第22話 朝の森へ
トーマたち四人が森へ向かって歩き始める。
ケイは少し距離を空けたまま、その後を追った。
気づかれてはいけない。
今ここで四人に見つかれば、昨日のこともある。何をしに来たのかと問い詰められるかもしれないし、最悪の場合、森へ入る前に追い返される。
それでは困る。
ケイは茂みや家の陰を使いながら、できるだけ目立たないよう四人の後をついていった。
『なんだか悪いことしてるみたいだな』
『実際、尾行しておりますさかい』
『助けるためだよ!』
『目的が善良であれば、尾行が尾行でなくなるわけではございまへんで』
『そういう言い方すんなよ』
小声で言い返しながら歩いているうちに、村の家々が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
前を歩く四人は、こちらにまったく気づいていない。
トーマが何かを言って、ルッツが笑う。
ニコがそれに何か言い返し、ベイルが肩を叩く。
昨日、自分を馬鹿にしていた時と同じだ。
普通の子供たちだった。
ケイはしばらくその背中を眺めていたが、ふと一つの考えが浮かんだ。
『……なあ、アズラ』
『はい、ケイ様』
『そもそもさ』
『何でございます?』
『熊が出てくるなら、《夢想因果》でその熊を倒せばよくない?』
『できますで』
「できるの!?」
思わず声が出た。
ケイは慌てて口を押さえ、前を見る。
幸い、少し先を歩く四人は話に夢中で、こちらには気づいていないようだった。
『できるなら最初から言えよ!』
『聞かれませんでしたさかい』
『じゃあ、それでいいじゃん。熊が出てきたら、《夢想因果》で倒す』
『今回の救援には、あまり意味がございまへんな』
『今できるって言ったじゃん!』
『《夢想因果》を用いて熊を死亡させること自体は可能でございます』
『じゃあ何が駄目なんだよ』
『まず、現在の事象因果は、すでに別の御命令を処理中でございます』
「…………」
ケイは黙った。
何のことかは、すぐに分かった。
『……あいつらのやつ』
『左様でございます』
アズラは淡々と続ける。
『対象――トーマ様、ルッツ様、ベイル様、ニコ様。四名を熊に襲わせ、食い殺す結果へ向けて、現在も因果形成中でございます』
『その説明ほんと嫌なんだけど』
『ケイ様の御命令でございますさかい』
『分かってるよ……』
ケイは少し考えた。
『でも、次の《夢想因果》を予約しとけばいいんじゃない?』
『何を対象になさるので?』
『だから、あいつらを襲う熊』
『どの熊でございます?』
「…………」
『今回、四名を襲う熊がどの個体なのか、ケイ様は御存じで?』
『知らない』
『名前は?』
『熊の名前なんか知らないよ!』
『でしたら、現時点では対象を指定できまへん』
『名前を知らないと駄目なの?』
『名前を御存じなら、それによって対象を特定できます。そうでなければ、ケイ様御自身が直接その対象を見て、「こいつ」と認識する必要がございますな』
『じゃあ、熊が出てきて俺が見れば予約できる?』
『それなら可能でございます』
『じゃあ問題ないじゃん』
『ございますで』
『まだあるの!?』
『予約された御命令は、現在の事象因果が終結するまで待機状態となります』
『待機?』
『左様でございます。御命令そのものを先に受け付けることはできますが、現在の事象因果が動いている間は、次の事象因果は発動準備へ入りまへん』
『じゃあ、今のが終わったら?』
『その時点で初めて、次の御命令が動き始めます』
嫌な予感がした。
『……そこから十二時間?』
『通常の事象因果であれば、左様でございますな』
「…………」
ケイは歩きながら顔をしかめた。
『ちょっと待って』
『はい』
『熊が出る』
『はい』
『俺がその熊を見る』
『はい』
『それで、「この熊を倒せ」って予約する』
『できますな』
『でも、その時はまだあいつらが熊に襲われてるから、予約したやつは待機したまま』
『左様でございます』
『今動いてる《夢想因果》って、熊が襲ってきたら終わりじゃないんだよな?』
『もちろんでございます』
『……だよな』
『今回の御命令は、四名を熊に襲わせることだけではございません。その先の結果まで含まれておりますさかい』
ケイは前を歩く四人を見る。
『じゃあ、いつ終わるんだよ』
『四名が御命令通りの結果へ至るか、あるいは外部からの介入によって熊が完全に離脱し、四名への危険そのものが消失するなどして、現在の事象が終結した時点でございますな』
『その間、次のやつはずっと待機』
『左様でございます』
『それが終わってから、そこから十二時間』
『はい』
「…………」
ケイは頭の中で順番を考えた。
熊が現れる。
熊を見る。
熊を殺せと予約する。
だが、今の《夢想因果》が終わるまでは動かない。
そして今の因果が終わったあと、そこからさらに十二時間。
『じゃあ、熊は倒せるんだよな?』
『暗黒術そのものを妨害されるなど、大きな阻害がなければ、最終的には御命令通りの結果へ至る可能性は極めて高うございます』
『つまり、ほぼ倒せる』
『左様でございます』
『でも、その頃には……』
楽しそうに歩く四人の背中が目に入った。
『……あいつら死んでるじゃん』
『現在の御命令通りに進めば、そうなりますな』
『意味ねえじゃん!!』
また声が大きくなり、ケイは慌てて口を押さえた。
四人は振り向かない。
『せやから、今回の救援には使えまへんと申し上げております』
『全部終わった十二時間後に熊を倒してどうすんだよ!』
『仇討ちにはなりますで』
『死なせないために行くんだよ!!』
『左様でございましたな』
『何で忘れてるんだよ!』
今欲しいのは、十二時間後に熊を殺す方法ではない。
四人が襲われている、その瞬間に熊を止める方法だ。
それには間に合わない。
『……使えないな、《夢想因果》』
『ずいぶんな仰りようでございますな』
『だって肝心な時に使えないじゃん』
『万能とは申し上げておりまへんで』
『魔王の能力なんだから、こういう時くらい万能であれよ』
『無茶を仰いますなあ』
ケイが不満そうに息を吐く。
すると、アズラが少しだけ間を置いた。
『もっとも』
『何?』
『個体を指定せず、熊という種そのものを対象にする方法でしたらございますが』
『…………は?』
『熊を全滅させるのでございます』
「…………」
ケイの足が止まりかけた。
『熊を……全部?』
『左様でございます』
『いやいやいや! そこまでしないよ!』
『左様でっか』
『何その残念そうな言い方!』
『魔王様であれば、その程度はお考えになるかと思いまして』
『魔王様って呼ぶな!』
『これは失礼を、ケイ様』
ケイは前を歩く四人との距離が開きすぎないよう、再び歩き始めた。
『俺が何とかしたいのは、あいつらを襲う熊だけだよ。関係ない熊まで殺す必要ないだろ』
『…………』
『人間を襲わない熊だっているかもしれないし、熊がいなくなったら困ることだってあるかもしれない。何でも全部消せばいいって話じゃない』
『なるほど』
『何だよ』
『いえ。「なら熊を全部消せ」と仰るかと、少々期待しておりました』
『期待するなよ!』
『残念でございます』
『だから残念がるな!』
しばらくすると、アズラがまた口を開いた。
『もっとも、今のケイ様が実行なされることはお勧めしまへんけどな』
『……できないの?』
『発動そのものは可能でございます』
『どっちだよ』
『発動と、御命令が成功するかどうかは別の話でございます』
「…………」
『ケイ様が心の底から熊という種の全滅を望み、それを言葉になされば、《夢想因果》の発動条件そのものは成立いたします』
『じゃあ、できるんじゃん』
『最後までお聞きくださいませ』
『はいはい』
『熊一頭を死亡させる因果と、熊という種そのものを根絶させる因果では、必要となる因果改変の規模が比較になりまへん』
ケイは昨夜見た暗黒陣を思い出した。
大盾一つを移動させるだけで、部屋いっぱいに広がっていた黒い陣。
アズラは、あれですら小さいと言っていた。
『仮に発動準備へ入ったとしても、現在のケイ様では命令達成予測は限りなく零に近うなるでしょうな』
『そんなに低いの?』
『それだけではございまへん』
『まだあるの?』
『《夢想因果》は、因果を動かしている間もケイ様の体力と精神力を消費いたします』
『…………』
『成功率が低かろうが、途中で失敗しようが、使った体力と精神力まで戻ってくるわけではございまへん』
『じゃあ……』
『熊という種すべてを対象になされば、今のケイ様ではまず身体がもちまへん。命令を達成するより先に、体力か精神力が尽きて意識を失われる可能性が極めて高いでしょう』
『気絶したら?』
『因果を維持できなくなり、そのまま消滅いたします』
「…………」
『つまり、発動はする。でも成功率はほとんどない。そのうえ途中で俺が気絶して、体力と精神力だけ持ってかれる?』
『その可能性が極めて高うございますな』
『最悪じゃん』
『せやから、お勧めしまへん』
『最初からそう言えよ!』
『方法として存在することと、実行をお勧めすることは別でございますさかい』
『じゃあ言わなくていいよ!』
『左様でっか』
アズラは少し黙った。
だが、すぐに何か思い出したように続ける。
『ああ、それと』
『まだあるの?』
『熊という種を聞いて、「なら人間という種も全滅させられるのでは」とお考えになったかもしれませんが――』
『考えてないよ!!』
ケイは思わず声を上げ、慌てて口を塞いだ。
少し先を歩く四人を見る。
幸い、まだ気づかれてはいない。
『勝手に俺を人類滅亡まで進めるなよ!』
『そうでございましたか』
『当たり前だろ!』
『ですが一応申し上げておきますと、人間という種を対象になされる場合は、熊以上に難度が跳ね上がります』
『聞いてないって』
『数も多ければ、生息範囲も広い。現在のケイ様では、なおさらお勧めできまへんな』
『だから、やらないって!』
『左様でっか』
『…………』
ケイは数歩進んだところで、ふと足を緩めた。
『……待てよ』
『はい?』
『人間を全部滅ぼすんだよな?』
『仮に御命令なされるのであれば、そうなりますな』
『俺も人間じゃないの?』
『肉体は人間でございますな』
『じゃあ俺も死ぬじゃん!』
『ご安心くださいませ』
『え?』
『ケイ様は術者御本人でございます。通常の《夢想因果》では、ケイ様御自身は直接の対象になりまへん』
『じゃあ……俺だけ残るの?』
『左様でございます』
「…………」
『人類がすべて滅びましても、ケイ様だけはお一人生き残ります』
「…………」
『おめでとうございます』
『何がおめでたいんだよ!!』
『人類最後の一人でございますで』
『嫌だよそんなの!』
『しかも元魔王』
『最悪じゃん!!』
『なかなか魔王らしい結末かと』
『絶対やらないからな!』
『左様でっか』
ケイは一瞬だけ、その光景を想像してしまった。
朝、いつものように目を覚ます。
けれど、何かがおかしい。部屋の中にいるはずなのに、頬に風が当たっていた。
「…………?」
不思議に思いながら身体を起こしたケイは、そのまま動きを止めた。
家がない。
壁も天井も、机も椅子も、昨日まで当たり前にそこにあったものが何一つ残っていなかった。
あるのは、自分が眠っていたベッドだけだった。
そのベッドだけが、どこまでも続く荒野の真ん中に、ぽつんと置かれている。
「……え?」
ケイは呆然と周囲を見回した。
見渡す限り、乾いた大地が続いている。家もなければ畑もない。村へ続く道も、いつも人が集まっている中央広場もない。
タルサ村そのものが、最初から存在していなかったみたいに消えていた。
「母さん?」
呼んでみる。
返事はない。
「父さん?」
やはり、何も聞こえなかった。
ケイは慌ててベッドから降りた。裸足の足の裏に、冷たく乾いた土の感触が伝わってくる。
「マリアンヌ?」
声を張った。
けれど、返ってくるのは風の音だけだった。
「母さん! 父さん! マリアンヌ!」
何度呼んでも、誰も答えない。
走っても、どこにも家は見えなかった。どこまで行っても荒野ばかりで、人の姿は一つもない。
村だけではないのだろう。
隣の村にも、町にも、この国のどこにも、もっと遠くへ行ったとしても、人間はもう一人もいない。
この世界に残っているのは、自分だけだった。
「…………」
そこまで想像したところで、ケイの背筋に冷たいものが走った。
『……嫌だ』
『はい?』
『絶対嫌だ、そんなの』
一つの村が消えるだけではない。
一つの街でも、一つの国でもない。
人間というものを全部、この世界から消してしまう。そして、その中で自分だけが残る。
さっきまではアズラの話を半分冗談のように聞いていたのに、実際にその光景を想像してみると、とても笑えるものではなかった。
話す相手もいない。怒ってくれる相手もいない。笑ってくれる相手も、守りたいと思う相手もいない。
誰もいない世界で、自分一人だけが生き続ける。
そんなのは御免だった。
昨夜見た暗黒陣が、ふと頭に浮かぶ。
父親を殺しかけた時のものよりも、今トーマたち四人へ向けて動いているものよりも、遥かに巨大な暗黒陣。
もし人間という種そのものを対象にしたなら、きっと比べものにならないほど大きなものになるのだろう。
そんなものが世界中の人間へ向けて広がっていく光景を想像しただけで、気分が悪くなった。
『絶対そんなことしない』
『左様でございますか』
『俺は、人間を滅ぼすために強くなるんじゃない』
ケイは再び歩き始めた。
前を歩いているのは、自分を馬鹿にしてきた四人だ。
今だって、好きになったわけではない。
それでも、死んでほしいわけではない。
『俺は勇者になるんだから』
『ですが、ケイ様はすでに魔王でございますで』
『分かってるよ!』
『人類を滅ぼせるほどの魔王が勇者を目指すと』
『だから滅ぼさないって言ってるだろ!』
『左様でございますか』
『何でちょっと残念そうなんだよ!』
そうしているうちに、四人が森の入口へ辿り着いた。
木々の向こうはまだ薄暗い。
朝日は昇り始めているが、森の奥までは届いていなかった。
四人は立ち止まることもなく、そのまま中へ入っていく。
ケイも一度だけ腰の剣へ触れた。
《夢想因果》で熊を殺すことはできる。
だが、それでは遅すぎる。
十二時間後に必要なのではない。
熊が襲ってきた、その瞬間に四人を守る力が必要なのだ。
「……行くぞ」
『やはりワテは反対でっせ』
「知ってるよ」
ケイは大盾を握り直した。
そして四人との距離を保ったまま、朝の森へ足を踏み入れた。




