが動く音がした。
『アズラ』
『はい』
『今の聞こえた?』
『聞こえました』
ケイの手が、ゆっくりと剣の柄を握る。
四人はまだ気づいていない。
「ニコ! それ俺の籠に入れるなよ!」
「間違えただけだって!」
「絶対嘘だろ!」
その向こうで。
――ガサガサッ。
今度は、はっきり聞こえた。
ケイの表情が変わる。
重い。
小さな動物が草を揺らしている音ではない。
何か大きなものが、茂みの向こうを動いている。
『ケイ様』
『分かってる』
ケイはゆっくり剣を抜いた。
シャッ――。
金属の擦れる音が、朝の森に小さく響く。
心臓が速くなる。
剣を握る手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
怖い。
本物の熊と戦ったことなんて、一度もない。
勝てる保証もない。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
ケイは茂みの奥を睨みつけた。
そして、その奥から。
「グルルルル……」
低い唸り声が聞こえた。




