第19話 暗黒陣
『……暗黒陣?』
ケイは首を傾げた。
『何それ?』
『《夢想因果》を発動する際に展開される、暗黒術の陣でございます』
「…………」
ケイはしばらく黙った。
『そんなのあるの?』
『ございますで』
『今まで一回も見たことないんだけど』
『見えへんようにしておりましたさかい』
『……え?』
『正確には、不可視化しております』
『ちょっと待って』
ケイは自分の足元を見た。
何もない。
いつもの木の床があるだけだ。
『じゃあ、《夢想因果》を使うたびに毎回出てたの?』
『毎回』
『ずっと!?』
『はい』
『何で教えてくれなかったんだよ!』
『必要がございませんでしたからなあ』
『あるだろ! 俺の魔法だぞ!?』
『暗黒術でございます』
『そこはどっちでもいいよ!』
『ワテには大事なところでございます』
ケイはむっとする。
『でも、何でわざわざ見えなくしてるんだ?』
『ケイ様が、人間として生活されておりますからな』
『……それだけ?』
『十分な理由でございますで』
アズラは当然のように答えた。
『暗黒陣そのものは、普通の人間にも見えます』
『普通の人にも?』
『はい』
『それって、まずくない?』
『せやから隠しております』
『最初からそう言えよ』
『ケイ様の足元に、見るからに禍々しい暗黒陣が毎回現れてみなはれ』
「…………」
『どう見ても普通の十三歳ではございません』
『確かに』
『下手をすれば、「ワテ、魔王でございます」と看板を下げて歩いているようなものでございますさかい』
『俺はそんなこと言わないよ!』
『例えでございます』
『だったら、もうちょっとましな例えにしろよ』
アズラは少し間を置いた。
『もしケイ様が、すでに御自分を魔族であると明かしておられるのでしたら、ワテも別に隠しはしまへん』
『じゃあ、魔族だってバレたら普通に出すの?』
『必要であれば』
『必要であればって……』
『昔、魔族と勇者が戦っていた頃など、暗黒陣をわざわざ不可視化したりしませんでしたで』
『何で?』
『隠す意味がございませんからなあ』
「…………」
『目の前で魔族と勇者が殺し合っておりますのに、今さら暗黒陣だけ隠して何になります』
『……それはそうだけど』
『不可視化するにも、多少なりとも処理は必要になります。戦闘中に、わざわざ余計なことへ力を割く必要もございまへん』
『じゃあ今は、俺のために隠してるってこと?』
『左様でございます』
『へえ……』
少しだけ感心した。
『ですので、ケイ様が「もう魔族だと知られても構わん」とおっしゃるのでしたら、今後は毎回見えるようにしてもよろしいですで』
『嫌だよ!』
『そうでっか』
『絶対嫌だよ!』
『残念ですなあ』
『何で残念そうなんだよ!』
『ワテとしては、暗黒陣は隠すより見える方が美しいと思っておりますさかい』
『……美しい?』
『はい』
何となく。
嫌な予感がした。
『じゃあ今も出てる?』
『出ております』
『盾のやつ?』
『左様でございます』
『見せられるの?』
『もちろん』
アズラの声が、少しだけ弾んだ。
『せっかくでございますし、今回は御説明するのにもちょうどよろしい』
『説明?』
『はい』
『お前、前から説明したかったの?』
『できれば一度は』
『じゃあパンの時に見せればよかったじゃん』
『あれは駄目です』
即答された。
『何で?』
『小さすぎます』
『パンが?』
『暗黒陣が』
『そんなに小さかったの?』
『パン一つを移動させるだけでございますで。術式も簡素。因果線も少ない。見せたところで大して面白くございまへん』
『別に小さくてもいいじゃん』
『よくありまへん』
『何でだよ』
『見栄えがせえへんでしょう』
「…………」
『見栄え?』
『はい』
『お前、そこ気にするの?』
『当然でございます』
『何が当然なんだよ』
『暗黒陣にも美しさというものがございますさかい』
「…………」
『やっぱりお前、ちょっと怖いな』
『何故でございます』
『魔法陣見て美しいとか言う悪魔』
『あくまでワテは悪魔でございます』
『そのダジャレまた使うなよ!』
『今回は自然に入りましたで』
『知らないよ!』
アズラは何となく満足そうだった。
『では、不可視化を解除いたします』
『待って』
『はい?』
『これ、部屋の外まで出たりしないよな?』
『今回は問題ございません』
『本当に?』
『大盾一つを対象とした物質因果でございますさかい、この部屋に収まる程度です』
『……じゃあいいけど』
『では』
次の瞬間。
ケイの足元に、黒い光が走った。
「うわっ!?」
反射的に後ろへ飛び退く。
床板の上を這うように、黒い線が凄まじい速さで伸びていく。
一本。
二本。
十本。
さらにその先から新しい線が生まれ、円を描き、角を作り、文字とも記号ともつかない紋様を刻みながら、瞬く間に部屋いっぱいへ広がった。
その中心に浮かび上がったのは、巨大な十二角形。
その内側には幾重もの円が重なり、外周から中心へ向かって無数の線が走っている。
線と線の間にも、細かな記号がびっしりと刻まれていた。
そして。
黒い線の上から、ゆらりと何かが立ち上った。
『……何だ、これ』
炎のようだった。
だが、燃えてはいない。
細い黒炎のようなものが、暗黒陣の各所から音もなく揺らめいている。
熱はない。
煙も出ない。
それなのに。
見ているだけで、胸の奥がざわついた。
部屋の空気そのものが、一瞬で別のものへ変わったような。
そんな異様な圧迫感がある。
禍々しい。
その言葉が一番近かった。
なのに。
恐ろしいほど整っている。
無秩序に入り乱れているように見える無数の線も、よく見れば一つとして意味のないものがないように思えた。
『これが……暗黒陣?』
『左様でございます』
アズラの声が、明らかに楽しそうになった。
『どうでっしゃろ』
『どうって……』
ケイは床いっぱいに広がった暗黒陣を見回した。
『……怖い』
『そこですか』
『いや、すごいけどさ』
『でしょう?』
『お前、嬉しそうだな』
『そらもう』
アズラは完全に上機嫌だった。
『ワテ、暗黒陣を見るのが大好きでございますさかい』
『見るのが?』
『見るのも、解析するのも。どの因果線が何を意味し、どういう条件によってこの形になったのか、一つ一つ読み解いていくのが実に面白い』
『毎回そんなことしてるの?』
『毎回』
「…………」
『それに、暗黒陣というものは非常に美しい』
『その黒い炎みたいなのが出てる禍々しいやつを見て?』
『そこがよろしいのでしょう』
『分かんないよ』
『まだ見る目が育っておりまへんなあ』
『育てるつもりないよ!』
アズラはまったく気にしていない。
ケイは改めて、床いっぱいに広がった暗黒陣を見る。
『これってさ』
『はい』
『毎回こんな部屋いっぱいのが出るの?』
『いいえ』
『違うの?』
『これは、かなり小さい方でございますで』
「…………」
ケイはもう一度、床を見る。
部屋の床は、ほとんど暗黒陣に覆われている。
『これで小さいの!?』
『大盾を一つ移動させるだけの物質因果でございますさかい』
『だけって……』
『御命令の規模や術の種類によって、暗黒陣も変わります』
『もっと大きくなるの?』
『大きくなる場合もございますし、術によっては複数の暗黒陣が同時に展開されることもございます』
『複数?』
『はい』
『これが何個も出るの?』
『場合によっては』
『床だけじゃなく?』
『それも場合によりますなあ』
「…………」
『とにかく、今回のこれはかなり単純な方でございます』
『単純……』
ケイは目の前の暗黒陣を見る。
『俺には十分わけ分かんないんだけど』
『まだまだですなあ』
『何がだよ』
そこで。
ケイは、ふと思った。
『じゃあさ』
『はい』
『俺が、人を殺すようなこと言った時も出てたんだよな?』
『もちろん』
『父さんの時も?』
『はい』
『今動いてる、トーマたち四人のやつも?』
『出ております』
「…………」
『今回より大きい?』
『比較になりまへんな』
『そんなに?』
『人間の生死へ関わる事象因果。それも複数人を対象としておりますさかい』
ケイは黙った。
あの時も。
自分には見えなかっただけで。
こんなものより、遥かに大きく複雑な暗黒陣が展開されていた。
『……見えなくしといてくれてよかった』
『でしょう?』
『そんなの村の中で出したら、大騒ぎになるだろ』
『せやから毎回、ワテが不可視化しております』
『初めてお前に感謝したかもしれない』
『初めてとは心外でございますなあ』
『いや、他にもしてるよ。たぶん』
『たぶんを付けんといてくださいませ』
ケイは、もう一度暗黒陣を眺めた。
『でもさ』
『はい』
『これって、読める奴が見たら何しようとしてるのか分かるの?』
『分かりますで』
『本当に?』
『正しく読み解ける者であれば、因果系統、対象、条件、作用の方向。おおよその術の内容まで読み取れます』
『じゃあ、それも隠してる理由?』
『理由の一つではございますな』
『やっぱり』
『とは申しましても、これを正確に読める者など、そうそうおりまへん』
『そうなの?』
『人間なら、まず無理でしょうな』
『勇者でも?』
『普通の勇者では読めまへん』
『じゃあ魔族なら読めるの?』
『魔族でも大半は無理でございます』
『え?』
『暗黒陣は、見れば誰でも分かるような単純なものやございまへん。専門的な知識と経験が必要ですさかい』
『じゃあ、誰なら読めるんだよ』
『ワテのような者か、それに近い知識を持つ、ごく一握りでしょうな』
「…………」
『それなら、別に見えるようにしててもよくない?』
『そういうわけにもいきまへん』
『何で?』
『読めるかどうか以前に、見えますさかい』
『あ』
ケイは足元を見る。
床いっぱいに広がる巨大な十二角形。
その中を走る無数の黒い線。
その上で揺らめいている黒い炎。
「…………」
『……これは目立つな』
『でしょう?』
『どう見ても普通じゃない』
『せやから、人間として暮らしておられる間は、見えへんようにするのが一番でございます』
『なるほど……』
それなら分かる。
読める者がいるかどうか以前に。
こんなものを村人に見られた時点で、面倒なことになる。
『じゃあ、今見せてるのは大丈夫なの?』
『ケイ様しかおられませんからな』
『誰か入ってきたら?』
『すぐ隠します』
『ちゃんと頼むぞ』
『お任せくださいませ』
ケイは少し安心した。
すると。
『では』
『何?』
『せっかくでございますし、簡単に御説明しましょうか』
『暗黒陣の?』
『はい。いやあ、嬉しいですなあ』
アズラの声が、さらに弾んだ。
「…………」
ケイは少し考える。
『お前さ』
『はい』
『今までにも誰かに説明したことあるの?』
『もちろんございます』
『誰に?』
『ケイ様より以前にも、ワテには何人か主人がおりましたさかい』
『その人たちにも?』
『もちろん』
『へえ』
ケイは少し興味を持った。
『じゃあ、その人たちは暗黒陣に詳しくなったんだ』
『…………』
『何、その間』
『最後まで聞いてくださった方は、一人もおりまへんでした』
今度は、少し寂しそうな声だった。
『何で?』
『最初は皆様、興味を持ってくださるんです』
『うん』
『ですが、途中になりますと』
アズラは少し寂しそうな声になった。
『「もういい」』
『…………』
『「静かにしろ」』
『…………』
『「その話はいつ終わる」』
『…………』
『などと』
『お前、どれくらい喋ってたの?』
『さあ』
『さあ?』
『説明すべきことが多すぎますさかい、時間など気にしたことがございまへん』
「…………」
ケイは急に嫌な予感がしてきた。
『まあ……今日はちょっとだけだからな』
『承知しました!』
さっきまで少し悲しそうだった声が、一瞬で明るくなった。
『では、まずはこちらを御覧ください』
『どれ?』
『ケイ様から見て右前方。外周から二つ目の節でございます』
ケイが目を凝らす。
そこには、他とは少し違う記号が刻まれていた。
何となく。
盾のようにも見える。
『これ?』
『左様でございます』
『盾みたいだな』
『今回の対象を示す因果標でございます』
『因果標?』
『何を対象としているかを術式へ定義するための印、とでも考えていただければ』
『じゃあ、これが盾って意味?』
『簡単に申せば』
『へえ……』
思ったより面白い。
『でも、盾って言ってもいっぱいあるだろ?』
『よろしい質問でございます』
アズラの声が、さらに弾んだ。
『もちろん、あの印一つだけで全てを指定しているわけやございまへん。材質、大きさ、重量、用途、移送条件。それぞれ別の因果線や記号に組み込まれております』
『そんな細かいところまで?』
『当然でございます』
『じゃあ、この線とかにも意味あるの?』
『もちろん』
『どんな?』
『では、その一本から御説明しましょう』
『うん』
『まず、この線の起点が外周第三節にあることで、対象が術者自身ではなく外部に存在する物質であることを示しております』
『うん』
『次に、線の太さ』
『太さ?』
『はい。さらに、中心線に対する角度』
『角度まで?』
『当然でございます。そして途中にございます、この小さな切れ込み』
『これ?』
『左様でございます。これが――』
そこから。
アズラの説明が始まった。
線の始まる位置。
太さ。
角度。
途中に入っている切れ込み。
隣の線との距離。
別の線と交差する位置。
中心へ向かう際の僅かな曲がり方。
最初のうちは。
ケイも面白かった。
一本の線にも意味がある。
角度にも意味がある。
切れ込みにも。
太さにも。
別の線と交わる場所にも。
すべて理由がある。
『へえ……』
『さらに、この部分を御覧ください』
『うん』
『ここから線が僅かに湾曲しておりますやろ』
『ちょっと曲がってるな』
『これが実に重要でございまして――』
アズラは話し続けた。
一つ説明が終わると。
その説明の中から、さらに別の説明が始まった。
その説明が終わると。
また、その中から新しい話が出てきた。
『そして、この記号と先ほど説明した因果線との関係でございますが――』
『うん』
『単独で見れば物質の強度を示しております。しかし、こちらの節と組み合わせますと――』
『うん……』
『さらに外周第三節との接続状態によって意味が変化し――』
『……うん』
気がつけば。
かなり時間が経っていた。
だが、アズラは全く止まらない。
『それでございますな、この線がこちらへ伸びる理由には三つほどございまして』
「…………」
『一つ目が――』
ケイは暗黒陣を見つめた。
黒い線が無数にある。
今説明されているのは。
たぶん。
まだ、そのうちのほんの一部だ。
『二つ目ですが――』
「…………」
そこで。
ふと。
さっき聞いた言葉を思い出した。
――もういい。
――静かにしろ。
――その話はいつ終わる。
「…………」
なるほど。
歴代の主人たちが。
途中でアズラの説明を止めた理由が。
少しずつ分かってきた。
『そして三つ目――』
「…………」
アズラは。
まだ。
嬉しそうに喋っている。
ケイは床いっぱいに広がる暗黒陣を見下ろしながら。
一つだけ考えた。
――これ。
いつまで続くんだ?




