第20話 続きはまた今度
アズラは、まだ嬉しそうに喋っている。
ケイは床いっぱいに広がる暗黒陣を見下ろしながら、一つだけ考えていた。
――これ。
いつまで続くんだ?
『アズラ』
『はい』
『ちょっと待って』
『何でございましょう』
『今、どこまで説明した?』
『どこまで、と申しますと?』
『暗黒陣全体の』
『ああ』
アズラは少し考えた。
『まだ最初の方でございますな』
「…………」
『最初の方?』
『はい』
『結構聞いたぞ?』
『そうでっか?』
『だいぶ聞いたよ!』
『ですが、まだ因果線一本目の途中でございます』
「…………」
『一本目?』
『はい』
ケイは床を見る。
黒い線が数え切れないほどある。
『……これ全部やるつもり?』
『もちろん』
『全部!?』
『せっかく御説明するのであれば、中途半端はよろしくございまへん』
『中途半端でいいよ!』
『よくありまへん』
『いいの!』
ケイは思わず声を上げた。
『もう今日はいい!』
「…………」
急に、アズラが黙った。
『……アズラ?』
『左様でっか』
声が明らかに沈んでいる。
「…………」
『いや、その……』
『お気になさらず』
『でも』
『慣れておりますさかい』
『慣れてる?』
『先ほど申し上げたでしょう。歴代の主人も、皆様途中で説明を止められました』
「…………」
『「もういい」』
「…………」
『「静かにしろ」』
「…………」
『「その話はいつ終わる」』
「…………」
『だいたい、そのようなことを』
ケイは黙った。
さっきまでは、昔の主人たちがそう言ったと聞いても、そこまで深く考えていなかった。
だが、今なら分かる。
分かってしまう。
アズラの説明は長い。
とにかく長い。
一つ聞けば、その説明の中から次の説明が三つくらい出てくる。その三つを聞けば、さらに新しい話が増える。
たぶん全部聞いていたら、本当にいつ終わるのか分からない。
歴代の主人たちが途中で止めた気持ちが、ものすごくよく分かった。
でも、今のアズラの声を聞いていると、少しだけかわいそうにもなった。
姿は見えない。
顔もない。
だが、もし顔があったなら。
今ごろ、かなり寂しそうな顔をしているような気がした。
『……あの、別に』
『はい?』
『もう二度と聞かないって言ってるわけじゃないから』
『…………』
『今日はもう、頭いっぱいなだけで。明日も早いし』
『左様でございますか』
『だから』
ケイは少し言いにくそうに続けた。
『また今度、続き聞くよ』
『本当でございますか?』
ほんの少し、アズラの声が明るくなった。
『うん』
『本当に?』
『何回聞くんだよ』
『途中で「やっぱり嫌だ」とおっしゃられる可能性もございますさかい』
『言わないよ』
『では、約束ということで』
『分かったよ』
すると、さっきまで沈んでいた声が一気に元へ戻った。
『承知しました! では次回は、先ほど御説明していた第一因果線の湾曲部、その三つ目の意味から再開いたしましょう』
「…………」
『そこからなんだ』
『もちろんでございます』
『忘れてくれててもよかったんだけど』
『一言一句覚えております』
『そういうところだけ記憶力いいな!』
『暗黒陣のことでございますさかい』
嬉しそうだった。
ケイは少しだけ後悔した。
だが、まあ。
あれだけ楽しそうなのだから、たまには付き合ってやってもいい。
たまになら。
『じゃあ、今日はもう見えなくして』
『もう少し御覧にならなくてよろしいので?』
『十分見たよ』
『まだほんの入口でございますで』
『だから長いんだよ!』
『左様でっか』
どうしても名残惜しそうだった。
その直後、床いっぱいに広がっていた黒い線が、ふっと消えた。
巨大な十二角形も、無数の記号も、黒い炎のように揺らめいていたものも。
すべてが一瞬で見えなくなる。
部屋には、いつもの木の床だけが残った。
「…………」
さっきまで、あれほど禍々しいものが広がっていたとは思えない。
『……消えた』
『見えへんようにしただけでございます』
『あ』
ケイは思い出した。
『じゃあ、《物質因果》は?』
『もちろん発動中でございます』
『暗黒陣を見えなくしても?』
『不可視化しているだけでございますさかい。術そのものには何の影響もございまへん』
ケイは何もない床を見る。
『じゃあ今も、ここにあるんだよな?』
『ございます』
『さっきのが?』
『そのまま』
「…………」
『何か気持ち悪いな』
『今までもずっとそうでしたで』
『知らなかったから平気だったんだよ!』
『左様でっか』
大盾が届くまで、まだ時間がある。
ずっと起きて待っている必要もない。
何より、明日は朝からトーマたち四人を探さなければならない。
ケイは早めに眠ることにした。
◇ ◇ ◇
どれくらい眠ったのか。
真夜中。
『ケイ様』
「…………」
『ケイ様』
「……ん……」
頭の中でアズラの声がする。
だが眠い。
『そろそろでございますで』
「……なにが……」
『《物質因果》の結果確定まで――』
「…………」
『三』
「……ん……?」
『二』
ほんの少しだけ、意識が浮かび上がった。
『一』
「……なに……?」
次の瞬間。
――ゴンッ!!
「いっっってぇぇぇぇぇぇ!!」
頭に、とんでもなく硬い何かが直撃した。
ケイは布団の中で跳ね上がり、その勢いのままベッドから転げ落ちる。
「何!? 何だ!?」
『物質因果――確定予定結果への到達を確認』
『対象――条件適合物・戦闘用大盾』
『移送処理――完了』
『御命令結果――成立』
『当該物質因果の処理を終了いたします』
「…………」
寝ぼけた頭では、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
ただ、床には巨大な金属製の盾が転がっている。
そして頭がものすごく痛い。
「いってぇ……!」
ケイは頭を押さえた。
触ってみると、すでに大きなたんこぶができ始めている。
『おお』
『何がおお、だよ!』
『なかなか丈夫な盾のようでございますな』
「…………」
『は?』
『これだけの重量がケイ様の頭部へ直撃しても、盾には目立った損傷がございません』
「…………」
『熊の攻撃を防ぐには、十分期待できそうです』
『俺の頭で耐久試験するなよ!!』
『たんこぶ程度で済んだのでございます。良かったですなあ』
『どこがだよ!』
『大事の前の小事でございます』
『その小事が俺の頭なんだよ!』
ケイが声を荒らげた、その時。
ドタドタドタッ!
廊下から足音が近づいてきた。
『ケイ様』
『何!?』
『お父上が来られます』
『うそ!?』
一気に目が覚めた。
ケイは床に転がった大盾を見る。
『これ隠さないと!』
必死に盾を引きずる。
「重っ……!」
どうにかベッドの脇へ押し込み、布団や荷物で見えないようにする。
その直後。
バンッ!
扉が開いた。
「何騒いでんだ!」
父親だった。
「な、何でもない!」
「夜中だぞ!」
「ちょっとベッドから落ちただけ!」
「落ちただけで何であんな叫ぶんだ!」
「頭ぶつけたんだよ!」
「ったく、お前は!」
父親が近づいてくる。
「ちょ、待っ――」
ゴンッ!
「いってぇ!!」
今度は父親の拳が、ケイの頭に落ちた。
しかも、さっき盾が直撃した辺りに。
「痛っ……! 何すんだよ!」
「夜中に大声出すからだ!」
「もうそこ痛いんだよ! 同じところ殴るなよ!」
「だったら静かに寝ろ!」
「理不尽だろ!」
「いいから寝ろ!」
父親はそう吐き捨てると、踵を返した。
「まったく……明日も早いんだろうが」
「分かってるよ!」
バタン!
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていった。
「…………」
ケイは頭を両手で押さえた。
『最悪だ……』
『災難でございましたなあ』
『お前、他人事みたいに言うなよ!』
『今の一撃は、お父上によるものでございますさかい』
『そうだけど!』
ケイは閉じた扉を睨む。
『何なんだよ父さん……こっちはその前に盾まで頭に落ちてきてんのに』
『では』
『何?』
『今度こそ、やりますか?』
「…………」
『何を?』
『お父上を』
「…………」
『やらないよ!!』
『左様でっか』
『何でげんこつ一発で父さん殺さなきゃいけないんだよ!』
『先日は似たような勢いで殺しかけておられましたさかい』
『それを言うな!』
『今回は確実に――』
『やらないって言ってるだろ!』
『そうでっか』
『何でちょっと残念そうなんだよ!』
ケイは痛む頭をさすりながら、ふと気づいた。
『……ていうかさ』
『はい』
『父さん、いつも俺の頭殴るよな』
『殴られますなあ』
『お前、俺の頭にいるよな?』
『おります』
『じゃあ何で、お前には一回も当たらないんだよ』
「…………」
『父さんがお前を殴ったら、硬くて父さんの手の方が怪我するんじゃないの?』
『せやから避けております』
「…………」
『避けてるの!?』
『はい』
『毎回!?』
『毎回』
『知らなかったんだけど!』
『お父上は、だいたいいつも同じ辺りへ拳を落とされますさかい』
『……そうなの?』
『何度も殴られておりますと、ワテにも分かってきます』
『嫌な学習するなよ!』
『拳が来る直前に、少し位置をずらしております』
『何でわざわざ避けるんだよ』
『ワテへまともに拳が当たれば、お父上が手を痛める可能性がございますからなあ』
「…………」
『父さんの心配してたの!?』
『骨でも傷められたら大変でしょう』
『じゃあ俺の頭は!?』
『ケイ様の頭部には、これまで何度も耐えた実績がございます』
『そんな実績いらないよ!』
そこで、ケイはもう一つ気づいた。
『……待てよ』
『はい』
『じゃあ、さっき盾が落ちてきた時も?』
『もちろん避けましたで』
「…………」
『お前、あれも避けたの!?』
『危なかったですさかい』
『俺の頭に落ちるって分かってて!?』
『ワテまで潰される必要はございまへんやろ』
『俺は潰れていいのかよ!』
『実際、たんこぶで済みました』
『結果論だろ!!』
『ワテの大切な宝石部分へ直撃せんで良かったですなあ』
『お前が避けたから俺に直撃したんだろ!』
『結果として、盾の頑丈さも確認できましたし』
『またそれ言うな!』
また声が大きくなりかけて、ケイは慌てて口を押さえた。
父親が戻ってきたら、今度こそもう一発食らう。
少し声を落としてから、ケイはようやく床に隠した大盾へ目を向けた。
『……で』
『はい』
『結局これ、俺が頼んだ盾なんだよな』
『左様でございます』
とっさに隠してしまったので、まだまともに確認していなかった。
暗くて細かい部分までは分からない。
だが、かなり大きい。
分厚い金属で作られ、縁もしっかり補強されている。
そして、嫌というほど重い。
『御希望通り、熊の攻撃にも十分耐え得る大盾でございます』
『それは頭で分かったよ……』
『何よりでございます』
『良くない』
そこで、ケイはもう一つ思い出した。
『そういえば、さっきの三、二、一』
『はい』
『ちゃんと三秒前なんだな』
『もちろんでございます』
以前、アズラから結果が現れる前にカウントを設定するかと聞かれた。
何秒前からがいいかと尋ねられ、ケイ自身が「三秒前くらいでいい」と答えたのだ。
『ケイ様の御希望通り、三秒前に設定されております』
『そこはちゃんとしてるんだな』
『当然でございます』
『でも俺、寝てたよな?』
『寝ておられましたな』
『だったらもっと起こせよ!』
『先にお声掛けしましたで』
『全然起きてなかっただろ!』
『そこはケイ様の寝起きの問題でございます』
『俺のせいにするな!』
ケイは大盾を睨んだ。
『それに、何で頭に落ちてくるんだよ』
『それは簡単でございます』
『何が?』
『物質因果は、特に場所を指定されなければ、基本的にケイ様の目前へ対象が移送されます』
『目前?』
『パンの時も、ケイ様の目の前へ現れましたやろ』
『……ああ』
確かに。
あの時のパンも、自分の目の前に出てきた。
『今回も同じでございます』
『でも、盾は頭に落ちたぞ』
『寝ておられましたからな』
「…………」
『仰向けに寝ているケイ様の目前は――』
ケイは、ゆっくり天井を見る。
『……上』
『左様でございます』
「…………」
『ですので、頭上に大盾が現れて、そのまま落下したというわけでございます』
『先に言えよ!!』
『場所を変えたい場合は、事前に御指定くださいませ』
『そんなの知らなかったよ!』
『今お知りになりましたな』
『頭ぶつけて覚えることじゃないだろ!』
『忘れにくいとは思いますで』
『確かに忘れないけど!』
ケイは、たんこぶのできた頭をさすった。
痛い。
眠い。
もう考えるのも面倒になってきた。
『……もういい』
『そうでっか』
『寝る』
ケイは大盾が見えないようにもう一度しっかり隠し、布団へ戻った。
『明日は早いんだからな』
『左様でございますな』
『ちゃんと起こしてよ』
『承知しました』
『三秒前とかじゃなくてな』
『それは分かっております』
『本当だろうな……』
ケイは目を閉じた。
頭はまだズキズキする。父親にも文句を言いたいし、アズラにはそれ以上に文句を言いたい。借りた大盾をどうやって返すのかも、いずれ考えなければならない。
そして明日は、トーマ、ルッツ、ベイル、ニコの四人を探さなければならない。
熊と戦うことになるかもしれない。
考えることはいくらでもあった。
だが、再び強い眠気が押し寄せてきた。
明日は早く起きなければ。
四人を。
絶対に助けなければ。
そう思いながら、ケイの意識は再び眠りへ落ちていった。




